花の四日市スワマエ商店街

四日市諏訪商店街振興組合専務理事の横道ブログ

ぶらり四日市 その五十四 中央道路で博覧会④

2023-06-30 | レモン色の町

会場内を水谷さんの資料から紹介させていただきます。

木下サーカスが来ていました。

府県館の内部。岐阜提灯が展示されて、堺の刃物の看板がみえます。

農機具実演では牛さんの登場です。最新式農機具との比較でしょうか?その後ろには、お寿司、丼物、酒、ビールの販売所が並びます。

三重交通の線路をまたぐと、子供の国でした。後の工業高校あたりまで伸びていたのではないでしょうか。

三重館の内部。大衆衛生飲料と掲げられた下にはサイダーの瓶のようなものが並んでいます。

大入道の演技は人気を集めました。水谷さんのお話では「大入道館」があったとおっしゃってみえました。

四日市パノラマ。四日市の将来の俯瞰模型が、停泊中の船舶から眺望できるようにつくられていたそうです。

閉会後の航空写真。左に市役所。四日市の今昔より 国鉄四日市駅前付近の工事が遅かったようです。会場の配置が分かるような跡地の様子です。これから中央通りの工事が進みます。

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ぶらり四日市 その五十三 中央道路で博覧会②

2023-06-26 | レモン色の町

昭和27年の博覧会は、農業による生産振興が大きな目玉でした。趣旨の一文に・・・

中央通りやや東側から駅西にかけてが会場でした

『食料の増産と農業の効率化、高度化を推進する一助として 農機具並びに資料を工業者の自主的参加により全国よりこれを集めて一堂に展示、実演し併せて政府当局の権威ある「昭和27年度最高審査」を実施し、農業機械化の促進と農機具の改良 並びに農機具工業振興に対する指針とするとともに 輸出の増強に資するため 遠く海外関係者に新生日本における農機具の実態を紹介すること。』とあります。会場ではこんな光景が見られました。

うし!

家畜パラダイスのコーナーでの様子でしょうか?後ろの売店では、寿司・お酒・ビールが販売され、隣では丼物の店舗ば並びます。近所の太陽堂さんは当時、カレーが飛ぶように売れたと話していました。町の飲食街と何ら変わりはなさそうですが、それでも大盛況だったようですね。

運営委員会では開催にあたり、来場者数を増やすため抽選権付の前売り券を販売しています。

◇前売り入場券について

⑴発売価格:前売り券 80円(大サービス景品付き抽選券としかも特別サーカス券付で全館無料で観られるお得な前売り券です)

⑵発売総組数:10万枚を1組とする8組(C,D,E,F,D,H,I,J)

⑶抽選期日 場所:昭和27年4月1日 会場内野外ステージ

⑷景品引換期日:抽選の日から会期中

⑸景品引換場所:四日市市幸町 四日市博覧会事務局

景品内容:全線優待乗車証付三大電鉄株(近鉄・名鉄・三交)2000株(選択自由)4本 そのほか7万名に当たる豪華な景品です(株券です!しかし4本とは トホホ 他の景品に期待しましょう)

そして、開催にあたっては、神職によるお祓いが野外ステージで開かれました。現在では考えられない光景です。

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ぶらり四日市 その五十二 中央道路で博覧会①

2023-06-25 | レモン色の町

諏訪公園でタイムスリップを GGシニアさんにアップしていただきました。是非ご覧ください!

(1) 「四日市諏訪公園/明治39年からタイムスリップ/ 昔の写真をご紹介」 - YouTube

太平洋戦争終結に伴い48の連合国と日本の間でサンフランシスコ講和条約(正称は対日平和条約)が結ばれたのは、昭和26年9月8日のことでした。これを記念して、四日市では昭和27年3月25日より4月23日まで大博覧会が開催されたのです。正式名称は“講和記念 全日本農機具 新日本産業 大博覧会”で、全国の農機具と物産品を紹介することで産業の振興と貿易港四日市の発展を願う博覧会でした。

会場入り口 三滝通りから南 市役所角の交差点に向いて

さて、4万坪を必要とする博覧会会場を何処にするかということで、当時、戦後の都市計画で整地されつつあった省線四日市駅より計画中の近鉄四日市駅までの約1kmにわたる幅70メートルの中央道路に白羽の矢が立ちました。博覧会会場にすることで立ち退き問題も一気に進んだと紹介されています。

市役所屋上から南東に向いて 右上ステージの外に橋本外科がみえる そして会場の真ん中に平和の女神像が・・・裸体で!

