花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

男はつらいよ 第25作 寅次郎ハイビスカスの花 特別編

2017年07月28日 | 諏訪商店街振興組合のこと

次回上映は“男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇”です。寅さんとリリーの相合い傘以来の登場です。作品は1980年(昭和55年)8月公開された第25作の特別編です。第15作“寅次郎相合い傘”では、船越英二と旅していたところ、小樽の屋台でばったりリリーと出くわし三人旅が始まります。そして、北海道で喧嘩別れした後、柴又へ帰ってからの“寅のアリア”。「静かに緞帳が上がるよ。そしてリリーの歌がはじまる。リリーの歌は悲しいもんね」。最後、小津監督の“麦秋”を彷彿とさせるさくらの説得。しかし、ふたりの想いとは裏腹な結果となり、リリーは去りました。嵐の夜から5年、沖縄で過労の為倒れたリリーのことを知った寅は、苦手な飛行機に乗って奄美大島へ飛びます。

 

 最初、山田監督から浅丘ルリ子への役の案は、北海道の牧場で働く女性でした。そこで、「私、こんな細いからだをしているんですよ」と答えると、キャバレー回りの売れない歌手リリーに変わっていたそうです。放浪を続ける寅とリリーの相性はよく“男はつらいよ”シリーズで4回を数えるに至りました。第48作“寅次郎紅の花”では、元気のない寅さんでしたが“寅次郎ハイビスカスの花 特別編”では、リリーとの掛け合いが楽しく、寅さん元気いっぱいの作品に仕上がっています。男はつらいよシリーズでベストワンの評価が高い本作品をどうかお楽しみください。


“冬冬の夏休み”を上映して

2017年07月22日 | 諏訪商店街振興組合のこと

21日午後6時より45名の方にお集まりいただき、ホウ・シャオシェン監督“冬冬の夏休み”を上映させていただきました。この作品は“三重県視聴覚ライブラリ”のお世話になっており、当初プログラムで見つけた時は「トントン!?・・・」パンダか子供向けの映画かぁ?と思い込んでいました。しかし、淀川長治氏著“究極の映画ベスト100”でも紹介されていて、映画好きの人の間では知られた作品であることが分かりました。何時もの皆さんに加え、映画通の皆さまもお越しいただきうれしい鑑賞会となりました。

 “非情城市”では、台湾語、北京語、日本語と言語が入り乱れていました。そこで会場で“冬冬の夏休み”のことばは?と聞いた処、水野圭次郎さんからお答えをいただきました。

 

元々台湾にはいわゆる台湾語と云われる福建省の閩南語(みんなんご)に近い言葉と、広東省の客家の言葉、そのほかにアミ族をはじめとする少数民族の言葉がありました。

お年寄りの中には日本語と台湾語しか話せなか方もいますし、少数民族には日本語と民族語しか話せない方もいます。

中華民国成立後、大陸系の漢民族がどんどん入って来て國語(北京語をもとにした普通語)が公用語とされ、学校教育もテレビも國語です。若者や子供たちは台湾語が理解できず、御爺ちゃんお婆ちゃんは國語が理解できない。お互い意思の疎通ができないといった問題もあります。

ちょっと沖縄の琉球語と日本語の関係に似ています。

私は毎日、仕事で中国語を使っているので、一応映画の國語は8割くらい聞き取れました。子供たち、トントンの両親、警官、トントンの叔父さんは北京語を話していますが、銅羅のお爺ちゃん、お婆ちゃんと近所の人たちは台湾語を話しています。

また、映画は小学校の卒業式の「仰げば尊し」で始まり、「赤とんぼ」で終わる。これは日本の統治時代の遺産です。

台湾は本当に色々な国に翻弄されてきたということが見てとれます。

「セディック・バレ」という大作の映画を観ていただくと、もう一昔前の台湾がよくわかりますよ。

水野さん、詳しい説明をありがとうございました。言語が入り乱れている。日本では考えられないことです。


二・二八事件と“非情城市”

