花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

高校時代の富田商店街

2006年01月31日 | レモン色の町
2月5日(日)午前11時と午後2時の二回にわたり、諏訪神社で節分豆まきが行なわれる。さてこれから本文。小さい頃、姉に連れられて近鉄富田駅からバスに乗り継ぎ、北山の親戚の家によく遊びに行った。
前でバスを待っていた風景を思い出すが、半世紀も前のことだから、今はすっかり様変わりしてしまっている。踏切から望む駅西の風景は、四日市高校以外一面の田畑だった。その中を、バスは土ぼこりをあげて走った。
30年ほど前のことになる。オイラがこの高校に通っていた頃のことだ。公立ではかなり優秀な学校だったが、成績はケツから数えたほうが早かった。3年生の頃になると富田の商店街にも馴染んだ。もっぱら食する場所である。行き着けは四軒あった。
田駅前の小さな食堂は、東改札口の隅にあった。駅の公衆トイレがすぐ前だったので、いつもあたりには臭気が充満していた。そのため、入り口の戸はしっかり閉ざされていて、冷房が完備していた。きちんとしたメニューで、多分、土曜日の昼などにカツ丼を食べたと思う。先生などもよく利用していて、わりに小ぎれいだった。
う一軒は、駅前商店街の通りにある、富士ヤというお好み焼き屋だった。一軒の店舗を二つに仕切り、それぞれが細長い店で食堂とお好み屋をやっていた。今でも精肉店・キッチンとして健在だ。ここは生徒の放課後のたまり場で、女生徒のほうがよく利用していた。テーブルは別々だが、男子は女子連中を気にしながらお好み焼きを焼く、楽しい場所だった。
店街通りを東へ進み、右に曲がったところにある、うどんの別久さんは現在でも営業中だ。格子のあるのしもた屋風で、地元の人しか気づかないような店構えだ。オイラはここでカレーうどんのうまさを初めて知った。数回ほどしか入った覚えがないが、決まってカレーうどんだった。
と一軒の場所がはっきりしない。そこは小さなおでん屋だった。ここも一見して普通の古い家で、入ると小さなテーブルにおでんが煮えていた。取り囲むように椅子が六脚ほどある。夜の居酒屋が主な商売だったのだろう。学生のオイラには異様な雰囲気に思えた。おばさんが初めに出てきて皿を出し、後はいなくなった。よく見ると、串に色が付いていて、最後に色と本数で勘定をしてくれた。多分、カバンに串を入れて持って帰ったら分からなかったろう。
徒が多かったから、放課後になると富田の町は学生があちこちでたむろって居た。
い出したが、期末試験が終わり四日市で映画を見た。駅前の四日市シネマで「輪舞」という洋画をやっていた。男女が好き同士になり、次にそのどちらかが別の相手と好き同士になる。その繰り返しで四つほどの物語がつながっていた。
ットシーンもある少しエッチな映画で、劇場内を見ると三分の二ほどが高校生だった。女生徒も多かった。観ていた叔父さんが大きな声で「こんな映画、高校生に見せてもええんかよ」と騒いでいた。成人向き映画ではなかった。