おもしろい点が二つ。戦後の食糧増産の為、農機具に力を入れていることと、豪華賞品が当たる!抽選権付前売り券を発売していることでした。

現在 市民公園に立つ平和の女神像 この時は白かった!白くて太っていた?

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ぶらり四日市 その五十一 ダイヤモンドクロッシング③

2023-06-24 | レモン色の町

明治44年4月12日、三重軌道は政府に“工事認可の延期願い”を出す。“津市の神田工務店へ依頼して再調査しているが、提出期限の6月30日に間に合わないので延期してほしい”と。一生懸命調整をいたしておりますと・・・

タイムリミットは近づいています。というのも、次の地図は明治44年発行です。赤い線路は敷設予定線ですから、既に“ダイヤモンドクロッシング”は回避されて、現在の1番街から四日市驛へ向けての線が計画されています。注意したいのは、二社の線路が共同線になっていることです。この段階でダイヤモンドクロッシングは避けられています。

たいじゅさんからお預かりした書類です。認可を受けた後の明治45年(大正元年)7月1日付で三重軌道が県知事宛てに出した“停留所設計変更及び増設認可申請書”によると。

終点の日野と室山に貨物専用の停留所を設けて欲しい旨の申請がなされています。それも、人の利便性を優先するも“やむを得ず”という雰囲気にとれます。貨物よりも人の運搬が大切、という鉄道省の顔色をうかがいながら、したたかに敷設を計画していた三重軌道さんではなかったのか?と勘繰ってしまいます。

最後にたいじゅさんに指摘いただいたことで、明治44年の地図をみると、新田町から斜めに諏訪新道へ出る細い道があります。戦前から“嶋口屋の瀬古(世古?)”といって当家の前から市役所や高等女学校へ出る、戦後は諏訪駅から諏訪新道へ出る近道でした。この道が、三重軌道の計画路線の名残りではないか?ということでした。昭和15年の地図の方が、斜めに通る細い道が分かります。ロマンです。

その後、たいじゅさんからご指摘や資料を頂戴しましたが、ダイヤモンドクロッシングを巡って鉄道省との間に様々な交渉があったようです。当初に計画されていたクロスする諏訪驛付近(=保光苑停車場と名付けられていた)の位置が、戦後の諏訪駅に当てはまるのでは?ということも知りました。

たいじゅさんありがとうございました。

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ぶらり四日市 その五十 ダイヤモンドクロッシング②

2023-06-23 | レモン色の町

たいじゅさんから送られた貴重な古文書?より ありがとうございました

明治43年1月15日、三重軌道は四日市・室山間の軌道布設を願い出た。その年の3月18日、三重県知事から、四日市鉄道(四日市・菰野間)の方が有力であるが、三重軌道との国道付近での交差が危険であると申し添えが来た(三重軌道は焦ったか?)。この時出されている計画図がこれだと推測される。

ここに“ダイヤモンドクロッシング”と呼ぶ交差点がある。

三重軌道側が描いた略図か?

そして、7月21日、三重軌道が四日市鉄道と話し合った結果を答申している。

“四日市軌道は貨物を、三重軌道は人を運ぶのを主としている(ってこれ逆ではなかったのでしょうか?)。交差を避けるのであれば二社の共有路線は不可能で、浜田の北起の運河(阿瀬知川)から両社並行して関西線の四日市駅へ伸ばすしかないが、三重軌道は公道を、四日市鉄道は専用道路を各々で敷くしかない”と答えている。

椙山満先生も、三重軌道は貨物(阿瀬知川沿いに走らせるのが有利)で、四日市鉄道は菰野、湯の山方面への人を運ぶに有利であると書かれていたが?逆になっていて混乱する。

軌道鉄道の認可には、人の利用が有利で、貨物はその次ではなかったのだろうか?三重軌道は初めから四郷地区の産品を四日市港まで運び出すのが目的だった。だから人の乗り降りが多くありそうな諏訪新道を取ったのでは?一方、四日市鉄道は認可されるのに余裕があった?と勘繰りすぎでしょうか。三重軌道さんの焦りが垣間見えるようです。つづく

