花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

“幻のパール劇場”

2017年03月25日 | 諏訪商店街振興組合のこと

昭和61年12月24日、元新町に『パールシネマ』と『プラザシネマ』が開館した。伊勢市のパール劇場のオーナーで志摩半島出身の松井克己の経営による。ひとつの建物に複数の劇場を収容するシネコン形式(二館とも椅子席100)パールは「アナザー・カントリー」。プラザは成人映画でスタートしたが、63年6月15日、わずか2年半の短期間であっさり廃館してしまった。    久保 仁著“ローカル映画館史”より

先日の“懐かしの映画館巡り”で、元新町のパール劇場跡前(現在は、ライオンズマンション元新町 竣工平成2年)に立った時、議論百出した。(少し大げさか?)まさに2年少しの寿命であったため、「本当にあったのか?」「もっと以前ではなかったのか?」等の意見が出た。明治の頃、このあたりは職人町で、製材所跡に映画館が建った。昭和61年晦日、“アナザー・カントリー”が上映されたとある。この映画は1984年のアメリカ映画で日本公開は1985年(昭和60年)8月1日とあった。地方上映だから少し遅れて、公開のタイミングは合っている。

そして63年閉館。速やかにマンション建設に取り掛かって、平成2年にマンションが竣工となった。今や幻の“四日市パール劇場”である。


懐かしの映画館巡り 2

2017年03月23日 | 諏訪商店街振興組合のこと

本日は、懐かしの映画館巡り 2が行われました。総合会館前に20名ほどの方が集合、の後、日活、宝塚、まぼろしのパール劇場、本町の東宝劇場、ロマン座跡、そして、四日市劇場跡駐車場と巡ってきました。第一部は昨年3月でした。以来1年が経過し、今年は、1号線から東側の映画館跡巡りになりました。昭和30年代、山っ気のある旧海軍燃料廠の人々が集まって三重劇やロマン座を建てたり、港湾関係者が海山道に東宝系の劇場を造ったり(この建物は1年で閉鎖、解体され、建物のみ国鉄前の三和商店街に移築される)して、当時、映画館づくりは投資さえすれば稼げる、おいしい商売でした。

ところが、昭和40年、50年代と移り、レジャーの嗜好も変わって映画産業は衰退に向かいました。昭和61年にパール劇場が出来たのはホンマ?ということで、藤井くんと私は、周辺のお宅を聞いて回りました。     第1部オワリ

 


“家族はつらいよ”感想デス

2017年03月21日 | 諏訪商店街振興組合のこと

「家族はつらいよ」を観て         骨まで昭和の男氏より

 これは小津さんの東京物語のオマージュというより 東京の 最近は珍しくないよくある 三世代同居のドタバタを 山田監督なりに描いたコメディという どちらかと云えば軽いタッチの映画で 長男、次男やその妻が いい演技を見せていた感じがします。

まあ話もまとまり良く 吉行和子の妻の突然の離婚通告はビックリです。気をつけねばと我が身を振り返り教えられること多しです。いろいろなジャンルに挑戦している山田監督には頭が下がります。年齢はいくつになられるのでしょう。まだまだ私も頑張らねばと励まされます。

FAXでの感想、有難うございました。山田洋次監督は85才になられます。小林念持が登場する場面や、鶴瓶の顔が映ったシーンでは、会場から大きな笑いが聞こえました。笑いや感動を皆で共有する大切さ感じます。熟年離婚が増えている昨今、深刻な問題を喜劇に仕上げる山田監督の手腕はたいしたものです。監督の益々のご活躍を祈念いたしております。


最終回「家族はつらいよ」

2017年03月18日 | 諏訪商店街振興組合のこと

昨夜は山田洋次監督の最新作“家族はつらいよ”を鑑賞いたしました。45名の皆さまにお集まりいただきました。事前の雑談会では次年度上映会をするかどうか?上映可能の候補作品を読み上げ、皆様のご希望を話し合いました。

上映予定候補作品は、新 喜びも悲しみも幾年月・楢山節考・丹下左膳 百万両の壺・エデンの東・風と共に去りぬ・カサブランカ・レベッカ・シコふんじゃった・トキワ荘の青春・Shall weダンス・嵐を呼ぶ男・ビルマの竪琴・キューポラのある町・ああ ひめゆりの塔 などが挙げられました。

