花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

エリアプラットホーム事業第2回分科会

2022年07月31日 | おいらの商店街

“四日市公害”という災害は、“都市計画法(旧法)”に基づき、国からの方針に従って進められた結果に発生した災害でした。“都市計画”は、お上の仕事で、上から降ってくるものと考えられていたと思います。四日市は明治以来、海運の利に恵まれた土地であり、港から工業都市となり、石油コンビナートで発展してきた町でした。現在ほど、市民やマスコミの後押しが強くなかったので(勝訴こそしましたが・・)“四日市公害”を告発した9名の方には、計り知れない妨害や嫌がらせがあったものと想像できます。

原告団の皆さん

現在、駅前中心市街地では、“四日市エリアプラットホームまちなか会議”が開かれています。市街地は4カ所のゾーンに分けられ、“駅前まちなか”“諏訪公園”“東海道SUWA”“スワエリア”のそれぞれの分科会で話し合いが始まりました。

第2回の様子

我ら“東海道SUWA”の第2回分科会は、7月28日(木)に開かれ、13名の皆さんにお集まりいただき、四日市大学の小林慶太郎先生のリードで順調にワークショップを進めることができました。ありがとうございました。

過去の“都市計画”から学ばせていただきましたが、魅力ある街を目指すのは、そこに住む市民であり、そこで営む者です。行政に任せてしまうのではなく、市民自らが街の未来をしっかり考え、良い街を後世に残していきたいものです。

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都市計画法の旧法と新法

2022年07月30日 | レモン色の町

大正18年に制定された“都市計画法”を旧法、昭和43年制定を新法といいます。

今まで述べた四つの都市計画はすべて旧法に基づいて施行されていました。「都市計画委員会ノ議を経テ」「内務大臣」が決定し「内閣」の認可を受ける、つまり都市計画は国の権限によって行われていた、そして戦後は国指導の委託事業として作られていました。こうした事業は、国家による“開発のための都市計画”だったのです。開発構想は、市民や住民の関与以外のところで作られてきたといえます。

都市計画は、市民の生活空間である土地の利用方法に、“公共”が介入する形で発展してきました。石油コンビナートのような他者を圧倒する独占的土地利用に規制が求められました。ところが、四日市公害と都市計画の関係は逆でした。では、昭和43年改正後の都市計画法が公害を防止できたでしょうか。確かに昭和43年制定の“新法”以来、権限は国から市町村に移されてきました。しかし、改正後の都市計画法で、海岸線に広がる石油コンビナートの独占的利用を防げたかどうか・・・?“公共の介入”の公共とは、市民・住民の共同意思に基づく“公共”なのか?国の開発指導による委託期間(訂正:機関)の“公共”なのかどうかが、問われるところです。

四日市大学特任教授 波多野憲夫氏が書かれた「四日市学講座 なぜ都市計画は石油コンビナートに無力だったか」は、図書館で読むことができます。結論を言えば“四日市公害”は、国の開発方針によって起きた災害ということになります。地域が中央任せにしないで、自分たち地域のことは、自分たちなりにしっかり考えようね!というところに落ち着くのではないかと思いました。

自分なりにまとめてみたのですが、明快な推理とはいかなかったようです。是非皆さんも、公害裁判の節目の年にこの本をお読みいただき、四日市公害を一考していただければ幸いです。

 

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判決の前日 米本裁判長は!

2022年07月29日 | レモン色の町

四日市公害の裁決を下した、当時の四日市地方裁判所(正しくは、津地方裁判所四日市支部でした。ここに謹んで訂正させていただきます)の裁判長 米本清さん。歴史的判決は退任の前日に下されたことを中日新聞で知りました。

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なぜ都市計画は四日市公害に無力だったか 戦後編

2022年07月27日 | レモン色の町

昭和33年:市が国土計画協会に委託して“四日市総合計画の構想”が作られます。それによると「市の南部塩浜地区は石油精製を中心に、北部では埋め立てにより鉄鋼業を立地させる。この工業計画が四日市総合開発の出発点であり、目標である」とあります。臨海部の工業地帯と居住地域を生産緑地、公園などで遮断して南北に発展する帯状都市構想が提案されています。