おかしな男 渥美清

2006年01月27日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
「おかしな男 渥美清」小林信彦著(新潮社)図書館の本です。1970年の正月映画、第3作「男はつらいよフーテンの寅」は湯の山温泉でロケが行われた。
の山温泉の旅館で寅次郎が働いているのを、旅行に来ていた、おいちゃん夫婦に見つかってしまう。寅は旅館のおかみ、新珠三千代にひそかに恋心を抱いていて、そこで働いている。僧兵祭りのシーンもあり温泉街の様子がよく出ていた。
か近くの諏訪神社前でもロケが行われた。このロケシーンはカットされたが「寅さ~ん!」と声をかけても、渥美清は見向きもしなかった。なんて愛想のない奴だ、という声を聞いた記憶がある。
美清は本名田所靖男との住み分けをはっきりさせていた。演じている車寅次郎に、田所靖男を見せることはなかった。小林信彦は渥美清と交流があり、その辺を詳しくこの本で書いている。
き人の篠原靖治の文章が出ていた。37作「幸福の青い鳥」で萩市のロケのときだ。本番前のテスト中に暴走族風の若者が近くで騒いでいる。注意しても聞かない。そこに渥美清が出てきた。少し離れたところから「ちょっと来い」といった手招きをして、
「お兄ちゃん、なっ、すぐ終わるからさ。ちょっと待っててくれないかい」
一瞬驚いた様子を見せたが、騒ぎをやめようとはしない。すると、おもむろに近寄り、彼らを見据えると、さっきよりも低い声で
「なぁ、お兄ちゃん、話せばわかるんだから、なっ、すぐ終わるしさ」
原は、その瞬間若者たちがビクッとしたのがわかったと書いている。その隙を見逃さず、
「あっ、そうかい、向こうへ行くのかい。じゃ、そこを通してあげておくれ」
こうして外へ追い出した。
1988年長野県 小諸市「寅次郎サラダ記念日」でのロケのときだ。ロケ現場に通行の邪魔だと、ツッパリ風の高校生が文句を言いに来た。ロケ班も本番前で緊張している。そのとき、渥美清は手招きした。高校生たちは吸い寄せられる。
「オレにもお前たちと同じ血が流れている。気持ちは分からないじゃない。その薄いカバンじゃ、教科書は入っていないだろう。今はいいけど、高校卒業したら、ちょっとはまじめになれよ」
緊張した様子でお辞儀をすると、高校生たちは逃げるように立ち去った。
まりにもサマになっている。田所靖男の若い頃の苦労時代に積み上げてきた稼業体験が垣間みえるようで興味深い。映画で見せる莫迦の寅さんが凄んだことに高校生たちは驚いたのだろう。
の凄さはちょっと真似が出来ない。寅さんが逝って10年近く経つ。

武兵衛 貧血で倒れる!

2006年01月24日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
昨日は、わが表参道スワマエの新年会だった。集まったのは9名。まあ、そんなもんか
事の後、いつものカラオケ美鈴さんに向かった。一応定番の「ウルトラマンレオ」と「戦えウルトラマンレオ」は歌わせていただいたが、いまひとつ乗れない。松永さんがしきりに「元気がない」と心配してくれる(余計なお世話か)。
はこの月曜日、商蓮総代会の後に家で貧血を起こしてしまった。早めに家に帰り、テレビを観ていたがどうも気分が悪い。便意をもようしてきた。排便すればすっきりするかとしばらく座っていたが、屁しか出ない。顔から血の気が引いて冷や汗が出る。トイレから出て居間の戸を開けようとしたが、取っ手が見えない。そのまま座り込んでしまった。
20分ほど横になっていたらおさまった。おっかぁがしきりに心配する。オイラの心配ではなく自分の心配をしているのがミエミエだ。翌朝、早速かかりつけの医者に行き、女先生に血を取ってもらって検査結果を待つことになった。
果を聞くのが今日だった。名前を呼ばれ、恐る恐る先生の診断を聞きに診察室に入った。年末から正月に掛けて不摂生の連続だった。酒と、焼酎の日々だった。体重も増えている。一ヶ月禁酒か、と覚悟を決めた。
ころが、血液検査の結果はよかった。朝食直後の採血だったので血糖値は高いが、他はいたって正常だった。こうして悪くなるまで不摂生が続くのかと、内心ほくそ笑んだ。貧血は、酒とタバコが影響したようだ。
は後頭部がしびれたような感じがしていたので、脳梗塞かと心配していたが、どうやら肩こりから来ているらしい。もっと運動しなさいと水泳を勧められた。あ~家にプールでもあれば、毎日でも泳ぐのに。おっかぁ穴掘ってプール造ってくれ。それが嫌ならオイラを穴に埋めてくれ。
とまず貧血騒動は治まったが、いずれ、悪いといわれる日が来るのだろう。それまでのつかの間は、酒と、焼酎の日々だ。

