花の四日市スワマエ商店街

四日市諏訪商店街振興組合専務理事の横道ブログ

第11回 諏訪公園南に並ぶ屋台

2016-09-30 | レモン色の町

昭和三十二年五月十三日 雨上がりの道を、勤め帰りの二人が通る。諏訪公園南の麻生医院前から三番街に向かって撮られた写真だ。

公園に沿って通りには屋台が並ぶ。北側にも十数軒並んでいたから公園の周辺は飲み屋だらけだった。女手ひとつで生活の糧に始めるのには、屋台は手っ取り早かったのだろう。考えてみると、戦後の街の構成に、飲食の店がかなりウエイトを占めていたように思う。

左公園内に猿の檻が見える。ここの日本猿は時折脱走して、麻酔銃で撃たれては戻されていた。「えさをやるな」と言うのに、みんながえさを与えていた。

 西向きにシャッターを切る辻さん。左にハチトリさん

諏訪公園を挟んで南と北側に屋台が並んでいた。北は大正館前にあったが、パズルパーキング建設にあたり撤去された。苦労されたと聞いている。夕刻を迎えて開店準備に余念がない。友達に豚足を食べようと誘われたが、毛がついていると聞いて止めた。

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四日市市市民文化事業第2回は?

2016-09-29 | 元気がいちばん・達者がなにより

四日市市市民文化事業 寅さんからの招待状 第2回は

 

 

 

 

 

 

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第10回 公園通り

2016-09-28 | レモン色の町

昭和三十三年三月十五日。公園通りから諏訪公園に向かって撮った写真。諏訪公園南大通りのネオンサインのアーチが見える。この年の十月には、ここに大きなアーケードが造られる。

正面に四日市市立図書館、現在のすわ公園交流館が見える。この建物は熊沢氏から昭和の御大典を記念して、本町通りの旧警察署(現在のほんまちプラザ)と共に寄贈されたものだ。

当時の図書館は一階が児童書で、二階が一般となっていた。これだけのスペースに書棚と閲覧室が収まっていたのだ。

 利用する市民でいつもいっぱいだった。 

南方向を見た写真

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"続 男はつらいよ"感想2

2016-09-27 | 元気がいちばん・達者がなにより

前回、届いたTさんの感想に、火鉢の絵がお父さんの手によるものではないかとありました。冒頭の夢から覚めるシーンは、伊賀上野の柘植で撮られたものです。四日市とは近い距離ですので可能性は充分あります。万古焼の白い火鉢に青い松の柄は、大正焼といい、画工水谷氏によって数多く作られたそうです。この火鉢がお父さんの手によるものかどうか分かりませんが、水谷氏の元でこの模様を描いてみえたという事でした。

 

Kさんからも感想をいただきました。ありがとうございました。

シリーズを通して、テーマとしてあるのかもしれませんが、この作品が一番親子の情愛というものがあふれていると思います。(一人前でない自分が偉そうに言っておりますが・・・)

散歩先生(東野英次郎)と娘(佐藤オリエ)、母(ミヤコ蝶々)と寅さん。やむにやまれぬ事情で寅を捨てねばならなくなった母(映画の中で種明かしをしてほしいです。38年前と言ってますが、終戦後のドサクサではないと思いますが・・・)。

対面した時に。蝶々さんの抑えた演技。その後のセリフ「親の都合もわからんと・・・」に繋がる感じがすごくよかったです。

そのあと、最後のオチ的なシーンでは、自分の母を“人でなし”のように言っておきながら母に甘えた感じで歩いていく寅。シリーズではあまり見かけない様なラストシーン。二作目とあってこの終わり方でよかったのですね!シリーズが続くにつれて、いろいろな終わり方に変わっていきますが。

 

※  劇中親子と分かったシーン

夏子「このひと寅次郎さんなのよ」

菊「えっ!おまえ!・・・ふーん、そう。今ごろ何の用事やねん。あっ銭か?銭はあかんで、もう親子でも銭は関係あらへんで」

夏子「おばさん、何てこと言うの。寅ちゃんはね、産みの親に会いたくて、それだけでここまで来たのよ」

寅「お嬢さん、帰りましょう。おれは何もこんな淫売上がりの女見るために、のこのこやって来たんじゃんじゃねえんだよ。ひりっぱなしにしやがって。人のことほったらかして雲隠れしやがって」

菊「ひりっぱなし?なに云うてケツかんのじゃ、アホ!どこぞの世界に自分の子どもを喜んでほうる親があるんじゃ!」

菊の今まで歩んできた苦労人生が垣間見えるようです

そして、最後のシーン。新婚旅行で京都に来た夏子は、三条大橋で寅と菊が歩いていくところに出会います。夏子の眼差しが良いですね。

夏子「お父さん(注・父の坪内散歩は、すでに亡くなっている)寅ちゃんはお母さんに会っていたのよ。そうなのよ、やっぱり。そうだったのよ、お父さん。お父さんがどんな顔するか見てみたいわ」

