花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

カンバック!昭和商店街10<神戸屋>

2018年11月28日 | レモン色の町

昨夜、四日市飯店さんに伺った。下の写真を見せて、ここがお店の角になるとあったが、と尋ねると、大将はこの先だとおっしゃる。

右が東方向になる

そこで昭和43年のゼンリン地図で調べると、あった!神戸屋が。港楽園入口と書いてあったので、その先に建つ現在の共栄ビルが竜宮城のような建物だったったと想像できる。朕が小学6年生の時、この道を西へ行った突き当りの塾へ通っていた。昭和35年の頃である。空き地の向こうに近鉄百貨店の建設工事が望めた。翌年、四日市シネマで上映の「ベンハー」を学校から観に行った。

早川堂さん跡に四日市飯店さんが出来たことになる

 


ゑびや大食堂様

2018年11月28日 | おいらの商店街

おかげ横丁のゑびゃ大食堂様がAIを使って来客数の予測を立てる仕組みに取り掛かっている。中日新聞の昨日の夕刊と今日の朝刊(三重版)に掲載されていた。確率はかなり高く、飲食店にはありがたいソフトだろう。ただ、結果はデータの入力次第。コストは始め安く、結果次第で高くしていった方が安心してお願いできそうだ。


カンバック!昭和商店街9<赤線地帯2>

2018年11月27日 | レモン色の町

昭和33年6月、諏訪公園西の通りを北向きに見た。この先、北西方向に当時の赤線地帯と呼ばれていた春告園が広がる。

この年4月1日に売春防止法が施行され、全国で3万9000軒の店と従業婦12万人が姿を消した。

開店準備が出来て、来客を待つバーの従業員。寿屋チェーン店の看板が見える。この年、石原裕次郎の日活映画「嵐を呼ぶ男」「陽のあたる坂道」「風速四十米」が大ヒット。裕次郎のイカす姿に若者はあこがれた。自転車の向こうに麗人急募の張り紙が覗いている。麗人とは古い表現だ。

 

約1年遡る昭和32年5月13日、辻さんは今の四日市飯店角でカメラを構えた。だとすると右方向にあるのが諏訪公園か。港楽園入口とある。ここから西が赤線だった。左側に竜宮城のような建物があった気がする。赤線廃止後は、公園西(南が正解)の屋台がここへ移ったと聞いた。

位置が少し違っているかもしれません。


カンバック!昭和商店街8<赤線地帯>

2018年11月25日 | レモン色の町

四日市の赤線地帯

昭和32年8月5日、美奈月旅館前を前から諏訪公園方面を見る。向こうに見える松林が諏訪公園の西側にあたる。暑い一日がようやく終わろうとしている。買い物帰りの奥さんとの会話が弾む。表で足を洗っているのだろう。当時はまだ未舗装の道も多く、外から帰るとよく足を洗わされた。上がりがまちに濡れ雑巾が敷いてあって、そこで「足を拭いてあがりなさい」といわれた。

ぬかるみにできた轍は、車より自転車やスクーターの跡が目立つ。美奈月旅館もその北隣のきものの水谷屋さんも無くなった。

 

この先、諏訪公園の北側周辺が春告園、この場所から左(西側)が港楽園と呼ばれた赤線地帯だった。昭和33年に廃止された。

戦後の町並みの雰囲気がよく出ている。

昭和33年7月24日、二番街の若紀久(移転)の向かい角を撮った写真。辻氏は移り変わる街の風俗や生活をカメラに収めた。当時の雰囲気が色濃く出た作品だ。飲食店の裏路地でくつろぐ女性たち。夏の暑い一日が終わろうとしている。開店までまだ少し時がある。

シンガーソングライターで、当時十六歳のポールアンカが「ダイアナ」でこの春、一大ブームを巻き起こした。ロカビリー三人男の一人平尾昌晃はダイアナを「君は僕より年上と」の訳でヒット。アメリカではエルビス・プレスリーの影響でカントリーからロックンロールへの動きが目立った。

   

