花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

再び“西アサヒ”と云うお店に行ってミタ

2015年05月30日 | 諏訪商店街振興組合のこと

サンシ前罹災地跡構想の一環として、石崎先生・北岡1番街理事・吉田理事長・水谷専務理事は、28日夕刻から、名古屋 円頓寺商店街にある、田尾さん経営の“西アサヒ”を再び訪れました。

田尾さんは、前回商人塾でお世話になった講師で“西アサヒ”という名は、以前の喫茶店の名前を引き継いでいるそうです。

お忙しい中、心良く質問に答えていただく田尾さん。

他店との差別化で工夫されたことは?の問いに 店内の入口に大きなテーブルを配置し、会合等が出来るようにしたこと。各テーブルにはコンセントをつけたこと、前のお店から評判だった卵焼きサンドを復活させたりしてメニューにこだわりを持たせたそうです。

焼きたての卵焼きサンド 来客の層は幅広く、子供連れ、若い層、年配の方と様々です。

カレーも一味違います。北岡さん大絶賛の赤ワインは、とにかくおいしくて安い。大満足のお料理でした。

初夏の夕闇の中、円頓寺商店街から西、堀川沿いへ向かいました。

江戸時代、名古屋城へ向かって堀川沿いに北へ、船による物流が盛んでした。昔の蔵や家屋が並ぶ四間道(しけみち)通りは、今でも古い街並みが残っていて、古い家屋を改造した飲食店がひっそりとしたたたずまいの中に軒を並べていました。

名古屋駅前の飲食店とは異なる、大人の店です。

少し歩くと、目の前に駅前の高層ビルが望めました。

 

 


諏訪振興組合総会開催

2015年05月29日 | 諏訪商店街振興組合のこと

平成27年5月28日午前10時30分 四日市シティホテルに於いて四日市諏訪商店街振興組合 第40回定期総会が開催されました。

小林ひろつぐ市議会議員のあいさつ。事務のYさんに御願いして 撮っていただきました

3階茜の間から4階三滝の間に移り、懇親会。樋口龍馬市議会議員のあいさつです。

今回は冒頭に鹿島建設によるスワセントラルパーキング耐震診断の結果が報告され、引き続き耐震工事の設計に移ります。

そして、サンシ前罹災地の策定事業が始まります。今年度は大切な年になります。


“稼ぐまちが地方を変える”

2015年05月19日 | おいらの商店街

目からうろこの一冊です。西村さん紹介のフェイスブック“東洋経済”に掲載の本“稼ぐまちが地方を変える”木下斉著 NHK出版新書

補助金を充てにした街づくりは成功し難い!数人のスタッフで、小さな事業を起こす。それなら失敗しても大きな傷にならない。補助金の縛りがないから修正がきく。利益を出すことは民間であれば当然だし、生み出された利益は次の事業にまわせる。

まちを変える10の覚悟として、木下氏はこのように挙げています。

1、行政に頼らない

  そこに住む人たちが自ら動き、改善していくまちは住みやすく、栄えていく。

2、自ら労働力か資金を出す

  人任せのまちづくりではなく、資金を出すか、でなければ労働力で参加する。

3、「活動」ではなく「事業」としてやる

  補助金を求めるのは本末転倒。利益を追求した事業として取り組む

4、論理的に考える

  事業は思い付きではなく、自分で描いた「論理」が必要

5、リスクを負う覚悟を持つ

  自分で考える力とリスクを負う覚悟がないと、現場の困難に立ち向かえない

6、「みんな病」から脱却する

  みんなでやろうとするから、無責任、意見がまとまらない、ムダな時間が経つ。自分から始める。

7、「楽しさ」と利益の両立を

  続ける条件は、楽しいことと儲かること

8、「入れて、まわして、絞る」

  地域外から人や財を入れ、地域内取引で回して、地域から出ていく人や財を絞る

9、再投資でまち全体に利益を

  生み出された資金は再投資して地域で回す まちづくりは金儲けの手段ではない

10、10年後を見通せ

  1年先ではなく10年後の繁栄を描いて行動を


“イオン東員”と“百日紅”

