花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

映画「寝ずの番」

2006年03月29日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
抱腹絶倒。映画「寝ずの番」が4月8日に封切りされる。原作、中島らも。津川雅彦がマキノ雅彦となっての第1回監督作品だ。下ネタに弱い方は少ししんどいかもしれない。AMAZONシネマで内容の一部が紹介されていたので、盗用させていただいた。申し訳ありません。

方落語界の重鎮・笑満亭橋鶴が、今まさに臨終のとき。弟子たちが見守る中、一番弟子の橋次が言った。
「師匠、何か心残りはありませんか?最期に、これはやっておきたかったということはありませんか?」
鶴の口がもごもごと動いた。
「そ、そ○が見たい…」
「そそ・・・???」
皆が呆気に取られる中、橋次はおとうと弟子の橋太に言った。
「お前、ちょっと家へ帰って、嫁さんを説得してこい」
「あの、うちの女房のおそそを見せろと言うんですか?」
「そうや」
匠の最後の願いを叶えるため、家へ帰り、嫁の茂子と対峙する橋太。
キップはいいが、気に食わないと口より手や足や物が飛ぶといった気の強い茂子。
「でも、それやったらどうして、志津子ねえさん(橋鶴の奥さん)のを見せてあげへんのよ?」
「志津子ねえさん?BABA(ビーエービーエー)ばばあやぞ。師匠かて、いまわの際にそんな婆さんのもの見とないに決まってるやないか。 お前みたいな美人のが見たいのは当たり前やろ!お前みたいな美人のやないと、あかんのや!」
この言葉にくらっと来た嫁の茂子は、ポンと胸を叩いて言った。
「わかったわ。見せましょう、こんなおそそで良かったら」
子の到着と入れ替わりに、病室を出て行く弟子たち。
「ほな師匠、いきますよ」
というなり、橋鶴のベッドまたがり、股を割る茂子。師匠の目は、茂子の股間にじっと注がれていた。
次が、師匠の耳元で囁いた。
「どうでした、師匠、そそをお見せしましたが」
すると橋鶴は、今にも泣きそうな顔で、弱々しく首を振った。
「そそやない。そとが見たい・・いうたんや・・あほ!」
「そと!」
の3分後に、師匠は亡くなった。

映画「四日間の奇跡」

2006年03月28日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
映画「四日間の奇跡」をDVDで観る。あまり期待をしていなかっただけに結構感動した。
ブストーリーということで借りてくるのに気がひけたが、宝島社の「このミステリーがすごい」で第一回の大賞を取った、浅倉卓弥の書いたベストセラーの映画化だ。
督は「半落ち」の佐々部 清。キャストが結構良く、吉岡秀隆・石田ゆり子・西田敏行・松坂慶子・平田満・石橋連司とそうそうたるメンバーだ。
口県角島の海辺に建つ療養所へ、青年、如月敬輔(吉岡秀隆)と少女、千織(尾高杏奈)がピアノの演奏に訪れる。そこで献身的に働く岩村真理子(石田ゆり子)は、高校時代、ひそかに如月に恋心を抱いていた。12年ぶりの再会。
アノ演奏を終えた別れの日、浜辺で千織と真理子は落雷に合い、千織をかばった真理子は重傷を負ってしまう。そこで奇跡が起きる。どんな奇跡かというと、ネタバラシになるので控えるが、心の移動みたいなものだ。
の心が入れ替わるって、以前、北村 薫の「スキップ」で読んだ。「スキップ」の内容を紹介する。
和40年代の初め。わたし一ノ瀬真理子は17歳、千葉の海近くの女子高二年。それは九月、大雨で運動会の後半が中止になった夕方、わたしは家の八畳間で一人、レコードをかけ目を閉じた。目覚めたのは桜木真理子42歳。夫と17歳の娘がいる高校の国語教師。わたしは一体どうなってしまったのか。独りぼっちだ・・・でも、わたしは進む。心が体を歩ませる。顔をあげ、『わたし』を生きていく。
日間の奇跡」とは無論、舞台設定も異なる。共通点は心が移動することだけだ。角島の風景もきれいだし、挿入曲の「月光」「別れの曲」「亜麻色の髪の乙女」のピアノ曲もすばらしい。それぞれが持つ重い過去を振りほどき、それぞれが明日に向かって生きていく。話がうまく出来すぎている気もするが、心癒される作品だった。
だ、気になったのは、倉野順次(西田敏行)の療養センターは新しくきれいだし、経営に苦労はないのだろうかと思ってしまう。30人ほどの患者と生活を共にしているが、介護師の真理子が倒れても院内は一向に忙しくなった様子がない。
あ、あまり現実的なものを持ち込んでも興ざめするだろう。ロマンチックな感動作だった。