昭和33年7月24日。現在の二番街、大学前あたりから西に向かって撮られた写真。この年の4月、売春禁止法が施行された。

この地域一帯を港楽園と呼ばれ、諏訪公園西の春告園と共に四日市の赤線地帯だった。

建物の一階ではこわもてのお兄さんが花札をしていて、二階へ上がるといくつかの小部屋があった。貧しい東北出身の人が多かったと聞くが、それにしてもお姉さんたちのこの明るい表情はどうだ。子供たちの遊び相手をしているようだ。

突き当りが駅前南北の通りに繋がる。


カンバック!昭和商店街7<昭和の子供たち>

2018年11月23日 | レモン色の町

昭和30年6月8日の16時ころ。辻さんは諏訪駅の改札口を出た所から東方向にカメラを構えた。近鉄線の短絡化が昭和31年9月だから、諏訪駅取り壊しの話が巷の話題になっている頃だ。諏訪駅を降りると右(南)に諏訪百貨店(スワマーケット)、左が駐輪場だった。正面に大きな映画館の看板が並んでいる。弥生館には志村喬、諏訪劇場には菅原謙二の顔が描かれている。映画は当時唯一の娯楽で、二本立てや三本立てが普通。上映作品は毎週変わった。右へ行くと諏訪劇場、左が公園へ向かう踏切がある。まっすぐ進むと三泗百貨店。駅の移転をきっかけにこのあたりも大きく変わることになる。

 

少しさかのぼる昭和30年5月中旬、辻さんはカメラを提げて、新しい駅建設中の中央通りへ向かう。嘗て辻さんは街の変遷を撮るというよりも、そこに暮らす人々の風俗を残したかったと語ってみえた。楠の木はまだない。子供が水たまりで遊ぶ。南に見えるのは水九印刷、右に農協があるはずだ。

 

同日、中央通りから西向きに見た風景。やはり子供が焦点になっている。遥か向こうに工業高校があり、そこから学生の集団が踏切を超えて下校してくる。嘗てここでは農業博覧会が開かれ、会場内を内部・八王子線が通っていた。

 

旧東海道から中央通り東方向を撮る。国道1号線が出来つつあり左には市役所が見える。女の子が走る。浜田小学校に通っていた私は、荒涼とした中央通りを横断して学校に通った。寒い季節は、鈴鹿山脈から吹き降ろす冷たい風に息を殺して走った。

 

30年5月27日金曜日15時過ぎか。この日はお天気が良かったので諏訪神社へ出かける。神社と公園の間の空き地で草野球を楽しんでいる子供たち。この写真が発表された当時、ここは諏訪駅跡地とあったが、稲垣写真館の電柱広告から拝殿北の空き地(現材の石山、誓の御柱が建つところ)と想像できる。稲垣写真館は公園の北、もう少し左側にあった。

この年、ずっしり思い一眼レフを提げた辻さんは、街に暮らす子供たちの様子を撮ることから始めた。


カンバック!昭和商店街6<諏訪駅跡地>

2018年11月20日 | レモン色の町

昭和32年2月22日 荒涼とした光景。ここを何処だと思われますか?諏訪駅の跡地。そしてここからまっすぐ西へ四日市鉄道(湯の山行き)、左へ曲がって三重軌道(内部・八王子線)、右へカーブして名古屋へ線路が伸びていました。三本の線路が外された後に残った広い空き地。ここは、現在の1番街から見た西側の光景です。寒い日の早朝。ポツンと残された街路灯はまだ点灯したままです。犬がぬかるみの中でこちらを見ています。

この先に名古屋へ向かう線路が走っていすはずですが、よく分かりません。新しい近鉄四日市駅は開業しているはずです。まもなく通勤の人々が、ここをまたぐようにして通っていくことでしょう。

左が川村鉄工所、右が二番街になります。これから一気に、一番街が形成されます。


カンバック!昭和商店街5<七五三風景>

2018年11月19日 | レモン色の町

昭和32年11月15日、60年ほど前になる。諏訪神社の七五三風景。なんと大勢の人が諏訪神社に詣でたことか。拝殿前は人でごった返している。政成稲荷の前に人だかりがある。香具師でも居るのか。