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ぶらり四日市 その四十九 ダイヤモンドクロッシング①

2023-06-20 | レモン色の町

「日露戦争が終わる明治の末期になると、政府は鉄道政策を打ち出し、全国に軽便鉄道ブームが起きた。」椙山 満著“ふるさと点描”より

「当時、自動車はなく、完全な道路もなかった時代、鉄道の開発は地域開発、農村振興のための急がねばならぬ国策の一つであり、多くの地域社会が鉄道の導入を熱望していた。時の鉄道員総裁 後藤新平は、全国の私鉄の国有化と合わせて、民間の投資と運営による地方の鉄道敷設に補助金を出しその発展を促した。明治43年“軽便鉄道法”が施行される。」

明治43年1月15日 三重軌道は四日市・室山間の鉄道敷設を願い出る。(たいじゅさんの持ち込まれた資料から)そして、この時は前回ご紹介の通り“諏訪前道路に軌道布設の件”とある。この段階では、諏方神社から東へ、諏訪新道・沖ノ島・四ツ谷の道に敷く予定だった。

ところが、明治43年3月18日に四日市鉄道から三重軌道の申請コースと交差するので危険であるという申請がなされている。

たいじゅさん貴重な資料をありがとうございました

三重軌道の諏訪新道コースを変更していただくか、クロスする地点を共有にして立体交差を避けたいと願い出ている。どうする?三重軌道さん?

つづく

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ぶらり四日市その四十八 三重軌道敷設計画

2023-06-18 | レモン色の町

GGシニアさんが、昭和11年の1枚の絵葉書の謎をアップしていただきました。

(1) 「四日市の写真で/昭和11年にタイムスリップ/ 四日市港沖には・・・!!」 - YouTube

さて、たいじゅさんからお預かりした貴重書類です。

明治42年10月、三重軌道敷設にあたり取締役社長の九鬼門七氏は、当時の総理大臣 桂 太郎氏と県知事宛てに申請書を出しています。たいじゅさんは、その時の書類を取得されてみえたのです。驚きです!何という根性でございましょうか。

右から②右から①

三重軌道敷設は、室山方面の糸、味噌、醤油などを四日市へ運び、港から地方へ輸出するのが目的でした。従って、始発は阿瀬知川沿いで計画されました。そこから、関西線の線路沿いに北へ、本町踏切の手前当たりに三重軌道四日市驛を設置、西へ折れて諏訪神社へ向かう真っすぐの道沿いに沖ノ島(郵便局あたりか)・諏訪(三菱UFJ銀行付近)。南へ折れて江田(サンシの東海道を挟んで東側あたりか)・鵜の森(崇顕寺の西側?ここには第五小学校=浜田小学校が建っていた)・浜田(ホテルキャッスルイン四日市の東?)・北赤堀(300メーターほど進んだところ)・南赤堀(現在の赤堀駅付近)から日永(ほぼ現在の場所)へ続きます。

右から④

右から③

日永から東日野(東日野2丁目7の堤防から西へ降りる枝道あたりか?)・後藤(現在の西日野バス停付近 それにしても なんで後藤なんや?)・西日野(現在の西日野駅よりも西。三叉路あたり?)・役場前(現在の四郷小学校前バス停より東、天白川に架かる八幡橋あたり)・笹野(白梅醸造の東角。役場前から300メーターほどしか離れていない)・製糸前(室山郵便局の少し東)・室山(後の終点八王子駅)と計画にあった。2~300メーター間隔で驛を造る予定だった。狭軌の線路を小さな機関車がゆっくり走るには、充分だったのだろう。この後レールは、水沢まで伸ばす計画もあったそうだ。たいじゅさん貴重な資料をありがとうございました。ロマンでゴザイマシタ。

