花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

貸本屋の時代

2024年08月20日 | レモン色の町

8月17日 GGしにあさんに 第10回をアップしていただいた。辻さんは子供好きである。諏訪のまちに集まる子供たちの姿を、たくさんの写真に残して行かれた。

(5) 「写真で見る昭和30年代四日市/当時の子供達/四日市を掘り起こし/第10回」 - YouTube

戦後の団塊の世代にとって、映画と漫画は娯楽の中では重要な位置を占めていた。

昭和20年代後期から「少年」「おもしろぶっく」などの月刊誌が隆盛を極める昭和30年代中期までは、貸本屋の時代があった。記憶する貸本屋は中部西小学校の校門から西へ、斜めの狭い路地にあった。昭和43年のゼンリン地図を見ると、川市さんの店舗になっていて貸本屋は無くなっている。

姉にたのまれて、マンガの本を返しに行った。浜田小学校の生徒だった私にとって、中部西小学校は校区外の土地だったから、すごく遠いところと感じられた。

もう1軒、これは浜田小学校の校門前にあった。43年の地図には“エス書房”とあった。佐藤さんが経営者ということになる。ここへは良く通った。

真ん中の台には赤帽や名札などの学校用品、駄菓子などが陳列してあり、まわりに貸本の棚があった。どんな本を借りて読んだかあまり記憶にないが、白土三平の“影丸伝”は首が飛んだり腕が落とされたりして、これは大人のマンガだなぁと思った。“影”や“街”の探偵もの短編集、前谷惟光の“ロボット三等兵”などが思い浮かぶ。放課後などは、学校帰りの子供で賑わった。

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香具師の啖呵売

2024年08月14日 | レモン色の町

澤宮 優・文 平野恵理子・イラスト『昭和の消えた仕事図鑑』角川ソフィア文庫より

お祭りを盛り上げた“大ジメ師”をご覧になったことがありますか?

香具師(やし)、いわゆる大道商人のことである。香具師にもいろんな種類があって、物を並べて売るのを「三寸(さんずん)」、たたき売りのように口上を並べて売るのを「コロビ」と言う。中でも一番花形でありエース格なのは「大ジメ師」である。「シメ」とは客を集めるという意味で、人を集めて啖呵売りや大道芸を行う。

昭和初期まで、正月になると全国の大ジメ師が集まるコンクールが開かれ芸を競い、そこで金が取るようになると一人前として認められた。

如何に啖呵で客の購買心をあおり、如何に興味を引くか工夫をこらす大ジメ師と、値切る客との駆け引きは縁日の見どころであった。主に大ジメ師が売る商品は、リツ(法律書)、キンケン(統計表)、カリス(まじないの本)、ノウドク(処方、薬草の表)、ミンサイ(催眠術)、バンソロ(算盤熟練方)などである。彼らは天才的な漫談化でもあり、客を笑わせ、泣かせ、感心させ、その日に新聞記事まで向上の材料にして、決してその場から去らせることをしなかったそうです。

諏訪劇場の前にて 辻俊文氏撮影

四日市祭りになると諏訪神社の境内で啖呵売があった。面白くて時間の経つのを忘れて楽しんだ。販売商品は、軟膏が多かったが、時に万年筆もあった。当時万年筆は高級だったが、カバンの中から二束三文のように、束にして掻き出していたことを覚えている。町の子供は、決して買い求めることをしなかった。・・・と思う。

キックトックが楽しい。第4作のシナリオが出来たので参加者に配っている。皆さん喜んで出演していただけるのがうれしい。楽しんで作ることが、街の元気につながる…と思う。

https://www.tiktok.com/@counselor_syotengai?_t=8odJQQM3KJM&_r=1

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街角メッセンジャー

2024年08月13日 | レモン色の町

澤宮 優・文 平野恵理子・イラスト『昭和の消えた仕事図鑑』角川ソフィア文庫より

“街角メッセンジャー”という仕事をご存じだろうか?

