花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昭和の食と商店街 お祭りの諏訪公園

2017年09月30日 | レモン色の町

綿菓子のイメージです

第24回 お祭りの諏訪公園

9月24・25・26日は諏訪神社の大祭でした。祭礼に参加する子供はお休みで、午後には全校が休校となりました。諏訪公園には香具師の店が並びます。食べるものでは、綿菓子、ういろう、カステラ、リンゴ飴、イカ焼き、ラムネなど。その他おもちゃのくじ引きやスマートボールなどがズラリと並びます。

地球ゴマ

遊びに来た友達と公園へ繰り出します。香具師の実演をしばらく眺めていた後、地球ゴマ35円を買い求めました。

イメージでございます

公園から神社への途中に見世物小屋が出ていました。今でも四日市祭りになると、お化け屋敷が小屋を組んでいる場所です。“火喰い女”と称して呼び込みをかけ、時折幕を揚げます、女性の裸の背中が見えて、その向こうには呆けたような顔をした客がこちらを見ていました。ちょっと覗いてみたくなり友達の手を引っ張って中へ入ります。中ではおばさんがローソクの束を口に入れずに吹き消していました。出口で15円払います。本日の出費、計50円也。後日、友達の親からクレームがつきました。「うちの子が100円すべて使ってきた」と・・・。

四日市の昭和 樹林舎刊より

諏訪神社では、香具師の口上を飽きずにいつまでも聞いていました。袋の中の二つ頭の蛇を見せると云いつつ、最後には万年筆を販売していました。鋳物でできた小さな器具に針を刺し、下の穴から糸を入れると簡単に通せるというのもありました。写真をなぞりながらコンパスを動かすと、そっくりの絵が描ける拡大器を売っていて、早速家で試しましたが、うまく描けません。どうして描いたらいいのか、もう一度、叔父さんの描きっぷりを見に出かけました。

市民壇の前に、木下サーカスが来ました。数日前からテント張りの作業が始まると気持ちが高ぶったものです。巨大な鉄枠はオートバイが回転する時だけ中に入れます。上では数名の楽団がラッパを吹いていました。ストリップ小屋が来たこともありました。

猥雑で、怪しく、そして楽しいお祭りでした。

追記 昭和の食と商店街 その6

 ママ家でラーメンしか食べたことがなかったと書きましたが、近所のご婦人に聞くと、マカロニをおかずにご飯を食べたという事でした。マカロニサラダは、当時少しお洒落な食べ物だったのでしょうか。

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昭和の食と商店街 近鉄ストア

2017年09月27日 | レモン色の町

第23回 近鉄ストア

近畿日本鉄道は、大阪線と名古屋線との狭軌(線路の巾)の違いから中川駅での乗り換えが必要であり、スピードアップが悲願とされていました。その一手段として、国鉄(JR)四日市駅から急カーブで入る諏訪駅間の廃線化が決まりました。昭和20年後半のことです。工事は着々と進められ昭和31年9月23日、海山道駅~鹿化川分岐、鹿化川分岐~川原町駅間の短絡工事が完成、国鉄四日市駅を経由せず直線化されました。また、線路幅の統一化は、伊勢湾台風がきっかけとなり予定より早く終了しました。

撮影:辻俊文氏

辻さんの記録では、昭和32年4月、近鉄四日市駅が開業となっています。諏訪駅が閉鎖されてからの半年間は駅の業務のみが行われ、“近鉄ストア”は工事中だったのでしょうか?完成と同時にすごい人が押し寄せました。

改札口の様子

中央に改札口、向かって左が“乗車券売場”と“近鉄観光案内所”、右側には“近鉄ストア”があります。中央改札口から階段を降りると近鉄線と湯の山線ホームへ上る階段がそれぞれついており、突き当りが西口になっていた記憶があります。西口を出ると、正面の鈴鹿山脈を背景に工業高校と天理教が建つ荒涼とした風景が広がっていました。駅建物の左に外付けの登り階段があり屋上へ出るのですが、電光掲示板を見たさに勝手に上がり注意されました。昭和48年四日市駅が高架化されるまでこの駅は親しまれてきたのです。

近鉄ストア1階内部

近鉄ストアの1階は食品が中心だったようです。当時は珍しかったエスカレーターで2階へ上がると、衣料品、雑貨、玩具などのケースがコの字状にならんでいました。台風接近の日、玩具ブロック欲しさに長い時間迷っていた記憶があります。近鉄ストアの二階から中央通りを見渡すことができました。噴水を背に立つ青年の像、植えられたばかりの細い楠の木が並びます。