憎むべき電話

2006年01月23日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
電話があった。
「NTTの者です。最近よく迷惑電話がかかってきませんか?」
切なお電話だ。
「ハイ。実は先物取引とかの電話がかかってきて、困ってるんです」
「週に一度くらい来ますか?」
「一度では済まないですよ。社長はお見えですかと聞かれるんで、そのときはおりませんといって電話を切るんです」
「そのような迷惑電話の苦情があまり多いので、防止システムがあるのです。よろしければご説明にうかがいますので、ご都合の良い時間帯をお知らせください」
が胡散臭くなってきた。ところで、そのシステムはお金が掛かるのですか?と尋ねると、有料ですときたもんだ。つまり迷惑電話防止システムの売り込みか?
んじゃそれは。お宅も迷惑電話の一味か?
そういうと怒るか?
無料の話なら乗るが、金はびた一文だせねぇぞ。

前こわもての叔父さんから、青少年育成のための何とかで、本を買えといってきた。いい加減な返事をしていたら、声が大きくなってきた。正直びびった。最後は「どうもすみません」といって電話を切った。何であやまらんならんのじゃ。
、店が休みの日に、家で酒を飲んで居眠っていたら電話があった。内容は忘れた。これもいい加減な返事をしていたら。名前を尋ねられた。わたしゃ泥棒ですと返事をして電話を切った。折り返し電話が掛かってきた。「いい加減な気持ちで電話しているのと違う」というお言葉。言い合いをしてもつまらないので軽くあやまって切った。

なんであやまらんならんのや!   っとぉ
気の弱いものは損である。

る日「社長みえますか?」と電話が掛かってきたので、「留守です」といって切ろうとしたら取引先の問屋だった。
とかくこの世は住みにくい。

鵜の森神社界隈

2006年01月21日 | レモン色の町
お客様のところに伺った。静寂が気まずいので、奥さんといろんな話をしながらの作業となる。(写真は昭和32年頃の駅東口の様子・辻俊文さん提供)
の缶詰が積んであるので、猫の話をする。1匹飼って居るそうだ。オイラの家には6匹の猫が居る。野良に餌をやるうち、居ついてしまった。「そんなに街で飼えるのですか?」とお聞きするので「家は鵜の森にあります」と答えると、加藤さん(高齢なのです)は昔、鵜の森神社の北側にお住まいだったとの返事。
の森にはオイラが小学校の頃の同級生が住んでいた。加藤さんはN君のことを良く知っていた。すぐ前に住んでいたということだ。懐かしさがこみ上げて話が弾む。3軒隣のM君のことも良く知ってみえた。
んと、浜田小学校3年の担任の先生が、加藤さんの妹の旦那になっているということだ。たまに街で見かけるが、いまや70歳代。高齢だが昔とちっとも変わらないと褒めると、いいえあれは鬘(かつら)ですよと返事が返ってきた。
和30年頃、駅裏には田畑が広がっていた。田んぼの中に工業高校と天理教の建物が建つ。駅裏の川は産業廃棄物のにおいがしていた。そこに場外馬券売り場が出来て開催時には賑わっていた。現在のキクチメガネの付近だ。
鉄四日市駅が出来た頃、馬券売り場のすぐ横に地下道が出来た。珍しいのでよく行った。声が反響するので面白かった。加藤さんは、夜になると真っ暗で気味が悪いので、駅前に出るため切符を買って駅の構内を通ったそうだ。駅の西口はあまり記憶にない。ぬかるみの広場に小さな改札口があった。
裏には、連れ込み旅館が点在していた。駅前の飲食街に対して、駅裏の閑静な場所は好条件だったのだろう。加藤さんは風紀が悪いので二束三文で家を売り払い、今のところに引っ越したということだ。
れ込み宿は、一見普通の家だが地味な看板が揚がっていて、アベックが休憩できるようになっている。ラブホテルの前身である。規模が小さいのでお得意さんで持っていたのだろう。知り合いの叔父さんがよく浮気に利用していた。
の森神社の公園ではよく遊んだ。神社横の細い石段を出ると景色が広がって、広場になっていた。そこで、かくれんぼをした。見つかって出てきた友達が全身引っ付き虫だらけになっていた。皆で取ったが取りきれないので、そのまま帰ってもらった。このあたりはいつも大勢の子供たちで賑わっていた。
こにローラースケート場があった。お金が要るので、たまに入った。お尻にできものが出来ていたとき、尻餅をついて飛び上がった。家に帰って覗いてみたら、ぺちゃんこで跡形もなかった。
社裏から南にかけての公園では、暗くなって大人に注意されるまでよく遊んだ。ローラースケート場は、その後テニス場になったが、利用者が限られるということで今は公園の一部になっている。
の森神社あたりも様変わりした。神社から南を望むと一面黄色の菜畑に霞がかかって、何も見えなかった記憶がある。