終戦直後の昭和20年代の前半、東京の新橋駅前に「よろず承り屋」が誕生した。家庭に電話は普及しておらず、公衆電話もほとんどなかった混迷の時代に、急用で相手に伝言したいとき、承り屋で手紙や伝言を渡すと、自転車で相手方に届けてくれた。この仕事を思いついたのは満州からの引き揚げ者だった。引き揚げ者の戦後の生活は厳しいものだった。開拓団として出国する時は多くの人に万歳!で見送られたが、敗戦となり命からがら帰国しても、多くの人々には、冷たい目で迎えられたのではなかったか?お金もない彼らが生き抜いてゆくためには、知恵をしぼり、誰もやっていない仕事をする必要があった。そんなひっ迫した状況から生まれたのが「街角メッセンジャー」だった。

新橋の「よろず承り屋」には賃借り自転車と机が置かれて、その上には封筒と便せんが置かれていた。公衆電話には人が列をなし、しかも回線が良くなかったので、なかなか相手に通じない。そんな時代をいち早くつかみ、電話代わり、電車代わりに利用されたのが“街角メッセンジャー”だった。料金は、3キロまで10円、2キロ増えるごとに10円増しになった。これで日収40~50円程。昭和24年の米1升の価格が143円だったから、決して良い賃金ではなかった。

メールやラインで簡単につながってしまう現代。必死になって連絡するすべを模索した当時に思いを馳せてみるのも如何でしょうか?言葉を伝えることの大切さを・・・。

只今、ティックトックの第4弾 企画中!世紀の傑作にご期待を!

https://www.tiktok.com/@counselor_syotengai?_t=8odJQQM3KJM&_r=1

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ひろ助ティックトック配信中

2024年08月10日 | ひろ助が巡る花の東海道

前回QRコードでご紹介のひろ助東海道 スマホに出現したQRコードを「どうやって見るんじゃい!」と自己反省いたしまして 下のアドレスをクリックいただけば ご覧いただけるよういたしました。

https://www.tiktok.com/@counselor_syotengai?_t=8odJQQM3KJM&_r=1

昨日も 第3回の撮影会が行われ 好調でございますので ぜひお楽しみください。

ボランティアガイドの村田三郎さんが、中日新聞に掲載されました。

昌栄橋北詰に立つ第1期の三右衛門像(想像図)

稲葉三右衛門

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ひろ助一家初登場!

2024年08月06日 | ひろ助が巡る花の東海道

よしもとのアンダーポイント 本美大さんにお願いして ひろ助一家をこさえていただきました

いいのができました 本美 大さんありがとうございました

お母さんの「おふく」と「ちょろ助」です。どうかよろしくお願い申しあげます。

そして、ティックトック ひろ助商店街の初公開です。乗りにのって第2弾も製作中!ぜひお楽しみください。

 

本日の中日新聞三重版にて 県がレジリエンス教育に力を入れているという記事をみた。

また、カタカナで云うと妙な説得力があると思ってェ。と読んでみたら、世代を超えて納得できると感じました。

レジリエンスとは「心の回復力」とも訳される。傷つかず落ち込まない強さではなく、傷つきながらもしなやかに受け止め、ゴムボールのように跳ね返す力を身に付けることを目指す。

傷つきながらも 柔軟に対応する 不敵さ そうありたいものです

 

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畠山健二著 本所おけら長屋

2024年08月04日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

第9回 辻俊文さんと巡る 諏訪のまち探訪 でございます

「写真で見る近鉄四日市駅とスワ百貨店開業/四日市を掘り起こし/第9回」 (youtube.com)

さて、1カ月ほど前、ふと手にした本 本所おけら長屋 読み始めるとやめられなくなりました。

万造は、文七を無視して、話を続ける。

「剣術で大切なのは、相手の心や動きを読むことだって。だから刀を構えて向き合った二人は、相手の心の動きを探り合う。構えや姿勢から技量を見極め、眼の動きから、それが自信なのか強がりなのかを読み取る。まあ一歩間違えりゃ死ぬことになるんだから、いろんなことを考えるんでしょうけど、しち面倒くせえもんですね。島田の旦那(おけら長屋に住む浪人)にそう言ったら、なんて答えたと思いますか」 文七は何も答えない。

島田鉄斎《だがな、万造さん。一番強い剣客は、相手の心や動きなどは読まない。おのれの心を信じ、正面から正々堂々と打ち込んでくるんだ》

現代に消え去ろうとしている人情噺が、ここでは脈々と生きづいておりやす。たのぴー

やっぱり、おけら長屋では、そんなことになってんだ。どうしてそんなことに首を突っ込みたがるの。人は人、自分は自分でしょ。おせっかいも度を越えると、ありがた迷惑だわ」