2017年07月16日 | 諏訪商店街振興組合のこと

1947年2月27日の夕刻7時頃、専売局台北分局の取締官、傅学通(ふがくつう)ら6名と台北警察4名が、闇煙草を取り締まるために太平町(現在の延平北路)に赴いた。そこで、闇煙草を密売していた林江邁(りんこうまい)の煙草と売上金を没収した。林江邁は40歳の寡婦で、10年前に夫が亡くなったとき、二人の息子と、お腹には娘がいた。そのため生活は苦しく、闇煙草を売ることで何とか生活をしていた。林江邁はお金を返してほしいと涙ながらに訴え、小競り合いになるうちに警官の一人が、銃の柄で林香舞の頭を殴ったため、頭から血が流れた。周りにいた人々がこれを見て憤激し、専売局のトラックを破壊するなどして反撃した。この時、威嚇のため発射された銃が男性にあたり、翌日死亡している。

翌朝午前9時、ドラを鳴らし4500名に膨れ上がった民衆は太平町の派出所を壊し、行政長官 陳儀への陳情に向かった。しかし、そこには鎮圧軍隊が配置されており、一斉射撃を受けて多数の死亡者が出た。運動は全土に拡がることとなる。九州ほどの大きさしかない台湾で起きた事件。制圧の手は全土にくまなく及んだことだろう。多くの知識人や青年が捉えられ銃殺された。台湾の将来にとって大きな損失だった。

映画“非情城市”は、基隆に住む林家に焦点を当てた物語である。家族は、終戦、二・二八事件、弾圧と社会の激動に巻き込まれていく。最後は高齢の父親と、気が狂った三男、そして、兄弟各々の妻と子供たちが残る。(気が狂ったと云えば“冬冬の夏休み”にも“寒子(カンスー)”という気のふれた女性が出てくる)

右 トニー・レオン

あくまでも、これはファミリーの物語だ。時代に翻弄されながら生き抜いていこうとする家族の物語である。


ホウ・シャオシェン監督と台湾

2017年07月11日 | 諏訪商店街振興組合のこと

ホウ・シャオシェン監督は、“冬冬の夏休み”を撮った(1984年)5年後に“非情城市”を完成させています。この作品は、台湾の歴史的背景が分かっていると、とてもよく理解できます。

1985年 下関条約(日清戦争)で台湾は日本の植民地となる

1941年 太平洋戦争がはじまる

1945年 日本敗戦 陳儀、台湾行政長官兼警備総司令として台湾に着任

1946年 国民党と共産党の内戦激化

1947年 ヤミタバコ摘発で民警が衝突 二・二八事件起きる

      台湾でも共産党の活動始まる 陳儀辞任

1949年 国共内戦で国民政府側不利に 学生活動家らを逮捕 戒厳令発令

      国民政府、台北に遷都

1987年 戒厳令解除

1988年 蔣経国総裁死去

1989年 映画「非情城市」完成

 戒厳令が解除された後だからこそ撮れた作品でした。

監督は語ります。「あの頃の台湾(1945年以降)は、日本による植民地支配は終わったものの、国民党が政権を握ったために人々の気持ちが“希望”から“失望”へと変わってしまった時代でした。戦争が終わり、祖国の新しい時代がはじまることを期待していたのですが、国共内戦に破れ、金もモノも持っていない国民党の軍隊が中国から押し寄せたため夢に描いていた新時代とはかけ離れた現実を目の当たりにすることになったのです。」

 私が台湾観光に出かけたのは、蔣経国が総統の時代でしたから1987年頃かと思われます。当時台湾は大陸との臨戦態勢になっていて、いつでも道路が滑走路になるということを聞きました。若い女性による饗応施設が目立ったのは、鎮圧の為駐留していた日本軍の接待に歴史はさかのぼると聞きました。“非情城市”是非皆さんに観ていただきたい映画ですし、その前に“冬冬の夏休み”も是非ご覧いただきたい作品です。

7月21日(金)午後6時より(98分) スワセントラルパーキング2階会議室にて 入場無料です。


ホウ・シャオシェン監督“非情城市”

2017年07月07日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

候孝賢(ホウ・シャオシェン)は、1947年中国広東省出の家族に生まれた台湾の監督です。1歳の時台湾へ移住。花蓮、新竹から鳳山に移って、ここで少年時代を過ごしました。1959年(12歳の頃)に父親を、1965年に母親を亡くしています。

 1965年高雄在住の時、兵役となり1969年終えています。1980年脚本家、助監督を経て監督としてデビュー、多くの作品を発表したのち1980年代台湾新潮流である台湾ニューシネマ(新電影)を担った代表的な監督として注目を集めます。