お子様ランチ、イメージ

建物に向かって左端に食堂があり、姉に連れられてお子様ランチを食べに行きました。これで名古屋へ行かなくても食べることが出来るようになりました。

昭和40年7月15日の駅前中央通り 右から 百五銀行駅前支店、近鉄百貨店、近鉄四日市駅。噴水の向こうに青年の像が見える

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昭和の食と商店街 だるまや

2017年09月26日 | レモン色の町

四日市市の今昔 樹林舎刊 チラシより

実物はもっとペラペラでした

第22回 だるまや

公園の南、サルの檻の東に“だるまや”が店を出していた。うす焼を売っている。鉄板に小麦粉の溶いたものを薄く敷き、キザミネギをふりかけソースを塗るだけのシンプルなもの。幼少の頃、姉が“お好み焼きをつくろう!”と云い、家で作ったのがこれだった。おいしくないと思い込んでいたが、後年、“らく天”で食べたお好み焼きで、オラの先入観は打ち消された。

昭和28年7月12日発刊の“名古屋タイムス”に、諏訪公園周辺の様子が書かれていました。再掲載です。

“聖なる教会”真ン向かい 紅い燈ともる特飲街 そのまた隣が幼稚園

〇 諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前、諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めたのが戦争直後、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在(昭和28年当時)七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。僕の家というのは、桑名町で同名の店を出して有名だった。主人は年うつり、いまやまるハゲとなった。ホセとカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイトをしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい。その方の御用は専らこちらと港楽園、春告園という特飲街がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会があったのを無理に赤線が出来たものらしい(昭和30年頃までは教会と赤線が並立していた)。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。

神社前の商店の並びが掲載されていました

〇 諏訪神社は信州の分身、9月25日から27日までが祭礼で有名な大入道やクジラ船の山車が出る。裏は公園、サルが飼ってある。のどかな雰囲気である。近所のパチンコ屋から軍歌(軍艦マーチ)が流れてくる。パチンコはさかんで満員「出やん、出やん」とガラスを叩いている。名古屋より甘いので、名古屋から出稼ぎに行ったらいかが?

〇 キャバレーやレストランもないが港へ入った外国船の船員が遊びに来る。町の人もなれていていい商売になるそうだ。だが、中にはタクシーの運賃を払わなかったり、酔っ払ってケンカしたりするのもあるとか。ベラベラッとやると言葉のわからないせいもあって、こちらはおとなしくなるそうだ。ノルウェー人が多いという。国際親善はうまくいっている、というのだろう。(文・川太郎、え・ワシズ泉夫)

やや乱暴な文章で、戦後間もない乱雑とした雰囲気が良く出ています。

新田町の西に連鎖街があったのでこの記述はまちがっています。

諏訪産業というのも初めて聞く社名で、公園周辺に家が建ち始めた経過に興味がわきます。

諏訪公園内に四日市幼稚園があり、公園の西に広い庭のカトリック教会がありました。Sちゃんと忍び込み築山に上り、はか南方を眺めると龍宮城のような建物,港楽園が望まれました。公園と幼稚園と赤線が混在した町、外部の方には不思議な光景に映ったのでしょう。

 

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昭和の食と商店街 公設市場

2017年09月25日 | レモン色の町

公設市場の場所

第21回 公設市場

お袋にくっついて市場に出かけた。食べるものは、市場で求めることが多かった。場所は現在の市役所の北側(線路沿いだったと思う)、道を隔てて2カ所に分かれており(当初、東側だけだったのが、後に道を挟んだ西側にも増設されたと記憶している)、迷子になるくらいの広さと賑わいを見せていた。大人たちは“こうせつ”(公設市場)と云っていた。開催日にあわせて一六三八市(現在も同じ)とも呼ばれていた。

買い求める物は野菜がほとんどだったが、野菜、果物、漬物、時雨煮、魚、貝類、穀物類、花々と様々な店が並んでいた。手を引かれ人ごみの中を進んで行くと、目的地にたどり着く。そこでお袋は店の人とひとしきり世間話をした。「おマケね!」という言葉が飛び交っていたのは、お馴染みさんへのお愛想だろう。付いていったのは多分荷物持ちの役目があったからだと思う。夏は黄色や白の瓜やスイカを求め、持って帰って水に浮かして冷やした。昨今、瓜はあまり見かけなくなったが、皮をむいて割り、種を取り出したものに塩をかけて食べた。塩をたくさんかけるほど甘くなると信じていた。

