花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昭和少年通信 ⑯ 昭和38年の漫画界

2022年06月29日 | レモン色の町

昭和38年2月、名四国道が開通しています。長島に料金所がありましたね。小学生の頃、午起海岸へ自転車で行きました。その当時、名四国道は工事中で、午起海水浴場はすでになく新しい道ができつつありました。8月、近鉄駅前に噴水塔が完成しています。9月、最高裁が松川事件の被告17名に無罪を言い渡し、松川事件に終止符を打っています。戦後がまた一つ終わりました。10月、それまで70メートル道路と50メートル道路だった呼び名が、中央通りと三滝通りとなりました。

昭和40年7月15日辻さん撮影

伊吹慎吾という定時制高校に通う勤労青年の青春を描いた横山まさみちの『あぁ青春』は、集団就職という時代背景に大ヒットとなりました。当時は舟木一夫の「高校三年生」が発売、青年の青春が注目されるようになりました。

巴里夫は若木書房から『白ゆりの旅』を発表、「泣かせ」の母物を多く描いています。両親を亡くし祖母と暮らす姉妹に養子の話が出て騒動となる様子が、明るい調子で描かれています。40年から「リボン」で学園ものを発表、活躍しています。

白ゆりの旅

赤塚不二夫は、貸本マンガでデビュー、少年ギャグマンガでヒットするまでは、主として少女マンガを発表していました。「魔女少女モノ」の元祖といわれる『ひみつのアッ子ちゃん』は「りぼん」で連載が始まっています。

当時、少女マンガで活躍していた漫画家に、横山光輝「おてんば天使」、ちばてつや「123と45ロク」、永島慎二「裏町のおてんば娘」、石森章太郎「水色のリボン」があり、元気なおてんば娘たちをみずみずしく描き出していました。

日本共産党に入党した まつやまふみお は、時局的風刺画『鳥獣戯画』を「赤旗」に連載しています。

昭和20年代の鉄道輸送法改正に伴い、雑誌の付録に規制がかかりました。そのため、別冊付録が付くことになり、本誌1冊に別冊付録10冊が付くこともありました。「りぼん」には“ひみつのアッ子ちゃん”、「少年」には“鉄人28号”が付き、本誌の続きがふろくの別冊になったりしていました。(そんな記憶がありますが、どうゆう意味があったのでしょう?)

しかし、「少女」「少女クラブ」「りぼん」「マーガレット」と、この頃は少女マンガに元気がありました。手堅くファンがあったのでしょうか。


昭和少年通信 ⑮ 昭和37年の漫画界

2022年06月27日 | レモン色の町

昭和37年5月、南極観測船“宗谷”が四日市港へ入港しています。小学生は見学に行ったのでしょうか?(映画は観た気がします)中部中学校に入学したばかりの私は、見学の記憶がありません。“宗谷”が出来たのは昭和13年なのですね(耐氷型貨物船)。そして、昭和31年から37年まで南極へ行っています。

南極観測船「宗谷」│船の科学館公式、ホームページ (funenokagakukan.or.jp)

この年の12月には“礒津橋(訂正:磯津橋)”が完成しています。3か月前の9月に四日市地区大気汚染対策協議会は発足していて、公害が問題になってきていました。そして、港中学校が、昌栄町から十七軒町へ新築移転した年でした。みんなで椅子と机を持って移動したと聞きました。現在、昌栄町の跡地には温水プールができています。

ザピーナッツ・植木等・橋幸夫・石原裕次郎・ジェリー藤尾・中尾ミエ・弘田三枝子・守屋浩、といった方がピンとくるかもしれません。

徳南晴一郎の『怪談人間時計』(曙出版)は、歪んだ線で狂気漂う世界が描かれたカルト的な作品として語り継がれています。

さいとうたかおが永島慎二らとともに作った、貸本向けの劇画雑誌『ゴリラマガジン』は、漫画界で初のプロダクション形式を取り入れ、自らが作画、編集、出版を行いました。

昭和30年代に全盛を極めた貸本雑誌も衰退時期を迎え、『街』は休刊となり、大手の週刊誌に移っていきました。

少年・少女雑誌も転換期を迎えます。『少年クラブ』『少女クラブ』(講談社)、『少女サンデー』(小学館)は休刊となりました。

一方、『風車』(若木書房)、『ティーンエジャー』(曙出版)、『花刺繍』(三洋社)、『ゆりかご』(東邦漫画出版社)、『風車』(若木書房)などの 少女向け貸本短編誌が創刊されています。結果、貸本業界を最後まで支えたのは“少女マンガ”で、若木書房など少女向けの作品を多く手掛けていた出版社でした。