その中を堂々と帰る小学生。右側が同級生の茂知野君。諏訪神社の南が住まいだったから家に帰る途中だろう。いつもは自分たちの遊び場だが、今日は少し勝手が違う。

この頃、ホッピングという玩具が爆発的に売れ始めていた。両手でハンドルを握り、両足をペダルにかけてピョンピョン飛びあがる単純な遊び。しかし、胃下垂や足の骨膜炎を起こす子供が続出し、翌年夏には下火となった。昭和32年の元日。兄が、店の前で飛んでいるところを撮ってやろうということになったが「シャッターを押すのが遅い!」と怒りながら飛んでいた記憶がある。ホッピング、フラフープ、ダッコちゃんと流行の玩具は一通り買ってもらった。


カンバック!昭和商店街4<公園の市民壇>

2018年11月18日 | レモン色の町

昭和33年7月24日、諏訪公園の市民壇前。今日は1学期の終業式。通信簿の難関を乗り越え明日からは夏休みだ。市民壇で夜の7時半から映画が始まる。何の映画か?嵐勘十郎のチャンバラか、西部劇か。市民壇に張られた幕の前に僕らは陣取る。やがて集まってくる大人たちに負けないよう特等席を取る。大人たちの影で観られなかったら、裏に回ってでも観るのだ。

市民壇は村山清八という市議会議員が誓の御柱と共に昭和9年に造った。戦争の影が見える。

完成当時の市民壇

市民壇・誓の御柱・熊澤図書館と並ぶ(本町水谷氏所蔵)

でも、僕たちには関係ない。市民壇と石山(誓の御柱)は格好の遊び場で、裏側の階段から上がって、壇の中央に立つと世の中が広くなり、自分中心に地球が回っているような気分になった。少し照れくさかったけれど、気分は最高だった。現在、南部丘陵公園に移築されている市民壇は、少し寂しそうだ。


カンバック!昭和商店街3<三泗百貨店>

2018年11月17日 | レモン色の町

諏訪駅の踏切跡

昭和32年2月。寒い日の朝。洗顔に余念がない親子。ここで生活して居たとなると、線路を背にした狭い店の二階で寝起きしていたことになる。現在のホームラン前から一番街の通りを東向きに撮った写真。昨夜まで降り続いたみぞれ混じりの雨はあがったが、空はまだ重い。

 この通りを国鉄四日市駅(現 JR四日市駅)へ伸びる線路が通っていた。大正の頃は、三重軌道(内部・八王子方面)と四日市鉄道(湯の山線)の二本の列車が走っていた。手前の石畳は踏み切り跡。通勤の人が通る。すずらん通りから嶋口屋の路地をくぐり諏訪新道方面の職場へ向かう。

三泗百貨店が一掃謝恩セールを行なっている。二割引きから三割引き。毎週安くなっていきますよ!三泗百貨店は諏訪駅前の諏訪百貨店のように多くの店の集合体だった。一階は食品売り場で、木造床の二階へゴトゴト上がると切手売り場やゲームセンターがあった。この後スーパーサンシとなる。革新的販売方!スーパーマーケットの誕生である。左にふくや靴店(後のフクヤ)の看板が見える。サンシの反対側の路地。ここも線路を背に小さな店舗が、ヤマモト・ヤマカワ・サワムラそして多田駄菓子屋があった。ほとんどの人が店の隅で食事をとる。みんな食べていくのに必死だった。


ボヘミアン・ラプソディをミタ

2018年11月16日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

予告をしつこく観るうちに、全く興味の無いロック映画にもかかわらず、109シネマズに足を運んだ。すごい!魂が震えるというか、最後のチャリティイベント21分間のライヴ・エイドには泣かされた。冒頭、ステージへ進むフレディの後姿は、顔が写されず孤独感が漂う。ところが最後の繰り返されるシーンには仲間と共にステージへ上がるフレディの姿がある。

学ぶところは多い。パーフォーマンスによる盛り上げ方は、天才的である。そして、曲は同じところを留まらない。破天荒な演奏をすると思えばオペラを取り入れる。ロックを基本にロックという枠にとらわれず、常に新しい変化を求めているのだ。意見を戦わせ、喧嘩になる。しかし、皆の感性が合えばひとつになる。

ストーリはいたってシンプル。成功から挫折があり、再起する物語だ。ホモ達の存在にはハラハラさせられるが、これも伝記だからだろう。同一性障害者として理解ある眼で見なくてはならないと思う。これは劇場で観るべき映画である。難聴になるくらいの大迫力でありました。