花の四日市スワマエ商店街

四日市諏訪商店街振興組合専務理事の横道ブログ

ぶらり四日市 その十七 伝七邸

2023-01-30 | レモン色の町

国登録有形文化財(建造物) 伝七邸(旧伊藤伝七別邸)登録2010年9月10日

お正月でしたので、かたく門は閉ざされておりました。休邸日?南の金砂神社とセットでまた訪れます。

紡績王と称された「第十世伊藤伝七」の別邸として、1896年(明治29年)当地に移設された歴史的建造物。約600坪の敷地に2階建て木造建築と日本庭園を擁し、威風堂々とした「玄関棟」と切妻造りの「さつき棟」は国の登録有形文化財となっている。

1906年(明治39年)より「料亭 浜松茂」として四日市繁栄の象徴であり続けたが、2017年に閉店。取り壊しの危機にあったが、11代目九鬼紋七に引き継がれた。

現在は「伝七邸」として、伊藤伝七ゆかりの企業である東洋紡グループ各社をはじめとした地域企業の支援により、文化交流の拠点となっている。

第17世 伊藤伝七(1852~1924)

日本の紡績業界の名門「東洋紡績株式会社[名付け親は渋沢栄一氏で東洋一の意である](現東洋紡績株式会社)」の創始者として国家の繁栄を牽引するだけでなく、四日市倉庫(現 日本トランスシティ)の創設発起人や豊田式織機株式会社の監査役を務めるなど多くの事業に携わった、さらには、私財を投じて四郷村役場(現 四郷郷土資料館)を寄贈するなど、地域の発展に貢献した。    協賛 東洋紡株式会社

すぐ北側が高砂町

わずかに当時の面影を残す。遊郭が並んでいたこともあった、港の玄関口だった。

その先は潮吹き堤のある旧四日市港に出る。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お諏訪さん市 開催

2023-01-29 | おいらの商店街

“がんばる商店街 お諏訪さん市”が駅前商店街一帯で開催された。

今回のイベントは経済産業省の”がんばる商店街”を受けて行われたもので、わがスワマエ商店街は、2年前の“GOTO商店街”にてYouTubeでの動画配信を行ったので、今回は遠慮させていただいた。

好評だったスタンプラリー。予想をはるかに超える大盛況だった。

数日前の雪害で人の出が心配されていたが、幸い好天に恵まれ、多くの人でにぎわい、特に家族連れが目立った。よかった

1番街のステージ

諏訪公園では、キッチンカーとライブが

諏訪新道では、キッチンカーとステージ、そして

マルシェやフワフワの遊具で賑わった

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぶらり四日市 その十七 郵便局の境界石

2023-01-28 | レモン色の町

明治4年4月20日、郵便制度が発足した。東海道の各宿場にある伝馬所の一画に郵便取扱書とポストが配置され、“運送員”は重い行李を担いで宿駅間を走った。四日市では、辻のある南町に“郵便取扱書”が設置されたが、明治8年には“郵便局”という名称に変わっている。その後、明治16年には南町から浜町に変わり、明治21年になると開栄橋西詰南角に移築された。

大正11年の地図。中央開栄橋の上に”郵便局”の字が読める。当時、周辺は四日市の中心だった。

明治21年建設された四日市郵便局、昭和19年まで使われていた。

明治36年撮影の“納屋運河の開栄橋”から、橋を渡った左に、白亜の洋館と呼ばれた郵便局の建物がみえる。

明治36年

北野保 著“続よっかいち歴史浪漫紀行”に、郵便局跡の南東角に現存する“通信省用地”と彫られた境界石の写真が掲載されていた。平成28年頃の境界石。

その後、気になっていたので、写真に記録した。

令和3年

令和5年

沈没して、情けなく変わり果てている。ああ無常!引っこ抜いて家へ持って帰りたいワ。

 

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大雪の四日市

2023-01-26 | おいらの商店街

1月25日 10年に一度の寒波到来で、四日市は朝から吹雪に見舞われました。

緑がきれいな鵜の森神社も今日は雪の中です。雪合戦をする一行だけが元気です。

駅前も吹雪の中でした。

明けて26日は、陽のさす穏やかな朝におなりました。しかしまだ雪は残りそうです。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぶらり四日市 その十六 運河の細雨

