花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

我が愛しの映画館①湊座

2020年09月29日 | レモン色の町

四日市東宝劇場(写真集・四日市の今昔 樹林舎刊より)

 新町にあった「湊座」は、大正3年4月9日木曜日、新築落慶して関西歌舞伎一座が記念上演した。新町周辺は“湊小路”と呼ばれ市内第一の歓楽街となり、映画の普及とともに繁栄してきた。「湊座」は、昭和17年に東宝直営の「四日市東宝劇場」となり、戦災で焼失するも翌21年3月再開、焼け跡の真ん中の町で実演や、東宝映画を上映して人気を博していた。昭和38年10月に閉館を迎える。

 “旧四日市を語る”に湊座のことが書いてあった。

 新町のすずらん通りにあった。前にある小屋で木戸銭を払うと大人小人と書いた木札をもらう。木戸でこの札を渡してはいる。下足番に下駄を渡すと下足札をくれる。こうして畳の桟敷に行く。舞台は額縁式で回り舞台。花道は本・副の二本あり。本格的な芝居小屋であった。西側には茶屋があり、お茶子が忙しく立ち働いていた。拍子木の音で幕が開け閉めされた。

 上の写真は昭和3年の湊小路。椙山満監修の“四日市の100年”より。

この界隈は四日市一の歓楽街。バーや遊技場が並び、路地の向こうには歌舞伎劇場の湊座があった。

戦後、戦後再開した四日市東宝に「電光石火の男」の看板が見える。再映でございます。

昭和30年頃

四日市でロケがあった。浅丘ルリ子と赤木圭一郎が四日市に来ていた。

 


新 諏訪駅物語⑫近鉄四日市駅誕生2

2020年09月26日 | レモン色の町

昭和33年7月15日 中央通り南側のバス停にて 辻さんはカメラを構えた。

東洋電機と諏訪ランドリー前である。夕刻が近づいている。駅南側の地下道あたりから夕陽が差している。三重交通のバスは前が突き出たボンネットバスだ。

昭和43年のゼンリンマップ。駅前の様子だ。当時、駅前には噴水が上がっていて楠の木も順調に育っていた。

昭和40年7月15日 辻さんは、東へ下がって近畿日本鉄道 四日市駅を撮影する。近鉄ストアの並びには近鉄百貨店がオープンしている。

昭和53年のゼンリンマップ ジャスコA館に続きB館が完成している。

駅改札口付近の様子。結婚式があったのか?左の切符売り場で切符を求め、改札口から広い階段を降りると左右に伊勢・大阪方面、次に名古屋行き、そして湯の山と八王子方面のホームへ上がる階段があった。突き当りは西口へ通じる。


新 諏訪駅物語⑪近鉄四日市駅誕生

2020年09月21日 | レモン色の町

昭和31年9月短絡化が完成。スワ駅は廃止され 新しく近鉄四日市駅ができた。昭和32年 近鉄ストア完成の新しい駅 屋上には電光掲示板が輝く

左から大正6年・昭和6年・昭和35年の路線図である

大勢の人が押し寄せた。2階物販と食堂フロアから、中央通りを眺める人と人ひと

昭和33年7月 辻さんはカメラを向ける 三交バス停の向こうに駅の西側にわたる地下道があった。ここをくぐると 四日市競輪の場外券売り場がある

いつだろうか Webから掲載させていただいた。湯の山行と八王子行きが並ぶ 近鉄駅ホーム西側の写真だ。掲載いただいた方には心から感謝するが、どなたかわからない。

八王子線が 子供のように見える 今となっては 貴重な写真デアリマス

 


閑話休題 パーキングディ実施

2020年09月20日 | 諏訪商店街振興組合のこと

18日・19日諏訪新道発展会がイベント「パーキングディ・こどもまつり」を行った。

このイベントは、ヌーヴ1級建築士の石田祐也氏の提案を、諏訪新道が受けて行ったイベントで、久々の催事に子供たちは思い切り楽しんでいた。特に18日夕刻は、心配していた雨が収まり夕やみに包まれる中、とても良い雰囲気で行われた。

今回のイベントは、現在 四日市諏訪商店街振興組合が取り組んでいる中小企業団体中央会の「中小企業等課題対応事業」の延長として行われたものであり、勉強会の中で石田氏からの提案に「1111リンカーンロード(フロリダ州)」があった。すばらしいデザインの一言に尽きる。こんな駐車場だったら、大きなリスクを背負ってでも造りたいと思う。

書店・カフェ・イベントスペース・ブティック・個人住宅を内包した立体駐車場。各層の天井の高さは異なり、車止めにワイヤーを使用している。

オープニングセレモニーの様子。駐車場スペースを開放して行われたようである。

 


諏訪百貨店④

2020年09月19日 | レモン色の町

昭和37年9月5日 四日市スワ百貨店が開店した。エスカレーターは 近鉄ストアで経験済みだったが ここへも乗りに出かける。とにかく町で初めての本格的百貨店である。これで名古屋まで出かけなくても済む・・・と思っていた。

屋上からの垂れ幕には「三菱製品・・」までは読むことができる。

殺到する人。なんだか楽しそうであります。

昭和39年8月5日開店の興奮冷めやらぬ1番街の通り。春日八郎・山手満男から花輪が届いている。撮影時が確かであるとすると 上の階の文化センター開講の花輪が並んだのか?とすると 文化センターの取り込みに時間がかかったのか?謎は謎を呼びまする