2015年05月15日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

杉浦日向子さんの映画“百日紅”を観に行きました。“百日紅”や“百物語”は大好きな漫画で、何度も読ませていただいています。

さて、映画化されると知ってはじめてイオン東員まで出かけました。意外と早く行けたのにはびっくり。途中には、1号館やマックスバリューがあり、中心商店街へ出かけるには、いくつかの関所を通らなければなりません。東員の飲食スペースは1階と3階に広くとってあります。物販は広さに指定があり出店料が大変だと思われます。従って、“売らん哉”の気持ちが伝わってきます。街は違った切り口で対抗しなければなりません。

映画“百日紅”の感想は、敢えて映画化することもなかったと思いました。これは杉浦さんの世界です。大きな画面に、江戸の風景を大きくとらえたところであまり意味はないと感じました。たとえば、杉浦さんの描いた真っ黒なスペース。この闇は、北斎が見放した盲目の末娘“お猶”を見舞うシーンにも描かれています。一旦尼寺に預けられていたのですが脚気のため後妻“こと”の家に帰され床に就いています。父親の気配を知った“お猶”は両手を上げて北斎の顔の感触を確かめます。ここに広がる暗い闇には、二人の思いが無言のうちに描かれています。映画では及びませんでした。

北斎の仕事場。居候は未来の英泉

江戸時代の人々の世界は、歩いて行ける範囲でした。狭い地域で四季の風情を感じ、人と人との交流がありました。

以前“まち歩きをしかける”で述べましたが、現代は情報化がすすみました。しかし、それはマスメディアによって一方的に押し付けられた世界であり、情報を得たような気がしていても、私たちの思いとは関係なく、勝手に超スピードですすんでいます。

隣近所が世界のすべてであった時代(昭和30年代以前)を知っている団塊の世代以上の人々は、自分の足で歩ける世界、触れる事の出来る世界を見直すようになりました。“まち歩き”の人気の秘密がここにあるのではないでしょうか。

A!また コノハゲガ ナマイキナコトヲ・・・・・・


“西アサヒ”と云うお店に行ってミタ

2015年05月13日 | おいらの商店街

本日、石崎 均先生と名古屋の経産局へ出かけました。サンシ前罹災地の1階部分に関して、青山里会様は、商店街とのコラボで、街の活性化に繋がるような施設を配置したいということで、採算性よりも福祉事業に力を入れたい意向を確認し、国の補助事業“地域商業自立促進事業”が使えないかの問い合わせに出向いた次第です。

26年度2次募集の枠がほとんどないとか、商店街活性化の成果がかなり厳しく問われます(申請の50%の達成率)とか、かなりキツイお話を伺ってまいりました。

話の中で、26年度1次の自立促進事業を受けた事業者の話が出て、それは円頓寺商店街にある。1階が喫茶で、2階を外国人向け宿泊施設にしている店舗があるということでした。

気乗りのしない私を引っ張る様に、石崎先生はタクシーに乗り円頓寺へ向かいました。

円頓寺商店街は、レトロなアーケードがリニューアルされたばかりの昔ながらの商店街でした。お寺を越したところにそのお店はありました。お店の名は 食堂、民宿 西アサヒ。なかなかセンスの良いお店です。

店内の写真を撮らせて頂こうと立ち上がった時、後ろにみえたのは、なんと昨年度の商人塾でお世話になった田尾大介先生でした。

曰く、「ここが商人塾でお話しした、私の店です」。偶然と云えばあまりにも偶然。私の認識不足と云えば・・・不勉強でありました。お許しが出れば、田尾先生とのお付き合いを継続させていただき、サンシ前罹災地再建事業にも、是非お知恵をお借りしたいものでアリマス。