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ぶらり四日市 その四十七 四日市驛周辺⑤

2023-06-14 | レモン色の町

四日市の100年の写真を見ていたら、

大正11年に出来た西驛。前の広場が舗装されるのに数年かかっている。左端に東驛とつながる陸橋がみえる。

左に西驛の裏側がみえる。南から陸橋を見た写真

岡野先生が描かれた陸橋 西駅の位置が良く分からないので

昭和15年の地図と

空襲後の空撮を比較してみた 東驛に比べて西驛は南へ下がっていたようだ。朝日町の親戚の裏が墓地でよく遊んだが、善光寺の敷地内の墓地だったようだ。現在も公園として残っている。

善光寺南側の官舎跡もよくわかる。この空撮は何時まで見ていても見飽きない。

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ぶらり四日市 その四十六 四日市驛周辺④

2023-06-12 | レモン色の町

GGシニアさんに本町タイムスリップをアップしていただきました 一度ご覧ください

(133) 『タイムスリップ/四日市本町通り/四日市西駅』 - YouTube

この写真は、下総人様からの1冊で、今はJRさんにお預けしてあります。お題は、椙山 満著“思いで写真をめぐって”。下総人様、ありがとうございました

明治40年頃の四日市東驛。大正11年に伊勢電鉄が乗り入れる西驛が出来るまでは、四日市の玄関口でした。明治40年に関西(かんせい)鉄道は、国有化されています。驛舎右側に建つお堂のような建物が便所、その手前に油庫があり、向こうにSLの煙がみえます。赤ちゃんをおんぶしたお母さんが立っています。

椙山先生は『明治23年の年の瀬も迫った23日、ここに英国製機関車の黄色い汽笛が鳴り渡って関西鉄道は草津まで創業を始めた。この写真は国有化前後のものといわれる。母親の背から汽車を眺めていたこの子たちも私たちと同じレールファンになったであろうか?』と書いてみえます。

たいじゅさんに見させていただいた東驛前の青写真です。“ランプ室”は“油庫”のことでしょうか?写真では関西鉄道のマークがついていると説明されていました。

左下が貨物取扱所でした。石畳に欧米風のハイカラなポーチに柱が何本も並びます。図面矢印の位置、入口の木戸から駅前広場の北方向に撮られた写真です。この建物は、昭和20年6月の空襲で焼け落ちるまで残されていました。

この石畳を貨物ホームに沿って行くと、運河の向こうに欧米風赤レンガ建ての関西鉄道四日市整備工場が望めました。

この突き当り 南方向に四日市驛が建っていました

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ぶらり四日市 その四十五 四日市驛周辺③

2023-06-11 | レモン色の町

たいじゅさんからお預かりした 大正11年の青写真で、四日市驛周辺をもう少し徘徊してみましょう。この書類は、東驛前にあった官舎を線路の西側に移転させるにあたって鉄道省より出された申請書で、但し書きには、正式な文書はすでに提出済みであり、これは差し戻された要訂正の書類であるとなっていました。(注:Tさんからは他にも文書をお預かりしており、これが差し戻された文書に該当しないことを教えていただきました。該当書類は、他の議事録であったと思われます。謹んで訂正いたします)しかし、当時の風景を想像するには、充分魅力ある図面でゴザイマス。

前回記載の合同駅の位置ですが、もう少し東(線路側)に寄っていたと思われます。

大正11年の別の図からは 伊勢鉄道が諏訪駅までの買収が終わっています

西驛開設が大正11年とありましたから、この年に合同駅は取り壊され、同じ場所に西驛が出来たことになります。忙しい年だったようです。

青写真の赤の➡位置

上の写真は、大正8年で踏切から南(駅舎方向)に撮られています(矢印)。右側に合同駅の玄関口があります。左の東驛で降りた客が伊勢線へ乗り換えようとすると、いくつかの線路をまたいでいく必要がありました。

現在

この写真は、再掲載です(四日市の100年より)。昭和3年に完成した伊勢電鉄本社(現:本町プラザ)から西驛を撮ったものです(昭和5年撮影)。四日市駅をスタートした電車が善光寺カーブを曲がって諏訪駅へと向かいます。このカーブの突き当り、西驛の位置に合同駅がありました。三重鉄道の給水塔が驛の手前に残っていると椙山先生は解説してみえます。駅舎の裏には陸橋がみえますが、ホーム階段を挟んで東驛に繋がっていました。ホームには名古屋行の客車が停まっているのが見えます。つづく

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