花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

カンバック!昭和商店街40<諏訪新道1>

2019年02月27日 | レモン色の町

昭和35年7月9日、集中豪雨が四日市の町を襲った。諏訪公園の貯水池が完備してなかった当時は、しばしば町は水入りをした。辻さんはカメラを持って諏訪新道へ赴く。諏訪新道は戦後最も賑やかな通りだった。この道は何時頃からあったのか?

 

享保時代の絵図。東海道と辻で交わる浜往還。その左が南浜往還になる。もう一つ左に諏訪神社が見受けられ、そこから下へ野道のようなものが伸びている。これが諏訪新道の原型じゃないだろうか?

 

大正11年になると諏訪軌道(三重軌道の間違いでした。スンマセーン)と四日市鉄道に寄り添うように、諏訪駅と四日市駅とをつなぐ道路が通っている。諏訪町、沖ノ島、四ツ谷町、本町と真直ぐな道が諏訪神社から四日市駅へと伸びている。


カンバック!昭和商店街39<公会堂>

2019年02月25日 | レモン色の町

昭和10年、日本板硝子四日市工場の千歳町建設が決まる。工業都市四日市の先駆けである。翌11年は千歳町を舞台に“国際振興四日市大博覧会”が開催された歳になる。昭和15年の地図を見ると板硝子の北隣に公会堂が建っている。

会場案内図には、“大會場”その横には“迎賓館”が建つ。これが公会堂だ。まさに、博覧会を意識して造られたに違いない。

 

四日市公会堂は、昭和25年市役所の西隣へ移築された。

 昭和30年

昭和27年には中央通りを舞台に“講和記念四日市大博覧会(農機具博)”が開催された。市役所と公会堂が並ぶ様を誇示したかったに違いない。公会堂は、四日市市発展の象徴として千歳町(港四日市の発展)から幸町(市の発展)へと動いたのだ。

 内部は、大ホール、大小会議室、迎賓室等があり、文化事業等に利用された。

幼少の頃、母親に連れられて訪れた記憶が2回ある。アメリカの古着を売っていて、母親は、山のような古着の中からマンボズボン(ジーパン)を引っ張り出し、大きさを見るためホールの隅でズボンを脱がされた。もう一度は、警察の検挙物の展示で、刺青の入った皮膚が並べてあったのを覚えている。ホール内は天井が高く薄暗かった。公設市場も近く、母親に連れられてよく行ったと思うのだが、記憶はない。

昭和35年、市役所北に建った“市民ホール”にその役割を移した。公会堂の後ろに市民ホールが見える。

樹林社刊 四日市市の今昔 より

昭和5年、千歳町に建つ公会堂の写真があった。右に建つ迎賓館とのセット。向きが変わっているのか?よくぞ移築したものだ。

目で見る四日市の100年より


カンバック!昭和商店街38<市役所>

2019年02月24日 | レモン色の町

空襲後の航空写真を見てもらった人から、市役所はどこにあるの?といったご質問をいただいた。大正時代は高等女学院(中部東小学校 現 中央小学校に併設)の西にあった。本町の水谷さんからお借りした地図にも載っている。

 

昭和6年、市役所は現在の諏訪町へ移転した。戦前の地図と空襲後の地図を比べてみると、半円形の市役所前庭が分かる。被災することはなく残った。

 戦前

空襲後

昭和30年頃、未舗装の三滝通から諏訪駅に向かう近鉄線。その向こうに市役所が望める。 

昭和5年に着工6年5月に竣工した市役所は、当時の官公庁建物の左右対称と異なり、不対象形を基本としたモダンな建物であったと水谷さんはコメントしている。老朽化の為、平成5年に解体された。昭和30年頃の地図を見ると、新しくできた中央通りに東から市役所、公会堂、税務署、商工会議所、耕地事務所と並ぶ。四日市の中心地を目指していたことが伺える。

 