2023-01-24 | レモン色の町

出口對石 画“運河の細雨”四日市市立博物館 刊「知らぜらる四日市の面影」より

雨が降りしきる納屋運河(開栄橋と相生橋に挟まれた)を描いています。画面左から稲葉町、蓬莱橋、高砂町が描かれています。画面右手の橋は諏訪神社へ続く相生橋。運河にはたくさんの木造船が繋留され、あわただしく船を動かす船頭の様子が描かれています。

この位置から今の様子を撮りましたが、時代の流れを感じます。中央に蓬莱橋、右手に相生橋が望めます。

この写真は、開栄橋を渡って振り向き、西方向に撮りました。橋の左が前に撮った場所です。

“納屋運河の開栄橋”「四日市の100年」監修 椙山 満 より 明治36年 橋を渡った左手に四日市郵便局があり、半鐘の脇には浜往還の松がみえる。右手には四日市倉庫(株)、その奥の洋館は四日市銀行と、倉庫や事務所が建ち並んでいた。

明治から大正時代にかけて、港で発展した四日市を象徴したもっとも賑やかなところでございました。

蓬莱橋 北向き

相生橋 西向き

明治28年の鳥観図より 撮影位置を矢印で示しました

追記 下総人様よりコメントの本町プラザは、戦後警察署として使われていました。「電光石火の男」では、ロケ地として出ています。

コメント (5)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぶらり四日市 その十五 昌栄新田の今

2023-01-23 | レモン色の町

明治40年発行の“四日市史”伊藤善太郎著のうち“四日市名所案内”に、昌栄新田が四日市観光名所として挙げられていたのでご紹介します。

水谷百碩 画“昌栄新田潮干狩”

昌栄新田・・・もと、新田のありし所なれば、今は、遠浅の海辺なれども。なお、旧名を襲用して、昌栄新田とはいうなり。朝日の洲、遠く海中に突き出して一大湾をなし、内に、汽船、帆船の林立するあり。又遥かに眞帆 片帆の海上を往来するありて、その風光の美なる、到底 筆紙に盡しがたし。されば、潮干狩り、海水浴、観月等には最も格好の地にして、毎年 期に至る毎に、関西鉄道は特に列車を発して、名古屋よりの来遊者を向かうるなり。

明治44年の地図より

旧四日市港方向に向かって撮る

運河から尾上町沿いに南方向

金砂稲荷という社があった。”高砂”のつもりか?

風光明媚な砂浜が続いていたようだ。

 

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぶらり四日市 その十四 県との確執

2023-01-22 | レモン色の町

稲葉翁に関するブログ(2021年10月1日~10日)については、図書館でお借りした“郷土秘話 港のできるまで 稲葉三右衛門築港史”大鳥重敬 著を資料とさせていただきました。

2021年10月1日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

お借りした時点でかなりいたんだ本でした

この書籍は、赤堀城西町の三重公論社 発行で、昭和31年11月に出版されています。印刷されたのは浜田にある弘運館の駒田菊一氏で、駒田さんはパッカンの機械などをお持ちでイベント時に披露されていたことを思い出します。

著者の大鳥氏は、「稲葉翁に関する資料が乏しく、知る人の高齢化や戦災等で、今(昭和30年時点で)まとまったものを作らねば」と一念発起されたようでした。

“港のできるまで”より

この本を読ませていただき、築港事業に対して県との確執があったことを知りました。県は、莫大なお金がかかる築港事業は公共事業として行われるべきだと考えていました。ところが稲葉三右衛門氏が無謀にも独力で取り掛かった。個人の事業なので所詮規模は小さかったのですが。「まあ待て、金の工面がついたら県がやる」完成の暁に港が個人の所有になっても困るので“急ぐべからず”と躊躇していたところ裁判にもちこまれてしまった。ということではないでしょうか?

