花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

膝栗毛における四日市宿事件

2024年06月30日 | ひろ助が巡る花の東海道

第6回 辻さんと巡る昭和30年代の諏訪のまち 戦後、諏訪公園の西に広がっていた赤線地帯。そのあたりを中心に 辻さんと歩いてみましたので、ごらんください。

(5) 風俗から見た戦後の諏訪のまち - YouTube

さても、ひろ助さんに、四日市は内部川の橋の上にて、またまた傘を飛ばしていただきました。

弥次さん北さんの東海道中膝栗毛。お二人は四日市宿にもお泊りいただいております。

三重川の土橋を渡ってゆっくりとした坂を下ると四日市宿である。弥次郎兵衛と北八はここでの一泊を決めていた。

「さあどうぞ。うちへお泊り下さい。おーい。お泊り様がおみえじゃ。」

宿場の両側から宿引きが出て袖を引っ張る。引かれて入った宿がまた貧相なつくりで、おまけに相部屋しか空いてない。弥次さんは「かまわねぇ」とあきらめ顔だ。宿の奥まった部屋に居た相客は田舎者の二人連れ。既にくつろいでいて、田舎者のひとりが「お早いお着きでござらっしゃった。」と挨拶をする。さて、女中がお風呂の案内にやってきたので、北八は小声で「今夜はよろしく」とその若い女中に声をかけておいた。懲りないお二人である。

夜も更けて、弥次郎兵衛がふと目を覚ましてあたりを窺うと、行灯はいつしか消えて真っ暗がり。北八を出し抜いてやろうと抜き足差し足で次の間に進出する。かねて聞きおいたとおり、手探りの壁づたい。が、弥次郎があまりに高く手を伸ばしたらしく、吊り棚にこつんと手がつかえる。変な音を響かせたと思ったときは、棚が外れたらしい。

夜這いに忍び込んだ弥次さんは、お女中とコモにくるまれた石の地蔵さんを間違えて大失態!

北八「こいつは大しくじりだ。棚板が外れたらしいぞ。手を離したら棚板が落ちるだろう。どうもガラクタ物がぎょうさん積み上げてある様子だ。こりゃ困ったぁ。」棚から手を放せば大騒ぎになると、襦袢1枚で仁王立ちの弥次さんの処へ、北さんも壁伝いにやってきた。

北八「だれだ、弥次さんか、しかと、弥次さんだな」

弥次「静かに 静かに ここへ来てくれ」

北八「なんだ なんだ どうしたんだ」

弥次「ちょっと これを持ってくれ ここだ ここだ」

北八「どれどれ なにを持つんだ」

北八に棚を持たせたまま弥次郎兵衛は棚を離れてしまった。

「やれやれ なさけない目にあわせる これこれ弥次さん何処へ行く。手がだるいよ どうかしてくだせえ」  つづく

これと全く同じお話が、枝雀の落語「口入屋」にございます。ご紹介は次回へ・・・


膝栗毛における日坂事件の顛末

2024年06月28日 | ひろ助が巡る花の東海道

「四日市とんま大使が乱入!/馬の耳に念仏ダンス/PEEP SHOWさん」 (youtube.com)

さて、日坂事件の顛末です。

すでに夜も8時過ぎ、午後10時。まわりの拍子木の音枕に響き、台所に明日の支度の味噌をする音も止みければ、只 犬の遠吠えのみ聞こえて、もの淋しく更けわたるに、北八は「よし」とそっと起きい出、奥の間を窺えば、行灯消えて真っ暗闇。そろそろと忍び込み、探りまわして、かの巫女(いちこ)の懐へにじり込むと、思いのほか、この巫女の方より物も言わず、北八の手を取って引きずり寄せる。北八は「こいつはありがたい」とそのまま夜着をすっぽり、手枕のころび寝に、仮の契りの込めし後は、二人とも前後も知らず鼻付き合わせてグッと寝入る。(北八ッさん、やっちまった―ッ)