そのほか、冒険王編集部編『マンガのかきかた』やミンゴーテ画、木村定訳の『マンガ・世界歴史』(みすず書房)などが発刊されました。


昭和少年通信 ⑭ 昭和36年の漫画界

2022年06月26日 | レモン色の町

昭和36年は、高花平団地着工の年でした。三重団地(訂正:笹川団地)の上の高花平団地とあさけが丘団地は、四日市市の団地造成の幕開けでした。4月には堀木1丁目(湯の山街道沿い)に市立病院が完成しました。

市立病院は、昭和11年5月、国産振興大博覧会が開催されていた千歳町埋め立て地に市民病院としてできたのが始まりです。14年になると津田久三氏の寄贈で西新地に四日市市立病院が開設されます。

昭和20年6月、四日市空襲で焼失、一時、諏訪公園内の図書館に臨時開設しましたが、24年、西新地の現プラトンホテルに移り、26年には北側に結核病棟が完成しました。そして、昭和36年に堀木町に新しく竣工したのです。

四日市市立病院変遷史 - 花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

それから、7月には八幡製鉄進出が、市議会で承認されていますが・・・。四日市港の貿易額が1000億円を超え、ロングビーチ市と姉妹都市提携がされた年でもありました。

話がそれました。漫画界では、横山隆一が「ひょうたんすずめ」に続いてつくられた長編アニメーションを本にしたのが『おとぎの世界旅行』です。集英社から出版されました。

「少年王者」の山川惣治が「産経新聞」に連載した『少年エース』全三巻で発売されていますが、これで完結しておらず昭和36年より「中日新聞」に『続少年エース』として再開しています。

ちばてつやは少女雑誌の「少女クラブ」で『リナ』を描いた。飛行機のパイロットである父と心優しい母のもとで、何不自由なく育ったリナだったが、父の失踪をきっかけに生活が一変する。ちばらしさともいえる、溌溂とした女の子の可愛さ健気さ、細やかな心情が表現された作品になっている。

子ども向け絵本の鈴木出版社から、蜂野剣 画による『ポパイ』が出版された。ポパイは、すでに昭和34年からテレビアニメとして放映されている。

教育者らにより執筆された、滑川道夫の『マンガと子ども』は、子供たちが楽しんでいるマンガの現状を調査し、生活にどう位置づけるかを目指した書籍です。また、高部義信訳の『アメリカ新聞論説 漫画集』(研究社)は、ジャーナリストでマンガ家でもあるジェファーソン・D・ヨン氏の社説を翻訳したものです。

この頃になると、社会が戦後復興から豊かさへの落ち着きが見え、非難の対象にすぎなかった漫画は、受け入れられる方向になってきたようです。


昭和少年通信 ⑬ 昭和35年の漫画界

2022年06月25日 | レモン色の町

昭和35年は、安保闘争(5月)が起きて、国会を17万人のデモ隊が囲いました。7月には池田勇人内閣成立、10月は、浅沼社会党代議士が壇上で刺殺され、全国のテレビで衝撃的報道がされました。四日市は企業の進出や増設が 次々に進められています(味の素、高分子化学、松下電工、江戸川化学、日本合成ゴム、三菱油化)。また、八幡製鉄四日市進出の計画があったようですが、調査に終わっています。近鉄百貨店開業(5月)、名四国道起工(6月)、四日市商工会議所新屋舎竣工(8月)と、明るいニュースが続きました。

前年創刊の「少年サンデー」に藤子不二雄が長編冒険漫画『海の王子』を連載。この作品が、藤子不二雄 両氏にとっては初めての単行本となりました。トキワ荘の時代で、石森章太郎や赤塚不二夫らも住人でした。

2016年7月8日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2016年7月10日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

テラさんこと寺田ヒロオは『スポーツマン金太郎』を「少年サンデー」に、昭和34年~38年まで連載しています。金太郎や桃太郎が当時の実在する野球選手と対戦する物語で、昭和34年第1回講談社児童まんが賞を受賞しています。

松本零士(当時は松本あきら)は『緑の天使』をわかば書房から出版、ロマンティックで抒情的な作品で頭角を現しています。(後の銀河鉄道999)