四日市商店連合会総代会開催

2006年01月20日 | 四日市商店連合会です

18日午後6時より、恒例の四日市商店連合会新年総代会がシティホテルで開かれました。
回の出席者は約40名。昨年並みというところですが、昔を思うと規模は縮小気味というところでございましょうか。今回は、なんと岡田卓也氏が出席されました。なぜ???というところで、いろいろ憶測もございましょう。
挨拶には結構なお言葉を頂戴いたしました。四日市商店連合会発足当時の懐かしいお話から始められました。この地方で成功している、伊勢のおかげ横丁・彦根や長浜・倉敷の例を挙げ、これらは、観光化により広域のお客様を呼ぶところが大きいこと。小売で独自の工夫をして活発なのは和菓子屋・花屋・自転車屋。これからはネット販売も拡大するであろう。いまや小売業は大きな転換期に入っており、大変なのは大きい企業も小さい商店も関係はない、これをビジネスチャンスと捕らえて、違った形での小売業を工夫していって欲しいといったお言葉でございました。
前、ジャスコ関係者の方から、卓也氏が地方のジャスコをみて回っていても、四日市の街に立ち寄ることはなかった、とお聞きしたことがあります。駅前ジャスコも撤退して日が経ち、ご子息さんのことを思ってか、久しぶりに出席されることになったのかなとも推測されます。何せ大物でございます。気軽なお気持ちで出られたのかも知れません。
也様ご出席のおかげで商連総代会は、ぐっと引き締まった次第でございました。

振興組合新年会開催のこと

2006年01月17日 | 諏訪商店街振興組合のこと
昨日は、四日市諏訪商店街振興組合の新年会が「さつき」であった。携帯で写真は撮ったが、公表がはばかられる。それもそうだが、パソコンへの取り込み方が分からない。多分専用ケーブルが必要なのだろう。呑み助組と、ノンアルコール組、真面目派と、やや若手派などに分かれて会話は進んだ。
頭、専務よりスワセントラルパーキング天井にアスベストが使用されているかどうかの検査結果が発表された。1階にはアスベストは含まれてなかった。まずこれで一安心だ。1階天井は、問題が出た8年前にやり直した経緯がある。2階より上についてはまだ検査段階だ。1箇所検査結果が出ているが安全範囲内である。検査は続いて行なわれている。
日も早く安全宣言のポスターを張り出したいが、今のところ1階は大丈夫です、というのも変だ。検査が進んで、早く利用者の皆さんに安心していただきたい。
車場の売り上げが下降気味だ。伸ばすためには商店街が再び元気にならなくてはならない。某呑み助さんから辛辣で前向きな意見が出る。振興組合に課せられた課題は大きい。新道東角にマンション建設が着工の運びとなり、1階は店舗に決まったらしい。まずは一安心だ。マンションの住民が休日商店街で憩えるようなそんな街にして行きたい。
崎理事からネットの導入が提案された。三振興組合でインターネットを利用してない組合はここだけだ。中年に近い若手が集まってネット活用の事業に向けての相談が始まった。それぞれが得手を持っている。知識を交換し合ってすばらしいサイトを作っていきたい。まず、新しい年にふさわしい良い意見が出た。
でたく散会となり2時間後、バス停前を通ったら、ベンチで意識朦朧としたT理事に出会った。「さつき」から何処へ行っていたのか。すでに最終バスは出た後だ。ふらふらのT氏をタクシーに乗せる。
日、T理事の奥さんに出会う。「お帰りは遅かったでしょう」と声をかけると「何処に行ってたのか?」と笑っていた。否、怒っていたのかもしれない。