終戦による海軍燃料廠の払い下げ問題は、昭和石油と三菱油化に決まりました。石油コンビ―ナートの形成です。続いて、霞ケ浦地帯を埋め立て八幡製鉄の誘致が計画されました。こうして埋立てた臨海部を工業地帯、西の丘陵地は住宅地とし、その間を水田や公園等の生産緑地にして、そこに南北のバイパスによる産業動線を配置することで、東西の生活動線と仕分けする計画でした。この背景には、石炭から石油に代わる国のエネルギー政策があり、四日市市は、昭和37年に出された工業都市計画の調査研究対象となっていたのです。

このプランは結果的に理想的な工業都市の提案の下で第3コンビナート(霞ヶ浦地区)の埋め立て工事を容認し、海岸線を重化学工業によって独占的に利用することを受け入れる役割を果たしたのです。第三者の機関に委託された策定事業も、市独自の計画を立てるに至らず、従来の産業振興施策と国の指導に押し流されるに至りました。

昭和41年:昭和42年に公害裁判が起こされています。そんな社会問題が大きくなるさなか、公害対策を意識して“四日市市都市公害対策マスタープラン”は作成されました。「産業公害の除去は難しいが、大気汚染の悪化は止めることができる」と前提で書いています。しかし、重化学工業地帯の予定であった霞ケ浦地区埋め立て工事は昭和45年に完了し、八幡製鉄との誘致話がとん挫しているかわりに、大協石油化学の用地取得を受け入れます。

マスタープランでは、国道23号線と1号線の間を、工業系立地の区域として計画、その西側を“住宅規制地区”として新たな住宅建設の禁止と、住居の移転を図りましたが、法的に取り締まることが出来ず、集団移転も111戸で終わっています。

さらにその西側には、新市街地の建設計画が立てられ、移転住宅建設が進められました。昭和40年以降、あさけが丘団地や笹川団地の造成が始まっています。この「工業」と「住宅」を分離する構想は、都市改造による公害克服といえます。マスタープランは、今日の都市構造に影響はある計画でしたが、公害被害者からは「夢のような都市改造より徹底的に公災害の除去をなすべきである」との批判が出ていました。

戦前から大気汚染は公害を生むことは知られていました。にもかかわらず、なぜ都市計画に反映されなかったのでしょうか?

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なぜ都市計画は四日市公害に無力だったか 戦前・戦中編

2022年07月26日 | レモン色の町

四日市大学特任教授 波多野憲夫氏が退任するにあたり、四日市の石油コンビナートがどのように形成されていったのかを「四日市学講座 なぜ都市計画は四日市公害に無力だったか」(平成23年)で書いてみえます。

富田浜海岸と四日市学 - 花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

「都市計画は公害を防止できたか」を、結論から申しますと「石油コンビナートの形成を推し進めることこそすれ、公害を克服するには無力だった」ということです。

過去実施された4つの都市計画プランで説明します。

昭和11年:当時の都市計画は国家事業でした。内務省から出向の官吏や技師らによる“三重県地方委員会”で運営されており、四日市市の都市計画は、商業地域(ピンク)・工業地域(ブルー)・住居地域(グリーン)・未指定地域(イエロー)に分けられました。注目は、昭和13年に“臨海土地区画整理区域”として、市の南部農業地域一帯(塩浜)を工業地帯として決定されたことです。当時、羊毛の陸揚げが全国の50%に達していた四日市のさらなる発展を期待してのことでした。「土地区画整理は都市計画の母」とまで言われた時代でした。

昭和11年四日市市都市計画用途地域指定図

昭和16年:四日市石油コンビナート形成の原点となる計画でした。昭和13年の“臨海土地区画整理区域”180万坪が、(富田・富洲原の合併がありましたが)778万坪に拡大され、石原産業と東邦重工に海軍燃料廠が加えられたのです。当時の三重県都市計画課長の兼岩伝一は「突然ニ重要施設ノ設置ガ決定サレタ」と言っています。背景には戦時体制下の国家政策がありました。軍備充実の為の工業の地方分散に、四日市も組み込まれていたのです。

