花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市立商業学校 があった

2021年05月31日 | レモン色の町

世界史の林先生曰く、この銀杏の木の大きな傷跡は、商業学校を工場と間違えて爆撃したのではないか?ということであった。昭和20年空襲の夜、焼夷弾の雨が天聖院の屋根に降り注いだ。

天聖院の東に隣接して商業学校があった

明治17年、文部省より全国に学校設置を要望する「商業学校通則」が通達された。四日市では明治26年に設立された四日市商業会議所会頭の井島茂作ら10名(この時の副会頭は、伊藤傳七)が、全国で18番目、三重県で初の私立商業学校を発足させる。目的は“内外商業に関する必須の教育を施し他日商務を処理経営すべきものを養成する”とあり、生徒心得では“平素務めて真正商業家たるべき徳性風采を養成すべし”とあったが、開校式には、予科定員50人に対し36人、本科80人に対し23人という寂しさであった。

その後、県立となり特待生制度が導入されるなどして定員も240人となった。なんと当時の本科三年生の「商業実践」として、夏季休暇中に2~3人が組になり万古焼やタオル・小間物の行商に北海道から九州各地へと出かけて行った。こうした授業が後年、万古焼の西日本方面への販路拡大に繋がったのだろうか?

三重県立四日市商業学校(四日市市高浜町 昭和9年)

明治29年私立として設立。同30年市立商業学校となる。県下唯一の甲種商業学校として市外からの入学者が多かった。明治37年から県立となり、米人教師を迎え英語力養成に力を入れたことで有名だった。戦災で校舎が焼失し、現在は橋北中学校校地となっている。“目で見る 四日市の100年”より

橋北中学校(高浜町 昭和38年頃)

昭和22年、この前年に移転した四日市商業学校の跡地で開校。海蔵川上空から南向きに写されている。“四日市の100年 樹林舎刊(提供=加藤慈治氏)”

オマケ:末広橋の雲峰(うんぽう)出口對石画 四日市市立博物館“知られざる四日市の面影”より

大正8年に完成した東海電線(現在の住友電装)の工場です。煙突からモクモクと立ち上がる黒い煙を、夏の白い入道雲と対比するように描いています。川岸を石で固めた阿瀬知川の河口付近、そこに架かる末広橋の上では、帽子をかぶった子供たちが川面を眺めています。(2本の煙突には“東海電線株式会社”の文字が・・・)

正11年


慈善橋は何故出来た?

2021年05月30日 | レモン色の町

四日市を二分するように流れる三滝川。明治期まではこの川を渡る橋は三滝橋と明治橋のみがたよりだった。このため浜街道つまり中町通り・浜町蔵町通り(当時の浜往還)を往来する人々は東海道の通る三滝橋から約300メートルほど川下に僅かに歩行できる幅の板を架け、橋北との交通手段にしていた。

明治44年

この板橋は俗に舟板橋と呼ばれ、水面すれすれに架けられていたので増水のたびに流されたり、子供が転落して溺死するなどの不幸が続いた。しかし、この板橋は浜街道や四日市の海寄りをたどってくる人馬にとって欠かせない三滝橋のバイパスであった。そして重要な交通路として発達するに及び、橋の不便と危険は多くの人々の注目するところとなった。この状況を目の当たりにしていた黄檗宗(禅宗系)天聖院の林道永和尚は、橋北地区の人々を説いて廻り、有志に喜捨を仰ぎ、和尚自らも私財をなげうって架橋の斡旋に努力し、明治24年遂に木橋が完成「慈善橋」と命名された。これによって橋北と橋南の交通は大変便利になり、街の繁栄に大きく寄与した。(椙山満氏)

四日市史より

現在の慈善橋100メートルほど西へ移動している

現在架かる新しい慈善橋は、西に移動して架けられている。和尚の子にあたる林先生は、社会の先生でありました。受け持ちは世界史で、フランス革命に2時間ほど割いて話していただいたことがありましたっけ。

天聖院

さて、本堂横に立つ巨木(銀杏の木)には、大きな傷が残っていますが、何があったのかな?


好奇心満載!ぐるぐる博物館

2021年05月28日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

三浦しおんさんの“舟を編む”を読む。じつはDVDがよかったので、本棚の隅でほこりをかぶっていたのを引っ張り出して最終まで再読した。当時なぜ頓挫したのか分からなかったが、面白かった(得した気分)。

さて、次の三浦しおんさんの良さそうな本はと、本屋を覘く。あった!“ぐるぐる博物館”。博物館大好きな著者の、人類史、鉱物、漫画、SM、服飾、地場産業、伝統工芸・・・様々な世界と人間への情熱と愛と好奇心に満ちたルポエッセイ。次の博物館はどんなのだろうかと、丁寧に楽しみながら読み進んだが1週間で読破した。殆どの博物館がHPで覗けるので、これならと思われた方は是非、実業之日本社文庫“ぐるぐる博物館”をお買い求めください。(本体680円)

茅野市尖石(とがりいし)縄文考古館(長野県茅野市)

国立科学博物館(東京都台東区上野公園)

龍谷ミュージアム(京都市下京区)

奇石博物館(静岡県富士宮市)

大牟田市石炭産業科学館(福岡県大牟田市)

雲仙岳災害記念館(長崎県島原市)

石ノ森萬画館(宮城県石巻市)

風俗資料館(東京都新宿区)

めがねミュージアム(福井県鯖江市)

ボタンの博物館(東京都中央区日本橋)プラスオマケの博物館付き

コロナ化が終息したら是非、出かけてみたいと思っています。(元気二オルヤロカ?)


