花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

大人の見る絵本「生まれてはみたけれど」

2011年10月30日 | 諏訪商店街振興組合のこと
11月25日(金)午後6時30分公開は「生まれてはみたけれど」です。
「これは世界的にも小津安二郎の初期の代表作として定評のある傑作である。
小津はこのときまだ28歳。しかし見事に完成された表現に達しており、日本映画界での不動の地位を確立した。
公開当時は、不景気時代を代表する暗い映画だといわれてきたが、実に見事に喜劇的に表現されており、笑いが痛烈な社会批評・人間批評となっている」
    日本映画学校校長 佐藤忠男
私がこの映画を始めてみたのは40年以上前のことで、強く印象に残っています。
サイレント映画の傑作は不思議なほど魅せられました。今までのホームドラマタッチとは一味違った小津監督の映画です。
     
     
     

小津監督「秋日和」上映

2011年10月29日 | 諏訪商店街振興組合のこと
昨夜は、“小津安二郎再発見「秋日和」”を上映いたしました。
18時に店を閉めて会場に駆けつけたところ、すでに30名ほどに方が席についておみえでした。今回は最高の来場者となり、感謝と感激でいっぱいでございました。
秋日和の夜に、秋日和を上映できますことは、本当に・・・秋日和でゴザイマス。1週間前からカレンダーに印を付けて楽しみにされていた高齢の方もみえるとお聞きし、今回の企画をさせていただいた張り合いをしみじみと感じることができました。ありがとうございました
     
早速、Tさんから感想が届きました。
「今回は溢れんばかりの観客数で、会場が熱気に包まれていましたね。
並べる椅子も多くて、係りの皆様には本当にお世話になり、ありがとうございました。
さて、我らの愛すべき三人組(佐分利信・中村伸郎・北竜二)は、今回もいろいろ面白いことを言ったりしたりで大活躍でしたね。
彼らのたまり場である料亭の女将(高橋とよ)との絶妙のやりとりや、妻優勢の夫婦の会話等大いに笑わせてくれました。
4作品も見てくると、それぞれの家のセットが妙に懐かしく、我が家に帰ってきたような気分になりました。
サッポロビール・ゴルフクラブ・銀座の有名洋菓子店?の包装紙なども出てきましたね。
また女性の最新のファッションも見所のひとつではないでしょうか。(後ろに線のあるストッキング・ヒールの高いパンプス(外反母趾の原因?)ウエストをキュッとしぼったドレス等)
最後に今回の作品“秋日和”で印象に残った風景を二つ揚げます。
□修学旅行生向け旅館での時間の経過と人の動き
□お寺の控え室横の廊下や、料亭の廊下の壁に影絵のように映し出された“水面の揺らめき”の幻想的な美しさ。   でした。
次回も楽しみです 宜しくお願いいたします」
     
     
子供のようにはしゃぐ北竜二と、中村伸郎のお惚けぶりには何度見ても笑ってしまいます。
そして、笠智衆が経営していた旅館の光景は、自分も印象深く残りました。夜と朝という時間の経過を小津監督は同じ位置から撮ってみえます。自分にも経験のあることですが、夜の騒がしく楽しい時間と、朝の静かで少ししらけた雰囲気がこの画面から感じることができます。
感想、ありがとうございました。
追記
今気付いたのですが、旅館「俵屋」の2枚の写真で、右上の木の枝が、朝には切り払ってあります。夜のうちに学生がいたずらをしたのか、それとも、小津監督が画面の構成上邪魔だったから切らせたのでしょうか。まちがい探しのゲームのようです

本町通り商店街“大正百年祭”

2011年10月26日 | レモン色の町
本町通り商店街振興組合では“大正百年祭”が10月30日まで開かれています。
まぐろ解体ショーが行なわれているので出かけたのですが、時すでに遅く、すっかり売り切れの状態でした(パンも・・・)。大成功と読ませていただきました。
1日2日のイベントでなく1週間以上の長丁場ですが、本町さんのペースで、じっくりと取り組まれているようでした。

空き店舗を利用したコミュニティスペースの様子     
展示されていた大正15年の諏訪神社前商店街の大きな地図
展示棟も充実していて、ご苦労のあとが伺えます。
抽選場では役員の皆さんが「マグロは評判が良いけれど、お持ち帰りにはおいしい干物の(訂正も)欲しいなあ」(蜂蜜もほしいなぁ プーさん)などの意見が交わされていました。
これからもコミュニティ商店街としての利点を伸ばして、古き良き昔の面影を生かした商店街づくりに励まれることを、説に希望いたします。(ナマイキデゴメン!)
このところ多彩なイベントが中心商店街では展開中ですが、1日も速く統一したイベント情報を発信できる機関の必要が迫られていると考えます。