「非情城市」

 1989年、終戦直後の九份(ジォウフェン)・基隆(キールン)を舞台に二・二八事件を扱った「悲情城市」を監督。この作品でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞しました。台湾では1987年戒厳令が解除されたばかりで、上映が危ぶまれましたが無事検閲を通過し、低迷の台湾映画界では異例の大ヒットとなりました。金馬奨最優秀監督賞・最優秀主演男優賞を受賞しています。

 ホウ・シャオシェン監督は、小津安二郎を敬愛しており、2003年 小津生誕100年を記念した“珈琲時光”を製作しています。

「非情城市」

二・二八事件という言葉が出ましたが、台湾は日清戦争以来日本の占領下にありました。「悲情城市」という映画は、終戦を告げる昭和天皇の玉音放送から始まります。日本の敗戦により統治が終わり、独立と自由の時代が来るはずでした。ところが、連合軍から委託を受けた蒋介石率いる中国国民党が進駐し行政を引き継ぎました。大陸から来た軍人や官僚は質が悪く(国共内戦の影響で優秀な人材は大陸の前線に送り込まれていた)、強姦、強盗、殺人を犯すものが居て、しかも、これらの行為は罰せられることは少なく、マスコミに報じられることは固く禁じられたのです。台湾国内には本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)との対立が広がり、台北でタバコ草を売っていた本省人の女性が役人に暴行を加えられたことがきっかけで二・二八事件が起こります。そして、デモ隊の蜂起と政府側による発砲事件は台湾全土に拡がることになるのです。鎮圧の為発令された戒厳令は1987年まで続くことになり、多くの台湾人が投獄、処刑されました。この事件の本省人の犠牲者は1万8千~2万8千人とも言われています。「悲情城市」は、こうした時代背景の中で翻弄される一家族を静かに描いたものです。

「非情城市」

こうした時代背景を知ったうえで「非情城市」を鑑賞すると、画面には直接出てこない台湾の悲劇がよくわかります。基隆の遠景が印象深いのも、監督が愛情をこめて撮っているからでしょう。

「非情城市」

 


ホウ・シャオシェン監督“冬冬の夏休み”上映

2017年07月04日 | 諏訪商店街振興組合のこと

この映画は、夏休みの生きた絵物語。まるで刺繍のように人物が流れていて、郷愁を感じさせてくれます。まさに映画の詩、見事な作品ですね。

               淀川長治 “究極の映画ベスト100”河出文庫より

見ていると、私たちの子供の頃とそっくりですね。川と鉄橋、子供たちが泳いでいるのに、冬冬の妹は泳げないので、かまってくれないの。腹が立ったので、お兄ちゃんたちのパンツを川に捨てちゃった。川から上がったらパンツがないので裸で帰るあたりの面白さ。私はセミが鳴くところが妙に気に入りました。ありとあらゆる少年たちの夏のスケッチが出てきます。この夏の詩。少年の詩。ひとつひとつのシーンが、鮮やかに印象に残ります。

 1984年(昭和59年)の夏、小学校の卒業式シーンからこの物語は始まります(台湾では夏に卒業なのですね)。先生へのお礼、仰げば尊しの歌、日本の風景と変わりません。

卒業後、台北に住む冬冬(トントン)は、母親が入院したため、町医者をしている母方のお祖父さんの住む田舎(台中の銅羅郷)で夏休みを過ごすことになります。そこでは、列車に乗り遅れたり、事件を目撃したり、不思議な女の子との出会いがあったりします。子供目線で体験した事件の数々は、私たちが子供の頃持った記憶(不安や喜びや驚き)を思い起こさせてくれます。

村の子供たちと仲良くなった冬冬を中心に、美しい自然の中で伸び伸びとして生きる世界を台湾のホウ・シャオシェン監督が描きます。

(1990年 台湾 98分) 第7回ナント三大陸映画祭 グランプリ受賞・第30回アジア太平洋映画祭 最優秀監督賞・第38回 ロカルノ映画祭 スペシャルメンションを獲得しています。

7月21日金曜日午後6時より スワセントラルパーキング2階会議室で上映、入場無料です。

主催:四日市諏訪商店街振興組合 協力:北勢地域若者サポートステーション

 

※  ポスターの訂正 四日市市市市民文化事業→四日市市市民文化事業

※  <上映作品> 平成29年11月18日(金)→11月17日(金)

        市川準監督と“トキワ荘の青春”