花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め99海軍道路①

2020年07月31日 | レモン色の町

“たいじゅ”さんからコメントをいただき、話が弾んだ。『突っ込まないでください』のお断りあがったが、あえて知っていることを書きます。

内部・八王子線。なぜ八王子・内部線と呼ばないのか?北野保様は、結構このことにはこだわってみえる。なぜ内部方面へも線路が敷かれたのか?軍の施設があったからではないか?とか、ロマンを乗せて想像は広がる。

下総人さんからお借りしている「鉄道資料」という本がある。ここに椙山先生の投稿があり、5月22日の稚拙ブログ https://blog.goo.ne.jp/hotokeya/d/20200522 に載せたが『三重鉄道 沿線案内』というマップがあった。

国鉄四日市駅に合同駅がある時代だから、大正時代と思われる。下総人さん曰く、塩浜に海軍燃料廠があり、そこから海軍道路で西へ上る道が内部線と交わっていた。これは昭和のはなし。

マップを見ると大正時代の内部線は、風光明媚でのどかな雰囲気だったと想像できる。泊山公園には、さくら、梅、菖蒲が四季折々に花を咲かせる。(現在の南部丘陵公園がその一部か?)終点の内部駅を降りると、内部川には鮎の名所や蛍を見るところもあり、川で採取した砂利が駅に持ち込まれて四日市へ出荷されている。

東海道沿いに線路を走らせ、そこから内部川までのばしたのだろうか。

 

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市井からの眺め98国営化の後④

2020年07月29日 | レモン色の町

明治41年、第2次 桂太郎内閣になると、後藤新平は南満州鉄道総裁から、逓信大臣と鉄道院総裁を兼務して入閣した。『第1次桂内閣の時、鉄道国有化をすすめたのは自分であり、第2次桂内閣で後始末をさせていただくのも自分である。黒井船来航以来、日露戦争を経て躍進を続ける日本産業を背負って立つのはまさに鉄道であり、鉄道事業を成せるのは自分以外にない』と自信の程を見せている。

後藤新平の発想は、まず、断片的なメモから始まるのが常であったという。あたかも閃光が発するようにひらめく。後藤はこうして得た断片をそこらにある紙片に書きつけ、更に断片を並べなおして組み立てていく。

アイデアが明滅して、次から次に湧き出してくると とどまらず興奮状態になる。さらにその熱気の去ったのちに現状とそれらアイデアを照らし合わせ、優先順位が定まる。目的が一点に定まり、断片が再構成されると目前の問題点がえぐられて露出する。それを突破するために手段がさらに考えられて、策が定まる。

となればもはや、この当面の策の成否が、全局面を制していることは明白であり、

「断固として成すべし」

と不動の中心点を貫く命令が発せられる。

何となくKJ法を見ているようです。川喜多氏が「発想法」を現したのは昭和になってからなので、この頃、KJ法はまだなかったはずです。

 

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市井からの眺め97国営化の後③

2020年07月28日 | レモン色の町

少し話はさかのぼる。明治40年、国会内は大乱闘の末、鉄道国有法案が閣議を通過した。私鉄である関西鉄道(かんせいてつどう)から公務員になった島安次郎は車両の全般を担当する逓信省鉄道作業局工作課長となった。機関車が1,118両、客車3,067両、貨車20,884両。国有となり雑多に集められたこれらの車両を3年がかりで整理し、形式を統一した。

島安次郎

「関西鉄道時代の磨墨(するすみ)」と島は名を呼んだ。明治30年から35年にかけて活躍した新鋭機はまだ10年と経たない。これも国有鉄道となって870形の形式名称で呼ばれることになる。

磨墨

そして『早風』を想った。関西鉄道は、この年になって、ピッツバーグ社から更に二機の「早風号」を購入しているという。経営者たちの無謀な競争ではあったが、島が改良した「早風」は、官営鉄道の機関車を制して堂々の疾駆ぶりであった。

早風

この頃、日露戦争(明治37年〜38年)が終わりポーツマス条約の結果、南満州鉄道を経て遥かロシアの国土を通ってヨーロッパに至る鉄道運輸計画が予定されていた。島は、望み得るならば鉄道網を統一し広軌改築を果たすべきだと強く思う。

島の考えは技術について原理的だった。原理的と言うまでもない明快な方向を技術は示している。与えられた条件の中で、最も効率が良い方向へ進み、質は必ず高い方向へ進む。機械工学でいえば、良いものを生み出す方向へしか、思考は進まない。劣るものを造ろうとして人は決して苦心し、努力などしない。これが明快な原理だった。