さて、弥次郎兵衛はひと寝入りして目を覚まして起き上がり「もう何時だ知らぬ。手水(ちょうず)に行こう。こりゃ真っ暗で方角が知れぬ」小便に行くふりにて、これも奥の間に這い込み、北八が先を越したとはつゆ知らず、探りによって夜着の上からもたれかかり、暗がりまぎれにかの巫女と思い、北八がムニャムニャ云う唇をねぶり廻しあんぐりと噛みつく。北八肝をつぶして目を覚まし「アイタタタタ」「オヤ北八か」「弥次さんか、エエきたねえ ペッペッ」北八と寝ていた巫女(いちこ)も目を覚まし「コリャハイ おまいちはなんだ。そうぞうしい。しずかになさろ。むすめが目を覚ますに」そういう声は婆(ばばあ)の巫女。北八は二度びっくり。こいつ娘と取り違えたか。いまいましいと這い出て、こそこそと次の間に逃げ帰る。弥次郎も逃げんとするを巫女、手を取って引きずりながら「おまえ、この年寄りを慰んで、いま逃げることはござらぬ」「いや人違いだ。俺ではない」「インネそういやしなますな。わし共は、売淫を商売にしませぬが、旅人衆の夜の添い寝でもして、ちっとばかしの心づけをもらうが世渡り。存分になぐさんで、只逃げるとは厚かましい。夜の明けるまで、わしの懐で寝やしませ」「これは迷惑な。ヤイ北八 北八」「あれ 大きな声を出しますな」「俺は知らぬこと、北八め、とんだ目にあわしやァがる」

巫女(いちこ)ぞと おもうてしのび 北八に 口をよせたる ことぞくやしき 


膝栗毛における日坂(にっさか)事件

2024年06月26日 | ひろ助が巡る花の東海道

1802年、十返舎一九の書いた“東海道中膝栗毛”は当時はやり出した旅行ブームに乗って大ベストセラーとなりました。ここに日坂のことが掲載されています。ここではとんでもないことが!相変わらずのお二人でした。

袋井

弥次喜多は雨宿りのため、日坂宿のある旅籠に入りました。まだ日が高いので雨が止むのを待って歩きだす予定だったのですが、その宿に女性の団体が泊まると知り、あっさり日坂でその日の旅を打ち切ります。
女性の団体は巫女 (霊媒師) でした。弥次は面白半分で死んだ女房を呼び出してもらいます。
女房との再会で涙ながらに「もっと大切にしてやればよかった」と反省するのですが、その後巫女達と酒を飲み、舌の根も乾かぬうちに若い巫女のところへ夜這いに行こうと画策を始めました。
喜多に「今日ぐらいおとなしくしてたらどうだ。俺に譲れ」とたしなめられるものの、おとなしく言うことを聞くような弥次ではありません。

日坂

夜も五ツ (午後八時) を過ぎ、四ツ (十時) に回る夜回りの拍子木の音が枕もとにひびいてくる。台所であすの支度に味噌をする音もやみ、犬の遠ぼえだけが聞えてくる。物寂しく静かに雨の夜はふけて行く。時分はよしと北八がそっと起きだし、奥の間をうかがうと、行灯も消えて真暗である。
そろそろと忍びこんで探りまわし、巫女の夜着の中にすべりこむ。すると思いがけなく、この巫女の方から無言のまま北八の手を取って引っぱり寄せた。北八はこれはありがたいと、そのまま夜着をすっぽりかぶって手枕のころび寝に仮のちぎりをかわした後は、二人とも前後不覚に鼻をつきあわせて寝入ってしまった。

巫女と思っていたのはとんでもないおばあさんだったというオチを読んだつもりで、ウエブサイトを手繰りなおしておりましたが、発見できませんでした。伊馬春部訳の“東海道中膝栗毛”にて その顛末を調べてみることにいたします。つづく

掛川


ひろ助と日坂(にっさか) 小夜の中山

2024年06月23日 | ひろ助が巡る花の東海道

「ありゃりゃ!」峠の途中でひろ助は驚きました。まるで坂道を転がり落ちてきたように、大きな石が道の真ん中に座り込んでいます。石には“南無阿弥陀仏”の字が彫られていました。親子連れの旅人もこの石を見てびっくり仰天です。

歌川広重“東海道五十三次 日坂”

