花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

三重県ご当地グルメ大会反省会

2010年05月31日 | 諏訪商店街振興組合のこと
去る4月3・4日、エキサイト四日市・バザールの一環で、グリーンモール商店街を会場に「三重県ご当地グルメ大会」が開催され大変な評判を呼んだ。その打ち上げ会が、5月30日津新町の“金鍋”というちゃんこ料理屋であった。
“四日市とんてき”“津ぎょうざ”“亀山みそ焼きうどん”“名張の牛汁”そして鈴鹿からと、三重県のB級ご当地グルメのスタッフ約50名が一同に会した。
事前に、第2回の開催会場であったエキサイト・バザール側にもご招待があったので、アビオンの堀木氏とともに出かけた。
異様な熱気に驚いた。皆でご当地グルメを広めたいといった熱意に圧倒された。
営利に走ろうという気はまったくない。B級グルメを全国の仲間と発信したいという純粋な気持ちが伝わってくる。三重県をはじめ全国でイベントを開催してその成果を喜びたい、そんな心意気が感じられる。
しかし、皆さんが一番に気にかけてみえること、それは、市民の反応だ。“われわれが懸命に取り組んでいることが、はたして喜んで受け入れられているのか?”
私から見れば至極当然なことで、エキサイト・バザールでも大きな反響を呼び大成功を収めたことなのにと思っているのに、彼らにとっては、もっと確かな手ごたえが欲しいと望んでみえるようだ。
懸命に取り組めば取り組むほど、成功すれば成功するほど周囲との距離感を感じる。皆さんは、大きなリスクを背負っているのだ。そんな中で、仲間同士と介する場ができれば、ともに共感する場として盛り上がってしまう。
今まさに旬であるB級グルメを思い切り発信し、全国に宣伝してください。必ず市民権を得ることでしょう(すでに得つつあるのですが)。そしてまた、エキサイト・バザールに帰ってきて、イベントを盛り上げてください。

江國香織さんの「やわらかなレタス」

2010年05月29日 | おいらの商店街
本日は、四日市の街が元気になるお話デス!
トイレデビューを果したばかりの週刊文春をみていて、思わず立ち上がった。
“やわらかなレタス”という江國香織さんの連載エッセイに「ごちそうの巻、あるいは魅惑の四日市」とあった。江國さんは“号泣する準備はできていた”で直木賞、“東京タワー”や“間宮兄弟”などを書く小説家。
二泊三日で三重県の四日市市に出かけた、と始まる。
「ご縁があって、もう随分ながいこと、年に一度は出かけているのだけれど、その度に感動する。四日市は不思議な街だ。ひっそりとしていて静かなのにどこかが混沌としていて、のどかなのに何かが烈しい。風通しがよくて、私の印象では、中年以上老人までの年配者と、子供が妙に自由奔放。そしておいしいお店がたくさんある」
四日市に到着した江國さんは、「童話塾」のワークショップを訪れた後、その夜はお寿司をご馳走になる。
「秘密クラブみたいなお鮨屋さんだったので驚いた。入り口の扉はどちらかというとバーの風情。カウンターを前に黒皮の椅子が並ぶ」最初は違和感をもった江國さんだったが、座り心地、居心地がいい。
「実に計算されているのだった。それに空気が非常に清々しい。訊けば、先代の御主人が“店は水洗いが基本”と定めたそうで、カウンターのみならず壁の白木も水に強い樹木でできていて、床は勿論石なのだった。そこで次々供されるお鮨の、豪華絢爛なことといったら!この店の裏は竜宮城か?と訝るほどだった」
          
これは“鷹鮨”でしょう。それに違いありません。そこで早速、鷹鮨さんへ確認に。
旦那はお店の準備中。「そうです!」とにこやかな回答が返ってきました。
翌日、江國さんはトークイベントとサイン会。そしてこんな感想が。
「この街は何だって起り得るのだ。工場の煙突が煙を吐き、シックなジャズバーが幾つもあり、フランス海岸(俗称)と呼ばれる美しい海辺があり、春には土筆が生え、子供たちが市議会に議題を提出し、大人たちが昼間から野球をしたりラグビーをしたりして遊ぶこの街では」
そして、最後の夜は、肉食系の中華屋さんに誘われる。
「餃子とビール。この餃子が、小ぶりで、とてもおいしかった(他に、とんテキというものもたべた。うまし)。四日市という街には、一体何軒のおいしい中華屋さんがあるのだろう。ここはお父さんとお兄さんと弟さんがやっている店で、厨房を任されている弟さんは、筋金入りのサーファーなのだそうだ。
私は初日のお鮨屋さんの御主人が、翌日はラグビーの試合だといっていたことを思い出した。この街に住む人は、なぜだかみんな、過激にスポーツマンなのだ」
これは、鵜森神社北にある中華料理の“青島(チンタオ)”でしょう、そこで、オカヤン様に確認に向かわせる。
「ご馳走三昧し、その夜の新幹線で東京に帰った私は、列車に乗るや否や眠った。仕事をしに来たはずなのに、この街からの帰りはいつも、遊び疲れた子供みたいになってしまう」
早速、「号泣する準備はできていた」の本と、「東京タワー」と「間宮兄弟」のDVDを観ることにいたします。