万造はにやりと笑って「お満さんよ、それならどうして八五郎さんのことを伝えに来たんだ。てめえじゃ気付いていないようだから教えてやるがな、あんたもそのお節介に片足突っ込んじまってるんだよ」 お染が小さな声で笑う。

「楽しいよ、お節介って。やくのも、やかれるのも。だってその人が好きってことだろ。嫌いな人にお節介なんてやかないからね。だから、あたしたちには、好きな人がいっぱいいるってことさ」

みんなが優しい顔で、お満を見つめた。

現在では、おせっかい は、むしろ迷惑と考えられがちです。けれど、貧乏人どうしが寄り添って生きる長屋では、思いやり、助け合う心が大切にされました。自分を犠牲にして、なんで人の為に尽くすの?いま、問い直されることばです。

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謎の嶋口屋世古道 完結編

2024年07月28日 | レモン色の町

たいじゅさんから 締めくくりにふさわしいコメントを頂戴いたしました

明治43年10月に三重軌道が軌道敷設特許を得た際の初期計画書(命令書、つまり鉄道院の指示による工事方法書)では、「単線軌道の場合に於ては両側人家連担(道路の両側に人家が立ち並んでいる)の場所又は連担すべき場所は国道にでは七間(約12.7m)以上里道では四間(約7.2m)以上」と規定しています。当然、最終的には四日市鉄道との「複線軌道」形状になるので、これはあくまで「初期」の段階の話ですつまり「嶋口屋の世古道」も巻き込む「専用線路」を構築しようとする際には最低で4間以上の軌道用地(幅)が必要だったことが分かります。当時「嶋口屋の世古道」がどの程度の幅だったか不明ですが、現在も残る世古道の幅員であったと考えるのが自然でしょう。であれば、当時の地図情報に書かれた世古道の道幅1670番―2を確保しようと画策した三重軌道側の思惑は十分考えられます。勿論、当時の地権者が三重軌道の一方的な要求に応じられる理由も見当たらず、三重軌道側の世古道を含めた「専用線路」及び諏訪新道への軌道敷設計画が遅かれ早かれ頓挫することは目に見えていた事でもあったでしょう。

青線で引かれた箇所 敷設する場合 里道では四間以上が必要と記されています

そして、あまり話題にも問題にもなっていませんが、三重軌道は用地買収のメドも立っていないのに、この後も諏訪新道への軌道敷設にこだわり続けた(※或いはその変更申請を提出し忘れた)がために、四日市鉄道との「軌道交叉」問題(ダイヤモンドクロッシング)が大正4年後半まで解消しないまま残ってしまい諏訪駅から院線四日市駅までの開通及「四日市合同駅」開業までわずか1キロメートル未満の区間開業に2年以上の期間を要する結果となってしまいます。

大正期の地図では1670番ー2は、今尾商店と鵜野木工所です

この際、三重軌道側の工事遅延を無視して四日市鉄道が専用線路を別途で敷くような計画になっていれば、また違った四日市の未来が出来ていたかもしれません(…勿論、そんな事出来なかったのですが)が、全ては歴史の結果です。

昭和5年では黒喜商店となっています 上部の地図と共に 広告の要素が強い地図です(当店はお金を出さなかったか 弱小商店だったために無視されております ヒガミ)

やっぱり狭い!

この先の世古道の幅は、1600〜2000ミリメートルでございました。熱い真夏のミステリー!

塀の向こうから靴音が聞こえてきます 手前は桑名屋のしろちゃん

わたくしが 幼少の頃から ここ嶋口屋の世古は 多くの人に利用されていました 大正期の頃から 高等女学校や市役所へ通う人々が通ったのです 夕刻 貸本屋で借りてきたマンガを寝転んでみていると 帰路を急ぐ足音と共に北勢堂から音楽が聞こえてきました

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謎の嶋口屋世古道 ②

2024年07月26日 | レモン色の町

嶋口屋角の世古道を 沖の島へ というより諏訪新道へ向かって歩いてみた

現在は、旧東海道を縫うような形で直線に国道1号線が走っている。昭和初期 旧道沿いに諏訪北と南驛があって 嶋口屋世古道は 高等女学校へ通う近道だった。

①当店から嶋口屋世古を東へ 狭い!