旧市役所跡地。ここは、図書館移転の候補地のひとつに挙げられている。


カンバック!昭和商店街37<諏訪駅周辺>

2019年02月19日 | レモン色の町

四日市空襲(昭和20年6月頃)の空撮写真は、見ていて楽しい。アメリカ軍が撮ったものじゃないかと思う。昭和32年頃のマップを自分なりに作っていたのだが、北岡氏から諏訪駅の位置が違う。もっと西に寄っていたのではと指摘をいただいた。航空写真からその位置が推察できる。

まずは、諏訪駅の健在だった(昭和30年頃)駅前の様子を再掲載する。

 左がトイレ。東向き

辻俊文さんの影が映る午後

逆に駅方向を見た。右トイレ

次に、空襲後の諏訪駅周辺。

 

そして位置を書いてみた。暇だから何でもできマス。当店の場所が確認できる。空襲を迎えて、女子供は疎開させ、親父とお祖父さんが頑張って守った土地である。中町方面と違い、オタオタ逃げ惑う場所は残されていた様子だ。諏訪神社の防空壕へ避難した人々の多くは爆撃で殺された。

諏訪公園の南の空き地には、サーカス小屋が立った。後のカトリック教会は公園よりも南だった。後楽園と隣接している。プラットホームは意外と長かったようである。


カンバック!昭和商店街36<中央通りの謎3>

2019年02月17日 | レモン色の町

空襲直後の空撮といっても、2~3年を経ているのではないか?かなり整地が進んでいる様子だ。瓦礫は小学校の校庭に集められた後、中央通りの埋め立てに使われたと旧四日市を語るにあった。空襲後の写真をよくよく見ると、中部西、中部東、浜田の校庭に碁盤の目のような道が付いている。中央通りの拡幅工事も進んでないところを見ると、車で運ばれた瓦礫の山ではないだろうか?と勝手な想像をシマシタ

※ 校庭で畑を作ったと聞いたこともある。しかし、当時、校舎は焼失しているし。中部西小学校の様子から瓦礫の可能性が高い。ナントモナヤマシイ。

 

空襲後の航空写真

昭和30年頃の市街マップ 航空写真と揃えてミタ

 

昭和31年の航空写真を掲載した。地名を明記したので比較していただければ嬉しい。暇なので何でもできるワ


カンバック!昭和商店街35<中央通りの謎2>

2019年02月16日 | レモン色の町

中央通りが何時できたのか?調べていたら空襲前後の航空写真をWebで見つけた。りーべさんのツイッターから(りーべさん、掲載、心よりお詫び申し上げます)、当時の航空写真はとても貴重だとあった。どうやって手に入れられたのか?昭和20年6月、四日市は空襲を受け、市街地は壊滅的被害を受ける。空襲前と後の区画はほとんど変わってないので、2枚の写真は数年程の開きか?その割には、“空襲後”の写真の方が鮮明である。

空襲前は、東海道沿いに家屋が行儀よくびっしり並んでいる。国道1号線の拡張工事が、三滝川南から諏訪駅あたりまで行われている。国鉄四日市駅東側と南の阿瀬知川まで運河が引かれていて、貨物は此処で船積みされたのだろう。ところで、この頃に中央通りはない。細い道が通っていて、両側の民家も少ない。この道が北側へ拡幅されたのだろう

 空襲前

これが空襲後の写真。当時の中心部(現在の中部、北町、南町、中町)あたりはすっかり民家が焼失している。そのため、鉄道と道路がよくわかる。制度(精度の間違い スンマセン)の良い航空写真は、いつまで見ていても飽きない。

空襲後

結論、中央通りは、戦後の区画整理でつくられた。


カンバック!昭和商店街34<中央通りの謎>

2019年02月15日 | レモン色の町

昭和33年3月8日。駅前のボンネットバスを降りた人々は、小雨の中を駅へ走る。その横に番傘をさして歩く婦人。スチールヂーゼルと塚本病院の看板が立つ。バス停前には東洋電機やヤンマーディゼルの建物が並ぶのは、昭和27年3月25日から1か月間、中央通りで開催された講和記念四日市大博覧会(通称 農機具博)による影響だろうか。講和記念大博覧会は戦後、中央通り(70メーター道路)をステージに開催された。

 