 

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市井からの眺め96国営化の後②

2020年07月26日 | レモン色の町

大隈重信内閣により召集された“軌制調査委員会”は、大正5年4月に、第1回が総理官邸で開かれた。ところが、鉄道施設の未整備な地方に地盤を持つ議員の多くからは、狭軌のままで良い、金をかけるなら地方新線の建設に力を入れるべきだという意見が出され、この年の8月まで14回にわたって開かれた委員会も「軌制ニ関スル根本方針ヲ議決スルニ至ラ」なかった。

大正5年10月、大隈内閣が更迭され役員も解任となる。この間、第二次大隈内閣は、欧州で起きた第1次世界大戦(大正3年7月〜大正7年11月)に日英同盟に基づいて参戦している(ドイツ領の青島 出兵)。結果、軍需製品を中心とした輸出が伸び、日本につかの間の好況が訪れることとなる。

横浜線での広軌改築実験

大正5年、鉄道院に再任した後藤新平は、工作局長 島安次郎の意見書に注目した。広軌改築はそれほど難しくなく、さほど負担にならないという。後藤は、島案に力を得て広軌改案を推進、横浜線の原町田〜橋本間に広軌鉄道実験装置を造ることに賛同した。

原町田は 横浜鉄道時代の駅名(明治41年)現在は町田駅となっている

島は、狭軌と広軌の二重線路を敷き、改造した機関車を走らせ実験は無事終えた。ところが、大隈総理に続く寺内正毅内閣では、多数決で広軌案が否決された。大正7年、米騒動で寺内内閣は辞任、次の原敬内閣になると地方中心の交通政策となり、広軌論は事実上不可能となった。

<余談>

“地方私鉄1960年代の回想”のブログを見つけた。八王子・内部線の懐かしい風景が楽しめる。

近鉄電車と並ぶ八王子線客車のかわいいこと。例によって コピー・貼り付けで お願いできませんでしょうか?

https://umemado.blogspot.com/search/label/%E4%B8%89%E9%87%8D%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%20%E5%86%85%E9%83%A8%E3%83%BB%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E7%B7%9A

 

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市井からの眺め95国営化の後①

2020年07月24日 | レモン色の町

明治41年3月 原敬逓信大臣主催の“鉄道国有記念園遊会”が、有楽町の三井集会所で開催され、私鉄出身者と官僚出身者1000余名が参加した。庭園には天幕が張られ、新橋芸者の手踊り、中国人の手品、桃中軒雲右衛門の浪花節などが披露された。

かくして、鉄道院初代総裁に後藤新平が就任した。後藤新平とは、どのような人物だったのだろうか。老川慶喜著“日本鉄道史 大正・昭和戦前編”中公新書より

後藤新平

安政4年6月、岩手県奥州市に生まれた後藤新平は、福島県の医学校卒業後、愛知県病院医院長となった。その後、ドイツ留学をし、帰国後 内務省衛生局長に栄転、日清戦争が終結すると台湾総督府民政局長官となった。

旧台湾総統府庁舎

現在の台湾 彰化駅

彼の鉄道との縁は、当時、台湾のインフラ整備に携わり、その一環として基隆港から高尾港までの台湾縦貫鉄道の敷設事業にかかることによる。しかし、日清戦争の反動不況で台湾鉄道の設立は頓挫した。かれは、鉄道敷設事業が私鉄では困難とみて、臨時台湾鉄道敷設部を、国の鉄道部に改組して、日露戦争勃発を機に軍と掛け合い、明治41年基隆〜高尾間の縦貫鉄道を開通させた。この時、すでに後藤は台湾を離れ南満州鉄道総裁に就任していた。

鉄道国有化が実施されると、以前から問題になっていた広軌改築が議題に上がり、衆議院で「広軌改築鉄道準備委員会」が公布、43名の委員が任命された。会長に総理大臣の桂太郎、副会長に広軌論派の後藤新平が就任する。3回にわたる広軌委員会の報告として、広軌改築は輸送力の増大と営業費の減少をもたらし、更に本州線から全国の鉄道に及ぼしていくべきというのが委員会の見解であった。しかし、明治44年、桂内閣が総辞職に追い込まれて広軌改築は中止となる。