水木しげるの『鬼太郎夜話』は、後の「ゲゲゲの鬼太郎」と異なり、正義の味方のヒーローではなく、状況に流され、素直さとずるさを併せ持った、人間的で近親感を持った鬼太郎でした。墓場の鬼太郎からゲゲゲの鬼太郎へと成長していったのです。

昭和32年からラジオドラマ化、40年からはテレビでも放映された『アッちゃん』は、「週刊朝日」で連載されました。平凡なサラリーマン家庭の日常を描き“ソニー坊や”としてソニーのキャラクターに採用されています。・・・そういえばよく見かけた懐かしいアッちゃんです。「ベビーギャング」とともに、昭和36年第7回文芸春秋漫画賞を受けました。

 


昭和少年通信 ⑫ 昭和34年の漫画界

2022年06月22日 | レモン色の町

昭和34年3月、四日市では市民ホールと国鉄四日市駅の起工式が行われています。現在、市民ホール跡は、庁舎の駐車場になっていますが、JR四日市駅は変わりません。そして4月に御在所ロープウェイが開通、当時の女学生はガイド嬢になるのが人気だったと聞きました。今、ロープウェイ内では 案内の放送が流されています。8月、四日市港開港60周年記念事業として、商品祭りと七夕祭りが合体して“港まつり”が開催されました。現在でも“大四日市まつり”を始めるにあたり、JR四日市駅前に立つ稲葉三右衛門像の前では、献花式が行われています。そして、忘れてならないのは、9月に“伊勢湾台風”が東海地方を襲ったことです。

この年あたりから、少女マンガが次々と発表され独自の世界を繰り広げました。貸本業界では、赤松セツ子の単行本が出版され好評を博しました。『夢みる白鳥』若木書房、『青いひとみ』ひまわりブックなど

佐藤まさあきは、辰巳ヨシヒロやさいとう・たかおらと“劇画工房”を結成、ハードボイルド漫画で貸本業界の人気となります。しかし、暴力的であるとの理由で山梨県の貸本組合で不買運動がおこり、全国に波及しました。

「貸本劇画」と銘打った白土三平の『忍者武芸帖』は、様々な人物を登場させ、階級闘争を描き、青年たちの人気を得ました。動物や風景も写実的であり、現実性に近づいた漫画となっています。

山田えいじは、山田みどりの名前でも少女マンガに寄稿しており、当時の人気である不幸要素を盛り込んで描かれている。ディスコやチンピラが登場するなど、少し年齢層に高い設定が珍しい。

 

少年画報社から出された『スーパーマン』はテレビ放送で人気があり、「アメリカ ナショナル コミックス社」からの日本語翻訳作品である。

「週刊少年マガジン」は昭和34年3月26日、「週刊少年サンデー」が4月5日、共に30円で創刊されました。子供向け週刊誌時代の到来でしたが、月刊誌主流時代は、それから しばらくは続いていました。


昭和少年通信 ⑪ 昭和33年の漫画界

2022年06月21日 | レモン色の町

昭和33年2月に小さい体で若乃花が横綱になりました。栃若時代の到来です。8月、日清製粉がお湯を入れるだけのチキンラーメンを発売、インスタントラーメンの草分けとなりました。10月には長嶋茂雄が新人王となり、11月には、皇太子と正田美智子さんとの婚約が発表された年です。12月には初めて1万円札が発行されました。

『鉄人28号』は、昭和31年から雑誌「少年」に掲載が始まりました。横山光輝画で善悪いずれにも変化するロボットを登場させ 主題レベルでは子供マンガの域を超えた作品となりました。単行本は33年から36年まで光文社から全7巻発売されました。

「少女クラブ」に昭和32年から37年まで連載された上田としこ作の『フインチさん』は大好評で、33年講談社から再版されました。アメリカ一辺倒だった少女漫画界に中国趣味を持ち込み 陽気で聡明な少女 フイチンの行動が爽快で新鮮な感覚を少女読者に与えました。

映画「ゴジラ」(昭和29年)、「ゴジラの逆襲」(昭和30年)、「空の大怪獣ラドン」(昭和31年)と東宝映画は立て続けに怪獣ものをヒットさせました。そんな中、映画のコミック化で、香山滋原作・藤田茂画による『ゴジラ』『続 ゴジラ』があかしや書房から発売されました。カラーグラビア付きの豪華の装丁になっています。