もう一人の力道山 完結編

2006年03月26日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
昭和38年だから、オイラが中学生の頃になる。力道山が暴力団員に刺された記事を新聞で見た記憶がある。確か現場写真が載っていた。記憶はあいまいだが、ドアの前で現場検証をしているところだった。不死身の力道山は、それから一週間後に最後を迎えることになる。
和38年12月8日。力道山はその日の朝、赤坂のリキ・アパートで相撲協会の高砂親方と会っている。相撲のアメリカ巡業に力を貸してほしいという頼みだった。その日、彼はすこぶる機嫌がよく、高砂親方を送り出したあと、デストロイヤーとアントニオ猪木を自室に迎えて酒を飲んでいる。
の後、デストロイヤーと赤坂の料亭に出かけ、午後はゲストとしてラジオの録画を受けた。ところが酩酊はなはだしく大声で歌を歌う有様で、結局放送は取りやめとなった。その夜、力道山一行は事件の起こるニュー・ラテン・クォーターへと向かった。
10時頃、トイレの入り口でいざこざが起きた。大日本興行の組員、村田勝志と力道山は体がぶつかったといった些細なことから喧嘩となり、押さえつけられた村田は危険を感じて隠し持っていた刃物で力道山の腹を刺した。
のときの怪我はたいしたことはないようにみえた。力道山は彼の贔屓筋だった山王病院へ入院したが、執刀医が居なかったため他の病院から外科医を呼び寄せた。術後の経過は良かったように見受けられ、全治二週間と発表された。誰もが元気な力道山に戻り、再びリングでの勇姿が見られるものと思っていた。
ころがその一週間後、腸閉塞を起こしているということで再手術を受けることになる。直後に容態は急激に悪化して、力道山は帰らぬ人となった。あまりにもあっけない死だった。
因は何だったのか。事件から30年後、岐阜大学医学部教授の土肥修司氏は、麻酔薬の誤使用によるものではないかと語った。麻酔薬の使用は歴史も浅く、当時としてはまだまだ未熟だったのではなかったのかと。
道山の死に関して、誰かに殺されたのではないかという説もあった。江戸の昔から地方興行はその土地の親分が取り仕切っていて、プロレス業界にとって、地方の興行師との関係はなくてはならないものだった。彼を取り巻く世界は必然的に右寄りの人間が多くなる。
方、彼の出身地である北朝鮮には、実の娘を含む家族が生活していて、密かに英雄である力道山への接触が続けられていた。彼は東京オリンピックを契機にふるさとへ帰り、南北統一に献身するつもりだったといわれていた。そこには、北と南の狭間で苦悩する力道山の姿があった。
の本の著者、リ・スンイル氏は、朝鮮籍を持つ在日コリアンの3世だ。彼は自分の足で多くの関係者を探し尋ねて話を聞いている。力作だ。
イラも力作でした。お付き合いいただきありがとうございました。

もう一人の力道山 第3部

2006年03月24日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
ブラッシーの名をご記憶の方も多いだろう。相手の額に噛み付きリングを血だらけにした。
は、彼は大変子供好きだったのだ。あまり子供を抱くので力道山は怒って、彼に一本のヤスリを渡した。テレビの前で自分の歯を研いで見せろと。そのヤスリは側面にも歯がついていたので、口を切るから痛いと文句を言ったら、改良したものを渡された。見ている誰もが震え上がった。意外な彼の一面が出ていておもしろい。
レートアントニオは背丈2メートルの巨漢だった。彼にバス4台を引かせた。少年雑誌に大型バスを引っ張る大男が、イラストで載っていた記憶がある。こんな怪物に力道山は勝てるのだろうかと思ったものだ。
の話を持ち出されたとき、アントニオはそんなことは出来ないといっている。そこで引っぱるロープを伸びない太い鎖に変え、バスを緩やかな坂に置いた。少し弾みをつければあとはゆっくり動く。普通の男を怪物に仕立て上げる力道山は、才能ある演出家だったのだ。
道山は優れた実業家でもあった。彼に集まる巨大なマネーを使い、スポーツジム・ヨットハーバー・ゴルフ場・ボウリング場。ステーキハウスと事業を拡大していく。
かし、やがてその栄光にもかげりが見え始める。外人に支払う巨額のファイトマネーとそれにかかる税金、各施設の維持費。そして昭和37年、人気のワールドリーグ戦で右肩を脱臼する怪我に見舞われる。あまりのヒーローになりすぎたため、彼に変わる後継者が出ない。薬と酒に頼り、暴力で発散する孤独な日々が続くようになる。
誌のインタビューで力道山は答える
「この仕事はやらなければならないから続いたんですよ。夜寝ていても、あっちこっちが痛くて、体はガタガタですよ。寝られないときは睡眠薬。お酒はねぇ、一生涯分全部飲んじゃったから神様が配給してくれない」
夜、彼は幼なじみが経営する焼肉店へ出かけて「アリラン」や「トラジ」を寂しく歌ったという。

