花の四日市スワマエ商店街

四日市諏訪商店街振興組合専務理事の横道ブログ

失われた海水浴場⑪須賀浦海水浴場

2023-08-30 | レモン色の町

富田は古い町(アイの宿)。富田一色は漁村で、北の須賀浦海水浴場が広がる。“すかうら”と濁らないそうだ。なるほど地名の“天カ須賀”(あまがすか)は濁らない。中央に富洲原小学校があって、水泳着で須賀浦海水浴場まで走ったとお客さんから聞いた。

大正か昭和初期の絵葉書“富田海水浴場”着物姿の女性が歩く 準備?片付け?

町の真ん中に“東洋紡績(現 イオンの北ジャスコ)と平田紡績が鎮座していて、漁業と紡績で繁栄してきたことが分かる。

富洲原小学校と須賀浦海水浴場との間に、住吉町がある。昔の色街だ。富田の水谷さんに見せていただいた、昭和初期の町の案内冊子。その巻末に店舗の広告が掲載されていた。住吉町の町名が目につく。それだけ賑わっていたということだ。

賑わいぶりを伺い知ることが出来る

 

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失われた海水浴場⑩絵葉書の続き

2023-08-27 | レモン色の町

下総人さんが言ってみえる霞ケ浦競馬場の写真が“写された四日市”(四日市市博物館刊)にありました。

競馬場の東は入り江になっているのが分かります

現在は競輪場になっています。小さいころ(昭和30年代)海岸へ遊びに行って、砂浜から眺めたことがありました。怖いおじさんがたくさんいてお金をたくさん使うところと思っていましたが海側は静かで、競輪選手の荒い呼吸の音だけが左から右へと通過していきました。

最も印象に残る“海浜ホテル 霞洋館 新館大食堂”の絵葉書です。

余興の演劇は、午後1時から4時迄(昼の部)と午後6時から10時迄(夜の部)の二回上演の表示があります。どんな演劇が行われたのでしょう。うしろには女給さんが7名、三助さんとマスターらしき人がずらり並びます。お金持ちしか泊まれないかと思いきや、食堂の隅に立つ歓迎の花輪には“建清木工場?”とあり、会社の慰労会にも利用されていたのでしょう。しかし、テーブルにはビールとメニューと灰皿、それから千人風呂のモニュメントのようなものしか見当たりません。大した料理は出なかったのか?写真を撮るにあたって控えられたのでしょうか?モニュメントは何だったのでしょう。おみくじかな?全テーブルに必ず立っているようです。

前回掲載の台風により出来た入り江の図が、昭和10年の鳥観図の隅に伺うことが出来ます。これも舘さん所蔵で“写された四日市”(博物館刊)に載っていました。

明治20年代に大きな台風に見舞われ、それまで一直線にあった海岸松原が大きく欠損して入江になったと言われている。

同じく“写された四日市”博物館刊(舘さん所蔵)から“伊勢富田浜風景”。右が海水浴場ですから北向きの写真です。砂浜に葦簀張りの休憩所が並びます。遠くに岩山のようなものがみえていますが、噴水塔でしょうか?

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失われた海水浴場⑨二枚の絵葉書

2023-08-26 | レモン色の町

今週のGGシニアさんの動画は、オラお得意の「映画館巡り」でゴザイマス

(1) 「四日市の映画館/諏訪劇場/ロッポニカ四日市/三重劇場」 - YouTube

さて、本題に入ります 今回も お休みが多い割には 熱がこもっております さて、

“霞ケ浦別荘地帯“と題したこの絵葉書。後ろに川が流れていて、遠くにも松並木がみえます。そして、その間は広い池のような広がりが望めます。椙山満氏の”四日市市史“によると