一日中小企業庁in三重

2010年05月28日 | 諏訪商店街振興組合のこと
5月26日三重県・中小企業庁・中部経済産業省主催の「一日中小企業庁in三重」に、外羽理事長と二人で津まで出かけた。
まる一日盛りだくさんの内容で、私たちが参加させていただいたのは、その中のひとつ「中小企業フォーラム」だった。
三重県総合文化センターの中ホールが会場だったが、そこで中部経済産業局の青山部長にお会いすることができた。今回組合が取り組んだ「中小商業活力向上事業」では、大変お世話になった方の一人だ。
「その後、いかがですか?」の問に、「おかげさまで、順調に取り組んでおります」と二人は平身低頭にお答えした次第。「来ておいて、良かったね」とは、その後の二人の会話である。
さて、野呂知事の挨拶があり、つづいて長谷川榮一中小企業長長官の「中小企業を巡る状況と最新の中小企業施策」のお話があった。
睡魔が襲う。県下の中小企業の状況と、それに対するさまざまな支援策が述べられた。しかし、睡魔は容赦なく襲う。
ところが、「くらしを支えて、地域にうるおいを」の説明が最後のほうにあった。地域に役立つ取り組みを地域商店街活性化法で応援します、ということで当組合の取り組んでいるエキサイトバザールが写真入りで紹介された。
          
「来ておいて、良かったね」とは、そのときの二人の会話である。
その後、支援事業の紹介では、旭鍍金の藤川勝彦社長の報告があった。これが面白かった。
金属メッキは、下地にニッケルメッキを施しその上に金をかぶせる。ところがニッケルは腐食しやすいため、金の膜のわずかな点(ホール)から表面に腐食が出てくる。当然、ホールが出ないよう金も厚くかけなくてはならない。
そこで、旭メッキさんは、まずイオウレスニッケルめっきをかけ、その上に薄いスズニッケルとパラジウムめっきを乗せることで、表面の金の量が三分の一以下で済むようにしたとのこと。大きなコストダウンだ。
          
研究開発にはご苦労があったことだろう。もちろん助成をいただいて進めたそうだ。
ところが助成を申告する際に、この技術を秘密にしておきたかった。他の企業に盗まれては大変、と気持ちは分かる。その為、内容が不備ということで一回目は不採用だった。気持ちは分かる。で、正直に申告して二回目はパスした。
それから、今度は完成した技術を商品化、お金に換えなければ意味がない。技術開発と商品化のふたつの仕事をクリアしなくてはならないのだ。
県内のメッキ屋さんを回ってこの技術を売り込もうとしたが、下請けでは親会社の製造仕様に従わなければならない為、取り入れてはくれなかった。
ようやく東京の企業展出品で活路が見出されたそうだ。
われわれ小売業は売ることだけに専念すればいい。発明には、商品化とふたつの重荷がある。トイウオハナシデシタ。