もう一人の力道山 第2部

2006年03月23日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
昭和26年秋、プロレスの地方巡業は不入りのまま終わる。プロレスが何たるかも知らない日本では当然のことだった。力道山は悩んだ。相撲界では順調だっただけに、彼の心境は複雑だった。
は海外遠征を控えて、中村日出夫から空手の訓練を受けている。同じところを手で何度もたたくという激しい訓練に耐えている。師が5000回叩けというところを、彼は黙って1万回叩いていた。手からは激しい血が噴出した。空手チョップたるや単なるショーの道具かとオイラは思っていたが、恐れ入ってしまう。
年1ヵ月後、力道山はハワイ遠征から帰る。向こうでの激しい訓練と連日の試合で、彼の体はすっかりプロレスラーの体型になっていた。空港での出迎えの一人、日本テレビのプロデューサー戸松信康との出会いでテレビ中継が実現することになる。
道山がアメリカから連れて帰ったシャープ兄弟に対する、木村政彦と力道山。蔵前国技館で行われた対戦に、全国民は街頭テレビの前で空手チョップに熱狂した。木村が反則技で叩きのめされているところに力道山の空手が炸裂する。興奮した視聴者から死者が出る騒ぎだった。
かし、力道山には、共に戦った木村政彦と運命の対決が待っていた。力道山の陰に隠れてしまっていた木村は、「国際プロレス団」を立ち上げ挑戦状をたたきつける。彼の出生の秘密を公表したことが火をつけた。
和29年12月、昭和の巌流島対決の幕がきって落とされた。木村の急所蹴りに激怒した力道山は、空手チョップを浴びせた。血だらけになって倒れる木村。しかし、この勝負はリング上だけでは終わらなかった。
道山はマスコミで「あの試合は引き分けのはずだった」といった。木村は「引き分けの約束などした覚えがない。スポーツマンシップに反する」と反発。こうして八百長試合の疑惑が出た。今は亡き木村政彦の書いた自叙伝には、当時の対戦についてこう記してある。
は決まった。勝ち負けは、一回目は引き分け、二回目はジャンケンで勝ったほうが勝ち、それ以降はこれを繰り返して興行する。互いにこの条件で納得したのだ。・・・・・だが、いざ試合の段になって金と名誉に目がくらみ、冷静さを失い、狂人と化したのが力道山だった・・・・。この背信行為は許せなかった。」と・・・・・

もう一人の力道山 第1部

2006年03月22日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
力道山はヒーローだった。悪役外人からピンチに立たされた後、最後に放つ空手チョップにみんな興奮した。力道山がやくざに刺されて死んだことを聞いたとき、国民的英雄に暗い影を感じた。彼にはもうひとつの顔があった。「もう一人の力道山」リ・スンイル著(小学館文庫)
名、金信洛(キン シンラク)。力道山は6人兄弟の末っ子として、大正12年に北朝鮮の寒村で生まれた。兄弟そろって体格がよく、村で行われるシルムという朝鮮式相撲大会では、兄の恒洛(ハンラク)とそろって優勝を飾った。懸賞品の牛一頭は、家族の生活を支えた。力道山にこんな生い立ちがあったとは知らなかった。
和15年。二所ノ関部屋にスカウトされ日本に渡る。家族の反対を押し切ってのことだった。持って生まれた根性で順調に十両にまで進む。しかし、金と呼ばれた力道山は、朝鮮人という差別を強く感じていた。日本はまだ戦時中だった。
和20年敗戦。これを契機に力道山は大きく変わる。髷を結った頭で、真っ赤なインディアンというバイクに乗り回し相撲界からひんしゅくをかった。敗戦国から受けていた屈辱が、反抗心となって出たからだ。
和25年8月。小結に昇進した力道山は、自宅の台所で自ら髷を切り落とした。相撲界に対する反発からだった。この年、朝鮮戦争が勃発。彼は一大決心をして国籍を日本に変えた。日本人でなければチャンピオンになれないという思いからだった。
和26年、相撲界がおもしろくない。酒と喧嘩に明け暮れる力道山は、ナイトクラブで、アメリカから来ていたハロルド坂田と出会い、プロレス入りを決断する。ここでは、ハロルド坂田にまったく太刀打ちできなかった力道山のエピソードがあった。当時の日本ではプロレスを知る人はいなかった。しかし彼は、そろそろ巷に出始めたテレビジョンにのって、プロレスリングを国民が熱狂するショーに作り上げていく。
中戦後という時代に生きた力道山が持つ、朝鮮人というコンプレックスと、ふるさとに対する強い思いとの葛藤。彼の負けん気と派手な性格。そのあたりがよく書けていて興味深い。こうして彼自身が望んでいたチャンピオン、国民的ヒーローに登り詰めていく。
は変わるが、今回、日本のチームを世界一に導いた王監督にも、感慨深いものがあっただろう。長嶋さんの影になって、世界のひのき舞台に出ることがなかった王監督に、台湾出身の影があったというのは考えすぎだろうか。