昭和39年9月15日。公害の煙が漂う屋上ビアガーデン。左に商工会議所屋上に建つ 東芝のネオンサインが見える。

昭和40年7月13日のスワ百貨店前。ちょうど四日市商店連合会の中元くじ引きセールが行われている。

昭和43年のゼンリン地図 この頃になると 四日市シネマ・グランド、スパーサンシ、カワムラセンター、四日市東映と最も賑やかな頃だったか。

昭和43年頃は、いちょうやビル店となっている。住友生命・住友生命保険・マルモ物産・坂井歯科・池坊文化華道学院・スワ理容・諏訪ビル事務所が入っている。しかし10年後のいちょうやビルはアピカとなっていた。

4階か5階の中日文化センターへは通ったことがある。1階か地下の寿がきやラーメンは時々出かけた。あと記憶にあるのは、中途半端な広さと天井の低さだ。出店店舗の選定にも甘さがあったのか?長くは続かなかったようだ。

 

 

 


諏訪百貨店③

2020年09月18日 | レモン色の町

昭和35年12月20日 辻写真館さんから東北方向にカメラを構える。スワマーケット解体工事が始まっている。上から見ると、小さい建物の寄り合い所帯だったことが分かる。草野洋服店と白揚書房が望める。

昭和31年頃の航空写真。新しい駅を中心に街が造られていく。諏訪駅から名古屋へ、湯の山へ、八王子へと線路がのびていた様子が分かる。三滝通りと中央通りの交差点が、ロータリーになっている。

昭和39年6月 諏訪百貨店開店を目前に 1番街アーケードの地鎮祭が行われる。山本七郎氏をはじめそうそうたるメンバーが集う。右が関西電波、左が新徳化粧品店。

そして、4年以上の月日をかけて スワ百貨店が開店する。開店当日の白楊書房前(地鎮祭が行われていた場所)の様子。搬入車両と人でごった返している。近鉄ストアに続く四日市で2番目の新しい百貨店は、間もなく開店である。

 


諏訪百貨店②

2020年09月15日 | レモン色の町

辻写真館の辻俊文さんは 諏訪駅が廃止され 街の形態が新しい近鉄四日市駅へ移る過程を 克明に残された。取り除かれた諏訪駅と線路の跡地には 広大は空き地が残った。やがて1番街が形成されていく。

諏訪駅前にあった諏訪百貨店内部だが、下駄屋さんと裁縫屋さんは隣同士であることが 横に積まれた箱の山から想像できるが スワマーケット内部のどの位置にあったのか 分からない。

右側の箱の山と・・・

左の箱が一致する しかも 下駄が下がっているのが見える

諏訪百貨店から西(右)へ、らくだや洋品店・カメラの光栄堂・柏屋 と並ぶ

そこから路地があり 辻写真さんとスワン美容室に抜けていた 諏訪劇場の横に出たわけである

スワマーケット前から八王子線に沿って狭い抜け道になっていたのがこの通りだ。東から西向きに撮る。すでにひかりやさんが出来ていた。

辻さんへ抜ける狭い路地 その西に今村書店・スワン美容室・まるみやパチンコと並ぶが

昭和32年2月2日撮影

昭和33年7月18日の同じ方向の写真では 今村書店の前に食堂のようなものが出来ている。わずか半年余りに何があったのか?

この方向からでは 今村書店の“店”の看板だけしか見られない。

この人も 新しい駅を降りて 八王子線跡の路地を通ってきたのだろう。

 

 

 

 


諏訪百貨店①

2020年09月14日 | レモン色の町

戦後、焼け跡からか?空襲前か?とにかく諏訪駅が出来た時 駅前に諏訪百貨店が出来た。通称スワマーケット。公園通りから南を見た図。右に諏訪駅があり 狭い路地を白楊書房を通って抜けると諏訪劇場へ出た。文芸春秋の看板が見える。

右駅方向に建つのがマルモ物産

夕方近くになり店は賑わっている

西 諏訪駅方向に進んで 東を振り返る 片岡千恵蔵の「新選組」看板の少し手前がマルモ物産になる。諏訪百貨店の凌霜書房の奥さんが店の前に出てきている。雨が上がった。

前の写真と同時期に撮られた 本屋の奥さんが座っている。この奥に資生堂の看板が下がっている 雑貨屋さんか?

この奥 右は まつ屋 文房具店だ

買い物客でにぎわう まつ屋 暗い奥へ入っていくと八百屋・ボタン屋・下駄屋などが所狭しと並ぶ 奥の八百屋でスイカの切り売りを食べた記憶がある おかあちゃんにつれてってもろた

昭和35年頃になると諏訪駅は廃線となっている。駅前の諏訪百貨店は取り壊されることとなりビルを建てる構想がでた。

取り壊し間近の諏訪百貨店。凌霜書房も閉まっている(右側)

 

 


岡田屋呉服店の歴史

2020年09月12日 | レモン色の町

オカダヤ(現イオン)は、街の中心部を目指して移動していた。明治・大正期の岡田屋呉服店は、東海道の辻に呉服店を構えていた。

明治〜大正期の辻付近での道路工事の様子。岡田屋の看板が見える。

戦後、諏訪新道の拡幅工事が行われ、街一番の繁華街になるとここへ移動。

昭和29年の諏訪新道

昭和43年の諏訪新道(オカダヤは商品部となっている)

昭和40年頃か? 森さん提供:この右側にオカダヤがあった。

昭和33年4月、新しく出来た近鉄四日市駅前の一等地924㎡に2階建て オカダヤが誕生する。昭和34年11月百貨店申請をして2200㎡のオカダヤ百貨店に開店となる。この2階の西南角に小さなニュース劇場があった。ここでグレゴリーペックの“ナヴァロンの要塞”を観た記憶がある。この映画の封切りが昭和36年だから、ニュース劇場は、昭和33年〜38年の間に存在していたと思う。

昭和38年3月増床。売場面積5000㎡の総合百貨店となる。昭和44年2月ジャスコ設立され、オカダヤからジャスコに改名する。