季節に応じた果物を楽しんだ。お正月にはこたつの上にミカンを山と積み、手が黄色くなるほど食べる。リンゴは皮のまま丸ごとかじった。種が出てくるギリギリまでかじった。夏ミカンは、飛び上がるほど酸っぱいので炭酸をかけたが、馴染めなかったので砂糖に切り替えた。法事に貰った和三盆の固まりをくずしてかけた。

親戚の裏手にイチジクの木があり取って食べる。折れやすい木だから注意して登った。秋になると柿や梨が出回った。お祭りと梨はセットになって記憶されている。ぶどうは小粒で種が詰まっていた。果物から季節を感じた。

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昭和の食と商店街 スワ百貨店

2017年09月24日 | レモン色の町

第20回 スワ百貨店

昭和31年9月、諏訪駅閉鎖に伴い駅舎は解体される。

リオ様のご指摘で修正を加えました

スワマーケットは、諏訪駅の南側にあった。戦後、駅前に小さな店が並びはじめ、一つの集合体となってマーケットが出来上がった。

 文房具屋さんは二階建てであることが分かる

辻さんが撮った解体時の写真を見ると成り立ちがよくわかる。内部はコの字型になっていて、書店や化粧品、文房具、下駄、ボタン、だんごを扱う店が写されている。食品の店は少なかったのか、あまり記憶がない。奥の八百屋で、ガラスケースに入った切り売りの西瓜を食べた覚えがある。持って帰るのではなくその場で食べた。店内は暗いイメージしかない。採光も充分ではなかっただろう。

新しく完成するのは巨大なビルである。当時、スワ百貨店の再建計画は難航したのではないかと考えられる。マーケットを出るもの、残るもの、新しく入るものと調整は4年間にわたり進められた。地権者の話はまとまり、昭和35年12月20日いよいよ解体工事に取り掛かる。白揚書房、草野洋服店が望める。

 写真集 四日市市の今昔 樹林舎刊より

建設中のスワ百貨店が諏訪劇場の向こうに見える。

 

そして、昭和37年9月5日、四日市スワ百貨店がオープンする。“四日市の街中に百貨店が出現した。もう名古屋へ行く必要はない”と。すごい騒ぎだった。自分の印象としては天井が低く、駅の東海ストアと比較して狭い感じがした。店舗の集合体だったため業種の調整がうまくいかなかったのかな?とも思う(食品は絶対外せないのだが・・)。

地下に“寿がきやラーメン”が出店していて何度か食べに出かけた。味は変わらない。

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昭和の食と商店街 お正月料理

2017年09月23日 | レモン色の町

第19回 お正月料理

“聞き書き 三重の食事”農文協刊は数年前にブログで紹介した。

 イメージ(上品すぎる写真)

“伊勢平野の食事”の中に“おじや”が出ていた。“雑炊(料亭の・・)”ではなく“おじや”は懐かしい言葉だ。

冷たくなったおし(味噌汁)に水を加えてのばし、その中に冷たく固まっている麦飯をくずして入れ、さらにネギを2~3本ほどきざみ込み火にかける。醤油味のものもつくる。水でご飯を洗い直し、かつ節や菜っ葉を入れて煮なおす。米だけを使って炊くおじやは、病人や幼児に滋養をつけるためにつくる。これには、かつ節、菜っ葉のほか、卵、じゃこなどを入れて炊く。子供たちが喜ぶ食べ物である。

お正月料理を再掲載する。

 

昔のお正月のごちそう

上から1段目:(左から)田作り、れんこんの煮しめ、なます、酒、2段目:煮豆、ごぼうの煮しめ、黒豆、3段目:こんにゃくの煮しめ、数の子、にんじんの煮しめ、しぐれ炊き、下:雑煮

12月29・30日に餅つきをする。もちは、お鏡、雑煮用ののしもち、あんこを中に入れた包みもち、そして搗きながら食べる菜もち、おろしもち、あんころもち、きな粉もちなどである。

おせち料理は、黒豆、田作り、数の子、煮豆、なます、煮しめ、(ごぼう、れんこん、ただいも、こんにゃくなどをそれぞれ煮しめる)、しぐれ炊き(かしわ、ただいも、にんじん、ごぼう、れんこんを一緒に煮たものなどで、2~3日前から下ごしらえにとりかかる。

雑煮は、丸餅で菜っ葉類は“無し”と云い、縁起を担いで用いないとあるが、当家では切り餅に菜っ葉とかしわを入れた醤油味だ。

お正月の雰囲気が遠のいた頃、お鏡餠を細かく割って揚げ、塩をかけておやつにする。カリッと揚がるといいのだが、大きいと芯が残ったりした。

餠を火鉢で焼き、炊いた小豆に入れて“ぜんざい”にした。餠はお店で買うものではなく、無くなると練った小麦粉を茹でて餠のかわりにした。(写真は、白玉で当時はなかった)