昭和17年四日市市都市計画図

次に、午起海岸や霞ケ浦海岸を埋め立て、富田浜に向けて工業地帯とする整備構想が描かれます。これで、塩浜地域から桑名港に至る延長21キロメートルの海岸を埋めて、3200万坪の工業地帯構想が計画されました。

第1臨海土地区画整理事業

また、昭和17年に市街地を南北に分断させていた関西急行(現 近鉄)を国鉄四日市駅から分離させて(諏訪駅の廃止)現在の位置へ移す計画も出ていましたが、実施は戦災復興都市計画による昭和31年となります(近鉄線の短絡化は都市計画によるものだったのです)。

伊勢臨海地方計画

時は終戦を迎え、昭和35年には“四日市総合開発計画”が作られますが、この計画は、四日市の重工業化を進め“四日市公害”を生み出すに至りました。

<付録> くるべ遺跡のこと

2021年7月25日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

 

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四日市公害裁判から50年

2022年07月23日 | レモン色の町

令和4年7月24日で、“四日市公害裁判”の日からちょうど50年の節目を迎えます。

昭和42年9月1日「喘息は企業の排煙が原因である」として、9名の住民が損害賠償請求訴訟を起こした。

原告の皆さん(四日市公害と環境未来館 提供)

訴訟から5年ほど経た昭和47年7月24日、津地方裁判所四日市支部の米本清裁判長は、「原告の疾患は企業の排煙が原因で、企業六社は共同して不法行為を続けてきた」として原告の主張を全面的に認めた。大規模な大気複合汚染についての企業責任を初めて問う裁判であったが、この判決に対して被告の六社は控訴しなかったため、一審で確定した。(北野 保)“四日市市の今昔”樹林者刊

判決の日

私の父親も喘息を患っていた。住まいが別だったので夜中に苦しむ様子は見ていないが、医師会館へ定期的に連れて行き、認定患者の検査を受けた。“ハイ!息を吐いて!もっと、思い切り吐いて!”と、あまり親切な扱いを受けなかったような記憶がある。

諏訪百貨店屋上より東を望む 昭和39年9月15日 辻 俊文氏撮影

旅行へ出かけると宴会の席で女中さんから「どちらからお見えで?」と尋ねられる。「四日市」と答えると「公害の?」の返事をもらった。旅先から帰ってくると、大気の臭いから、四日市の街がいかに公害の中にあるのかが良く分かった。

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壬申の乱 今年で1350年

2022年07月22日 | レモン色の町

本日の中日新聞より

1年ほど前、海水浴場の記事から、聖武天皇に行きつき、遥拝所の碑から“くるべ遺跡”へとたどり着きました。くるべから繋がる 万葉集の世界にも、ワクワクさせられます。

2021年6月22日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2021年6月25日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

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四日市中心市街地エリアプラットホーム事業②

2022年07月19日 | おいらの商店街

まちからの反応は皆無、そう思っていたら、東海道筋マンションの居住者の方が、子供さんを伴って訪れ、アンケートを置いて行かれました。こう書いてありました。

まちで増えてほしいもの「明るい公園(諏訪公園が全体的に暗いイメージで入りにくい)」「子供の数」

まちで減ってほしいもの「ガールズバー」「空き店舗」「カラスや野良猫」

変わらずあってほしいもの「お祭りやイベント」「挨拶」

おひとりからのご意見でしたが、勇気づけられました。エリアプラットホームで話し合わなければならないことは山積しています。

東海道SUWAエリア分科会のお知らせです

諏訪公園分科会:2027年に向けて、市民の諏訪公園を考える時間は2年ほどです。子供たちに喜んでもらえる公園を造らなければなりません。

駅前まちなか分科会:駅前の図書館構想はどうなっているのでしょうか?バスタ四日市完成まであと5年。進捗状況は見えません。市民のための市民の図書館を造りたいものです。

東海道SUWA分科会:空き店舗は増えるばかり。持ち主の勝手では済まされない状況になっています。

スワエリア分科会:スワセントラルパーキングの建て替え構想で委員会が開かれています。エリアプラットホームに連動した建て替え案が検討されています。

<参考>伊勢市が動き始めた公園構想 人にやさしい公園です

吉田さんはすでに見学に行かれたようです。「フジ技研」さんがいなべで始めた体験施設 こんな教室、まちなかにあればいいと思いませんか?

