大入道はどうしてつくられたか?桶之町の倉庫群の隅に狸が住み着き、これを脅かし退治するために考案されたカラクリであると紹介しました。なるほど、蔵町の“岩戸山”が狸の邌りであることからも十分考えられることです。化かすことはなくても悪さはあったとおもわれます。
四日市祭りのことを皆さんで話し合っているがまだ不十分であると“旧四日市を語る会 第二集”に掲載されていました。そこに26日のことがあります。江戸末期は、試楽(しがく)といって、北町の大山車を先頭に四日市宿の邌りが“陣屋”前で順々に演技を披露しました。
戦前の様子がこう書かれています。
9月26日は、神さんを神輿に乗せ西町の御旅所(地蔵さんの隣)まで行き、坂を上って(明治橋の手前で)東向きになり、(三滝川沿いに)堤を下って東へ、三瀧橋から北町へ(東海道沿いに札ノ辻へ)進み、各町内の邌りが続いて練った。さて、26日行われたのは、江戸期が陣屋で、明治期以降が西町の御旅所か?混乱しています。
西町の地蔵さんあたりでは電線よけの為 地面が掘ってあったそうです。電線よけの竿では間に合わなかったのでしょう。
新丁の“菅公さん”の場合、方向転換の時は、3人が後ろで錘(おもり)となり、前では屈強な男衆の3人が梶棒を上げて方向を変えた。得意満面だったと想像できます。諏方神社の社頭では車輪の下に割った竹を敷いて回した。祇園祭みたいですね。
神社への邌り込みは、鳥居の北側を回った(現在と同じです)。
町のあちこちに桟敷が造ってあり、演技が披露されたということです。年に一度の楽しみだったと思います。
四台の大山、北町(七福神)・西町(楽)・新田町(鹿狩り)・濵田は、電柱が邪魔で動かせなくなり社頭で組み立てられたそうです。鳥居前で両側二台づつ並べられましたが、語る会の方は、二台が南に並んでいた記憶しかないそうです。濵田と西町は一年交代でだされたということでした。維持が大変だったのでしょう。