小津監督の不思議な目線

2011年10月24日 | 諏訪商店街振興組合のこと
佐藤忠男著「小津安二郎の芸術」朝日選書 からの抜粋が多くて恐縮しますが、後年、編集に加わった浜村義康氏は、小津監督の撮る目線の不自然さについて、監督と話し合った経緯が書かれていました。
「視線ということを、カメラマンは大変気にしていますね。AとBとが会話をしているとすると、まずAのアップを撮る。このときAはやや右に視線をやって喋ると、今度は、Bの目線はやや左に向ける。これで二人の視線は一直線に並ぶ感じになります。
ところが小津監督はそうじゃないんです。Aは若干右方向に視線をやっているとする。するとBも若干右のほうに視線を向けてるんです。
僕は、これはおかしいから直してくれ、と言ったんです。
そうしたら、小津ちゃんは、じゃあそうしてみようかと言って、ワンシーンだけ、私の言うように撮ったんです。
ところがラッシュの試写を見て、なんだい、変わりないじゃないか。と言うんですよ。私がいくら説明をして、右と左別々に視線をやるようにしてくれと言ってもウンと言ってくれない。どっちを見たっておんなじだというだけで、どうしたってダメなんですよ。こりゃつまらなかったんですよ」
そして、佐藤忠男氏はこう推測します。
おそらく、小津にとっては、セリフは、相手の人物に対して言うものであると同時に、半ばは、それを言っている人物が自分自身に行って聞かせるものである。その微妙な違いが視線の一致を否定することになるのである。


すべての対話がそうなっているわけでなく、「秋日和」の佐分利信と原節子の会社や料理屋での目線は自然に見えます。
ところが、原節子がアパートへ帰って、司葉子との会話のとき、はっきり目線は行き違いを見せています。
物事を考えながら話すとき、そういえば、相手を見ずに、自分の目線が泳ぐようなことはありますね。
違ウカナ?
「秋日和」は10月28日金曜日午後6時30分より スワセントラルパーキング2階会議室で上映します 入場無料でゴザイマス

第2回 四日市カレーライスコンテスト

2011年10月23日 | おいらの商店街
     
     
好天に恵まれた本日、公園通りで第2回四日市カレーライスコンテストが開催された。
昨年4月の第1回よりもパワーアップして、今回は20店舗の出店となった。これだけの出店を確保するには、大変なご苦労があったことと思う。出店は地元商店街から9店、周辺の店舗11店とバランスも良く取れていた。
通りは溢れんばかりの人で終日賑わい、いろいろな味のカレーを楽しんでいた。
今回は出店が多かったため、会場紹介のチラシが大いに役立ち、マップ片手に会場を巡る人がほとんどだった。よく出来たチラシで、持ち帰って次回のお店訪問に役立ちそうだ。
     
今日から、本町通り商店街の“大正100年祭”も始まった。

「東京暮色」の撮影現場

2011年10月22日 | 諏訪商店街振興組合のこと
小津監督が、どれほど構図にこだわって撮影を進めていたのかを知るエピソードが、佐藤忠男著「小津安二郎の芸術」朝日選書にある。

小津は、撮影にあたっては、すべてのショットを自分でカメラのファインダーを覗いて細心の注意をはらいながらつくりあげていった。
篠田正浩監督は「東京暮色」の撮影のときに、助監督として小津の下で働いたことがある。
ある場面の撮影のとき、小津は、畳の上に1枚の座布団を敷くことを命じた。その座布団は誰が座るためにそこに置かれたのか、見当がつかなかった。
そこで彼は「小津先生、あの座布団はなんのためにそこにあるのですか?」と質問した。小津は「分からないか、じゃカメラを覗かせてやろう」と言って、篠田にカメラのファインダーを覗かせた。そして「何が見える?」と聞いた。
篠田は「そこにあるものしか見えません」と答えた。
すると小津は言った「畳だよ。畳のへりの線がいっぱいにひろがっているだろう」
小津にとっては、畳のへりの線が画面の中を広く交錯して見えるのが目ざわりで仕方がなかったのである。
小津の映画の空間は、一見、きわめて自然なもののようにつくられていながら、じつはこのような仕方で独特の美意識によって現実から再構成されていたのだった。
      原節子
      笠智衆
暗い映画との評判が高い?「東京暮色」(昭和32年4月30日公開)に、それと思われるシーンがありました。ただ、そこにあるのは、1枚の使われない座布団ではなく、炬燵にこどもが寝かせてあります。畳の中央に居座った子供の布団は、どう見ても邪魔です。(そして、子供が中に入ってる様子はありません)このシーンではないかも知れないのですが、確かに、畳のせんは隠されているようです。