昭和7年頃(市制80年記念誌 四日市のあゆみより)

県史編さんグループ 石原佳樹氏は、稲葉翁の事業は未完であったと述べています。

稲葉三右衛門の「夢」未完?-直後に県が築港事業構想 (mie.lg.jp)

続いてこんな記事にリンクしました。稲葉翁が藍綬褒章を受けたいきさつがあって、地域産業発展の為には、稲葉翁の評価は大切ですというものでした。

起業家精神を評価―稲葉三右衛門の藍綬褒章受章 (mie.lg.jp)

稲葉翁の築港事業は中途だったかもしれない。どこまでが完成なのかは分かりませんが。ハード事業に“竣工”という言葉がある以上、どこかで何らかの区切りは必要なのでしょう。しかし、私財を投じて港構築に取り組み、後世の発展に貢献したことは大いに評価されるべきでしょう。県は稲葉翁の藍綬褒章を受けるにあたって尽力していたとありました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぶらり四日市 その十三 旧四日市湊

2023-01-21 | レモン色の町

明治5年、稲葉三右衛門は、同志である田中武右衛門と共に、三重県参事宛てに工事許可の願いを出し、翌6年、県の内諾が出ると自己所有地への土砂の運搬から工事を始めた。しかし、工事規模の膨大さの為、田中武右衛門は脱落、三右衛門一人の難工事となる。

明治7年頃?修築工事風景

ようやく明治6年の暮れには波止場と燈明代を除く埋め立て工事が完成するが財力は尽きてしまい中断をやむなくされる。しかし、新しく出来た埋め立て地の稲葉町や高砂町には50戸ほどの人家が建ち並び、稲葉町には三菱汽船の支所ができるまでになり、工事の継続が急務となった。ここで県は事業の継続に乗り出そうとしたが、三右衛門は独力で行いたいと岐阜県高須町の兄に保証人を乞い、資金調達をして工事の継続を願い出た。しかし県はこの出願を退け、全工事の竣工迄棚上げにしてしまった。

稲葉三右衛門の肖像 四日市市制80周年記念 四日市のあゆみ より

明治9年3月、三右衛門は生活に困窮するも意志は固く、県を相手取って大阪上等裁判所へ上訴することになる。なぜ、県は稲葉三右衛門の工事続行をかたくなに許さなかったのだろうか? つづく

旧四日市港 潮吹き堤防がみえる

旧港に立つ三右衛門の記念碑

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぶらり四日市 その十二 野洲田新田開墾落成之圖

2023-01-20 | レモン色の町

下の図は、下総人さんに教えていただいた「野寿田新田 開墾落成の図」(県史編纂グループ様)は、明治13年以前と推測できる。この絵図を見ると、野寿田新田(昌栄新田)は堤防に囲まれていて海と仕分けがされている。南東部に位置する池は“鰡(ぼら)池”と名がついていて“伊勢鯉”とも呼ばれて祝いの時に珍重された。

次の図は“野寿田新田 水中ニ属スル図”で点線の部分が堤防のあったところで中ほど上から下へ阿瀬知川がまっすぐ流れてきている。左の“大江川”が“大井の川”だろう。結構広い範囲に砂浜が出来てしまっている様子である。

次は明治28年の鳥観図(商業会議所発行)。稲葉三右衛門氏による旧港が完成している。砂浜の様子も分かる。マテガイが取れたとある。

これは明治40年の地図。稲葉三右衛門氏による港づくりが一段落し、県による第2次の港づくり計画が点線で示されている。地震や高潮、そして阿瀬知川から押し出される土砂との戦いは、四日市庭湊繁栄のための長年の戦いでもありました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぶらり四日市 その十一 野寿田新田のこと

2023-01-18 | レモン色の町

難工事が続く四日市庭湊

安政元年(1854)6月15日午前1時ころ、大地震が襲った。安政の大地震である。九十郎(後の稲葉三右衛門)18才の折、四日市では、地震による火災が朝から夕刻まで続き、焼失62戸、潰れ家371戸、半壊347戸、半壊大破780戸、小破365戸、焼死人68人、怪我死人87人、怪我人 無数という大惨事が起きた。陣屋も潰れ、10の寺院も焼けたり潰れたりした。稲葉家は大した被害もなく、避難するに終わったが、浜辺一帯の地盤が二尺(約60cm)程沈下したため田畑に海水が流れ込んだ。そして、この年の11月には再び地震が起こり、野寿田新田(昌栄新田の別称)大手堤がことごとく崩れた。

翌2年4月、今度は高潮が襲来して修理中の野寿田新田大手堤を寸断して海水が流れ込む。こうして、海運に恵まれた伊勢の良港といわれた四日市庭湊も、幾多の困難を経てきたのであります。 つづく

野寿田新田(昌栄新田)が広がっていた現在の尾上町通り

通りの東には九鬼肥料屋さんが建つ

昌栄新田の一件から、下総人様からメールで紹介をいただきました。ご参考まで・・・

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=601

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする