花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

大江戸リサイクル事情

2010年06月30日 | 諏訪商店街振興組合のこと
自分自身をエコに目覚めさせるよう叱咤激励しております。
ということで、本棚にあった石川英輔著「大江戸リサイクル事情」講談社 1994年出版の本です。
          
石川氏はNHKテレビ「お江戸でござる」の解説者として杉浦日向子さんに引き続き活躍されてみえました。
一部をご紹介します。
「今でも、江戸時代は悪い暗黒時代で、明治維新以後の新しい世の中が日本の夜明けだったと信じている人が多い。
だが、今になって考えると、われわれが偉そうな顔で先祖たちを批判していられたのは、たまたま石炭や石油などの化石燃料によるエネルギーが豊富に使える時代に生まれ合わせたというだけの理由に過ぎなかったのではなかろうか。
豊富に使えるという意味は、ただ大量に採掘できるというだけでなく、先祖たちが大切に残しておいてくれた自然環境のおかげで、水や大気をたっぷり汚せるだけの余裕があったということでもある。
近海漁業がだめになれば、石油を使って遠洋漁業に、遠洋漁業がだめになれば取ったイワシを使った養殖漁業に。ますます膨大なエネルギーが必要とされる。
もちろん、昔の不便な生活より今のほうが良いに決まっているのだから、これ以上<進歩>しないまでも、せめて現状が維持できるのなら言うことはない。だが、残念ながら、われわれが自然に対していつまでこれほど放漫な態度を取り続けていられるか、誰にも分からないのである。
そろそろ行き詰ったときのことを真剣に考え始めても、遅くはないのではなかろうか」
この本の書かれたのが1994年。この頃に比べると環境に関しては随分やかましく言われるようになったが、破壊のスピードはますます加速しているように感じております。サテ、ナニガデキルノカ?

文化の駅サテライトステーション事業

2010年06月29日 | おいらの商店街
本日、表参道スワマエにある「スタジオFIX」さんから連絡をいただいた。
四日市市文化国際課が募集していた「文化の駅サテライトステーション事業」に応募していたところ、見事合格したとの知らせだった。まずはおめでたい。
そこで早速 相談がまいりました。
過去3回ほどスタジオFIXさんで、伊藤さんを中心に落語会を行った経緯がある。
また、二回ほどできないかということだった。願ったり叶ったり!
今回は、五尺坊申志さんに独演会をお願いしたいと思っていたので連絡を取ったところ、なんと四日市に来てみえた。

http://www.5shakubo.com/rakugo/index.html
早速 三者懇談を行なう。
納涼落語会 五尺坊申志独演会
  演目;動物園・桃太郎・もう半分(怪談話)
時・8月28日(土)午後6時30分より8時
所・スタジオFIX
入場料・500円(冷茶・お菓子付)前売り券・要
ご期待ください!
予告;平成23年2月予定 五尺坊申志の色ばなし(個人的要求)

スワパーおじさん完成

2010年06月27日 | 諏訪商店街振興組合のこと
          
諏訪振興組合のキャラクター「スワパーおじさん」が完成しました。
今日の日曜日は一日中、国友さんにお付き合いいただき、メールのやり取りで作っていただきました。感謝であります。ありがとうございました
スワパーおじさんとは、スワパーキングのおじさんのことで、エコがテーマであります。
皆様のご感想 宜しくお願い申し上げます
エコバックのデザインに、行くところまで行ったら、着ぐるみを作ろうと思います。
ダレガ着ルンジャ!国友さんの旦那さんか?

追記 6月30日
今日 配り物をしていて感想を聞いた
「ハゲおじさんのキャラクターではダメ!
若い女性デザイナーに かわいいキャラクターを考えてもらうべき
若い人に受けなくては 無駄!」
ナルホドと 納得して意気消沈いたしております。
ま、たいしたお金はかかってないので 遅くはないか・・・

第1回 諏訪商人塾2010開かれる

2010年06月26日 | 諏訪商店街振興組合のこと
6月25日午後7時より、第1回諏訪商人塾2010が石川明湖先生をお招きして開かれました。
          
今年度の目標は、一店逸品を作り出して“商店街スワッチ”を発行することです。まず先生から、自分たちの商店街の特徴と何が提供できるのか考え、商店街のテーマを決めることが大切だというお話をいただきました。
戸越銀座商店街では、無添加・高品質・真心のサービスをテーマに「とごしぎんざ」のロゴを入れた一店逸品作りに挑戦しています。
墨田区の向島橘銀座商店街では下町の条件を生かし、高齢者に配慮したキラキラブランド商品を一店逸品に、板橋区の市場通り商店街では、健康・安全をテーマに市場通りブランドを商工会の厳密な指導で開発しています。
山形県庄内町の商店街では、じっくり時間をかけて吟味した愛情こもった逸品を作り、カタログ作成・逸品内覧会・ツアーを実施してみえます。ツアーの参加料は1000円で、逸品のお土産コースと逸品の食事コースがあります。内覧会とツアーの実施では、各お店が消費者の声を外から聞くことができて、自分たちでは気づかなかった情報発信の大切さを知ることができたそうです。
豊後高田の昭和の町では、昭和30年代の商店街を再現し観光客で賑わっています。高度成長期以前の街づくりは、エコにも通じるところが大きいでしょう。
          