2階の外国人向け宿泊施設。カプセルホテル風ですが、それほど狭くもなく、清潔で居こごちはよさそうでした。1泊3000円

近所にあった地産地消の惣菜兼食堂。

 


お江戸日本橋七つ立ち

2015年05月12日 | おいらの商店街

5月24日開催の“第3回 よっかいちお菓子フェスタ”に向けての準備が、四日市商工会議所さんの奮闘で進められています。

その中の一つに四日市高校美術部の皆さんの製作する絵(3メートル×1.6メートル)の展示があります。南部聡先生の指導のもと描かれているもので、お願いにお邪魔した折は、場を濁す程度であれば良いといった程度でした。

数日前、作品の下絵が送られてきて、そのレベルの高さに驚かされました。

それは、安藤広重“東海道53次”の日本橋を構図に、現代とコラボさせたものでした。

“お江戸日本橋七つ立ち”東海道を下る旅人はここを出発し、十数日をかけて旅をしました。愛知の宮から船に乗り七里の渡しについた旅人は、桑名から四日市宿へ向かいました。四日市宿を越した追分から伊勢神宮へ向かう道を参宮街道と呼ばれ、道行く旅人に腹持ちのよい餅菓子を売る店が多くあったことから“餅街道”とも呼ばれました。

江戸の木造橋が今にあったら・・・思い切った色を使った下絵です。当日の完成品がみられるのが楽しみです。


大川橋蔵という役者

2015年05月11日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

店の横に、昭和30年代の映画ポスターを貼っている。

今回は、東映スター、大川橋蔵を特集した。ウィキペディアから拝借して、説明文も入れてみた。

昭和4年、柳橋の芸子の子として生まれ、生後間もなく歌舞伎役者の小野家の養子となる。

昭和10年、市川男女丸を名乗って初舞台を踏み、六代目尾上菊五郎に認められて、六代目の妻寺島千代の養子となり二代目大川橋蔵を襲名する。

六代目亡き後は菊五郎劇団に属し女形として活躍したが、戦後という新しい時代の中で歌舞伎界の前途に不安を感じていた。このころ、一足先に映画界にデビューしていた市川雷蔵の勧めもあり映画界入りを決意した。

昭和30年、マキノ光雄の誘いで東映に入社、デビュー作「笛吹若武者」で共演した美空ひばりから「トミー」のニックネームをつけられる。東千代之介・中村錦之介・市川雷蔵・大川橋蔵の四人は「ニスケニゾウ」と呼ばれ、昭和30年代の日本映画黄金時代の立役者となっていく。

「若さま侍捕物帳」や「新吾十番勝負」などで活躍したが、昭和30年代後半に東映がヤクザ映画に路線変更すると舞台やテレビに活躍の場を移した。

昭和41年、祇園でなじみの芸子 沢村真理子と結婚、この年からフジテレビで「銭形平次」の放送が開始された。「銭形平次」は、一人の俳優が同じ主人公を演じた1時間ドラマとしては世界最高記録となり、ギネスブックに認定されている。

「銭形平次」の最終回を迎える前年の昭和58年から体調を崩していて、入退院を繰り返しての収録だった。結腸癌が肝臓に転移していて、本人には病名を知らされなかったが、自らの病気を察知していて医師に対し

「大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気を遣い、いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、何故こんな病気になったんですか??」と訴えたという。

昭和59年12月7日死去、享年55歳だった。

意外に薄幸の役者だった。芸子の子として生まれ、芸子を妻にしている。歌舞伎界の恩を背負って映画会に移った。大して不摂生もしていないのに癌に侵され、55歳という短い生涯を閉じた。華やかな芸能界の裏側を垣間見た思いでゴザイマス。

追記

ドウでもいいことなのですが、信号で止まっていたとき、メーターを見たら、走行距離が77777だった。ドウでもいいことです。