花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

旧四日市を語る会のお祭り

2023年07月30日 | レモン色の町

大入道はどうしてつくられたか?桶之町の倉庫群の隅に狸が住み着き、これを脅かし退治するために考案されたカラクリであると紹介しました。なるほど、蔵町の“岩戸山”が狸の邌りであることからも十分考えられることです。化かすことはなくても悪さはあったとおもわれます。

四日市祭りのことを皆さんで話し合っているがまだ不十分であると“旧四日市を語る会 第二集”に掲載されていました。そこに26日のことがあります。江戸末期は、試楽(しがく)といって、北町の大山車を先頭に四日市宿の邌りが“陣屋”前で順々に演技を披露しました。

戦前の様子がこう書かれています。

9月26日は、神さんを神輿に乗せ西町の御旅所(地蔵さんの隣)まで行き、坂を上って(明治橋の手前で)東向きになり、(三滝川沿いに)堤を下って東へ、三瀧橋から北町へ(東海道沿いに札ノ辻へ)進み、各町内の邌りが続いて練った。さて、26日行われたのは、江戸期が陣屋で、明治期以降が西町の御旅所か?混乱しています。

西町の地蔵さんあたりでは電線よけの為 地面が掘ってあったそうです。電線よけの竿では間に合わなかったのでしょう。

新丁の“菅公さん”の場合、方向転換の時は、3人が後ろで錘(おもり)となり、前では屈強な男衆の3人が梶棒を上げて方向を変えた。得意満面だったと想像できます。諏方神社の社頭では車輪の下に割った竹を敷いて回した。祇園祭みたいですね。

神社への邌り込みは、鳥居の北側を回った(現在と同じです)。

町のあちこちに桟敷が造ってあり、演技が披露されたということです。年に一度の楽しみだったと思います。

四台の大山、北町(七福神)・西町(楽)・新田町(鹿狩り)・濵田は、電柱が邪魔で動かせなくなり社頭で組み立てられたそうです。鳥居前で両側二台づつ並べられましたが、語る会の方は、二台が南に並んでいた記憶しかないそうです。濵田と西町は一年交代でだされたということでした。維持が大変だったのでしょう。


近鉄四日市駅が出来るころ

2023年07月26日 | レモン色の町

昭和31年 国鉄四日市駅と対峙するように 近鉄四日市駅ができた

辻さんが残していかれた 諏訪駅跡地から西の写真

そこには広大な空き地が残されていた

後年 ここに1番街が形成されることになる

分からなかった

港楽園から天理教 工業高校あたりの変化の様子が

中日新聞さんの空撮で その謎が解けた

これです 諏訪駅が機能している中に ほぼ完成の新しい四日市駅


シン大入道 百物語②

2023年07月21日 | レモン色の町

見る人を驚かせる、狸を仰天させるような邌り車をと、桶の町の人々は「ぼんぼりお化け」や「大鏡餅」などをつくってきましたが、ついに文化2年(1805年)「大入道」を完成させるのです。椙山満氏はこう書いています。

さらにすぐれた芸のもの、そして昔からの物語など夢を求めた、しかも何度みても見飽きない、よりすご味のある大化け邌り車を、尾張名古屋在住の人形師 竹田寿三郎・竹田藤吉親子に依頼し、親子二代の苦心作として出来上がったのが「大入道」であった。

明治24年頃の木版擦り 北条町の魚盡しと共に 百物語として登場している 大入道

こうして昔は、梵天・大鏡餅・ぼんぼり御所車・千生瓢箪・大入道の順で諏訪神社に邌り込まれたそうで、妖怪のオンパレード、さぞかし見ものだったことでしょう。明治2年には、上下に伸縮するだけの首に、背美鯨(せみくじら)の髭を使い大きく弛ませることで、観客を驚かせるからくり山車に仕上がりました。

これらのお化けは 明治期のデザインのようだ 四日市市の祭りを学ぼう会発刊  四日市祭より

昭和11年の国産振興大博覧会には、久方ぶりに「御所車ぼんぼりお化け」が登場し、大入道と共演をしました。しかし、この時が「ぼんぼりお化け」が市民の前に姿を現した最後でした。