山の神と夜市

2010年05月25日 | レモン色の町
カイマス氏にお借りした昭和42年の中日新聞、稲葉桑太郎氏の「思い出の記」から。
「山の神と夜市」
四日市の旧市内の各町には「山の神」というものがあった。木の下に小さい祠が建ててあり、神社の小型版のようなものだ。
毎年初夏の候ともなれば、上新町の秋葉神社の縁日を最初として各町で縁日が開かれる。「山の神」は主として若衆連のお祭りで、十五、六才以上の独身者によって執行されていた。提灯を飾り、鉦や太鼓で囃すのである。露天の夜店も出た。
市民は浴衣がけでお祭りに集った。なかなか賑わったものである。ラジオ・テレビのない時代には夕涼みがてらの暇つぶしにはちょうど好都合であった。五月中旬から八月の中ごろまで、順々に各町で催されて夏の夜の景物であった。
ところが、若い連中が「山の神、山の神」といって遊び歩いていることは不生産的でもあり、風紀上も良くないということで、諏訪神社の境内へ合併し「山積神社」を作った。毎年一回、七月中旬に祭礼を行なっている。之で四日市の大昔からの夏の夜の景物はなくなった。五月の上新町の秋葉神社の縁日と八月下旬の西町の地蔵盆はその時代のなごりである。
四日市には古くから「夜市」というものがあった。
私の記憶している時代には八幡町、袋町、北条町、樋の町と諸所方々にあった。之は露天ではない。古道具屋の店舗であり競り市を開催するのである。夜の七時から十時頃まで古道具を競売するのである。
米びつ、膳戸棚、鉄びん、机、椅子、火鉢、植木鉢、水がめ等の日用家財がほとんどで、一銭の「ちょい」という声から始まる。ほとんどが数十銭で落とされる。
どうしてそんなに安いのか。それは当時流行していた「夜逃げ」による。日が暮れて暗くなると両隣には内緒で衣類だけを持ち、終列車で遠くの親類縁者を頼って逃げていくのである。その際、日暮れになると道具屋を呼ぶが、足元をみられて二束三文で叩かれ泣く泣く売って行く。
だんだん生活が豊かになり、戦時中は食料が配給制となったため「夜逃げ」は出来なくなって止んだ。
しかし、「夜市」は夜逃げの品だけを売ったのではない。質流れの在庫処分もされて便利な存在であったが、今はもう無い様である。

四日市のペスト禍

2010年05月23日 | レモン色の町
カイマス氏からお借りした昭和42年8月10日の中日新聞から。
大正五年十月八日、浜町の東洋紡四日市工場の仲仕の子供二人が耳下セン炎で死亡、病状があやしかったのと、最近付近に同様の病状で死んだものが数人いることから、警察医が調査、その結果十一日になってペストと断定された。
ただちに同紡績をはじめ浜町一帯をトタン板で囲って外界とシャ断、一斉消毒を行なったが、患者はその後も続々と発症、十月末までに計三十六人に達し、ほとんどが数日間のうちに死んでいった。
かかったら最後、まず助かる見込みがないといわれるペストだけに市民は恐怖のルツボにたたき込まれたのだ。
十一月にはいって発生地は浜町、北条町一帯だけでなく、納屋地区をはじめ市内全域に飛び火する状態になった。
初期の発症患者が倉庫関係者に多かったため、インドから輸入の綿花にその原因があると推定された。市は臨時議会を召集し、一般会計の約四割がその対策費に追加されることとなった。
          
ペスト菌を仲介するネズミの駆除に全市民は立ち上がった。市はネズミ一匹に四十二円の懸賞金をつけ、名古屋や大阪からもネズミ捕り業者が駆けつける騒動となった。こうして殺されたネズミは六万匹に及んだ。
ペスト禍は、十二月に入ってほぼ収まった。翌年の一月と四月に一人ずつ患者が出ただけで完全に終息した。
市内総患者数六十三人のうち五十六人が死亡した。恐るべき死亡率である。
このペスト禍は、四日市の商工業に大きな打撃を与えた。
四日市入港予定の船舶は、すべて名古屋に向かった為、港湾関係労働者は失業同然となり、四日市駅に下車する人影もなく、旅館はすべて開店休業。町ゆく人も少なく商店街は静まり返った。
時の飯田市長は政府に陳情、海港検疫所を設置して、船舶会社に掛け合い、船の入港に尽力した。
四日市港が名古屋に優位を譲るハメとなった原因のひとつに、このペスト禍があったかもしれない・・・と結んでありました。

