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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■愛という字を知らないけれど

2005年04月07日 | Weblog

 お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。

 五行歌というのは一行を一息で読む事ができる長さであるという事と、五行で表すという事以外はまったく自由な詩のようですね。今日は読売五行歌に掲載されていた佐々木きみさんという方の五行歌、紹介しましょう。

   愛という
   字を知らない
   年寄りの
   一生は全部
   愛だった。

 この五行歌の評価が、こんなふうにありました。「見た瞬間、うっと唸って溢れてくるものに耐えた。歌を見過ぎている私がこうなる事はめったにない。人間のすべてを語っているような気がする。知識が優越であるように感ずる社会を反省しよう。」佐々木さんのお母様かお父様か、かなり高齢までお元気であったのでしょうか。もしかして文字通り漢字の愛という字を書けなかったかもしれませんし読めなかったかもしれませんよね。でもその一生は愛だった。しかも、全部愛だったというんですねえ。私もこの詩に触れた時、すごーい!と唸ると共に、自分はどうなんだと自分自身に問いかけた事でした。

 聖書にも、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」ということばがあります。確かに社会一般ではいろいろな能力が評価され、できる者が歓迎されます。できない者は退けられていきます。能力のない者、学歴がない者、資格を持っていない者は迎えられる事がありません。しかし、人間の究極の存在価値は何ができるかというよりも、何であるかという事ではないでしょうか。

 新約聖書の第一コリント13章の2節という所に、「 たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」こういうことばがあります。

 聖書は神の前の人間の価値について明確に定義づけているように思います。たとえどんなことができても、しかも山を動かすほどの完全な信仰を持っていてもです。愛がないなら何の値うちもありません。

 私自身、自分の死という事を考える時、私の最後を見守る家族の誰かがですね、彼の一生は全部愛だったよって言われるように、そんな目標をめざしてがんばりたいなあと思いますがいかがでしょうか。大きなたくさんの愛、できないかもしれませんが、今日一日、小さな、自分のできる優しさ、愛を実践させていただきましょう。神様がその力をあなたに豊かに与えてくださっているはずです。

(PBA制作「世の光」2005.4.7放送でのお話しより )

*****

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせて日曜日の朝、教会に行ってみましょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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コメント (2)
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