昭和17年の四日市祭りに登場の大入道 戦勝祈願のたすき掛け 写真集:四日市の100年より

昭和20年5月、疎開の為、大入道は西倉川の平野安次郎他二軒の家に移され6月の空襲の難は逃れることが出来ました。そして、終戦後の昭和26年9月の四日市祭りでは、中納屋の邌り藏から出された「大入道」は、市民の熱狂に迎えられ、浜田からの帰り山車では、講和条約の立役者“吉田茂”に変相(装)して、これも又、市民の大歓迎を受けたのでした。


シン大入道 百物語

2023年07月19日 | レモン色の町

四日市祭りと云えば、当然“大入道”になりますね。そこで、大入道誕生の秘密を探ってみましょう。

安永年間(1772年〜1781年)に、“南納屋”から“百物語”の邌りが出されています。そして、明治10年には“大魔性活動人形 大入道”になりました。どうやら、突然“大入道”が出現したのではないようです。この経過は、椙山 満先生が「四日市市史 第8号」に“四日市祭禮 百物語”として書いてみえます。

寛文年間(1660年頃)

享保2年(1717年)、第1期の四日市湊であった勧進橋(後の思案橋)あたりから東方には那古の浦と呼ばれる浜地が広がり、風のない日には蜃気楼を望むことが出来ました。この頃から、浜地の両側には漁師の家が建ち始め、納屋町通りと呼ばれるようになりました。

明和5年(1768年)、納屋町通りは蔵町通りとなり、ここ一帯に家屋が並ぶようになります。北から北納屋、中納屋、中南納屋、南納屋の町割りが出来、賑わいが出てきました。

天保時代

天保時代(1830年〜1843年)になりますと、中南納屋あたりに桶町、その南の南納屋には袋町と新町名が生まれています。海岸には小さな祠(ほこら)と鳥居が立ち乗船場になっていて、思案橋を第1期湊とすると、ここは第2期の湊になります。

東海道分間延絵図(江戸末期)

享保(1716年〜)から天保、明治にかけて、浜地に富田屋文助(富文)の味噌蔵があって桶が多数並び、いつしか桶之町と呼ばれるようになりました。また、岡田久馬家や河原田回漕店の物置倉庫もあって、このうす暗い倉庫群にはたくさんの狸が住み着くようになったのです。この狸が夜間化け物になって町民を脅かすので、懲らしめの為に化け物に勝る妖怪をつくろうと、納屋町の人たちは尾張の人形師に依頼しました。明和5年(1768年)のことです。こうしてつくられたのが、「御所車ぼんぼりお化け」や「大鏡餅」、「梵天」、「千生瓢箪(せんなりびょうたん)」などの怪物山車でした。見る人もびっくりして怖がるような面白い邌り車がこうしてつくられ、披露されたのです。

四日市市史研究より

そして大入道が誕生します。


明治以前の四日市祭り 発生と邌り編

2023年07月16日 | レモン色の町

四日市祭りは何時から始められたのかは定かでありません。

北条町の魚づくし

さて、その起源を探ってみますと、北町の大山車の弊束(お払いに使う御幣)に“延宝七年巳未七月”と記してあったということです。延宝七年は1679年(徳川家綱が第四代征夷大将軍の時代)になります。

袋町の鯨船

大山車は、西町、北町、新田町にもあって、享保九年(1724年) 四日市宿を管理していた郡山役所に出された明細帳に「濵田より大山車二輌、四日市より二輌、他に 邌物少々・・・」との記録がありました。従って、1679年〜1724年の間に揃い出し、徳川家治の安永年間(1772年〜1781年)には四日市祭りが完成していたことになります。ただ“邌り”は市民の余興で造られたものであって、時代によって変化しました。

新丁 菅公謫居の状

ここに安永時代と明治時代の邌りの比較を見ることが出来ます。

蔵町 狸の腹づつみ


明治期以前の四日市祭 式典編

2023年07月14日 | レモン色の町

明治期の四日市祭りはどんなだったでしょう?9月26日は、試楽(しがく)といって、四日市の各町が陣屋へ練り込み演技を披露しました。浜田村からは新田町の大山だけが北町の大山への挨拶に出向いたそうです。