感動する総会

2010年05月21日 | 諏訪商店街振興組合のこと
          
平成22年5月20日午前11時より、スワセントラルパーキング2階会議室において、第35回四日市諏訪商店街振興組合の総会が開催された。
今回は、平成21年度中小商業活力向上事業が行なわれたため、決算書が複雑となり、黒田さおり税理士事務所様には大変ご足労をいただいた。
事前に申し出のあった質問状は2通あった。時間が押し迫るなか、審議が例年のように混乱するかと思われたが、司会を務める私には、その後の議事の経過に感激させられた。
今回の事業に関する質問がHさんから出されていたが、役員会からの返答は不要となった。これは、事前に外羽理事長が数度にわたりHさん宅に赴き、説明したためだ。役員会の真摯な態度が伝わったものと思う。その後の懇談会の席で、Hさんは「組合員全体で運営する組織だから、そのことを忘れず運営にあったって欲しい。役員の皆さんは良くやってくれた」と話された。Hさんは、今回の事業を実施するにあたり、2回の臨時総会を開いて組合員に賛同を求めたが、最後まで反対されていた方だった。
もう一人の質問者某さんには、やはり事前に回答を出しておいた。総会が始まる前に「質問事項を取り上げますか?」とお尋ねしたところ「この回答書では答になってない!」といわれたので、総会に取り上げさせていただいた。
ひとつは、今回設置の防犯カメラの件で、ごみ置き場のデータを自治会に開放して欲しい旨の質問であり、個人情報に触れるので慎重な対応が必要だ、自治会会員の総意が示されれば検討すると返答しておいた。
いまひとつは、当組合役員の駐車に関する質問だった。長時間にわたる駐車で周辺から苦情が出ているということだったが、駐車している当人は身障者であり、健常者はもっと温かい眼で見守っていただきたいとお答えした。
そのとき、議長の松田さんはこう言った。
「同じ質問が三年にもわたって出されていて、この件は解決済みのはずだ。その都度注意はしてあり、当人はそれを守らないような悪い人ではない。今後一切この質問は出さないように」と某さんを戒めた。
まるで裁判を見ているようだった。原告の某さんが裁判長から警告を受けたのだ。
組合役員が良くまとまっているなあ、と感慨を新たにした次第です。
北川理事長は、体調不良を理由に、今回の総会でもって理事長席を外羽副理事長に譲ることとなった。まっこと ドラマチックな総会だった。

「原因」と「結果」の法則 ジェームズ・アレン著

2010年05月16日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
          
「原因」と「結果」の法則 ジェームズ・アレン著 サンマーク出版
先日、近鉄のブックセンターでこの本を見つけました。まったくの偶然、けれど、この本は自分の人生に大きな影響を与えてくれそうです。
いっていることはいたって簡潔。仏教でいう「因縁」のことです。まわりで起きているすべての現象には原因があって、その結果がある。良いことをすれば良い結果が生まれる。悪いことをすれば、悪い結果となる。ですから、清く正しい心で日々を送りましょう、ということです。
思いはまわりの環境を作ります。正しく、強い信念で、日々たゆまぬ努力を続ければ、それは必ず達成されます。
一笑に付するかもしれません、「正直者はバカをみる」ということばもありますから。しかし、著者はなんどもなんども繰り返します。
「精神的達成は、神聖な熱望の果実です。身勝手な欲望を放棄し、けがれのない美しい思いのみをめぐらそうと勤め続ける人間は、太陽が天に昇り。月が満ちるのとまったく変わらぬ確かさで気高い人格を手にし、人々に大きな影響をおよぼすとともに、かれらからの大きな敬意を手にしうる地位へと上昇することになります」
一見、宗教書のようにも思われますが、1902年に書かれたこの本は自己啓発書として、1世紀にわたりロングセラーを続け、デール・カーネギーなどに影響を与えてきたそうでアリマス。
信じるも小馬鹿にするも、あなたの勝手です。この世の中、善人ばかりになるはずは、絶対ないのですから。

古希を迎えた四日市 その3

2010年05月14日 | レモン色の町
本町のカイマス氏からお借りした昭和42年の中日新聞のスクラップ「古希を迎えた四日市」から。連載の第1回として市制70周年を迎えての“四日市の生い立ち”が記されております。
四日市が都市の形を整えたのは、応仁の乱後の文明二年(1470年)郷士の田原忠秀が浜田に本格的な築城をしたのが始まりでした。それまでは伊勢平野に位置する村落地帯に過ぎなかったのです。
都市といっても二,三百戸の家屋がを形成し、その中で月のうち六回、市がたつようになっただけのことでした。第一回が四日だったのでそれが「四日市」名の由来となりました。十八世紀には戸数が五,六百に増え鈴鹿越え、東海道、海路も開けて商取引の重要拠点になりつつありました。
江戸時代にはいり天領(幕府の直轄地)に指定され、武士の威圧感も比較的ゆるく東海道の宿場町、港町として栄えてまいります。
江戸時代後期の宿場町四日市は、現在の北町、中部地区の旧東海道沿いの一帯で、中部西小学校の位置に陣屋がありました。北町、旧南町(中部)の四つ辻には高札が立てられて町の中心を示し、付近には遊郭など旅籠が六十軒以上並んで、駅馬も最盛期には百頭近く用意されていました。
一方、辻から東へ伸びた港町の中心は、北、中、南納屋の一帯で肥料、米穀、油などの問屋が軒を並べ、港には熱田(現在の名古屋)航路の千石船、五百石舟が白い帆をはためかせてにぎわっておりました。
肥料問屋は千鰯(ほしか)と呼ぶ魚肥を主に扱い、五十軒近くありました。林立する倉庫から蔵町の由来となりました。
油商は、ナタネを原料とした食料油で「伊勢水」と呼ばれ、当時全国でも最大の生産地でした。このほか回船問屋、茶問屋などが栄え、豪商はこれら各種の問屋を兼業してひたすら富の蓄財をはかっておりました。
当時の肥料商は、農家に対して代金の収穫時払いという形をとっていましたが、一見人道的に見えるこの方法は、結局北勢地域の農業を経済的に支配する形になりました。九鬼、稲葉、山中、吉田など現在四日市の名門はすべてこれらの豪商であり、武士にかわる四日市の支配者だったのです。
彼らは営々と蓄積した巨大な資本を持って、つぎの時代の到来を待ち受けていたのです。