B館跡地マンションの図面

2006年03月21日 | おいらの商店街

本日、春分の日のまちなかは、野球のおかげでまったく静かでございました。
昨夜は諏訪栄町東部自治会の総会が開かれました。審議事項はごみ問題で終始していたようです。ところで、会長がジャスコB館跡地に関する図面をお持ちでした。早速、ご無理を言って見せていただきました。この図面は各会長宛に配布されたものだそうです。図は、上から一階平面図、二階平面図、西側、東側となります。
1階東側(グリーンモール側)にテナントがワンフロアーとってあります。コンビニが入るぐらいの広さでしょうか。西側は、総てがマンションの入り口になります。入り口から郵便受け、管理人室が配置されています。テナントとの間は駐輪場や機械室になっています。上がマンションになっている以上、これだけの施設は必要なのでしょう。
2階はテナントの4フロアーがあります。部屋に仕切りが多いのは、診察室のようなものを意識してでしょうか。物販には向いてないような気がしますが、思い過しでしょうか。現在、テナントはまったく未定とのことです。
街は皆の財産です。駅前の一等地にマンションがドッカと建ちます、そんな感じにならなければ良いのですが・・・絵で見せていただくと少し不安になります。
まぁ、A館跡地に期待しましょう。だいぶ先の話になってしまいますが。

走る!

2006年03月17日 | レモン色の町
前から気になっていたこと。江戸時代、人は走らなかった。
る行為をするのは、飛脚や駕籠かきぐらいで、特殊な技術を要すると考えられていたらしい。え?ほんと?わが耳目を疑った。映画や舞台などで子供たちは走り回っている。町火消しも走っている。そういえば忠臣蔵で吉良邸に向かう浪士たちもそうだ。スリを見つけたときは走って追いかけたはずだ。
士が急ぐときは、手をまげて前にあて、すり足で早歩きをするシーンをよく見る。武家社会では日常、走るものではないと教えられていたのだろうか。戦国時代は無論全速力で走っていたはずだ。江戸時代、太平の世になって走らなくなったのか。
代でも町中で走っている人を見かけると、いったい何事かと皆が見る。江戸の町でも農村でも、何か事件が起こらないかぎり走る必要がなかった。
歩競争なんて寺子屋では教えてなかった。街道筋でも歩いて旅をした。走ったらたちまち息切れがして旅は続けられなかっただろう。基本は徒歩、または馬か籠。火急の場合のみ走ったのだろう。だから、歩いている後ろから早籠や馬が来るとあわてて道をよけた。
はスピード時代。新幹線で何時間と言われ、時を争う時代になった。秒単位で用を済ませてくることが自慢されるようになってしまった。時間の代償としてエネルギーを浪費しているのだ。もう少しゆっくりしてもいいのではないだろうか。
いってもオイラだって、今日は何時からあれをして何時にこれをしてと、詰まるところ時間に追われている。足で走らない代わりに車や列車で走っている。もう少しのんびり構えれば、月日の経つのが遅く感じられるようになるのかもしれない。
参道スワマエはゆっくりと歩いてください。ここは旧東街道です。馬は走っていませんが。そういえばオイラの小さい頃は、農耕馬の糞が通りの真ん中に落ちていて、取り除いていたことを思い出します。
独断です。異論のある方はコメントで・・・