大隈重信

大正3年、大隈重信が総裁に就任すると、仙谷貢鉄道総裁による広軌論の巻き返しが図られた。内閣に軌制調査会が設置され、会長に大隈重信、委員には鉄道院、大蔵省、陸・海軍、農商務省、逓信省などの官僚16名によって構成されていた。

そして、これらの正規の委員のほかに、鉄道院工作局長の 島安次郎 が会議の都度列席することになっていた。

 

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市井からの眺め94関西鉄道 ㉔

2020年07月22日 | レモン色の町

明治40年10月1日午後2時25分、平井総裁、山之内副総裁らの一行は、湊町停車場に到着した。これを出迎えた片岡関西鉄道会社社長と重役各課長の案内で、同社の事務所に至り、会議室において片岡社長より、財産明細目録及び職員名簿を提出。続いて総裁らが携えてきた社員登用の任命書を交付して、記念撮影を行い、受け渡しを終了した。これで、湊町営業所は、湊町事務所となり国営鉄道としての営業を始める。殆どの社員もそのままで、給料も大きな変化はなかった。この日、平井総裁一行は中之島の花屋に投宿の予定だったが、夕刻から関西鉄道の案内で南地の富田屋に招待、慰労の宴会席を設けた

大正中期の湊町機関車庫

前日の、明治40年9月30日。当社最終日に際し、片岡社長は社員に告示を行っている。

我が関西鉄道株式会社は、創業以来十有八年。その間幾多の変遷に耐え 幾多の困難を凌ぎ 以てよく今日の盛況を見るに至れるは、これ職員として諸氏が日夜社業に邁進されるが故にあり、私が厚く感謝するところである。然るに、愈々明日、国有法により、挙げてこれを政府に引き継ぎ、諸氏また転じて官営鉄道に入らんとす。思うに諸氏の前途は益々多忙にして、政府の期待も大きいものがある。どうか勇往邁進の貢献を期待するところであります。決前に臨み、一言、もって諸氏、多年の勤労を謝し、併せて、将来の栄達を祈る。

 大正中期の湊町機関車庫 放出分庫

 

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市井からの眺め93関西鉄道㉓

2020年07月21日 | レモン色の町

山本博文 監修「漫画版 日本の歴史13明治時代後編」角川文庫 より

なかなか進まない鉄道整備に 我慢できなくなった岩倉具視や伊藤博文たちの発案で 華族などが出資して 政府の保護を受けた”日本鉄道会社”が 設立された 続いて・・・

特にその不便さを痛感することになったのが 陸軍だった 軍事物資の国内輸送だけでも 何度も積み替え(路線変更が正しいでしょうか?)をしなければならなかった

こうして鉄道の国有化は 必須の課題だったのです

 

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市井からの眺め92関西鉄道㉒

2020年07月20日 | レモン色の町

明治38年日露戦争が終わる。莫大な戦費を費やしたにもかかわらず、賠償金は出なかった。大陸への進出等、今後のことを考えると国内の鉄道網を国有化して物流をスムーズにする必要がある。関西鉄道社長の片岡直温氏にとって、それはよく理解できる。しかし、国有化に際して、国は公債を発行して(借金をして)その金でもって(札束で横面をはたいて)私鉄を買収しようとしている。それでいいのか?海外投資家にも頼っている現状で、国債の暴落に繋がらないか?と懸念しているのだ・・・と私は読んだ。

政府というところは、国債で借金というところで事を済ませるのが常套手段だ。今も昔も変わらない。私達なら、まずは返済見通しをたてるが・・・。

再び「関西鉄道時報」より。

『関鉄棹尾(たくび)の運輸収入と配当率の予想』(怪来師 投稿)(関西鉄道もいよいよ国有化が決まり、どのように収めるかというところに来ている)

〇 某君の『浪花便り』に『国有化の期日が近づいて落ち着かない関西鉄道は、鹿の名所に人を呼ぶでもなく(何もせずして終焉を迎えるのか?)と書かれたが、このような皮相的な近視眼流の観察をする人があるから困る。これまで私は、某君の通信を愛読させてもらっていたが、この一文で興ざめしてしまった。なぜ誤っているかというと、本期に入っての関西鉄道の収入は33万7千余円を増収している。それでも『国有化で落ち着かない』といわれるのか。それに8月に入ってから、運輸課所属員一同で、有終の美を飾るため伊勢参宮や奈良見物、京都本山詣りの千人・二千人という大団体を組織して、今日迄に成功せし人員は約二万五千となっていて、尚着々と成功している。この活動を見ても涙金(買取金額)の多少にのみ頭を悩ませているとは思えない。(関西鉄道は、国有化を直前にして、ぼーっとしているわけではない。頑張っているんだぞと言いたいところなのだ)