中小商業活力向上事業完成披露式典開催

2010年05月11日 | 諏訪商店街振興組合のこと
          
5月10日午後1時30分より、スワセントラルパーキング2階会議室において通商産業省の「平成21年度 中小商業活力向上事業」を受けて実施された、四日市諏訪商店街振興組合の「完成披露式典」が行なわれました。
2009年9月24日、北川理事長を代表とする当組合は今回の事業を申請、2010年1月7日に受理されました。
つづいて1月13日に建通新聞に事業要綱を公開、25日の役員会で入札業者を決定し、2月1日、太陽光パネル・LED照明・防犯カメラの設置工事を着工しました。
そして、3月15日工事は完成し、今回の披露式典に至ったわけです。
来賓として、小林博次市議会議員様・杉浦 貴市議会議員様・四日市商工農水部様・三重県中小企業団体中央会様・四日市商工会議所様・FBC街づくり研究所様をはじめとして、施工業者の岡田工業様・大東電気様・日本ビクター様にお越しいただき、事業の完成披露と感謝状の授与式が行なわれました。
          
今回の式典にあたり、あらためて今回の事業にかかわっていただいた多くの方々のご尽力には深い感謝を感じざるを得ません。
本当にありがとうございました
今後当組合といたしましては、エコ事業を介しての商店街活性化にまい進してまいる所存です。

三滝川堤の桜の由来 完結編

2010年05月10日 | レモン色の町
昨日は三滝川堤防の桜がどのようにしてできたかの前編を書きました。
本町のカイマス氏のお父さんがスクラップしてみえた昭和42年中日新聞連載、稲葉桑太郎氏による「思い出の記」より三滝川堤の桜の由来、後半であります。
明治末期に始まる“親和会”が集めた三千円で、いよいよ三滝川堤に「染井吉野桜」を植えることにした。が、堤防は県の土木出張所の監督するところである。植樹の申請をしたところ、堤防破壊原因になるということでなかなか許可がおりなかった。長い年月と数十回に及ぶ交渉が重ねられて時日が経過した。市民の憩いの場所を作るのだからという大義名分が成功して遂に許可を得たのは昭和七,八年頃であったと思う。
川岸は、老松橋から慈善橋、三滝橋(旧道の)を通って明治橋の上流まで三滝川両岸の堤に直径二寸(6cm)高さ二間位(3.6m)の苗木を植えた。その後の監督、草刈り、施肥、毛虫取りは主として岩田治三郎氏が只一人にて人夫を督励して是に当たった。この努力は数年間続けられた。どういう訳け合いであるか三滝橋より下流の両岸は育ちが悪くて枯れ、三滝橋より上流のみが成績が良くて昭和十七,八年頃は西町裏の堤(川の南側)の桜の木は見事に育成して太き物は直径一尺(30cm)あるものも出てきて、花時には見物客や団子屋でにぎわった。
然るに、昭和二十年六月の戦災で人家に接近したものは家屋とともに消失した。
然し大部分は残っていたのであるが、戦後物資欠乏時代に横着物が枯れていると称して、枯れていない物までどんどん切り倒し、割り木にして燃料にしてしまったのである。只今ちらほらと残っているものは、その時、切り倒しの災厄をまぬがれたものである。まことに惜しいことである。
この桜の植樹に尽力した諸氏はすべて亡くなっており、親和会の会員もほとんど死亡して、親和会も自然消滅した。
けれど、平成の現在、桜並木は立派に残っていますよ。
っと!私すっかり海蔵川堤と三滝川堤を勘違いしておりました。陳謝!