「秋日和」の撮影現場

2011年10月21日 | 諏訪商店街振興組合のこと
昭和35年、大船撮影所を訪れた佐藤忠男氏が小津組の撮影風景に遭遇していて“小津安二郎の芸術”朝日選書でこう書いています。
大島渚の「太陽の墓場」と野村芳太郎の「観賞用男性」のセットを見た後、何気なく次のステージをのぞいてみると・・・・
そこは、しいんと静まりかえって、暗く、ただ、その中央につくってある、ひとつのセットだけが明るく照らし出されていて、少人数のスタッフが、足音もほとんど立てないような感じで、ひっそりと仕事をつづけていた。それが小津組の「秋日和」のセットだった。
     
     
     
     
洋風の応接間のセットで、原節子が和服で椅子に腰を下ろし、その前に十朱久雄が立って、簡単なセリフをひとつ言う。そのセリフのトーンが気に入らないらしく、何度でも、何度でも、繰り返させられている。
原節子は、あの美貌を、ただ石のように冷たくしたままじっとしているだけであるが、十朱久雄は、すっかりコチコチになってしまって、汗をふきふき、一度演技するたびに恐縮しているようであった。
巨匠は、二人が演技している位置から六,七メートルほどはなれた同じセットのつぎの部屋に、カメラを床の上一メートルほどの位置に据え、そのわきに座布団を敷いてすわり、ときどきカメラをのぞいて、静かに、おなじ演技を繰り返させていた。

"芸術のことは自分に従う"の言葉にあるように、小津監督は自分の思う構想が撮れるまで、自分が納得するまで何度もやり直しを繰り返しました。役者が自分を失い人形になるまで。ただ、原節子と岡田茉莉子には納得が早かったようです。

小津安二郎「秋日和」

2011年10月18日 | 諏訪商店街振興組合のこと
10月28日午後6時30分公開の“小津安二郎再発見”は“秋日和”です。
この映画は昭和35年11月に公開されました。この頃は年1本の製作ペースで、冬になると野田高梧と蓼科の別荘に籠りシナリオの作成に取り組みました。そして、春から夏にかけてクランクインし、秋に完成の運びとなりました。昭和33年“彼岸花”、34年“お早よう”と“浮草物語”のリメイク、昭和35年“秋日和”と続きます。
昭和35年は、新安保闘争があった年で、7月に岸内閣から池田内閣に変わっています。10月には浅沼社会党委員長が暴漢に襲撃される事件もあり、不穏な社会情勢でした。
そんな情勢を無視するかのように小津監督は“秋日和”を完成させました。ごく平穏な日常の繰り返しが何よりも大切なこと。そこからちょっとしたさざ波が起こり人生は変化して行く。そして変化が終わったとき、人は人生の終焉を迎える。小津さんの言葉を思い出します「何でもないものも二度と現れない故にこの世のものは限りなく尊い」

学生の頃、話題になっていたマドンナ(原節子)が未亡人になっているのをいいことに、三人の紳士たち(佐分利信・中村伸郎・北竜二)が娘(司葉子)と一緒くたにして結婚の世話をやきます。ちょっとエッチな会話がユーモラスで楽しく、お馴染みの料亭のお上女将(高橋とよ)をひやかしたりもしています。

話の成り行きから、一人身の北竜二を原節子とくっつけようとしたり、娘の司葉子に佐田啓二を紹介したりして、社会的に地位のある紳士たちは、まったく楽しんでいるようです。こういったおせっかいを焼く人が、現代では少なくなりました。

中に立って調整役の寿司屋の娘、岡田茉莉子は、サイレンとサイレント時代の小津作品に出ていた俳優、岡田時彦の娘で、ユーモラスな演技は父親譲りだと決め付けた小津監督の指導によるものです。
この作品でも、壁掛けの絵画や食器などの調度品、小紋柄のふすまや縞柄の着物、チェックの服やテーブルクロス、それとなく?掛けられた縦縞のタオルなど、小津監督の構図の完成度を目指す勢いは絶好調です。
今回も、嫁ぐ幸せを娘に託して晩年の寂しさをひとり噛みしめるところで、この作品は終わります。

原節子は昭和28年作られた“東京物語”以来の久々の出演で(訂正 昭和32年“東京暮色”で有馬稲子の姉役として出演していました)、娘を嫁がせる母親を演じています。“東京物語”と昭和24年の“晩春”、昭和26年の“麦秋”の三作品を原節子は紀子役で出ていることから、紀子三部作と呼ばれています。今回の“小津安二郎再発見”では、来年の1月と2月、3月に続けて上映いたします。お楽しみに。
追記
岩下志麻がちょろっと出ています。2年後、秋刀魚の味に出演 このときはまだ ウブそのものです