新田町の小山 天岩戸神楽

さて、祭典当日の27日の式典の様子です。朝、新田町の大山を阿瀬知川が流れる江田町の石橋まで曳き出し、ここで濵田の大山を迎えて、共に諏訪神社鳥居前まで東海道を北上します。拝殿に向かって右に新田町、左に濵田の大山が配置されたところで、“花納(はなおさめ)の式“が執り行われます。本殿前に立った“前乗(まえのり)”が新田町、濵田町の順に桜の造花を献上し、これに対して神職は“神酒使”に御神酒を授与させるのです。次に大山上での“獅子舞の式”に移ります。この時、新田(天岩戸)、江田(大黒天袋破り)、濵田(富士の巻き狩り・三神)等が順次拝殿前へ練り込み演技を披露します。これが終わると各町への帰路につき、江田の大山も続いて東海道を南進します。ただ、新田町の大山は鳥居前に残ります。

濵田 富士の巻き狩り

その後、神社へは西町の大山を先頭に南町(天岩戸神楽)、上新町(上代人形)、竪町(唐子遊び)等の邌りに続いて北町の大山が入ってきます。こうして鳥居前に新田、西町、北町の大山が並んだところで、濵田の大山と同じ“花納”と“獅子舞”の儀式が行われ、終わると神社を出て東海道を濵田方面へと南進していきます。帰りは、北町の大山を先頭に西町の大山と各町の邌りが続きます。諏方神社は濵田の地域であって、四日市宿は、濵田に敬意を表しているようです。四日市と濵田村の構図が良く分かります。

上新町 釣り物 上代人形

話しを27日の式典の朝に戻します。濵田村の庄屋と四日市宿の三役が陣屋へ出向き、本陣の“御出役(当時の出張吏員)”と共に神社へ出向きます。御出役は麻地に家紋の正装で拝殿にて、三役以下は詰め所にて祭礼がことなく済むよう見守ります。時によっては、花納の式が終わると御出役は「儀式は済んだので適当にやってくれ」と帰ることもあったそうです。

竪町 小山 唐子遊び

こうして各町の邌り込みが済むと、神職は“一萬度大麻(いちまんどおおぬさ)”を陣屋に収め、式典が無事終了したことを報告します。これで祭りの初日が終わることになります。

小山 天岩戸神楽


明治期以前の四日市祭 試楽編

2023年07月12日 | レモン色の町

明治40年5月15日 南町在住の伊藤善太郎氏は、市内の学生向きに“四日市史”を発行。ここに“四日市祭り”のことが記録されているので紹介します。

本町の水谷宜夫氏から借り受けました

古来より諏訪神社の祭りである“四日市祭り”は7月27日でしたが、明治期に太陽暦になって8月27日となり、明治14年に起きた疫病の流行(明治12年に県下でコレラが流行したことか?コレラは経口感染で、水や食べ物から感染する)で9月27日に変更されました。四日市祭りは、大山 小山の邌物(ねりもの)(山車とは言われませんでした)が出されて、遠方 近在からの多くの人で賑わったのです。

旧町名

9月26日、四日市祭りは、札ノ辻の陣屋前に邌物が次々と集まり演技を披露するところ(試楽=しがく)から始まります。陣屋は当時の尋常高等小学校の処で、表門は竪町 佐伯又太郎氏の西側にあたるとありました。

西町の大山

四辻に集まる邌りは、西町組(西町、久六町、比丘尼町)・北町組(北町、川原町)・南町組(南町、上新町)・竪町組(竪町、魚町)・中町組(西中町、東中町、中新町、四ツ谷新町)・濱町組(濱町、下新町、新丁、北條町)・納屋町組(蔵町、北納屋町、中納屋町、桶之町、袋町、南納屋町)で西方面から順次 邌り込み、陣屋前で演技が披露されました。四日市外の新田町と浜田は、陣屋前への練り込みはなかったようです。

北町の大山(上では獅子舞が奉納されました)

西町・北町・浜田町・新田町の各大山は、その邌りがあまりにも巨大であったため(電柱下を潜れなかった)、それぞれの町での試楽(しがく)となりましたが、新田町の大山だけは辻まで曳き出されました。これは北町に対して訪問の禮をする意味で行われたそうです。

浜田の大山(残念ながら新田町の写真は残されていません)

今気づきましたが“禮”の変換に“邌”の字が検索されました。諏方神社に対して禮=礼を述べることが“邌り(ねり)”なのでしょう。どなたかお教えいただければと思いますが、むつかしい漢字に親しみがわきます。


ぶらり四日市59 昭和1番街③

2023年07月09日 | レモン色の町

講和記念博覧会の第2弾でゴザイマス 会場の詳細をGGシニアさんにアップしていただきました

(7) 「昭和27年四日市中央通りで開催された講和記念大博覧会/タイムスリップ」 - YouTube

昭和33年7月、強い日差しが二人の女性に降り注ぐ。ここは何処だか分りますか?

日傘を通った夕日が、女性の額に模様をえがいています。

カメラを構える辻俊文さんを恥ずかし気に見る人は、“実は私の家内です”と ある日訪れたKさんからお聞きしました。奥さんは強く否定されたそうですが左の方は友達だそうで、どうやら間違いなさそう。後ろにボンネットバスが2台停まっています。背景にはスワランドリーと富士電機が建ち“富士モートル”の看板があります。

昭和43年の住宅地図より

ここは中央通り、近鉄駅前の南側バス停です。昭和43年の地図には、東洋電機、四日市トルコセンターをおいてヤンマージーゼルとなっています。昭和27年この道路で開催された“全日本農機具大博覧会”の名残りでしょうか?現在ここにはグリーンホテルが都市型のホテルを建てられました。このあたり一帯は新しい四日市バスターミナルの工事中です。

現在


ぶらり四日市58昭和1番街②

2023年07月08日 | レモン色の町

ここは1番街の何処か わかりますか?

水谷宜夫さんにお借りした写真です。何処でしょう?

1番に目につくのが 諏訪劇場で上映中の 黒川弥太郎・市川雷蔵・入江たか子出演の「花の白虎隊」の看板です。この作品は昭和29年公開となっています。諏訪駅が廃止される前後でしょう。“北岡時計店”の看板から、駅周辺。“山正”さんの「豚」の文字が少し控えめに書かれています。肉といいえば牛肉でした。通行中の人から 季節は夏、影の形から午後になります。どうやらパチンコ店の角のようで そこに“のんきや”さんのごみ箱が置かれています。のんきやさんは 戦後 サンシ前で線路を背にして小さなお店を開いてみえましたが 諏訪駅が取り壊される頃 諏訪公園南大通りに新築されています 右に掛かるアーチの文字は「諏訪公園南大通り」 したがってパチンコ屋=甲子園の東南角になり 現在は“うまし国横丁”となっています。1番街というよりも 公園通りでした。陳謝!


ぶらり四日市 その五十七 昭和1番街①

2023年07月05日 | レモン色の町

昭和1番街へタイムスリップ 黎明編

四日市はその名の通り“四”の付く日に、札ノ辻を中心に市が開かれて発展し、その辻は、東海道と交差した“浜往還”で湊へと伸びていた。明治期になると鉄道が発達し、海運と陸運が可能な“四日市驛”が出来た。また、日露戦争を機に“軽便鉄道法”が発令され、明治末期には、四日市でも室山間に“三重軌道”と菰野間に“四日市鉄道”が敷かれ関西鉄道の“四日市驛”と繋がった。この二つの路線と東海道の交差した地点が“諏訪”である。昭和3年になると、“伊勢電鉄”が“諏訪”と“四日市驛”間の路線を買い取り、二つの軽便鉄道の始発は“諏訪”からとなった。東海道と二つの軽便鉄道と伊勢電鉄、この三つが集中する“諏訪”に賑わいが生まれるのは当然であった。

現 サンシ前より 北岡時計店の時計塔がみえる この先が諏訪駅

昭和17年、旧東海道沿いにあった伊勢電鉄と二つの軽便鉄道は、手狭になったため100メートルほど西の現 北岡時計店南に移される。そして昭和20年6月、市街地はB29の焼夷弾を浴びて焦土と化す。

戦後の諏訪駅

駅構内 左が内部八王子線 直線に湯の山線

昭和31年9月、四日市駅からS字型に曲がって諏訪駅に入っていた“近鉄伊勢線”は、短絡化工事によって海山道駅からまっすぐに桑名方向に向かうことになった。このため諏訪駅は廃止され中央通りを挟んで国鉄四日市駅と対峙するように“近鉄四日市駅”が完成した。この駅前から諏訪駅跡地にわたる地域が現在の1番街である。

駅前の賑わい 水谷宜夫氏提供

午後の諏訪駅前 辻俊文氏提供