<特別付録>

NHKアーカイブスより「新日本紀行 矢立峠を越える三重連結のD51」最後の姿。

(148) 鉄道NHK NHKアーカイブス 新日本紀行 三重連の峠 20030630 - YouTube

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別世界の一条さゆり

2022年07月18日 | レモン色の町

一条さゆりさんが、公然わいせつで捕まった時(昭和47年)、の供述調書に四日市のストリップ劇場のことが書かれていました。小沢昭一座談③まじめに本邦ストリップ考 より

マジメに図書館の本です

「昭和43年ころ、四日市のストリップ劇場 別世界に出演しておる時、わたくしの所属しておるヌード雑誌社○○○○で働いておる東山さんという、年齢34、5才、丈1.7メートル位、体格が良く太った男に出会い「専属にならないか?」と誘われました。踊り子はどこかのプロダクションに所属していて、出演料や(全国を回る)コースを決めてもらい出演するというしきたりになっておりました。それ以後 現在まで東山さんの世話になっておるのです」供述書らしい文言です

別世界があった所

昭和43年のゼンリンマップより

一条さゆりさんは、昭和47年5月1日~10日までの予定で、大阪の吉野ミュージックで出演していたが、7日大阪府の手入れで11人の踊り子と共に“公然わいせつ罪”で逮捕され、以後2年8か月の間 裁判で争った。その後大阪の西成区ですし屋を経営、男性関係で苦労した後、平成9年8月3日、肝硬変のため死去された。

小沢昭一氏は、一条さゆりさんに関して、こう書いてみえます。

「いま、ヌードの小屋は全国津々浦々ほんとうに沢山あります。(略)ピンからキリまで・・・などといいますが、トクにダス人達の中にもピンからキリまであるわけで、ピンは客の好奇心や助平心を満たすだけでなく、トクにダシながら、“つくす”女の優しさ、美しさ、そして悲しさを表現して客の心を揺り動かしました。つまり、そこには皆さん大好きの 〽ほんとに優しい お母さんや、〽愚痴も言わずに つくしきるおねェさんがあって、客はナカずにはいられなかったのです。かといって、私はトクにダス行為を「ワイセツ」だと思っております。

けれどもピンのやるワイセツは、芸術とやらに負けずに、いや、それ以上に、人の心にくい入り、ゆさぶり、感銘を与えて、或る時は、人の心を洗い、浄化することさえあったのです。」

今、一条さゆりさんについては、往年の日活ロマンポルノ 神代辰巳監督「一条さゆり 濡れた欲情」昭和47年作品(小沢昭一氏も出演) でしか観ることはできませんし、そこまでする気もありません。ご冥福を祈ります・・・

一条さゆり 濡れた欲情 - Wikipedia

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失われた駅舎巡り

2022年07月17日 | レモン色の町

日曜日に四日市へ出かけて、新しい洋服を買ったり、映画を鑑賞したりする大人に対して、子供たちはおもちゃを買ってもらったり、公園の遊具や百貨店の屋上遊園地で遊んだりするのが楽しみでした。諏訪公園には、大きな鳥舎があって、休日になると、周りには大勢の人が集まっていました。諏訪駅を降りて、たくさんの人が諏訪のまちへ出かけてきました

四日市のまちかど 博物館提供 35年頃

背景に市民団、四日市幼稚園、誓いの御柱、熊澤図書館と並ぶ

“映画館巡り”でお世話になっています“男の囲炉裏端の会”さんからお誘いをいただきました。ありがとうございます。お題を“四日市の鉄道”で頂戴しましたが、私よりも もっと詳しい鉄道オタク様がおみえです。そこで“失われた四日市の駅舎”として親しまれつつ現在みられなくなってしまった駅舎を皆さんと覗いてみることにします。

諏訪駅・東海道沿いにあった旧諏訪驛、三重鉄道の“すわまへ”と四日市鉄道の“すわ”驛、幻の合同駅、国鉄の四日市西駅、四日市駅、そして、午起駅と西町駅と堀木駅・・・まだまだ八王子駅等もあります。幻の駅舎を訪ねてみます。ぜひお越しください。(定員に達していたら申し訳ありません)

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