花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昭和50年頃の諏訪公園 その3

2018年06月23日 | レモン色の町

熊澤一衛氏寄贈による図書館。図書館は久保田へ移転、子供の家開館まで3年ほどの間はこの状態が続きました。

西側からの絵。当時ここに建っていた石山(誓いの御柱)の上から撮っています。

図書館跡の裏側(北側)。ここに木造の学習室と、四日市幼稚園がありました。やがてパズルパーキングが造られることになります。

石山の上から北方向(現在のパズルパーキング位置)を撮った写真。中華料理の「公園」があります。諏訪公園北側の屋台が望めます。公園の北と南にはずらっと屋台が並んでいました。

本町のまちかど博物館、みずたにさんのところで見せていただいた絵ハガキです。諏訪駅から湯の山温泉へ伸びています。四日市駅は国鉄との合同駅舎です。


昭和50年頃の諏訪公園 その2

2018年06月22日 | レモン色の町

次は、図書館が久保田町へ移動したその後の諏訪公園の様子です。

公園南入り口を西から、三番街方向を撮った写真。左に猿の檻とその向こうに「だるまや」があります。

公園内南方向に見た写真です。中央に「だるまや」、右、藤棚。左が神社の背中になります。

北へさがったところに鳥舎がありました。日曜日になると、大勢の人々がここの椅子に腰を掛けていました。

市民壇の上から誓の御柱(石山)を見た絵です。すでに四日市幼稚園は取り壊されていて駐車場になっています。

誓の御柱の上から市民壇方向を撮った写真。その間に興亜記念碑が立っています。この辺りは、ゴミが散乱していました。


昭和50年頃の諏訪公園 その1

2018年06月20日 | レモン色の町

10年近く前になりますか、四日市商店連合会の甕破り山車の仲間だった故松ちゃんから、山車蔵の中に埋まっていた写真集を預かってほしいということで、一冊のアルバムが届きました。それは昭和50年頃の諏訪公園内を撮った写真でした。この頃は、久保田に新しい図書館が出来たため、熊沢館は鍵がかけられていました。熊澤館を含め、今後、諏訪公園をどう再生してゆけばよいか?を模索するための資料としてつくられたのではないかと想像できます。

市民壇が健在です。ここに木下サーカスが興行を張っていました。

公園北の遊園地。現在左側には、誓の御柱と遊具があります。トイレの位置は変わりません。

これも、公園と神社の間にある遊園地です。屋台が並んでいます。パズルパーキング建設を機に、立ち退きを行いました。ご苦労があったと聞き及んでいます。

これも遊園地のトイレ横から、熊澤館を撮った写真です。図書館東側には広い自転車置き場が建っていました。

遊園地の滑り台に乗って諏訪神社方向を写した写真。左に拝殿が見えます。

 


ラヂオ体操は続く

2018年06月19日 | おいらの商店街

一昨年前の12月から始まったラヂオ体操。一人になったらやめましょう、ということで木曜日以外の午前9時から9時5分まで毎日続いています。一年半が経過しました。この間、体調を崩されて一時休業の方や、夏休みは孫さんの参加があったりして単調な中に微妙な変化を感じています。ハッピースペース様のウッドデッキをお借りして、青空を眺めたり、飛び去る旅客機を追ったりして、はるか東南アジアへの夢をはせております。達者が何よりでゴザイマス。(今日は薄曇り)


辻さんの残した諏訪公園界隈

2018年06月15日 | レモン色の町

おなじみ辻 俊文さんの昭和31年から33年頃の諏訪公園を撮った写真です。下は現在の様子。市民壇は南部丘陵公園へ移築されています。映画劇場の始まりまでには、まだ少し時間があるようです。