最後にyanayaさんからの提案をいただきました。それは、
1、エコバックを作る デザインは一般公募(景品付き)
2、サポーターズクラブを作る
  上記エコバックをプレゼント
  ポイントカード作り(ポイントに応じた年2回の抽選会)
  商店街対の意見交換会に参加(ビンゴ大会)
3、エンブレム 諏訪商人塾参加店のしるし(シール等)を店頭に掲示する
4、SKG8(諏訪活性化ガールズ)を公募 CTYとのコラボ
5、ツイッター(ネットでつぶやき)で宝探し(商店街コミュニケーションに活用)
というもので、4番と5番は、取り組みに時間を要しますが、それ以外はすぐにでもできそうです。
第2回諏訪商人塾では、商店街の目指すテーマを考える・一店逸品の為のデザインを作成する・自店の逸品を出し合ってみんなで検討する、以上の作業を行ないます。
次回開催日は第4金曜日の、平成22年7月23日(金)午後7時より。スワセントラルパーキング2階会議室にて。
地域内で営業の方ならどなたでも歓迎。皆様のご参加をお待ちいたしております。
           考案中のキャラクター「スワパーおじさん」
27日朝、国友さんから 考案中のキャラクターが出来上がってきました。
頭に四葉のクローバーをつけるご意見をいただきました。
ご感想とご提案お待ち申しております。

三重県環境学習情報センター探訪

2010年06月25日 | 諏訪商店街振興組合のこと
昨日は、三重県環境学習情報センターに出かけた。
          
組合が取り組んでいる通商産業省の“中小商業活力向上事業”の一環で、エコ活動の取り組みを相談する為だ。当館の水谷さんにはエキサイト・バザールでお世話になっていて、快く案内を受けていただいた。
          
          
鈴鹿山ろくのふもとに建つセンターは、出来てから10年を経ており、そろそろ展示品をリニューアルしたいということだった。
          
入るとすぐにごみのモニュメントが立つ。これは一人の人間が1年間に出すごみを想定したものだそうで、上の青い部分がリサイクルされている部分。横に立つのが10年後の目標量。平成22年と表示があった。22年になった現在は、ここまでの目標に達していないそうだ。リサイクル部分はそこそこクリアしているとのことだった。
          
館内には小学生が訪れていて賑わっていた。
          
当組合も、小学生を招き、屋上の太陽光パネルを見学してもらった後、エコ工作をしていただけるような企画を立てようということになった。商業者として地球温暖化問題に危機感を持ち、商店街の活性化につなげたいと考える。
          
横の棟では、バイキングの昼食をいただいた。人数が多かったので、これからは予約をしてくださいねと言われた。
好天に恵まれ、すばらしい環境を堪能して、昼過ぎに戻りました。

西郷隆盛とリーダー

2010年06月23日 | 諏訪商店街振興組合のこと
          
<昨夜は、振興組合の外羽新理事長と飲む機会ができました。曰く「私利私欲を排し、残された人生を、組合員利益のために働かせていただく。どうか協力をよろしくお願いします」と口から泡を出して熱弁されました。まさに役職が人を作るデアリマス。ここでナゼカ、西郷さんの言葉を思い出しました>
南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)猪飼隆明訳・角川ソフィア文庫
西南戦争によって賊名を背負ったまま死んだ西郷隆盛の名誉が回復した年、旧庄内藩の人々によって西郷の言葉を残すべく「南洲翁遺訓」がまとめられた。
<この中の一文をご紹介します>
万民(国民)の上に立つ政治家(役人)は、己を慎み、品行を正しくし、驕(おご)り高ぶることを戒め、無駄遣いをしないように気を遣い、自らの職務に精励して国民の手本となり、国民の勤労をご苦労と思うことがなければ、政治は行なわれにくい。
現在のように維新創業の大事なときなのに、住まいを飾ったり、衣服を華美にしたり、妻意外にも美しい女性を抱え、また、金を蓄えることを考えているなら、維新の事業は最後までやりおおせないだろう。
このままでは、戊辰の正義の戦争(鳥羽伏見の戦いにはじまる戊辰戦争)も、薩摩や長州の利益実現のための私戦とされてしまい、天に対してはいうまでもなく、戦死者に対しても、面目ないことであると、南洲翁は今にも涙を流さんばかりであった。
<リーダである為の条件が、ここには書かれています 心して読ませていただきました>
坂本龍馬は、勝海舟の命を受けてはじめて西郷隆盛にあったときの印象を次のように語ったという。
「つかみどころのない馬鹿のようにみえる。しかも底の知れぬ大馬鹿で、鐘にたとえると、大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く。惜しむらくはこれをつく撞木(しもく)が小さかった」と。
勝海舟は、それを聞いて
「評される人も評される人、評する人も評する人」と感心した。
<テレビドラマ「龍馬伝」の今後が楽しみであります>