ここは、静岡は掛川の日坂(正 にっさか:誤 ひさかと読んでおました)宿と金谷宿の間にある小夜(さよ)の中山峠。夜でも暗い急な坂道の難所です。

その昔、久延寺に安産祈願にきた妊婦が山賊に襲われ殺されてしまいました。死に際に母親は、お腹の赤ん坊を助けるため、かたわらの石にのり移って泣いたということです。悲しいお話ですね。

泣き声に気づいた久遠寺のお坊さんに拾われた赤ん坊は、お乳の代わりに水飴を与えられ、大事に育てられました。そしてその子供は立派に成長し、母の仇を討ったと云われています。

水あめのようです 子育て飴

学芸員・栄養士:大森久美さん

浮世絵と名物 小夜の中山の伝説で味わう「子育飴」 - ippin(イッピン) (gnavi.co.jp)

よしもとアンダーポイントの本美 大さんから、第二作が届きました。ありがとうございました。ここにも四日市の廻船問屋 稲葉家の九番番頭“ひろ助”が登場しております。

ひろ助曰く「なんじゃこりゃ」旅の親子も驚きです。


オッペンハイマー氏の涙

2024年06月21日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

2016年5月27日、現職大統領として初めて広島を訪れたバラク・オバマ前大統領は、広島市平和記念講演でこう演説した。

71年前、雲ひとつない明るい朝、死が空から降り落ち、世界は変わった。閃光と炎の壁は都市を破壊し、人類が自らを破壊するすべを手に入れたことを実証した。

昨日のニュースを見ていたら、オッペンハイマー氏が アメリカで原爆被爆者とあった時、「ごめんなさい ごめんなさい ごめんなさい」と涙を流して話した、その記録映像が発見されたという。

オッペンハイマー “涙流し謝った” 通訳証言の映像見つかる 1964年 被爆者と米で面会 | NHK | 原爆

懲りない人間は、いまも殺し合いを続けています。大ばかものです!


拳銃無宿

2024年06月17日 | レモン色の町

昭和33年から34年にかけて映画から沸き起こった西部劇ブームは、ようやく普及を始めたテレビジョンにも波及した。昭和33年9月から始まった『モーガン警部』(日本テレビ)。これは、まだ家にテレビは来てなかったので記憶にない。そして『スパイ大作戦』。声優は若山弦蔵だ。34年にはマスクをつけた『ローンレンジャー』。またがる愛馬はシルバー!そして昭和36年になると西部劇はピークを迎える。

昭和36年時点で放送されていたテレビ西部劇は

ボナンザ(カートライト兄弟)・ブロンコ・アウトロー・ローンレンジャー・西部の対決・ライフルマン・サーカス西部を行く・ガンスモーク・マーベリック・レストレスガン・ララミー牧場・胸に輝く銀の星・誇り高き男たち・西部の男バラディン・保安官ワイアットアープ・スミスという男・ウエスターン特急・拳銃無宿・ローハイド・怪傑ゾロ・幌馬車隊・ブロークンアロー とほぼ毎日西部劇がテレビの画面を賑わしていた。

参考までにこの年公開された西部劇映画は

シマロン・アラスカ魂・ダッジシティ・燃える平原児・セブンセントの決闘・荒野の七人・馬上の二人・四人の無頼漢・あばずれ西部魂・戦いの太鼓・片目のジャック・ララミー砦・賞金を追う男・テキサスレンジャー・荒野の待ち伏せ・拳銃でいこうぜ・ガンファイター・早打ち無宿・赤い谷・独立騎兵隊・絞首台の決闘・あらくれ五人拳銃・コマンチェロ

『拳銃無宿』の主人公スティーブ・マックィーン演じるジョッシュ・ランダルは、ウィンチェスター銃の銃身を短く切り、ハンドル部分を大きくしたカスタム銃を愛用していた。『ライフルマン』ではチャック・コナーズが、銃身の長いライフルを、ハンドガンのように片手でクルッと回転させた。真似できるものだは(訂正:では)なかったが。

今見ると 誤射が恐ろしい

そして昭和40年近くになってデリンジャー銃というものを知った。手に入る小さな銃で、近距離でしか使えないが二発撃てる代物だった。早速プラモデルを買い求めた記憶がある。