今昔写真帖より2枚の写真

2021年05月26日 | レモン色の町

昭和10年の臨港橋

四日市市末広町。手前は臨港橋、奥の跳上橋は臨港鉄道のもので共に昭和6年頃架設された。鉄道橋は平成10年12月25日に「四日市港の発展過程を示す遺構であり、陸上輸送と運河輸送とは拮抗していた時代状況を物語る典型的な土木建造物」として歴史的な価値が認められ、国の重要文化財に指定された。(臨港橋の南から北に向かい撮影)(椙山満氏提供)

 

大正11年の諏訪新道。

四日市市諏訪町。大正11年8月、四日市では文化展覧会が開催され、主な通りには祝賀ポールが建てられた。その時の諏訪新道の様子であり、昔の町並みがよく分かる。道の奥の林は諏訪神社(現 三菱UFJ銀行側から西方向を見る。道幅は今より狭いが、思ったより広かった。のどかな風景であります)。(四日市今昔写真帖 郷土出版社より)

追記  市制80周年記念誌“四日市のあゆみ”にこうありました

大正11年8月 学制頒布50年記念 県市連合文化展覧会、諏訪公園で開催。


保永堂版 東海道五十三次 より四日市

2021年05月25日 | レモン色の町

歌川広重“東海道五十三次 四日市 謎解き浮世絵叢書 佐々木守俊 解説”二玄社刊 より

副題に三重川(三滝川)とあり、帆柱が立っていることから、描かれた地は三重川の河口付近と特定されます。舞台はどこにでもある葦の生い茂る川のほとり、平凡な風景を鑑賞に堪える図とするために、広重はどんな工夫を凝らしているのでしょうか?

広重が用いたのは、登場人物がお互いに背を向けて歩み去っていく運動感によって、旅のもの寂しさを描く手法です。男が風で飛ばされた笠を追いかけ、慌て顔でつんのめるように駆けていきます。粗末な橋の上では、合羽の男が右手に歩んでいます。合羽は左にはためき、柳の枝や葦も強くなびき、心細さを募らせるような風がここでは描かれています。知らぬ者同士のすれ違い。合羽の男が顔を見せないことも、わびしい河原の風情を強調します。

笠を飛ばされた男のユーモラスな表情。もっとも当人は必死です。広重はこの男の開いた口に加え、伸ばした右手のしぐさによって、当惑ぶりを見事に描写しています。男のつんのめりそうな姿勢に対し、笠がバランスよく立ったままころころ転がっていくさまがおかしみを誘います。男は風呂敷包みと行李を紐でつなぎ、体の前後に振り分けて担いでいます。紐をしっかりと握りしめているところには、つい共感させられてしまいます。

左にあるのが十里の渡し。上の“字湊橋”でなく、その下の“粗末な”橋ではないでしょうか?もっとも、広重は現地を訪れてないそうですが。


千歳運河と臨港橋

2021年05月24日 | レモン色の町

明治43年、四日市駅から港にかけての四大工事が竣工し、引き続き昭和5年にかけて港の第1期修築工事にかかった。県の事業として進められたが大正3年国庫補助金を受けることになり1号埋立地(末広町)は大正5年に完成する。

昭和15年

更に、大正15年には第2号埋立地が完成して千歳町という地名が与えられた。この末広町と千歳町の間の千歳運河に、鉄道用(昭和6年)と道路橋(臨港橋)の可動橋(昭和7年)が山本工務所(山本卯太郎氏)により架けられた。道路橋は三代目になるが「四日市港駅鉄道橋」は当時のままであり重要文化財に指定されている。

鉄道橋

臨港橋

この鉄道橋は“ゴルゴ30”にも登場している。(どひゃー間違っておりました。正しくはゴルゴ13)


諏訪新道は何時出来た?推理編

2021年05月22日 | レモン色の町

四日市駅~相生橋と尾上町の拡幅工事を行った12間道路は、大正14年に完成した。下図は明治44年のもの。相生橋までは未整備である。

この時、諏訪神社から沖ノ島を通る道路は直線であるが道幅は狭かった。大正14年の道路整備には対象外だった。

戦前の写真である。この時は明らかに諏訪新道の道幅は狭い。

空襲直後の写真を見ても、四日市駅に比べて狭そうだ。

諏訪新道の拡幅工事が完成したのは、空襲後であった。昭和26年の国道1号線から諏訪新道(東)を見た写真である。右に岡田屋が建つ。そして国産自動車が走る。

賑わいを見せ始めた諏訪新道。両側にびっしり露店が並ぶ。

今朝、本町の水谷さんとあったので、拡幅工事のことをお尋ねしたら、家屋を移動させるのに、斜めに動かせなかったので、まっすぐセットバックさせて横へずらせたそうだ。歩道分ほどが拡げられたのだろうか?