旧軽井沢探訪 後編

2010年06月20日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
          
白糸の滝の帰りに旧三笠ホテルに立ち寄った。
明治38年 地元の大工が2年かけて建てた当時としては超高級ホテル。
木造西洋式ホテルとして高く評価され、昭和55年に国の重要文化財に指定された。
          
軽井沢高原の瀟洒なホテルとして、明治・大正・昭和にかけ多くの政財界人、文人墨客等が宿泊や会合に利用されたそうだ。
          
トイレやバスつきの部屋。ベビーベッドや暖炉も完備されていて、明治の当時としては高級ホテルだった面影を残す。しかし、当時の写真と室内を見比べていたら かび臭さの中から亡霊が出そうな雰囲気だ。
           
           
           
旧軽井沢銀座通りのバス停で時刻表を覗いていたら、猿が二匹走りぬけた。猟銃を持つおじいさんが猿を探す。不穏な雰囲気だ。
土産物屋のおじさんが出てきて
「たまに猿が出るんです。昨日は二匹だったけど、今日は群れで街を横断していきます」
「人のところに猿が来るのか、猿のところに人か 分からんですね」
「多分 猿のところに人が来たんでしょう」
「ところで 昔 ここに駅があったと聞きましたが」
おじさん真下をさして「まさしく この下にありました。またここに駅ができると良いんですが」話に力が入る
おじさん 私を店の中に引き込んで壁の写真の説明を始めた。バスの時間が迫っているので気が気でない。時々通りを見る バス停は無事立っている
「大正15年から昭和37年まで このデキ12型という小さな機関車が草津・軽井沢間で 住民 避暑客 観光客を運んでいました」懐かしそうに語る。古きよき時代だ。「軽井沢駅に展示してありますよ 見ていってください」
          
バスが来た。土産物屋のおじさんはバスの運転手さんに合図をした。
          
駅南のアウトレットモールに比べ、生活臭のある旧軽井沢には味がある。散策に飽きがこない。人とのふれあいも楽しい。
          
旧軽井沢を中心にして別荘が立ち並ぶ。木立の下、一面に苔が生える中に点在する住居は固く戸が閉められていた。これだけ湿気が多いと建物の維持費もかかりそうだ。固定資産税も高そう。雲の上の世界でアリマス。

旧軽井沢探訪

2010年06月19日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
実は 視察とは真っ赤な嘘で 観光のため前日の16日に到着していた。
          
新幹線で軽井沢北口に降りて驚いた。想像以上に閑散としている。
          
ここから北へ1キロほどのところに旧軽井沢銀座通りがある。昔はここが駅であり軽井沢の中心だった。今でも土産物屋や飲食店で賑わっているが、駅が現在の場所に移ったことと、南にアウトレットモールができたことで「マ、若い人はみんな向こう側に 行っちゃうわな」ということだった。
          
通り沿いの若向きのお店もいまひとつパッとしない。
ここで、人のいいおじさん二人に出会った。(ワタシモオジサンデスガ)
一人はバスの運転手さん。駅前でバスを待っていたら「このバスでいいよ」と気軽に声をかける。(以下 出発前の会話 念のため)
「どうせ お客さんはあんたら二人だけだから」
「まさかぁ 賭けますか? でも これじゃ採算が取れないですネ」
「この路線は観光専用で 生活路線じゃないから補助金が出ないんだよ 途中に病院でもあれば話は別だけどサ」
そこへ若い女性一人乗り込んできた。「オッ 商売繁盛やないですか」
          
「あんたらどこから来た」
「三重県」
「紀州へ行ったことあるが 遠いね」
「四日市からでも遠い」
「四日市は行ったことがないねェ 観光地じゃないから 紀州に何とかってぇ寺があるじゃ それ 観音巡り三十三番札所の」
「那智の青岸渡寺」
「そうそう あそこの滝もそうだけど ほとんどの滝は 上に池があるじゃ その水が落ちて滝になっている」
「滝のうえで洗濯していても分からない」
          
