花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

北條町魚づくし

2023年11月28日 | レモン色の町

文化展望四日市第8号(平成3年) 椙山満 著 四日市今昔より

昭和6年西福寺境内に並んだ魚づくしの練り物たち

戦前の四日市祭禮(まつり)に、人魚を始め大小の魚たちが、とりどりの色を添えて楽しませてくれた北条町の魚づくしという練り物は、この町に魚の棚と呼ばれる魚の問屋街があったことに由来していた。

西福寺 平成3年

魚の棚の東隣にあった西福寺の境内に納屋に、多数の魚たちが格納されており、祭礼が近づくと、本堂の阿弥陀様の前でおカッパの人魚がメイキャップを始める姿は何ともご愛敬で、四日市に秋の訪れを告げる風物詩のひとつであった。

昭和13年の地図より 老松橋南 第六小学校の東に北條町 北条町は今も健在

福田武夫氏による浜往還 ここに魚の棚通りの文字がある(昭和天皇御大典当時)

豪華絢爛を競う邌物のなかで ユニークな存在だったと思える 残された写真はモノクロですが 当時は赤や青の色彩であふれていたのだろう 夢物語を見るようだったと当時の人が感想を書いていた

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関西鉄道(かんせいてつどう)四日市工場

2023年11月27日 | レモン色の町

大正3年の四日市工場全景

明治23年7月、浜田(西末広町)に建設された関西鉄道四日市工場は、文明開化の最先端をゆく近代的機械工場として名を轟(とどろ)かせたもので、同年12月に四日市―草津間が開通し、関西鉄道の車両の整備から新造まで一手に引き受けていた。明治40年国有化後、鉄道省の車両工学の鬼才として一世を風靡(ふうび)した島安次郎博士はここの技師長であった。

鉄道技官時代の島安次郎

現在(平成3年)の住友電装の西北一帯にあり、大正12年、従業員一同と共に名古屋に移って、鉄道省名古屋工場となった。今(平成3年)あれば今年百歳を迎えたことになる。

明治44年四日市驛周辺

文化展望四日市 第8号より 椙山満先生著

JR四日市コンテナ基地から住友電装の西一帯がその跡地

久々の島安次郎氏の登場です!

 

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雪の三瀧橋

2023年11月25日 | レモン色の町

「雪の三瀧橋を望む」昭和5年2月12日 故伊藤文太郎氏撮影

昨夜から降り始めた雪が、朝になってもなお降り続く。東海道に沿った南川原町から眺めた三瀧橋は白一色。傘の上にも雪。寒そうに身をくるんだ女性が一人、轍(わだち)の跡を足音もなく近づいてくる。近頃(平成3年)は暖冬つづきで、2月でもめったに雪景色を撮ることが出来なくなってしまった。(椙山 満 文化展望四日市 第8号より)

平成3年頃

昭和13年の地図

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B-1グランプリ四日市大会 大盛況!

2023年11月21日 | レモン色の町

今回は 神社入り口の鳥居南側に立つ 石碑の謎に迫ります とんまトリオが揃って登場

「四日市の謎/動いた諏訪神社の碑」 - YouTube

予測を大幅に上回り 倍以上のお客様で賑わった 四日市大会 昨日は成功の喜びでいっぱいだった

 

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B-1グランプリ 東海 北陸大会開催

2023年11月18日 | レモン色の町

11月18日・19日の二日間にわたり B-1グランプリ東海・北陸大会が 四日市の三滝川通りを舞台に 開催されている。来街者10万人が見込まれているが 初日 既に7万人を超え 目標 達成は時間の問題でアリマス。

わが表参道スワマエ商店街でも 観光協会様と四日市商店連合会様の協力をいただき オレンジ田中君の橋渡しで よしもと興業から サバンナ八木さんをお招きすることが出来た。八木さん なかなかの好青年で 礼儀正しく 良い印象だった。田中君も頑張っていただいた。通りは春のジョイマンさんと同じくらいの人出で ありがたかった。

右からサバンナ八木さん オラ オレンジ田中さん ありがとうございました

 

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おばけ暦

2023年11月12日 | レモン色の町

旧暦?“昭和の消えた仕事図鑑”を見ていたら“おばけ暦売り”というのがあった。

昭和の消えた仕事図鑑 角川ソフィア文庫より

明治5年、それまで使われていた旧暦(太陰暦)が、西洋に合わせた太陽暦(グレゴリオ暦)に変わった。このため明治5年12月2日が明治6年1月1日になった。12月に入って“ヤァ師走!”と思いきや、突然 お正月が来たのであります。新暦の暦は、内務省に委託された伊勢神宮の「神宮司庁」が“神宮歴”として発行、正式な暦ですから他の発行はダメですよ!ということになった。