「少女ブック」に連載(昭和33年~34年)された“わたなべまさこ”画の『やまびこ少女』は、火事で生き別れとなった双子の少女が、再会を果たすまでの物語です。

映画“トキワ荘の青春”で知られている学童社出版の“漫画少年”に手塚治虫が連載していた『ジャングル大帝』(昭和25年~29年)は、出版社の倒産により一時中断していましたが、(再開され)昭和33年 光文社が全4巻で発売しました。

山田えいじの『ぺスよおをふれ』は、「なかよし」に連載されました。スピッツ犬と少女ユリが難事件に立ち向かう話で人気を博し、松島トモ子でラジオドラマ化されました。

そして、劇画短編集『迷路』が、貸本業界で創刊された年でもありました。

つげ義春は「おばけ煙突」を寄稿しています


またまた 閑話休題 大協石油のこと

2022年06月20日 | レモン色の町

下総人さんから、大協石油について ご指摘をいただきました。正確無比の情報を誇る(?)当ブログにおきましては 心強い指導者でゴザイマス。感謝!

ところで 昨日のブログで 昭和32年に大協石油が浜町の東洋紡績跡地に竣工したと記しました。それでは昭和29年の大火災は何だったのか?あれはまぼろしか?否 四日市幼稚園の前から呆然と眺めていた真っ黒で大きな煙は何だったのか?そこで 市制80周年発行の“四日市のあゆみ”とWeb“大協石油株式会社 沿革”を調べてみました。

昭和14年9月 新潟県下の製油業者8社が合同して新会社 大協石油株式会社を資本金125万円で設立 本社を東京に設立した

昭和16年 大協石油四日市製油所 大協町に設立。

昭和16年・太平洋戦争始まる

昭和18年7月 大協石油四日市製油所が完成

昭和26年9月 大協石油トッピング装置(原油を分類する装置)完成

昭和29年10月 大協石油の原油タンクが爆発し 大火災となる

昭和32年9月 大協石油陸上油槽所 浜町旧東洋紡跡地に竣工

大協石油四日市製油所は 戦後の産物かと思っておりました。古いですね。そして会社設立4年後に四日市に工場を竣工させています。大協石油(現 コスモ石油)にとっていかに重要な地だったのかが伺い知れます。爆発事故は残念でしたが 四日市の誇れる産業であります。

ということで昭和33年の漫画界は サボらせていただきました。


昭和少年通信 ⑩ 昭和32年の漫画界

2022年06月19日 | レモン色の町

昭和32年は、1月 宗谷が南極に接岸、2月 岸内閣成立、9月 日教組が「勤評反対!」の闘争を(キンピョウハンタイ!といって授業が自習になった記憶があります)、10月 ソ連の人工衛星打ち上げ成功の年であり、四日市では、9月14日から1週間、市制60周年記念行事が行われ、大協石油(の油槽所)が浜町の東洋紡績跡地に竣工した年でありました。

漫画界では、水木しげるが、紙芝居作家から漫画家へ転身、はじめて兎月書房から『ロケットマン』を出しました。東京に第2の月が現われ、宇宙生物に乗っ取られた博士が怪獣に変身、最後は水爆で葬られるというSF活劇でした。

貸本業界では「母恋もの」が流行っていたが、牧美也子は巧みなストーリー展開とデッサン力のすぐれた作品で登場しました。雑誌「少女」12月号には『白いバレエ靴』でデビューしている。

まんだらけオークションより「母恋ワルツ」の一部を見ることができます

東光堂/牧美也子「母恋ワルツ」 (mandarake.co.jp)

京都精華大学国際漫画研究センターのホームページより

牧 美也子 | 原画’プロジェクト | 京都精華大学国際マンガ研究センター (imrc.jp)

『赤胴鈴之助』は福井栄一(急死)から、武内つなよしが引き継いだ。必殺技“真空切り”を登場させた熱血武道漫画です。GHQの統制で禁止されていたチャンバラものが昭和26年の対日講和条約で解禁され、『赤胴鈴之助』もラジオ、映画、テレビで大ヒットしました。

水木しげると同じ、紙芝居作家から転身した白土三平も、巴出版から『こがらし剣士』でデビューを果たしています。のちの白土三平とは全く違った画風である。

貸本漫画界で“戦記物”が流行、ヒモトタロウは戦争のカッコよさをマンガで表現した。

これに対し水木しげるは後に、自分の戦争体験から『総員玉砕せよ!』などを発表し、戦争の悲惨さを訴えた。

昭和10年頃、日本製ミッキーマウスが次々と現れたが、トモブック社から「ディズニーブック」として『謎の河』が出版されている。

山川惣治は、戦前紙芝居で人気だった『少年王者』を絵物語バージョンで出版、ジャングルの孤児だった少年が“王者”と成長する物語で、当時の少年たちを勇気づけ熱狂させた。