「猿の惑星 ジェネシス」を観た

2011年10月14日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
昨日のお休みには、映画「猿の惑星ジェネシス」を観に出かけました。
帰りに、友人とエスカレーターのところで交差いたしました。これから観るそうで「面白かったゾ」と答えておきました。
人の入っている猿とCGの猿との区別がつかない、良くできた作品でした。最後まで一気に見せるのは、猿の動作がスピード感に溢れているからでしょうか。
自然をいじる人間のエゴに対する警告が良く出ています。開発中である認知症の薬を実験台の猿の投与したところ高い効果が得られた。そして、知能を付けて行く猿。かたや人間のサルに対する差別(これは差別というべきでしょうか?)。こうして、猿の攻撃が進んでいきます。
     
お金のために科学を暴走させると、大変な見返りがやってきます。放射能にしても然りです。堂々と立ち尽くすシーザーの姿(感情が出ていてスゴイ!)は、人間に警告を発しているようでした。
続編が出来るのか・・・ラストから第1作「猿の惑星」へのつながりが、いまひとつスッキリしません。シーザーはすでに大人。十数年しかない間に人類が滅亡し、危険地帯(そのときは放射能による汚染地帯と思っていました・・・)が出来、自由の女神が海岸の砂に埋もれる状況になるには、少し飛躍があるようです。続編が出来るのであれば、どこまで面白く作れるのか楽しみです。
訂正
第1作に続き、何作かの続編が作られています。
それによると、シーザーはコーネリアス夫婦の子供になっていて、新作に登場のシーザーとは違う猿のようです。第1作の着想が面白くインパクトが強かったせいか、続編はほとんど記憶にありません。やはり人類は放射能で滅んだようデゴザイマス。ストーリーをご参考に。読むのが面倒ですが、このシリーズの奥の深さを垣間見ることが出来ます

彼岸花 感想 その3

2011年10月12日 | 諏訪商店街振興組合のこと
Sさん、ご感想をお送りいただき 感謝いたしております。
「しみじみと味わい深い映画に、大変感激いたしました。
もったいないほどの時間を過ごさせていただき、ありがとうございました」

昭和33年頃は、第2次世界大戦が終わり、世間が高度成長に向かう頃でした。一方、朝鮮戦争や冷戦時代ときな臭い時代でもありました。封切り当時、小津作品はブルジョア的だとか言われ批判も受けたようですが、戦争体験をした小津さんが訴えたかったことは、平穏な中で営まれる生活が何より大切だという反戦の意思を示したかったのだと、吉田貴重監督は語ってみえます。

川島町のOさんの感想です。
「今の社会では家族、親戚のつながりが希薄になっています。
いつも小津映画を観ると、昔の温かい人間のつながりを感じ、とても懐かしい思いがします。
私は娘が居ませんが、父親にとって娘ほど可愛い存在はないのでしょうか。娘を愛するあまりかたくなな態度をとっている父親の気持ちが理解できました。
カメラワークでワンショットの場合、いつも出演者の目線がカメラ向きです。これは小津作品の特徴ですが、記念写真を撮っているわけでもなし、いつも不自然さを感じています」

澤井信一郎監督は、小津生誕100年を記念したシンポジウムで、こう話しています。「国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZ 2003」の記録 朝日新聞社」より
     
「小津さんに親しい感じを持ったのは監督になってからですが、最大の興味は撮影技法にかかわることでした。
カットバックという撮影技法があります。二人が会話をしています。まず、Aという人物が話しているところを撮り、次にBが話しているところを撮る。次にAを撮り、またBを撮る。そういつまでも撮っていられんということで、たまにはキャメラを引いて二人を撮って、またAのセリフ、それからBを撮る。
このカットバックの手法が如何に凡庸で、退屈で、知恵のないものかということが、私の助監督時代に体に染み付いたような恐れとしてありました。
私の妄想でしかありませんが、小津さんもまたカットバックに悩んでいたのではないでしょうか。
カットバックの嫌いな小津さんが、なぜ格闘の末、カットバックの名手になったのか?
二人が話し合っているとき、Aは左を見る、そしてBもまた同じ方向の左を見るのです。二人の目線は逆方向に行く。これを「逆ポジションに入る」と言います。皆さんは小津さんの映画を観るときに、向かい合ったり、直角に座った人が同じ方向を見ているのは既にご存知でしょう。逆目線の相似形による、一種の様式美のためのカットバックを考えついたのだろうと思います。
逆目線のカットバックの一番いいところは、二人の人物が同じポーズになるためにあまりギクシャクしなくて、スムーズなカットつなぎになる。この効果を狙っていたのではないでしょうか」
「晩春」の電車の中のシーンなど、はっきりとこの特徴がうかがえます。