変わった職業 出久根達郎

2006年01月15日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
江戸の町でよく見かけるものを、「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と呼ばれていた。このところ出九根達郎さんにはまっている。図書館で「仕合せまんまる」(中央公論新社)の本を借りてきて読んでいる。
戸の通りのあちこちに犬の糞が目立ったということだ。ずいぶん汚い町だったと思いきや、逆の発想で、通りには犬の糞ぐらいしか見当たらずごみは皆無だったことがうかがえる。
方でも、各街道の脇には、使い古しのワラジを捨てる場所があり、集められて肥料として使われたと読んだことがある。紙くずでも捨てようものなら、さっさと拾う人がいて、即、リサイクルされた。町の通りはすっきりきれいで使い道のない犬の糞ぐらいしか目に付かなかったということか。
てるのはもったいない」という言葉は昭和30年代頃までよく聞かれた。高度成長期の頃から「修理するより買い換えたほうが安く付く」といわれるようになった。今ではやれ分別だとか言って、捨てるにもお金がかかる時代だ。江戸のリサイクル精神が見直されてきている。
戸時代はリサイクルが徹底していた。茶碗が欠けても焼き継ぎする業者がくっつけて再使用した。破れた傘も、油紙として肉屋に収めた。棕櫚箒(しゅろぼうき)は、ほどいて縄にされたり、タワシとして再生した。カマドの灰は染物屋や製糸業者へ、古ろうそくは、溶かして作り直されたり、建具屋のすべりに用いられたりした。すべりには、いったん解けた蝋のほうが喜ばれた。
事だが、30年ほど前まではお仏壇の香炉に入れる灰など売れるはずがなかった。各家庭には火鉢があって、灰は必ずあった。今は灰がりっぱな商品となっている。いったい何で出来ているのだろうかとメーカーに問い合わせたが、企業秘密ということだった。たいした企業秘密だ。
ころで、出九根さんのこの随筆の題は「変わった職業」とある。何のことかと読み進むと、江戸の商いに「耳垢取り」というのがあった。「みみぃ~、あかのそうじ」とか呼んで各戸を回ったのかも。これは大きな声では叫べない、恥ずかしい。
んとなくエロティックな胡散臭さを感じる。当時のご婦人は、耳垢を掃除するときのうっとりとした表情を異性に見せることは恥とした。されば、わたくしめが掃除をして進ぜよう、と回るのはご婦人目当ての男性であったと思われる。それで商売が成り立っていたのだろうか。趣味が実益を兼ねていたのか。
日、ネットを見ていたら「革命的耳垢取り」というのがあった。先がらせん状になっていて「耳垢がごっそり取れます」と出ていた。2~3千円する。高級品は5000円だ。ごっそりという言葉を聞くだけで購買意欲をそそられるが、買わな~い。
の穴には性感帯があるのだろうか?気持ちよくなければ誰も耳糞など掃除しないだろう。危険と隣り合わせだから気持ち良いのか?性感帯があるとすると、公園でお互いの耳に指を突っ込みあって、恍惚とするカップルが居てもよさそうなものだ。
日は朝から、わらを焼く焦げ臭いにおいがする。諏訪神社で恒例の「どんどやき」が行われているからだ。お正月の注連縄やお札を持参する人が商店街を行き交う。今焼かねば、恐れ多いがゴミとして捨てるしかない。