〇 監査官の来社

加茂〜奈良間の変更線路監査のため、鉄道局の辻技師は、去る17日来社せられたり(四日市に来たのだろう)

友鶴

〇 最終割引と増収

関西鉄道棹美(たくび)の大活動たる団体政策に引き続き、秋季彼岸会7日間の割引は又もや的中して、無比の好成績を上げた。勿論、国有記念最終の値引きであるということには魅力があるが、それより社員一同の会社に対する感謝の念の賜物といえる。会社もこれに答えて未曾有の賞与金を支給することにしたそうだ。

 

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市井からの眺め91関西鉄道㉑

2020年07月17日 | レモン色の町

明治39年1月、明治政府は私鉄を買い上げ国有化する条例案を出す。これに対し当時の関西鉄道社長 片岡直温は、当時の関西鉄道時報に「非鉄道国有論」として投稿している。

「鉄道国有化の可否は、主義の問題よりもむしろ事実の問題である。私は、主義としては鉄道国有に異論なし。只、事実上、現下の鉄道国有説は国家の一度定めたる買収期限、即ち鉄道免許状下付の日より25年後においてはじめて政府に買い上げ権を保有すべしとする。買収権の未だ到達せざるにも、国家万能主義のもとに臣民の私権を犠牲にして鉄道買収を断行せよとするのは適当の時期にあらず。時期において異議を挿むべき理由の大なる者で、断固として国有説に反対する。

我が国の公債は、日露戦争の戦局に際しては15億の募債をなし、そのうち国内向け国債応募額は4億8千万円に達しているが、内、1億4〜5千万は外人の手にあるだけでなく、その他の公債の総てが外国にあるが、幸い悪い影響なく来ている。現在、2億円の公債を募集しつつ、更に鉄道国営化のための公債を5億円発行することは、公債の下落を招く危険がある」

ここまで訳してきたが、わたくしの力量不足で続きは次回にしたい。しかし、なにもここまで回りくどく書くこともないのにと思う。国は、公債で全国の私鉄を買い取ろうとしているが、国債暴落の危機をおっしゃってみえるのだろう。いくらお金を積まれても、関西鉄道にも培われてきた意地というものがあろうに。

関西鉄道の広告

 

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市井からの眺め90関西鉄道⑳

2020年07月14日 | レモン色の町

井上勝

井上勝鉄道局長官は、総理大臣伊藤博文に、箱根の険峻、天竜川、富士川、大井川などの大河を除けば「概ネ平坦」で、中山道よりも32キロ短縮でき、工期も半分以下、費額も1000万円以下に抑えることが出来る東海道筋に進めることを上申した。こうして東京~名古屋間のルート変更が行われたのである。まさに、日本の鉄道史上、空前にして絶後の出来事であった。「日本鉄道史 幕末・明治編」老川慶喜著 中公新書

伊藤博文 内閣総理大臣

明治19年、路線変更が公布されて3日後、東海道鉄道は着工された。これにより、まず湘南地方の別荘保養地、海水浴場あるいは観光地としての開発の拍車がかかることとなった。こうして明治22年2月、国府津〜御殿場〜沼津〜静岡まで通り、2か月後には大府まで伸ばされた。一方、大津〜長浜間の湖東線が開通し接続、新橋〜横浜間の東海道幹線は、3年という早さで完成した。これで、嘉永年間の江戸〜京都間の大名行列は19日間かかっていたのが、東海道線全通後は11時間2分という速さで達するようになった。

国有化直前(明治39年)の鉄道網

さて、四日市に本社を持つ関西鉄道(かんせいてつどう)が設立されて、四日市〜亀山間に線路を敷くのが明治23年、四日市〜桑名間の開通は明治27年であり、タイミング的にも東海道線の鈴鹿峠超えが絶望視され、これに負けじと奮起した様子が想像できる。

一方、東海道線の開通により横浜〜四日市〜神戸を、船で運搬していた日本郵船は減収に、大津〜長浜間の太湖汽船は、営業廃止に至っている。

来航した蒸気船が持参した機関車の模型は、文明開化を告げる日本国中に大きな影響をもたらしていったのであります

 

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