上の穴から米を入れて回すと、周りから米粉が出てきた

親戚へ遊びに行ったとき、おばあさんが石臼で生米を挽き、みたらし団子を作ってくれたことがある。店で買うのと違って何本もたべた。昭和30年初め頃までは、おやつは原則として家で作るものだった。

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昭和の食と商店街 三泗百貨店

2017年09月22日 | レモン色の町

第17回 三泗百貨店

昭和32年2月の早朝、辻さんは諏訪駅東にあった踏切跡から線路道を東にカメラを構えた。三泗百貨店は売り尽くしセールを行い、スーパーサンシに変貌を遂げる。看板にこう書いてある。

 

アナタの好きなお値段でお買下さい 早ければ良い品が 山と積まれ オソクナルトダンダン 値段が安くなる 此の売出は二日目ごとに一割づつ安くなります 一番最後まで残った品は 1000円の正札の品を 300円で買えることになります

三泗百貨店は、小さな店の集合体だった。薄い板張りの床をゴトゴト歩くと、文房具や画材、趣味の切手やコインの店が並び、東の隅に小さな食堂があった気がする。駅前の諏訪マーケットと成り立ちはよく似ていた。そして、店舗形態に変化が現れる。便利なスーパーサンシが出来て、まわりの生鮮三品の店は打撃を受けた。サンシの販売方法は革命的だった。野菜でも魚でもお菓子でも、一カ所で買い求めることができ、包装も変わった。新聞紙に包んだり、どんぶり持参で買いに行ったものが、レジで一つの袋に入れるようになった。

※ サンシの創業は昭和22年とあった。三泗百貨店は、1階がサンシの食料品売り場で2階が店舗の集合体だったか?昭和32年の改装をを境に、スーパーサンシになったと思う。

翌年の昭和33年、日清のチキンラーメンが35円で発売される。これも革新的だった。サンシの売り場には野菜の横にインスタント食品が山と積まれるようになる。当時、わが家には蓋つきのどんぶりがあった。チキンラーメンを袋から取り出し、お湯を注いで3分間待つ。(すぐおいしい♪ すごくおいしい♪)味は今でも変わらない。

当初はおやつ感覚だったが、煮立てる麺が発売されると、様々な野菜や卵を入れておかずにした。

中学生の時、学校から帰るとおやつを求めてサンシへ走った。お気に入りのチョコレート、それは不二家のダブルチョコレートだった。大きくて甘いチョコを、ガツガツ食べた。後日、学校の検査でカイチュウが存在していたことが判明した。

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昭和の食と商店街 餅つき

2017年09月20日 | レモン色の町

第17回 餅つき

お正月を控え、我が家では12月30日早朝に餠をついた。搗き立ての餠にあんこ、菜っ葉、大根おろしを絡めて食べる。それが終わると、お餅をリヤカーに積んで、姉と二人で朝日町の親戚の家へ運んだ。徐々に明るくなり、周辺の風景がはっきりと見えるようになった。

正月は商店街の店がほとんど休みになる。三が日を優雅な気分で過ごすためには、年末の内に買い物を済まさなければならない。

 辻俊文氏撮影

現在のグリーンモルを撮った辻さんの写真は、昭和34年12月30日とある。諏訪花園さんの店は、お正月の花を買求める多くの人で賑わっている。この年の9月26日、四日市祭りの最終日に伊勢湾台風が東海地方を襲った。人々は、嫌な記憶を払しょくするかのように正月準備に走る。

現在の三番街に“渡辺菓子店”があった。常日頃、S君と店を覗き、カバヤやグリコ、カルミンなどの駄菓子を買っていた。

その中に、エースコインと云うビスケットがあった。常日頃10円の小袋を買っていたのが、お正月向けに100円の千両箱が売られていた。これはコインの勉強にもなると買い求めたが、家に帰って笑われた。末っ子と云うものは、とかく小ばかにされやすい。

 

大晦日、お袋はお節料理づくりに余念がない。数の子・田作り・黒豆・煮しめ・かまぼこ・だて巻き・きんとん・昆布巻き・なますの定番で、元旦と二日は雑煮(切り餅を菜っ葉とかしわで煮、かつお節をのせる)を食べる。二日目には、大きな茶碗蒸しが出る。そして、三日目はすき焼きで、正月の締めとなる。