 


諏訪新道は何時出来た?

2021年05月19日 | レモン色の町

資金面で苦労する県の一号埋立地工事に対して、市としても負担を躊躇していられないということで、大正10年“港道開墾工事”に取り掛かる。

計画は、四日市駅から諏訪新道に接続する形で相生橋に至る道路の新設。更に高砂町から尾上町、昌栄橋に至る県道四日市港線が道路幅12間半で始まった。この年は、名古屋港が四日市を貿易額で追い越した年でもある。

四日市港線は順調に進められたが、民家の多い四日市駅側の拡幅工事は難航し、大正14年完成となった とあるが、4年の期間で成し遂げたのは早いと思う。密集度が全然違うだろうけれど・・・。この段階で諏訪新道の原型ができたことになる。

明治23年に架けられた相生橋も大正12年の拡幅工事で新しく木橋になった 東より西を望む

すでに明治40年発刊の“四日市志”南町 伊藤善太郎著 にも“諏訪前道路の改修”としてその重要性が書かれている。

阿瀬知川の開墾、海面及び入江の浚渫は、舟運の便を得る上に於いて、非常なる利益ありといえども、これに対する陸上との聯絡(連絡)、完全ならざれば、以ってその効果を全うすること能わず、これ諏訪前道路を改修して、阿瀬知川下流の運河、及び海面埋め立て地に連接せしめんとする所以なり。殊に、該道路は、他日、全市の中心市街となるべき地勢にあたれるを以て、改修工事竣成の後は、期年ならずして繁栄なる市街を成すに至らん事必せり。

大正13年 相生橋を背に四日市駅(諏訪新道)方面を見る


昌栄橋は何時できた!解決編?

2021年05月18日 | レモン色の町

写真集“四日市の100年”椙山満監修 名古屋郷土出版 寛文年間の四日市地図があった。

この図から四日市湊は三滝川の川下にあったことがわかる。真ん中の“土橋”が“思案橋”、左上が“不動寺”とあるから、現在の本町は海の中だった。上の森が“諏訪神社”である。

この写真はごちゃごちゃとしているが、前回紹介した四日市の“第1期築港 四大工事”、その起工式の様子である。明治43年7月17日、尾上町にて。手前に並ぶのは人力車の列。この段階では、市の事業だったから地元有力者がズラリ参列した様子がうかがわれる。

そして、昌栄橋が見つかりました。見つかったといっても堂々とこの写真集に掲載されていたのですが。

阿瀬知川河口の昌栄橋 (四日市末広町・大正5年)第一期築港工事で完成した末広町と尾上町の間にかかる昌栄橋

昭和3年、橋の北詰め(写真中央?)に稲葉三右衛門翁の銅像ができます。十数年後のことです。


昌栄橋は何時できた?完結編

2021年05月17日 | レモン色の町

昌栄橋は何時できた?”で、明治44年から大正11年の間と推理しましたが、どうも緩すぎて後味が悪い思いを致しておりました。

2021年5月12日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

そこで四大事業のことから調べなおしました。

稲葉三右衛門氏による港改築以来、四日市湊は益々繁栄の様であった。しかし、宮の渡し(名古屋港)の追い上げも激しく、その地位を脅かしかねない様相となった。そこで、明治39年の市議会では“四大事業”を掲げ実施することとなった。それは、

間違いがありましたので訂正いたします。(下総人様よりご指摘)

(正)

  • 諏訪前道路(諏訪新道)の改修 東海道の諏訪神社からから東へ港まで、延長512間にわたり幅4間に拡幅する。
  • 堀川浚渫(しゅんせつ)開栄橋から北へ思案橋の入り江を平均深さ3尺に浚渫する。
  • 阿瀬知川筋運河開墾 阿瀬知川運河を延長250間にわたり、幅15間、深さ4尺に開墾して、船の往来を易くする。
  • 海面浚渫・埋立 港口を浚渫し、その土砂を用いて水面(元昌栄新田)を埋め立てる。

こうして明治39年12月工事は始められたが、暴風雨等で工事は難航、明治43年ようやく竣工した。(明治43年四大事業完成)

四日市史より

この四大工事を踏み台に明治43年から昭和3年にかけて第1期修築工事に取り掛かることとなる。

明治43年の計画絵図 この時昌栄橋は予定に入っている

当初、県の単独工事(県の事業で行われた)であったが大正3年に国庫補助金を受け、本格的に事業に取り組めるようになる。こうして、大正5年第1号埋立地完成。大正6年には末広町と命名された。末広町ができた大正5年には末広橋はできていた!

大正12年

ムム・・・微妙なところで昌栄橋が見えない!

工事がすすむ1号埋立地の北側が、国産振興大博覧会会場となる。