(戦後一時期、当店の裏角に“白揚書房”があり、店内左奥の棚に並んでいた山川惣治の“ジャングルもの”を見て、絵の細かさと文字の多さに、これはムツカシイ!と感じたことがありました。)


閑話休題② 田宮模型と小松崎氏

2022年06月18日 | レモン色の町

プラスチック(合成樹脂)の誕生は、1990年代(1900年代 明治末期の間違いでございました。謹んで訂正させていただきます)初頭でした。それまで木製模型を作っていた田宮模型も、プラモデルに移らざるを得なくなったのです。かくして、金型に大きな投資をして出来上がった第1号が“戦艦武蔵”でした。ところが価格で他社に差が付き、当時のお金で500万円の大赤字を出しました。

続いて、社運をかけて作った第2号が、金型が造りやすい 直線的な形のパンサー戦車でした。その箱のパッケージを、田宮俊作氏は、当時の売れっ子のイラストレーター 小松崎茂先生にお願いしようと手紙を書きました。掲載雑誌を見て思いついたぶっつけ依頼です。

なぜ小松崎先生に依頼する気持ちになったのか?事の経緯を書き連ねました。製材所の工場が火事で焼け落ち、借金をかかえ再開したこと、木製の模型屋として軌道に乗ってきたところにプラモデルの波が海外から押し寄せ、泣く泣く木工用の機械を処分したこと、やっとの思いで出したプラモデルが売れず、さらに借金がかさみ、ふたたび木製の模型屋にもどらざるを得なかったこと、・・・苦境の道のりを、何枚もの便せんに綿々とつづり、「先生の絵におすがりして、なんとかパンサー戦車を売りたいのです」と、懇願しました。

そして、1週間後、返事すらこないと思っていた小松崎先生から直々の電話がかかってきたのです。「田宮さんですか、小松崎です。私があなたの会社を救いましょう。」こうして、田宮氏は千葉県柏市にある小松崎邸を尋ね、絵の契約を結ぶことができました。小松崎茂氏による田宮模型パッケージ完成です。

小松崎茂 画

1272夜 『図説・小松崎茂ワールド』 根本圭助 − 松岡正剛の千夜千冊 (isis.ne.jp)

そして、

0105夜 『田宮模型の仕事』 田宮俊作 − 松岡正剛の千夜千冊 (isis.ne.jp)


閑話休題 模型飛行機づくり

2022年06月15日 | レモン色の町

懐かしい模型飛行機づくりの記事が掲載されていましたのでご紹介します。

「私の模型初体験は、学校の授業で作った飛行機模型です。昭和17年、小学2年生の夏でした。戦時中は文部省の指導で、戦艦や戦闘機の模型作りが含まれていました。学校教材が模型作りへの入り口だったのです。」田宮俊作著「田宮模型の仕事」文春文庫より

遊び道具の少ない時代だったので みんな大喜びでした。部品の入った紙袋が配られ、開封する級友たちの目は輝きに満ちていました。

胴体はひのきの棒です。その先端に錘(おもり)となる材木を付けます。らっきょうを半分に切ったような形で、角ばった部分を小刀で削り落とし、まるみをつけて接着します。翼の枠組みは竹ひごです。そこに、ヤマトのりで薄紙を貼ります。授業中にはできないので、宿題となります。家に帰って早速つづきに取り掛かりました。

気を付けないといけないのは翼の部分です。竹ひごをろうそくの火であぶってたわめていくのですが、これは根気と集中力が必要な作業でした。曲げる部分をなめて濡らし、少しづつ少しづつ、たわませていくのです。

ロウソクの火の先っぽ。そこがいちばん温度の高い部分です。竹ひごの両端を持ち、軽く力を入れて曲げ、火に触れるか触れないか、近づけすぎぬよう、こがさぬよう、慎重に進めていきました。全神経を集中させただけあって、ひとつめの翼はうまくできました。まっすぐだった竹ひごが、火にあぶられることで軟らかくなるなんて、大発見をしたような気分でした。

すっかり得意な気持ちになり「翼づくり」を再開しました。しかし、休まず続けたのがいけなかったのでしょう。もう少したまわせればOKというところで、ミシリというイやな感触を指先に感じました。

やっぱり竹ひごを曲げるところで失敗するのは 私ばかりではなかったようです。