海蔵川口の北は、また潮風のざわめく松原とその西寄りに小松の茂る広大な砂原があり、その先は海が入江になって入り込んで広い砂地を形造っていた。明治20年代に大きな台風に見舞われ、それまで一直線にあった海岸松原が大きく欠損して入江になったと言われている。昭和4年、この入江の周囲の天然の広場を使って霞ケ浦競馬場が開設されると同時に、海蔵側から競馬場の東に沿って堀切川の河口までは、地元の白須賀の農家の人たちが海苔粗朶(のりそだ)を海中に立てて、寒い冬でも胸まであるゴム長靴を履いて海苔作業をしている姿が見られたものである。そして、堀切川を境に北側の小松原は、大正12年から開設された高級住宅地、いわゆる霞ケ浦の別荘地帯、その隣は有名な“霞ケ浦遊楽園”という海水浴場だった。とかいておられます。

つまりこの“霞ケ浦別荘地帯”と題する写真は、分譲されて間もない別荘地を、堀切川と遠くに海蔵川を背景にして、北側の遊楽園側から撮られたと想像できます。昭和4年開設の競馬場はまだ出来ていません。

昭和53年の地図を参考に

もう1枚の“霞ケ浦遊楽園”と説明されたジオラマのような写真。中央に象徴的な“千人風呂”が建ちますから、隣の“アサヒビール”の大きな看板は“大食堂”になります。

昭和初期

隣の無料休憩所には“ライオン・・”の文字が、歯みがきでしょうか?“海遊館”を西入り口側から撮られた写真です。前の“霞ケ浦別荘地帯”と同じく、低空飛行で撮影されたもので、同じ時に写されたと推測できます。

“千人風呂”を海水浴場側から撮影された写真です。

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失われた海水浴場⑧霞洋館と三藤旅館

2023-08-25 | レモン色の町

掖済会が出来た明治41年に海水浴客のための臨時停車場が富田浜に開設され、昭和3年に常設駅になった。富田浜一帯は豪邸並ぶ別荘地となり、美しい砂浜を求めて名古屋方面から人が押し寄せました。

本町のまちかど博物館、水谷宜夫さんからお借りした海遊園案内を見ると、“霞ケ浦海遊園”が見られます。富田浜と霞ケ浦は南北にあったのですが、境界は明確ではなかったのでしょうか?

千人風呂

四日市博物館刊行の“写された四日市”には、昭和初期の霞ケ浦の一大レジャーランドである海遊園の様子が残されています。

三藤旅館入口

富田浜驛を降りて、海岸へ向かう土産物店通りを抜けると左には三藤旅館が建っています。

三藤旅館 内部

三藤旅館さんは現存していました。

霞洋館新館

その奥、富田浜病院までに、霞洋館があったのですが現在は駐車場になっています。

霞洋館大食堂

霞洋館雪月花の間

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失われた海水浴場⑦富田浜遊楽園2

2023-08-20 | レモン色の町

(1) 「四日市大入道/誕生の秘密/狸説」 - YouTube

大入道誕生秘話をつくりましたので、ご覧ください 私はこの狸説が有力だと思います なぜなら 蔵町の岩戸山の邌りが狸のお化けですから。岩戸山は、本町さんが引き継がれ 現在に残されています

さて、富田浜遊楽園跡地へ出かけた。一昨年前にも訪れたが、深閑とした風景だった。

富田浜駅を降りて海水浴場へ続く道の両側には、土産物屋さんが並んでいた。

左は別荘や旅館、食堂が軒を連ねる。その先右に、三藤旅館さんの駐車場看板があり、左に旅館が建つ。

千人風呂が望める風景

千人風呂入口風景か?明治ドロップの宣伝がみえる

天武天皇の立つシャワーも造られていた

千人風呂に朝日新聞の看板があるが、ここは霞ケ浦海水浴場か?富田浜遊楽園なのか?その境が分からない。その足で一昨年同様、向かいに建つ“うみてらす”へ上がってみたがやはり境は分からない。

スミマセン 一昨年前の画像です 今回は動画を撮りました この後、天武天皇が伊勢神宮へ向かって遥拝した額突山へ登ったが・・・それはもう 大変な蚊の大群にお逢いいたしました。久しぶりの蚊で 懐かしさ さえ感じました