②すぐ1号線に出る 狭い!1号線を無視して東へ

③1号線を渡って呉服町へ入る 戦後 諏訪新道と並んで賑わった 現在は道幅が拡幅されているが 大正期は狭かったはずである

④呉服町の突き当り 直角に曲がったところがここ1650番になるのではないか?

⑤左に曲がると諏訪新道へ出る その先 三滝通りを超えて沖の島へ この広い四間道路は明治末期の四大事業で完成した 旧四日市港と諏訪神社を直線で結ぶ道となった

問題の1670番―2は三滝通りあたりか?左下が三重機械の土地 嶋口屋の世古を直線に敷いたその先に1670番―2があった 三重軌道は直線を引いたその先を手に入れたかったのか まるで線路を敷くように

???狭い世古道は 列車の専用道路としか考えられない???そりゃ無理でしょう

 

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謎の嶋口屋世古道

2024年07月24日 | レモン色の町

当店から沖ノ島へ抜ける 通称 嶋口屋世古道。明治44年の地図には

三重軌道予定線から諏訪新道へ伸びるような世古道

赤丸の地点(諏訪新道の何処か?)へ出る。

昭和2年の福田武夫氏の東海道往還にも 沖の島道 として描かれている

たいじゅさん提供

幻となったが 明治42年 三重軌道初期の敷設計画では、四日市鉄道とクロスして諏訪新道から四日市驛へ通す計画があった。(たいじゅさんご指摘)

その申請書には ①阿瀬知川北岸から諏訪新道までを専用線路 ②諏訪新道上を1670-2番まで里道を使用 ③1670-2番から東海道までを線路敷設 となっていて 三重軌道さんは諏訪新道上の1670-2番地にこだわっている。

②の里道使用によると いまだ人家がまばらな四間幅の道路は、電柱を道路外へ立てれば、敷設も可能であるとおっしゃってみえます。但し、世古道は四間もなかったと思われます。そこでたいじゅさんの目を気にしつつ 再び法務局へ出かけた。連日訪れる変な爺さんに、法務局の女性は、複数で対応していただいた。そして1670-2番が何処か分かった!

1670-2番 三重軌道が取得を断念した地点 これによりダイヤモンドクロスは回避され 二社の列車は並行して走ることになった が、なぜこの地点が選ばれたのか?あまりにも世古道を意識していないか?

この地点は何処になるのか?空襲後の世古道をたどってみると

いちょうやさん跡あたりになるのではないかと思われる。

 

 

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軌道用地と鉄道用地 ③

2024年07月22日 | レモン色の町

早速、法務局へ出かけた。たいじゅさんと中村さんに背中を押されて・・・。法務局は民間に委託され以来、対応が良くなった。三重軌道が明治末期に敷設申請をしたとき、室山・八王子から諏訪に至り、そこから神社前を通過して東へ右折、諏訪新道を軌道として国鉄四日市駅まで伸ばす計画があった、と、たいじゅさんに教えてもらった。神社前を伸ばす計画があったか否か?そのあたりを調べるのが今回の資料だった。

左の東海道に橋が架かるカ所が、昭和初期に諏訪駅ができるところ。当店は新田町1489番地だから諏訪神社の敷地内であった。鳥居前から諏訪新道が伸びているのは今も変わらない。白の横線が後に出来る国道1号線である。

一番気になっていたのが、三重軌道が東へ軌道を敷く計画だったルートが、当店から嶋口屋の瀬古を通って沖の島へ抜ける斜めの道かな?と三人(たいじゅさん・中村さん・わたくし)が思ったが、この古地図により、瀬古への三重軌道さんの介入はなかったという結果になった。

補記 :三重軌道さんが、敷設する土地を買いあさっていた明治44年。上記の地図です。よく見ると、既に嶋口屋さんの路地は存在しておりました。解決!

軌道であるから道路の上に線路を敷くことになる。東海道をコッペル社製の機関車が、煙を出して走る風景を、是が非でも見たかったなぁ。

諏訪神社 鳥居南の川のクランクが、宮司さんが描かれた戦前の境内図と一致したので、掲載させていただいた。

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