さて、“家族はつらいよⅡ”が5月27日に一般公開されます。

周造(橋爪功)と富子(吉行和子)との離婚騒動から数年・・・。

周造はマイカーでの気ままな外出をささやかな楽しみにしていたが、車に凹み傷が目立ち始めたことから、高齢者の危険運転を心配した家族は、運転免許を返上することを画策する。しかし、頑固オヤジをいったいだれが説得するのか!?嫌な役回りを兄夫婦でなすりつけ合ううちに、そんな家族の心を見透かした周造は「いつの間に俺の家族は言いたいことも素直に言えなくなってしまったんだ!もう崩壊しているな、この家族は!」と激怒してしまい、平田家はまたもや不穏な空気に包まれていく・・・。だが、家族会議は一転し、事態は思わぬ方向に!なんと、前日に周造が家に泊めていた高校時代の同級生・丸田(小林念侍)が息を引き取っていたのだ!

平穏な住宅街は瞬く間にサイレンとパトランプの喧騒に包まれて、救急隊は来る、警察は来る、そして鰻屋は来るでてんやわんやの大騒ぎに!!果たして平田家は再び平穏な日常を取り戻すことが出来るのか?


“映画館巡り 四日市東宝の巻”

2017年03月13日 | 諏訪商店街振興組合のこと

 

新町にあった「湊座」は、大正3年4月9日新築落慶して関西歌舞伎一座が記念上演した。新町周辺は“湊小路”と呼ばれ市内第一の歓楽街となり、映画の普及とともに繁栄してきた。「湊座」は、昭和17年に東宝直営の「四日市東宝劇場」となり、戦災で焼失するも翌21年3月再開、焼け跡の真ん中の町で実演や、東宝映画を上映して人気を博していた。昭和38年10月に閉館を迎える。

地図の右上に“東宝劇場”とある

 “旧四日市を語る”に湊座のことが書いてあった。

 新町のすずらん通りにあった。前にある小屋で木戸銭を払うと大人小人と書いた木札をもらう。木戸でこの札を渡してはいる。下足番に下駄を渡すと下足札をくれる。こうして畳の桟敷に行く。舞台は額縁式で回り舞台。花道は本・副の二本あり。本格的な芝居小屋であった。西側には茶屋があり、お茶子が忙しく立ち働いていた。拍子木の音で幕が開け閉めされた。

 写真は昭和3年の湊小路。椙山満監修の“四日市の100年”より。

この界隈は四日市一の歓楽街。バーや遊技場が並び、路地の向こうには歌舞伎劇場の湊座があった


“昔日の映画館巡り 四日市劇場の巻”

2017年03月12日 | 諏訪商店街振興組合のこと

 昭和6年、幸町に「泗水キネマ」が開館した。昭和8年、名前を「帝国館」に変えるが経営不振となり、昭和11年名古屋(20世紀フォックス名古屋支社長の水野栄三郎に経営者が変わるが、所有者と経営者との間にトラブルが発生し一時休館となる。昭和16年7月に所有者が変わり(経営者、水野氏側の勝利!)「四日市劇場」と改称、県下一の設備という宣伝での再出発となり、振興キネマ作品の「大都会」「葉隠大名」で開館した。空襲で全焼したが、翌々年には改装オープンしている。

※  “よつげき”または“かまぼこ劇場”の名で親しまれていた。昭和30年代には封切り済みの東映映画を主にした三本立ての二流館だった。小学5年生の頃、大映映画の仁木悦子原作「猫は知っている」を友達と三人で観に出かけた。場内は満席、煙草の煙はもうもうとして休憩時間にはもく拾いのオジサンがうろついていた。三人は後ろ通路の手すりに腰かけ鑑賞していたが、ひとりが「怖いので帰る」と言い出し、しぶしぶ帰路に着いた。


“映画館巡り 日活と宝塚劇場”

