花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め97国営化の後③

2020年07月28日 | レモン色の町

少し話はさかのぼる。明治40年、国会内は大乱闘の末、鉄道国有法案が閣議を通過した。私鉄である関西鉄道(かんせいてつどう)から公務員になった島安次郎は車両の全般を担当する逓信省鉄道作業局工作課長となった。機関車が1,118両、客車3,067両、貨車20,884両。国有となり雑多に集められたこれらの車両を3年がかりで整理し、形式を統一した。

島安次郎

「関西鉄道時代の磨墨(するすみ)」と島は名を呼んだ。明治30年から35年にかけて活躍した新鋭機はまだ10年と経たない。これも国有鉄道となって870形の形式名称で呼ばれることになる。

磨墨

そして『早風』を想った。関西鉄道は、この年になって、ピッツバーグ社から更に二機の「早風号」を購入しているという。経営者たちの無謀な競争ではあったが、島が改良した「早風」は、官営鉄道の機関車を制して堂々の疾駆ぶりであった。

早風

この頃、日露戦争(明治37年〜38年)が終わりポーツマス条約の結果、南満州鉄道を経て遥かロシアの国土を通ってヨーロッパに至る鉄道運輸計画が予定されていた。島は、望み得るならば鉄道網を統一し広軌改築を果たすべきだと強く思う。

島の考えは技術について原理的だった。原理的と言うまでもない明快な方向を技術は示している。与えられた条件の中で、最も効率が良い方向へ進み、質は必ず高い方向へ進む。機械工学でいえば、良いものを生み出す方向へしか、思考は進まない。劣るものを造ろうとして人は決して苦心し、努力などしない。これが明快な原理だった。