四日市市の今昔 樹林舎刊より

二日の夜、姉と友人を見送った後、煌々と電気をつけていた前田さんの店“ツル家”へ立ち寄り、濃縮ジュースを買い求めた。リッチな気分になって家路についた。

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昭和の食と商店街 パッカン

2017年09月19日 | レモン色の町

第16回 パッカン

当家の西にある路地を南へ進むと線路に出た。ここから右方向に諏訪駅が見えた。国鉄から出発した名古屋行は、軋み音を立てて急カーブを曲がり諏訪駅に着く。この線路は新しく近鉄四日市駅が出来た為、昭和31年9月に廃線となった。

 四日市の昭和 樹林舎刊より

線路が残る貴重な風景。諏訪駅前の踏切から東方向の写真だ。今気がついたのだが単線だった。左に草野洋服店の看板が見える。この先には旧東海道が通る諏訪前通りがある。

 撮影 辻俊文氏

昭和35年の写真は辻さんが撮ったもの。線路は取り外され道路らしきものが出来つつある。これから一挙に商店街が形成されていくことになるのだ。冒頭に書いたが、家から路地を入った突き当りに線路の柵があった。写真の左部分にあたる。人だかりがしているので“何か?”と覗くと、柵を背に“パッカン屋さん”が店を出していた。というよりも、幼稚園児の自分にはそれが何かはよく分からなかった。器械を火にかけて、ぐるぐる回している。

しばらく見ていて、ふと気がつくと周りには誰もいなくなっていた。そして、その瞬間は突然やってきた。

 バッカーン!

当時は鍋などの入れ物に“お米”を持って行った。“パッカン屋さん”は、そこから大部分のコメを抜き取り、お菓子にして返した。網から開けられたパッカンは、一斗缶に入れ水飴を加え、素早くかき混ぜられる。出来立てで温かいパッカンは、程よい甘さで店頭のお菓子よりずっとおいしく感じた。

 間違いがあればご指摘ください

線路に出た西側には草野洋服店、反対側には諏訪前通りに抜ける路地、その左側に腕の無い多田さんの駄菓子屋、向かいには、線路を背に山本さんの小さな店があって一度だけ遊びに行ったことがある。紳士服ヤマモトさんは、この後一気に成長する。“フランスへ行きたしと思えども・・・(萩原朔太郎作)”は山本さんの好きな詩だった。

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昭和の食と商店街 スワサロン

2017年09月18日 | レモン色の町

 

第15回 スワサロンさんの巻

“海底人8823”を知っているだろうか?昭和35年のお正月から半年間、テレビで“海底人ハヤブサ”と云う番組をやっていた(♪8823謎の人 8823海底人 正義の勇者だハヤブサだ~)。

写真提供:故辻俊文氏 右にスワサロン

現在のすずらん通り 下が東

土曜日の午後、学校から帰って、近くのスワサロン(現在も営業中)でパンを買い、食いつきながら観た記憶があるが、調べてみると放送時刻は18時30分となっている。勘違いなのかもしれない。とにかく菓子パンを食べながらテレビを観ていた。それから、貸本屋で借りてきた漫画(影、探偵、忍者武芸長、ロボット三等兵等)を見ながらまどろむ。畳の上に西日があたり、影がだんだん長くなる。通りからは北勢堂の音楽が流れてくる。曲に交じって帰りを急ぐ靴音が聞こえる。諏訪新道方面から来た人々は嶋口屋の路地を通り、諏訪駅跡を通り抜けて新しくできた近鉄四日市駅へ向かって行った。

ロバのパン 蒸しパンを販売しており、当初ロバが曳いていたが、後年、自動車になった。流れる曲は変わらず。

当時、スワサロンは喫茶と店頭で菓子パンを販売していた。記憶にあるのは、真ん中の凹みにマーマレードが入っているぶどうパンで、砂糖がかかっていた。

懐かしい菓子パンを並べてみる。

 

コッペパンは給食に出たが固くておいしくなかった。半分に割って中身をほじくり出す、もう半分の皮をその中に詰め込んで持ち帰った。朝、炊き立てご飯の上にのせて蒸して食わされた。まちで売られているコッペパンは柔らかく甘かった。店の人がナイフを入れ、ジャムやマーガリンなどを好みでつけてくれた。

 

“コロネ”と云う名前だそうだ。このパンもよく見かけた。ジャムやチョコレートが入っていて、四角いセロハンが張り付けてあった。

 

いくつかの山を割って食べる。それぞれジャムやクリームなど違ったものが入っていて、一個のパンが何個分も楽しめた。

クリームパン

揚げアンパン?

ねっとりしたクリームの真ん中に、サクランボのようなものが乗っかっていた

これは懐かしい。名前は分からない。少し硬めのパンで何も入っていなかった。よく食べました。

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