「この先の白糸の滝は 伏流水で山の湧き水なんだ 山の水が何年もかかって滲み出てくる 緑もきれいだよ ここいらは広葉樹だから格別の色をしている」
「東海地方では 杉等の針葉樹が多い」
「あれは金になる」
山の広葉樹は、冬に葉が落ち 腐葉土を作り そこに生息する虫などで自然体系を作ってきた 人が山に踏み入り 金儲けの為に杉を植え 自然の摂理を壊してきたのだ。
「滝はバス停から遠いんですか?」
          
「歩いて3分 渓流沿いに行けばすぐじゃん」
なんとも気のいい運転手さんでありました。
そして翌日 もう一人 気のいいおじさんに出会いました。

軽井沢アウトレットモール探訪

2010年06月18日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
商店連合会総会で岡田卓也氏がお話しされた、非日常のショッピングモールを体感してみようと軽井沢・プリンスショッピングプラザに出かける。
長野新幹線の開通にあわせて、軽井沢駅南口のゴルフ場跡に西武が1995年オープン。その後、真ん中の芝生を囲んで西と東につぎつぎと拡張、売り上げは当初の7億円から2007年には315億に増えている。
          
長野駅から降りたところにある味の町は、長屋状に伸びた20軒ほどの飲食店の通りだが、ここはたいしたことはない。
          
が、そこから南に伸びたニューウエストのモールに出て、その広さというか長さに驚かされた。延々と店舗が続く。
          
自然を取り入れた開放感のある通路がゆっくりカーブを描き、時には入り組んだ迷路状になる。採光も良い。
          
真ん中の芝生のひろばを横断してニューイーストモールへ。
男子トイレにまでオムツシートが完備されている。誰が使うんじゃ!
          
          
イーストモールもゆっくりしたカーブに延々と“BVLGARI”や“dunhill”“ARMANI”等の有名ブランド店が並ぶ。
          
採算が取れているのかいささか心配だが、軽井沢という特異な環境で夏休みや休日などは大変な人出になるのだろう。平日は中国からの観光客も目に付く。
          
          
お金をかけた建て方ではないが、レジャーランドのように生活臭は感じられない。
たまには四日市を離れて外から商店街を見ることも必要なことだ、と思いました。

戦後の四日市

2010年06月15日 | レモン色の町
“古希を迎えた四日市”昭和42年8月15日の中日新聞より。勿論、本町のカイマス氏提供でアリマス。
「市制70周年を記念しての連載企画もついに最後の章になった」で始まる記事は、戦後の街が書かれていました。
「昭和20年夏の戦災で焼け野原となった後の復興は、あまりにも激しく、明治、大正を偲ぶ“よすが”はいま何一つとして残されていない。失った過去のあとにより巨大な現在が建設されたことである」と、復興の力強さを巨大ということばで表現しています。
「たとえば、市の中心を走る70メートル道路。両端に建つしょうしゃな近鉄、国鉄駅。県下最大の諏訪繁華街などすべて戦後のものであり。戦前までのこれらの土地は荒地か田んぼにすぎなかった。そして、かつての繁華街“中町銀座”や竪町、南、北両町の通りは今では単なる家並みに過ぎない。
           諏訪駅前 辻俊文氏
諏訪繁華街の芽生えは終戦後まもなく、当時その中にあった近鉄諏訪駅の南側に諏訪マーケットができたことに始まる。いずれもバラックばかりが軒を競った。続いて三四百貨店(聞こえはいいが当時はバラック式のマーケット)ができ、近くに四日市ストア、呉服町通りなどバラック商店街がまたたく間に形成された。
           諏訪マーケット 辻俊文氏
商店街というのは不思議なもの。何かが契機で急に町ができる。人を集めると大きくなってついに不動の地位を築く。諏訪連鎖街はその典型だった。
この諏訪連鎖街に対抗し、国鉄四日市駅周辺にできたのが三和商店。当時新生マーケットと呼ばれ、さらに近くに四つ谷、湊マーケットができ非常ににぎわった。だが昭和26年に大火を出してほとんど焼け、近鉄路線の変更で急激に衰退した。
           近鉄駅前 山路昭雄氏
近鉄路線の変更は町の形を大きく変え、70メート理道路の拡張工事は、27年に一応出来上がったものの、広すぎてまるで原っぱ。同年この道路で、四日市博覧会が開かれた。
           諏訪駅 山路昭雄氏
当時近鉄は現国鉄駅の位置に四日市駅があり、諏訪新道の裏。市民ホールの北側に沿って1番街に抜けていた。諏訪駅は諏訪栄町のど真ん中にあった。
この路線のカーブが激しいため30年に現路線への変更、現近鉄の建設に着手(30年は四日市高校が甲子園で優勝した年である)翌年完成した」
           甲子園優勝 山路昭雄氏