2017年03月11日 | 諏訪商店街振興組合のこと

 昭和22年、新田町に800人収容の「ラジオ劇場」が出来た。当時は実演劇場だったが、昭和31年「四日市日活劇場」となり、日活映画専門の上映館として営業が続けられた。やがて映画産業も下降路線をたどり、日活は昭和46年11月ロマンポルノ路線を打ち出す。その後、昭和56年11月、諏訪栄の大鯛ビルに移転。昭和63年7月「ロッポニカ・四日市」に改称された。現在もポルノ映画を上映しており、全国でも“ロッポニカ”と名の付く劇場が残っていることは、珍しいのではなかろうか。

昭和30年代、日活の西側に松竹直営の「四日市松竹劇場」が建つが、昭和41年、三重劇場のスタッフによる経営に変わり洋画専門の「四日市宝塚劇場」に改名、昭和61年8月31日、「ローマの休日」と「陽の当たる場所」の上映で別れを告げた。

四日市松竹(後の宝塚劇場)

※  日活の前、宝塚との間は雨があたらない様に屋根があった。だからいつも暗く屋内といった感じがした。石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」等の青春アクション映画を上映、心酔していた兄がよく出かけていた。昭和30年5月封切りの「緑はるかに」は浅丘ルリ子のデビュー作、カラー作品。姉と観に行った記憶があるのはテーマ曲を覚えているからだ(緑はるかな、地底の朝よ~)。14才の浅丘ルリ子が洞窟から空を眺めたシーンだけが記憶にある。ところが出かけた劇場は三重劇のような気がしてならない。日活の直営館になったのが昭和31年。「緑はるかに」はその前年公開だからその可能性もあるか。

 昭和38年、宝塚劇場でアーサー・ペン監督、パディ・デユークの“奇跡の人”の試写会に出かけた。昭和30年代“四日市日活”と“四日市松竹劇場”は、地主である相葉岩松氏が建てる。40年松竹が撤退。中部興業(東宝系)に移り、41年、三重劇場のスタッフに変わる。ということは松竹の間に試写会が行われたことになる。


”映画館巡り 三重劇・宝塚・ロマン座”

2017年03月08日 | 諏訪商店街振興組合のこと

昭和20年6月18日、四日市市街地は大空襲を受けた。戦後トップを切って塩浜にあった海軍燃料廠の旧軍人グループが、有限会社「三重劇場」を立ち上げた。昭和21年2月18日のことである。このグループはそれから納屋町の「ロマン座」新田町の「四日市宝塚劇場」、津市の「津パール劇場」と映画館経営を広げていった。

※  ワイズ・ミューラーの“ターザン”、アランラッドの“シェーン”、ジョン・ウェインの西部劇、“マイフェアレデイ”等のミュージカルもの等青春の思い出が詰まっている。昭和48年、ブルースリーの“燃えよドラゴン”がヒットするとカンフー映画が次々と公開された。昭和57年“ET”を子供と観に行ったときは、場内溢れるほどの人だった。三重劇場最後の満員御礼だったと想像する。

 


“昔日の映画館巡り”諏訪劇場の巻

2017年03月07日 | 諏訪商店街振興組合のこと

諏訪劇場

 江田町にあった諏訪駅から路地を入ったところに「近畿館」が出来たのは終戦後間もない昭和21年のこと。当初実演興業だったのが、その年の8月29日「キャピタル劇場」と改名して洋画専門館となった。その後23年秋に大改装して「諏訪劇場」となり、娯楽の殿堂として津の「曙座」と1,2位を争う興業収入を上げていた。「諏訪劇場」昭和37年に「四日市東映」となり、昭和43年2月にジャスコ売却するまで続いた。

※  東映時代劇の黄金期を迎えたのは、片岡千恵蔵(大菩薩峠)と市川歌右衛門(旗本退屈男)の時代だった。正月興行になると次郎長一家や忠臣蔵で両巨頭が顔合わせした。その他にも、中村錦之助(宮本武蔵・一心太助)、大川橋蔵(新吾十番勝負)、大友柳太郎(快傑黒頭巾)、東千代之助(鞍馬天狗)、月形龍之介(水戸黄門)、美空ひばり(ひばり捕物帖)ら人気役者が充実していた。町で二つの組が対立している。良い方(?)の組の一人が悪い組につかまりボロボロにされる。これを知った良い組が仕返しに乗り込む。そんなパターンが多かった。