やがて西部劇も形を変えていく。『ダンスウイルウルブス』では一方的に悪だったインディアンもそうではなくなり、OK牧場で決闘したワイアットワープも家族共々警察に追われる立場となっていった(ケビン・コスナーの映画『ワイアット・アープ』)。


ジョージ・ソーンダーズ氏の名スピーチ

2024年06月14日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

“人生で大切なたった一つのこと”等で著名な、アメリカの作家 ジョージ・ソーンダーズ。2013年5月11日、アメリカ・シラキュース大学卒業式で、多くの聴衆に共感を呼んだスピーチ。

『私が人生で最も後悔しているのは、優しくなりきれなかったことだ。』

彼が中学1年生の時転校してきたひとりの少女。シャイだった彼女は、すぐいじめの標的になる。その時、ジョージ少年は、いじめる側ではなかったものの、傷ついた彼女にやさしくすることができなかった。このことを人生最大の後悔であると回想し、「あらゆる野心のあることに挑戦し、失敗して、様々な人と関わり“どうすればもっと優しくなれるのか”という難題に立ち向かおう。」と聴衆に訴え、多くの共感と感動を与えた。

優しく、思いやる意志をもって人に接することは、人に感動を与えることができるのですね。


四日市鉄道唱歌

2024年06月12日 | レモン色の町

今日は、川島(訂正:神崎)のHさんの宅へ赴き、『四日市鉄道唱歌』なる貴重な曲を教えていただいたので紹介する。この歌は、戦後しばらくの間、田植え時期等にでも歌われていたということであった。

大正期の四日市鉄道

日露戦争後、帝国日本の鉄道は第一次大戦期の重工業化と国際化によって黄金期を迎えた。明治42年2月 桂太郎内閣は,地方交通の発展をはかるため、軽便鉄道法(けいべんてつどうほう)を帝国議会に提出、明治43年8月から施行した。これに手を挙げたのが、湯の山に本社を持つ“四日市軌道”だった。“軌道”つまり、道路の上でも敷設可能な狭軌の小型車両を、湯の山から四日市迄敷くことで、観光客を運び、菰野の産品も輸送しようというものだった。その後、四日市軌道は、専用路線のみの運行となり“四日市鉄道”と改名される(と、ここまで調子よく書いたが、間違っているかもしれない。乞う、訂正)。たいじゅさんに追記いただきました コメント欄をご覧クサい

大正期 四日市鉄道のコッペル車?

湯の山から始められた工事は川島まで伸ばされた。その当時、川島小学校の校長であった“伊藤鉄太郎”氏は、鉄道開通の喜びを唱歌として残されていた。川島小学校では戦後まで盛んに歌われたようだ。作曲:田村虎蔵

大正5年3月三重軌道との合同駅

1.清き流れの川島に なごり残して行く汽車の

 右は紡績会社にて 左の丘はふじ山よ

2.坂の島なる一つ松 続く青葉の景色よく

 眺むる暇もあらばこそ 早くも高角停留所

3.左に見ゆるは松茸の その名も高く聞こえたる

 一生吹山のこの秋は 友とうつれ遊ばなん

4.語ろう中に桜駅 桜の花の名所なる

 地蔵堂をば上に見て 金渓川に出てにける

5.金渓川の鉄橋を 渡れば神森の停留所

 藤の花咲く盛りには 下車する人も多からん

6.行く手にみえし松並木 いつしか我を迎えたり

 土方氏の城下にて 栄えし昔ぞしのばるる

7.昔に優る繁華にて 今や日の出の東町

 あれよと指さす稲の間に 汽車は止まれり菰野駅

8.城跡過ぎれば中菰野 関取米の原産地

 下りても見よや五色の 養蜂場の美しさ

9.冠ヶ岳(かんむりがたけ)に御在所 いよいよ近くなりにけり

 やがて登らん白雲の かかれる峠のあたりまで

10.地蔵片倉うち過ぎて 早わが汽車は終点地

   湯の山駅に着きにけり しばし憩いて登山せん

※ 神崎のHさんにお聞きした 四日市鉄道唱歌。大きな反響を?いただきました。翌日、Hさん(平尾さんと申します)からお礼の電話をいただきました。大変恐縮しております。うれしい限りです。