同33年7月20日、ご婦人二人が駅前バス停に立つ写真。バックには、スワランドリーと富士電機洗濯機・富士モートルの看板を掲げた東洋電機?が建っている。ひだりのご婦人のそばには女の子二人が寄り添っている。向けられたカメラに恥ずかしがっているのか?半世紀以上の古さを感じさせない写真っだ。

 昭和43年のゼンリンマップ

処で、中央通りは何時、何のために造られたのか?高齢の知人に尋ねると、戦時中、空襲による防火対策上、区画整備が行われたとおっしゃる。その証拠に、焼け野原となった諏訪地区に対して、70メーター道路を隔てた南側の浜田地区は火災を免れた。一方、「旧四日市を語る 第10集 P27」には、昭和20年6月の空襲で出た瓦礫は第1小学校(中部西小学校)の校庭に山積みされ、それが中央通りの埋め立てに使われたとも・・・真実や如何に?

※博物館2階で、四日市空襲直後の写真をボーっと見た記憶があるが、そこに70メーター道路が映っていたか?否か?どうでもよい謎は深まるばかりで・・・楽しい。

追記:今、Webで、空襲前と後の空撮写真を見つけた。戦後の区画整理で中央道路が出来た。つづく!


カンバック!昭和商店街33<山路氏の中央通り>

2019年02月13日 | レモン色の町

<山路昭雄氏の写真>

写真から想像すると昭和三十二年晩秋の早朝ではないだろうか

新しい駅がオープンして少し一段落した感がある。パイロット萬年筆の看板を揚げる新光堂書店が右に建っている。オカダヤはまだ姿をみせていない。近鉄ストア開店売り出しののぼりが、川伝いに並ぶ。この川はまっすぐ駅裏に抜けていて、現在駅西に川の続きを見ることが出来る。久保田町で三滝川からくみ上げられた水は、農業用水と下水の役割をしながら、あせち川へと流れていた。植えられたばかりの楠の木が、整備したての中央通りを物語っている。

近鉄ストア2階から中央通り東方向を見る。左にはすでにオカダヤが建っている。遠く左に商工会議所屋上の東芝ネオンが望める。


カンバック!昭和商店街32<1番街>

2019年02月12日 | レモン色の町

昭和38年8月8日?、おかざきさん前から北方向、フクヤさん前交差点を撮る。左のカワムラセンターは工事中か?完成しているのか?43年には開業している。おかざきさんの向こうの看板、うなぎ・キリンビールは、やっこ寿司さんになる。

 

昭和39年6月吉日、一番街ホームラン前の四つ角から公園通りを望む。この日は、一番街アーケードの地鎮祭が行なわれた。恰幅の良い山本七郎氏の姿が見受けられる。公園方面へ関西電波四日市支店・のんきやの跡地・武蔵野茶店・空き地があって相撲料理の栄家と並ぶ。キタオカ前には庇状のアーケードが造られている。ここのアーケードは昭和三十三年に造られたはずだ。道幅が広かったためその後、台風で崩れてしまった苦労の歴史がしのばれる。

10年ほど以前の景色、あまり変わってない

かなりのスピードで街が形成されていく。

  昭和42年9月、辻さん前から西方向にカメラを向ける。大きな重機が横たわっている。諏訪劇場解体の途中か?雨上がりの水たまりをまたいで歩く女性が通る。

昭和43年の街並み


カンバック!昭和商店街31<スワ百貨店3>

2019年02月11日 | レモン色の町

昭和39年9月15日、辻さんが撮ったスワ百貨店屋上ビアガーデンの様子だ。行く夏を惜しむかのようにビールを楽しむ人々の姿は、やや閑散としていて寂しい。この頃は、どこの屋上にもビアガーデンがあった。工場の煙が漂う中、左に明るいネオン塔が望める。商工会議所の屋上に建つ東芝のネオンである。

 

スワ百貨店の店舗構成はどうなっていたのか?昭和43年の地図には4階までが店舗とあるだけで詳細は分からない。この時はいちょうやビル店とあるが、開店して6年目、ビルの名前は変わってないように思うが???この後、ユニーが入り、アピカとなる。

 

昭和61年にはアピカ内の出店店舗名が分かる。

 

平成6年のアピカ内部。