令和6年版 高島暦より ええこと書いてあるやん

ところが、旧暦には大安・農作業の時期・祭り・年中行事など生活に密着した情報が掲載されていて 巷は混乱した。そこで闇暦が秘かに販売されることとなったのであります。“おばけ暦”の登場である。自分が記憶にあるのに、尺貫法が廃止された時、いかがわしいオッサンが店に入ってきて、親父に尺で測れる巻き尺を何本か売りつけて行った。政府も庶民のことを考えて“押し付ける”のではなく融通を利かすべきだと思う。こうして発行所も明確でない旧暦暦が、非合法で戦前まで販売されていたのだ。値段は昭和12年頃で20銭。電車賃ぐらいだったから、良心的な商売だったかな?(紙質は悪かったと想像する)

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大井の川と書いて おいのかわ

2023年11月11日 | レモン色の町

本日公開!狂ったこともしゃべっております ま、さしずめ間違い探しィ!

(1) 「空襲のおかげでできた通り/四日市中央通り」 - YouTube

今回の主人公は中央通りでゴザイマス、それと、お人形さんも主人公です 製作苦労譚「糸にハリ通すなんて?久しぶり。見えへーん!」

昭和6年当時の大井の川

文化展望四日市 椙山満先生の「大正6年の築港風景」です。

大井の川の河口から海を眺めると、右にはうっそうとした大池の松原と砂浜が続き、左には四日市製材の貯木池に至る運河の入口にランチが一隻。1号地と呼ばれた末広町の埋立地に岸壁が出来上がったばかり。

 沖合には艀(はしけ)で荷役中の汽船が2隻。2号地 千歳町埋立地の近くでは第一埠頭の造成に入ったのか、サンドポンプが煙を上げている。

昭和63年の大井の川は今と変わりません

・ランチ=原動機付の小型船。大型船に積まれていて、港湾内での人や荷物の運搬に使われる。

・艀=河川や運河などの内陸水路で、荷物を積んで航行する平底の船舶。

・サンドポンプ=泥水を吸い上げる機械

明治44年の地図

小岩13年の港(ア!コレマタ訂正:小岩は間違いで“昭和”でゴザイマシタ)

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三滝川に架かる三瀧橋

2023年11月08日 | レモン色の町

広重が“東海道の四日市”として描いた天保初期の三瀧橋は、風にそよぐわびしい土橋、それが明治10年には板橋となり、

大正10年6月には新しい鉄構橋に生まれ変わった。石の親柱にはそれぞれシャンデリア風の白い球状電球が四個と、両側の欄干にはガス燈型の白い球状電球が14個灯されて、夜の三瀧橋を四日市の名所の一つとして一躍祭り上げた。文化展望四日市 椙山先生投稿

水谷百碩氏の絵からは、三瀧橋下は涼を取る人々で賑わい食べ物屋も出ていた。

立体写真になりますが!

戦前まで、ここに牡蠣船が停泊していて、風情があったと聞いている。

昭和63年の旧東海道に架かる三滝橋

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省線という響き

2023年11月06日 | レモン色の町

下総人さまから 昭和24年に省線は無くなり 昭和27年に国鉄となったことを知りました。講和記念博覧会資料では 確かに省線とありますが(四行目)

無くなって間がない時 思わず使ってしまったのでしょう 省線 かび臭いけれど 心地よい響きです

11月18日と19日は 四日市でB-1グランプリ東海北陸大会が開会されます コロナ禍でようやく開かれることとなり 我ら諏訪前もイベント協力をすることになりました タケちゃんマンが登場です!

 

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博覧会の会場は何処に?

2023年11月05日 | レモン色の町

戦災からの立ち直りを見せた昭和27年3月25日から4月23日まで約1か月間、整備途中の中央通りを会場に“講和記念大博覧会”開催され、前売り券を含め約80万人の来場者でにぎわった。

まず、会場となる約4万坪の敷地を、省線四日市駅(JR四日市駅)と近く新設される予定の近畿日本鉄道諏訪駅間(近鉄四日市駅)の70メートル道路がほぼ完成されていたので、これを利用することが決定した。しかし、一部には立ち退きを遷延していたり、西方一帯の埋め立て(工業高校附近)が完成されていなかったりしたので、これを会場にまで導くことにしたのである。勿論、都市計画による70メートル道路事業がなかなか進捗しなかったので、今回の計画によってその計画が促進されるという副次目的も含まれていたのであるが、結果として民家の立ち退きが急速に実施され、また西方一帯の埋め立ても完了し、幅70メートル、長さ1キロにわたる会場が用意できたのである。

昭和20年代の中央通りロータリー

只、会場内には、旧東海道と国道1号線及び三重交通の内部線の三線が横断している、その対策として旧東海道は一時交通を遮断して国道1号線を専用したのであるが、交通が頻繁であるためこれを横断することは誠に危険で伴うことであり、会場整理の上にも遺憾の点があったためここに大きなブリッジを設け、旁々会場内の展望台化されたことは誠に有効であった。又 三交内部線も同様にブリッジを設け交通の障害を避けたのである。

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