荒木又右衛門

2006年03月15日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
永5年秋 荒木又右衛門はみねと結婚する。久しぶりに池波正太郎の本を読む。みねとの結婚がないと、上野城下、鍵屋の辻での惨劇は起こることはなかった。
永7年7月事件勃発。岡山池田家の家臣 渡部源太夫が河合又五郎に切り殺される。この源太夫が、みねの弟にあたるのだ。原因は当主の寵愛を受けるようになった源太夫を又五郎がねたんだ為だ。幼い頃から仲が良かったのに、出世したため馬鹿にしだしたからだろう。
五郎のかっとなる性格は遺伝で、父親の河合半左衛門も刃傷沙汰を起こしている。上州 安藤家に仕える半左衛門は、江戸で伊藤某を切り殺し、たまたま前を通りかかった池田家の行列に助けを求める。渡せと迫る安藤家対、意地でも渡さぬ池田家のにらみ合い。徳川に世になって20年ほどしか経たない当時、血の気も多かったのだろう。結局、半左衛門は池田家にかくまわれた。
の息子の又五郎が、みねの弟を殺した。みねと殺された源太夫の間にもう一人弟が居た。渡部和馬。数馬は敵を討ちたい一心だったが、主、父、兄のあだを打つことは出来るが、弟のあだ討ちは認められなかった。
永10年、ようやく又五郎を討ってよしという許可が出る。これには大名対旗本の対立が背景にあった。
太夫を殺した又五郎は江戸の旗本 安藤治左衛門のところに泣きつく。この治左衛門は、又五郎の親父が以前仕えていた安藤家の親戚筋だった。昔の安藤家(旗本)対池田家(大名)の対立がぶり返す。頭にきた池田忠雄は又五郎を渡せと迫る。事が大きくなったので幕府は池田忠雄を毒殺した らしい。(一説による)
が変わって岡山を取り仕切るようになった池田光政は親戚筋。やはり又五郎を引き出せとうるさい。幕府は困り果て、又五郎討っ手の許可を出す、但し表向きでなければ旗本が又五郎を守る許可も添えた。
よいよ荒木又右衛門の登場だ。渡部和馬と家臣の四人で全国を探し回る。寛永11年、江戸に上る又五郎一行を京都で発見。又右衛門が地理に詳しい上野城下、万や(よろずや)の茶店で待ち伏せることになった。
前8時、又五郎以下20名の一団が来る。又右衛門は周到に作戦を練った。一番手ごわい馬上の甚左衛門に切りかかる又右衛門。左足を払い、馬の腹をくぐって甚左衛門の右足を切る。馬から落ちたところを頭から切り下ろした。付き人の抵抗は少なく、ほとんどが逃げ散ってしまった。
こまではスムーズに行ったが、数馬と又五郎の死闘は午後2時まで、6時間に及んだ。これは大変だ。腹も減るし、おしっこもしたくなるだろう。あくまでも和馬に打たせたい又右衛門は手を出さず成り行きを見守っていた。これも大変だったろう。双方傷だらけで、ようやく又五郎を討ち取った。
闘の後、又右衛門らは上野藤堂家に4年間かくまわれた。旗本の討手を避けるためだ。
永15年8月7日ようやく池田家に返された又右衛門は28日病死した。前から悪かったらしい。隠していた。
トーリーを追っているだけで終わりました。ツカレタ!

ジャスコB館跡地工事説明会開かれる

2006年03月14日 | おいらの商店街
昨日、ジャスコB館跡(B敷地)に建つビルの説明会がありました。スミマセン行きませんでした。
振興組合の事務所で吉田副理事に会ったので、説明会に行かれた旨お聞きしました。
建設に当たって地元の同意を求める説明会だったようです。工事期間中は十分周辺に気を配って欲しいといった質疑が中心でした。
テナントは1階に1フロアー、2階に4フロアーの予定で、テナント募集をしますということで何を入れるのか決まってないようです。
とりあえず、地元自治会、商店街に合意を得るため、急遽もたれた会合のようでした。
追って、もう少し具体的な説明会があるそうです。

建築主は、近鉄不動産株式会社と㈱ユディオコーポレション
設計管理(意匠 設備)を、IAO竹田設計
    (構造)大林組名古屋支店
施行は、大林組名古屋支店 となっています。

鉄筋コンクリート建 18階(地階ナシ) 住居数119戸 テナント5室
工期は、平成18年3月15日~平成20年5月末日
なんと2年後にようやく完成です。(完成するのか?)ジャスコA館跡地にナマコン車を乗り入れ、そこから現場へセメントを送ります。
ですから、A敷地の着工は、いつになることやら。
なんでもええで、早よやってくれ!(無茶か・・)