 

 

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失われた海水浴場⑥富田浜遊楽園

2023-08-19 | レモン色の町

風光明媚な霞ケ浦は、白砂遠く連なり青松その間に点綴(てんてい)して、東は遠く駿河三の山岳を望み、知多半島は呼べば応えんとして内海鏡の如く白帆の去来する様は一幅の画面に似たり。西は伊吹鈴鹿の連山、延々長蛇の如く、或いは白雪の皓々たる夕陽の赫々(かくかく)たる亦捨てがたき眺めなり。若しそれ月明の夜 長汀(ちょうだ=波打ち際)に佇み、オゾンに満てる海気を吸い曳々(えいえい)たる欸乃(あいだい=漁夫の舟歌)をきく時、誰か詩情を禁ぜざるものやあるべき。 名所案内より

図之左図之右

元海岸であった場所に、岩谷(訂正:巌谷)小波の句碑がのこる。“涼しさや 松こしに見る 伊勢の海” この句は昭和5年7月22日、明治期の児童文学界の第一人者、巖谷小波が富田の造り酒屋“酒吉”の三代目当主伊藤吉兵衛を訪ねた折、富田浜に遊び 松こしに見える浜辺の美しさに感動して詠んだものです。 

それを富田保勝会が自然石に刻んで碑とし この地に建立しました。平成4年8月吉日

巖谷小波の碑

 

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失われた海水浴場⑤霞ケ浦

2023-08-18 | レモン色の町

午起海水浴場の北、堀切川を超える松原地域は大正11年から“霞ケ浦土地株式会社”の手によって高級別荘地が開発されていた。その隣が有名な“霞ケ浦遊楽園”となる。

竜宮城の門をくぐると霞ケ浦海水浴場入口、そしてタコのシャワー。これらを見ると、幼稚園以前に訪れていた気がする。

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失われた海水浴場④午起海岸 その二

2023-08-14 | レモン色の町

三滝川川口に掛かる大正橋の北詰めを松林に沿って歩く。石垣は海へ出ても続き、松林の間から海浜学校が望まれた。

ここでは昭和10年頃から夏休みになると、虚弱児童の為の体力づくりの海浜学校となり、鵜の森公園では林間学校が開かれた。

昭和11年

この松林を回り込むように100メートルも進むと、一気に白い砂浜が広がる午起海水浴場に出る。

堤防の石段下には、市内循環のバスの終点“午起バス停”があり、昭和4年からは夏季限定の“午起駅”が関西線に開設されて“はまかぜ”や“いそかぜ”が桑名や名古屋からの観光客を運んだ。

昭和27年〜39年にも三岐鉄道が国鉄乗り入れの臨時駅をつくった

現在

一方、四日市在住の子供たちは、タオル1本で徒歩や自転車で駆け付け、葦簀(よしず)張りの休憩所の横で海水パンツ一丁になると、熱い砂地を走るようにして海へ飛び込んだ。

昭和6年の午起海水浴場

午起の海岸は遠浅で、干潮時には400〜500メートルほども沖合に進めたが、途中大人の背丈ほどの深みが出来ていて、子供が溺れることがあった。海浜学校の方を回り込めばよかったのだが、知っている者は少なかった。太陽が傾き始めると、子供たちは脱衣場のシャワーで海水を洗い流し、さっぱりした気分で茄子(なす)や南瓜(かぼちゃ)畑の砂地を通り、ポプラの木の揺れる大正橋を渡って町に帰ったものである。 ※椙山満氏“四日市の海水浴場”を参考にさせていただきました。

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失われた海水浴場③午起海岸

2023-08-13 | レモン色の町

昭和29年、四日市幼稚園に通っていたころと思う。夏の午後、お母ちゃんの手に引かれて“すわとん”前からバスに乗る。ボンネットバスは諏訪新道から三滝通りを左折、突き当たったところを東へ曲がった。乗車時間は約25分、田んぼの中に立つ“午起バス停”に到着。バスを降りると角の食堂は賑わっていた。

昭和28年の空撮 バス停を降りて東へ 高浜住宅を抜け 堤防を上ると海水浴場が広がっていた

昭和13年 海水浴場の真ん中にある□が休憩所か?

