花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め85関西鉄道⑮

2020年07月06日 | レモン色の町

関西鉄道大仏駅について(駅跡地に建つ記念碑より)

明治28年に草津・名古屋間を全通した関西鉄道は、柘植から大阪方面への進出をはかり、2年後の30年11月に加茂まで開通した。

ここから梅谷を経て黒髭山トンネルを下り、明治31年4月、この地の北側法蓮の交番所の南あたりに大仏駅を設置した。この鉄道は、市民・観光客にも親しまれ、大仏詣での人たちもこの駅で下車し、一条通りを通って東大寺に参拝していた。奈良駅へはその年の12月到達したが、乗り入れが実現したのは翌32年5月であった。その後、路線が木津経由に変更となり、明治40年8月までの約9年間で廃止された。

昭和39年頃までは、トンネルも残っていたが、当時の面影は今は見られない。

    平成4年4月   奈良市

前々回紹介の高山禮蔵氏の解説「関西鉄道の黒髭山トンネルなど」(昭和50年発刊)の続きである。

しかし、この区間の線路状態は、大仏駅を発車した列車が一条通の踏切を過ぎると黒髭山トンネルまで約1キロの間を、蒸気機関車では限度一杯と思われる約1000分の30の登り勾配で構築されている。トンネルは約100メートル程度の短いものであり、その先の丘陵地帯も緩やかな下り勾配で加茂駅へ向かうのである。従って、大仏駅を発車した列車は急勾配を登るのに苦労し、加茂駅を発車した列車はトンネルを過ぎると、乗客は眼下に広がる風景、巨大な大仏殿や興福寺の五重塔などの姿に心を奪われたかもしれないが、機関士は当時ブレーキ装置の貧弱な列車をピタリ大仏殿に停車させる苦労がつきまとった。

昭和39年 

写真で見るようにトンネルの入口には社紋が2個取り付けてある。それにしてもこのトンネル、出来上がって約10年間汽車が走ったが、そのあと約60年は道路として使用され、昭和40年頃、道路拡張のため取り壊され切通しとなっている。トンネル跡の南西方にドリームランドがあり、ジーゼルエンジンで走る帝国車輛(現 東急車両)製の「義経号」が「開拓便」型の客車を引っ張って走っているのもこのトンネルを走った汽車と何らかの目に見えぬつながりがあったのかもしれない。

閉鎖後のドリームランド

中学生の頃、奈良のドリームランド(昭和36年〜平成18年)を訪れた。その後、子供を連れて再び出かけたが、往時の賑やかな面影はなかった。開拓史ゾーンのあった覚えがあるが、「義経号」を見た記憶はない。

当時の「義経号」

<追記> 只今、ネットで“磨墨”=“加茂駅構内”の写真を見つけた。機関車庫の全景が写されている。もう少しはっきりした写真が見たかったが・・・。

加茂駅構内

同じ写真だ

コメント
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