藤棚からあげられていたアドバルーン。手前には出店が見えます。よくお世話になりました。

この先に見える松林が諏訪公園。スクーターが大活躍の時代でした。

この写真を撮ったころは、らく天も、水谷呉服屋も、美奈月旅館も、樽おやじも営業中でした。


太平洋戦争と諏訪公園

2018年06月13日 | レモン色の町

誓の御柱と市民壇が造られた時代背景は、知っておく必要があると思いますので、ここに記させていただきます。

大正 7年11月11日 第一次世界大戦終わる

大正 9年 1月10日 国際連盟発足

大正10年12月13日 日英同盟条約終了

大正12年 9月 1日 関東大震災

昭和 2年 3月15日 金融恐慌始まる

昭和 2年 5月28日 第一次山東出兵

昭和 3年 6月 4日 奉天で張作霖爆死事件

昭和 4年10月24日 世界恐慌

昭和 5年11月14日 浜口首相 東京駅で狙撃される

昭和 6年 9月18日 満州事変起こる

 昭和7年4月 満州事変からの帰還兵出迎えの式典

昭和 7年 5月15日 五・一五事件 犬養首相射殺される

昭和 8年 3月27日 日本 国際連盟脱退を通告

昭和 9年 3月 吉日 誓の御柱・市民壇建造される

昭和10年 2月18日 貴族院にて美濃部達吉博士の天皇機関説問題化

昭和11年 2月26日 二・二六事件 斎藤内大臣ら殺害される

昭和12年 7月 7日 日中戦争始まる

昭和13年 4月 1日 国家総動員法発令

昭和14年 9月 1日 第二次世界大戦始まる

昭和15年 9月27日 日独伊三国同盟調印

昭和16年12月 8日 対米英宣戦布告 太平洋戦争始まる


旧図書館と熊澤館

2018年06月12日 | レモン色の町

昭和56年頃の熊澤館(図書館はすでに久保田町へ移っている)旧図書館は児童館として残り、その前(南)に熊沢館ができた。

現在、整備後のこども交流館

前回、絵葉書として掲載させていただいた(本町のみずたに氏提供)建物は、やはり旧図書館でした。

旧図書館内部

四日市市立図書館は、明治32年11月の発令された図書館令(図書館に関する最初の単行勅令)に基づき、9年遅れて明治41年四日市市第五尋常高等小学校(現在の中央小学校)内に設置された。その後、大正3年、四日市市役所内へ移された。大正5年6月に大正天皇即位大礼記念事業として諏訪公園整備と共に園内へ新築開館してから、本格的な活動を始めた。開館当初の閲覧人員は毎月2~30人にすぎなかったが、教育熱の高揚と共に閲覧者も漸次増加した。明治45年の資料によると蔵書数4,788冊、開館日数267日、一日平均閲覧人員192人であったものが、大正6年には蔵書数6,686冊、開館日数336日、一日平均閲覧人員4,431人となり、予算としての経常費も200円から約五倍の1,029円に充実している。昭和4年には熊沢一衛氏が昭和天皇御大典記念事業として、赤煉瓦造り(この本ではタイル張りではなく煉瓦造りとなっている)二階建て、一部塔屋付きの一棟を寄付し、戦後も憩いの諏訪公園とともに市民文化の中心的存在であった。

 昭和8年(昭和7年の間違いでした)

平成30年

誓の御柱と市民壇が何に使われていたのか?戦争に向かう昭和7年、おそらく出征軍人の壮行式に使われていたのではと思っていたら、写真集「四日市の100年」に帰還兵式典の写真があった。未だ市民壇も造られてなかった頃である。

 出征軍人の凱旋(昭和7年4月)

満州事変勃発後、半年で関東軍は満州をほぼ制圧した。写真は、軍事行動も終結に向かった頃、諏訪公園で加藤助役の祝辞を受ける帰還兵と出迎えの人々。

追記 Tさんから再び教えをいただきました。ありがとうございました。

 

  誓上御柱→誓㞢(之)御柱

  上に似た文字は「之」の篆刻文字で「㞢」です

 


諏訪神社界隈

2018年06月10日 | レモン色の町

昭和28年の名古屋タイムスからの再々掲載です。

“聖なる教会”真ン向かい 紅い燈ともる特飲街 そのまた隣が幼稚園

〇 諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前、諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めたのが戦争直後、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在(昭和28年当時)七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。僕の家というのは、桑名町で同名の店を出して有名だった。主人は年うつり、いまやまるハゲとなった。ホセとカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイトをしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい。その方の御用は専らこちらと港楽園、春告園という特飲街がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会(戦前は川村鉄工の別荘だった)があったのを無理に赤線が出来たものらしい(昭和30年頃までは教会と赤線が並立していた)。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。

〇 諏訪神社は信州の分身、9月25日から27日までが祭礼で有名な大入道やクジラ船の山車が出る。裏は公園、サルが飼ってある。のどかな雰囲気である。近所のパチンコ屋から軍歌(軍艦マーチ)が流れてくる。パチンコはさかんで満員「出やん、出やん」とガラスを叩いている。名古屋より甘いので、名古屋から出稼ぎに行ったらいかが?(文・川太郎、え・ワシズ泉夫)

そして、昭和43年当時の諏訪公園周辺。カトリック教会もなくなっている。


誓の御柱と市民壇はセットだった その2

2018年06月09日 | レモン色の町

市民壇に貼ってある施工時のプレート板には、このように記してあった。

誓上御柱(上の字の左にカギ印がついている。いったい何と読むのか?)

市民壇

為 三恩報謝謹建之

昭和九年三月吉日

當市 村山清八

続いて施行者の名前が羅列してある

前回、市民壇はグループの出資よるものと思っていた。なぜなら巨額を要したことと、記念撮影の二枚の写真の人物が異なっているからだ。村山氏ともう一人はいったい誰だろうか?

  誓の御柱前                市民壇前

昭和9年は、まさに戦争へ突入の頃だ。市民壇前では北側に五か条のご誓文を見上げながら、出征兵士の壮行会が行われたことだろう。

ここで簡単に諏訪公園の歴史を記す。

明治39年・日露戦争戦勝記念として諏訪神社裏の土地を保光苑として開放する。

明治44年の保光苑周辺

大正 5年・四日市市に寄贈され、諏訪公園と改称。

大正11年の諏訪公園周辺

昭和 4年・熊沢一衛氏が、二千冊の書籍と共に図書館を寄贈。

昭和 9年・村山清六氏が誓の御柱と市民壇を寄贈。

昭和15年の諏訪公園周辺

昭和48年・図書館としての機能終える。

平成15年・こども交流館として再開。