正面には、立ちはだかるようにコンクリ―トの堤防が威容を見せている。堤防を上がって驚いた、そこには、海水浴で賑わう多くの人がいて別天地である。

昭和6年の午起海水浴場

よしず張りの休憩所の横で、お母ちゃんは私をすっぽんぽんにすると、素早く海水パンツをはかせた。休憩所の中では演芸が行われており、食べたり飲んだりおしゃべりしたりしていて、独特の“におい”がしていた。あの“におい”は何だったのだろう?すいか、飲食、人息、化粧・・・?そうだ!よそ行きの裸の臭いがしていたのだ。

昭和24年四日市の今昔より 三滝川河口の浚渫工事の様子 右端に午起海水浴場がみえる

そして昭和30年の小学1年生の時、学校から午起海水浴場へ行った。遠くには工場群が望め、人気(ひとけ)はなかった。体中に点々と重油のようなものをつけて帰ったので、お母ちゃんは私を店の包装台に立たせるとすっぽんぽんにしてカシュ―シンナーを脱脂綿に付けて体中をこすった。天井が低く、暗い店内に回転する扇風機がシンナーを吹き飛ばして心地よかった。お母ちゃんはお客さんと話をしながら脱脂綿で拭く“午起も汚れてきた、もう泳ぐことは出来やんのやなぁ”と・・・。四日市の海水浴場で泳いだのは、それが最後である。

この絵は、出口對石氏が描かれた“馬越の晴嵐(うまおこしのせいらん)”(知られざる四日市の面影 博物館刊)より です。7月頃の午起海岸でしょう。水が張られた田んぼの向こうには堤が広がり松林が望めます。真っ青な伊勢湾に浮かぶたくさんの帆船。入道雲が沸き立ち海水浴の季節がもうすぐやってくる、そんな静寂の午起です。気になったのは右下、田んぼの中に立つもの。重要なポイントになっているようですが、何でしょう?田植えの後の箱でしょうか?田圃の苗が風に揺らぎます。

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失われた海水浴場②掖済会と午起海岸

2023-08-12 | レモン色の町

昔の四日市祭りの様子をお話させていただきました ご覧ください

2) 「タイムスリップ/四日市祭りの歴史」 - YouTube

さて、明治41年 四日市港北に“海員掖済会”が出来、その前の砂浜は、掖済会前海水浴場として市民に親しまれました。海水浴は当初、レジャーとしてではなく、病気治療というか療養のために海水につかるとされていたようです。勿論ここではレジャーとして利用されていました。

掖済会

大正6年5月米国の飛行家アートスミスがここで曲芸飛行を行い、のちに海軍の飛行機が演技を披露しています。

これは港地区自治会さんがお持ちの大正13年の写真です。海岸に飛行機が停まっていて多くの人が見物に来ています。右の三滝川河口には石灰工場があって水のよどみが良く分かります。石灰工場のことは金津さんが“旧四日市を語る 第9集”に書かれており、1922年2月のブログで紹介しました。(申し訳ございませんでした、訂正でゴザイマス 1922年は2022年の間違いでござりました ご進言ありがとうございました)

2022年2月1日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

掖済会の隣には造船所、その南隣には牧場の草原が広がりたくさんの乳牛が放牧されていた。大正後期になると河口の堆積物で水が淀み、海水浴に適さなくなったため、三滝川北の午起海岸が、大正12年に整備され、午起海岸として親しまれるようになりました。

これは、午起海岸で行われた昭和18年5月の浦賀ドック(造船所)起工式の様子で、ここでは木造船が造られていました。昭和20年に遭遇した四日市空襲の折は、製造中の船が激しく燃えるさまが見られたようです。

この堤防の階段を上がっていくと、海水浴場の風景が一望できました。

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