驚愕、新・世界の七不思議

2006年01月11日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

「新・世界の七不思議」鯨 統一郎著(創元推理文庫)で面白い発見があった。この中のストーンヘッジの不思議では、意外にもオイラの街の身近なところに及んでいたので驚かされたのだ。
の本は「邪馬台国はどこですか」の続編で、歴史を覆すような展開を見せていて興味深い。設定は、歴史に興味のある数人の男女が、バーで酒を飲みながらの雑談という形で展開している。この内容が結構、説得力がある。
トーンヘンジは聞いたことがおありでしょう。世界の七不思議のひとつで、イギリス南部の草原に立つ巨大な石の建造物だ。4トンから50トンに及ぶ巨石が、紀元前2800年から1500年の歳月をかけて、原住民のブリテン人の人海戦術によって積み上げられた。オイラは、以前にUFOの着地点だと聞いたことがあったが、まさか・・・
の巨大な石を220キロも離れたところから運んできている。とてつもない人の労力と年月がかかっている。何のために?それは、おそらく祭りごとに使われたのだと想像される。宗教儀式に使用されたとすると、古代ヨーロッパにはどんな神話があるのか?
ルト神話にこんな記述があった。紀元前334年頃、ドナウ川流域沿いのケルト民族は大王と同盟を結んでいた。大王はケルトの勇者に「ケルト民族が最も恐れるものは何か」と尋ねた。するとケルトの勇者は答えた。
れらは人間を恐れぬ。恐れるのはただ、空が頭の上に落ちて気はしないかということだけだ」空が落ちてくる?いったい空から何が落ちてくるのか?落ちてくる空を受け止めようとして、ストーンヘッジを造ったのか?
のバーにはパソコンが置いてあり、ネットの検索でこんな似た項目を見つける。中国の西南地方、布朗(プーラン)俗の神話だ。
を上の方に造ってはみたが、支えるものがないので、いつ落ちてくるか心配である」これもまた、空から落ちてくるものに恐れおののいている。嵐か?UFOか?
して、ここが祭祀を司る場とすると、これに該当するものが日本にもあるという。図の2を見てほしい。ストーンヘンジに通じるアベニューと名づけられた道がある。ここを参道とすると、巨石の部分が神殿にあたる。
の3を良く見て欲しい。この建造物はトリリトン、訳して三石塔と呼ばれている。これが何にみえるか?
本の神社にこのような形のものがあるとすると、それは・・・・・

24時間奮闘記

2006年01月10日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
今日は、パソコンでひどい目にあった。
しいソフトをインストールしようとCDをパソコンに入れた。うまくインストールしないので、時間も無いことだし、改めてやろうといったん終了をクリックした。
ころが一向に消えない。このままでは電源がなくなるので、CDを取り出し、そのまま家に持ち帰りコードをつないでおいた。そのうち消えてくれるだろう。3時間ほどたって覗くと、まだ切れてない。仕方が無いので強制終了させた。
間が経過した。電源を入れてみる。ところが、初めの画面が点いたり消えたりするばかり。頭にきて、再び強制終了。
間が経過した。オイラはほとぼりが冷めたら、気を取り直して正常運転をしてくれるだろうと思った。大体なんでもそうだ。ところが状況は同じ。おまけにピーっという大きな音が鳴り出した。再び強制終了。
ー、修繕に出すか。金と時間がかかる、と途方にくれた。いや、あきらめるな、もう一度やってみるか。と、そのとき気づいた。天命が下った。そんな大げさなもんじゃないか。
ロッピーが入ったままだった。久しぶりに使ったものだから、出すのを忘れていたのだ。痛い虫歯を抜くかのごとく取り出してやった。
った。かわいいパソコンちゃんが、気を取り直して正常運転に励んでくれた。
、これだけのことです。しかし、憎いフロッピーめ。融通の利かぬ奴。パソコンもパソコンだ。なんで、ひとこと・・・・
日、頭に来たので、これだけでおしまいでございます。