藤村「おい、声をかけなくていいのか・」

夏子「いいのよ・・・いいの・・・

でも、もう、そのお父さんは、もういないのね」

純情編、夕焼け小焼け、恋歌、浪花の恋、どれも素晴らしいラストです。

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みんなで“続 男はつらいよ”を鑑賞しました

2016-09-26 | 元気がいちばん・達者がなにより

9月23日に鑑賞した“続 男はつらいよ”の寅さんはとても元気です。そして、みんなが集まって笑いながら観ることの大切さを痛感しています。

傷心の寅さんに、いっそこの旅館に泊まっていったら?と勧められる。帰るところなどないと見栄をきって二度ひっくり返る寅次郎。リハーサルで佐藤オリエの笑いが止まらないので、本番で“笑う”ことにしたそうです。思わず噴出す佐藤オリエ。散歩先生「笑うんじゃない!」とたしなめます。(予告編ではあまり笑っていません。リハーサルで笑い転げ、予告編で笑いをこらえ、本番で笑うことが許された、と想像できます)

 Tさんから感想をいただきました。ありがとうございました。

 本作品“続 男はつらいよ”は、後に いわゆる寅さんシリーズとして50本近くが撮られることになったものの第2作目ですか?

 役者の皆さんのお若いこと お若いこと・・・渥美清は勿論のこと、青年 山崎努 財津一郎の真っ黒フサフサの髪とツヤツヤ引き締まった顔。倍賞千恵子のまるで日本人形のような美しさに目を見張りました。

 昭和44年(戦後もやがて四半世紀を迎えようとしていた)は、高度成長時代に入ったとは言うものの、平成28年の現在から振り返れば、古き良き?時代の文化・風景・風俗・人情等がまだ色濃く残っていましたね。

 今回こうやって映画(画面)の中でそれら懐かしいものの数々を見せて貰うと、改めて我々が失ってしまった物への愛着とか郷愁とかを感じずにはおられません。(単に老人の繰り言といえばそれまでですが)

 私はこの寅さんシリーズは一つの昭和史として立派な役割を果たして来た様に思います。大学の卒論に選ばれても良いのではないでしょうか。

 最後に嬉しい発見がありました。散歩先生の葬儀を終えて、すっかり落胆して二階に引き込んだ寅さんを、さくらが見舞うシーンで、階段の隅に置かれた手あぶり火鉢が一瞬チラと見えましたが、それは墨で描かれた万古焼の火鉢でした。ひよっとしたら、亡き父の手になる物だったかもと・・・(画工でした)

参考まで。そのシーンを掲載させていただきます。

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“商工春秋 10月号”より

2016-09-25 | わたくしごと、つまり個人的なこと

四日市商工会議所様発行 商工春秋10月号“東海道五十三次 桑名 富田立場之図”より

「狂歌入東海道」と呼ばれるシリーズのひとつ。二軒の焼き蛤屋の店舗で蛤を焼いている。その香りに惹かれたか、道行く者の一人は顔を振り向け、もう一人は、立ち止まって焼き上がるところを見ている。店内で休息をとる駕籠舁き(かごかき)二人の姿が印象的である。

 富田は日永とともに、宿場と宿場の間で旅人を接待する間(あい)の宿と呼ばれていた。当時の富田は桑名藩領であり、桑名の名物焼き蛤も売られていたようである。「京橋仙女香」の広告や、店横の門、その奥の風景など随所に興味深いものが描かれている。

題名にある立場とはもともと伝馬人足が休憩する場所のことだが、この絵のように、駕籠舁きも集うほど賑やかになったところもある。

 画中掲載の、棟の門鬼丸による狂歌は「乗り合いの ちいか雀の話には やき蛤も舌をかくせり」である。   (市立博物館学芸員・田中伸一氏)

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第9回 美空ひばり興行

2016-09-24 | レモン色の町

昭和三十二年四月二十七日。近鉄四日市駅が開業した頃。なんと美空ひばりが諏訪劇場へ来ていた。こわもてのお兄さんがこちらを見ている。今夜は特別な夜だ。ひばり見たさに、たくさんの人が押しかけた。大盛況と裏腹にあたりには緊張が走る。この年の一月十三日、美空ひばりは東京の国際劇場で塩酸をかけられる事件に遭遇したばかりだ。

当時はまだ興業師的色合いが強く残っていた映画館主が、映画の合間に地方巡業の芸人に舞台を貸すことがあった。それにしても

大物が来たものだ。

 

 昭和三十一年八月三十一日。諏訪劇場の前に立つ香具師。蛇の毒を抜く練り薬を売るのか?話の成り行きで、結果的には万年筆を売っていた。

 

 昭和三十四年十二月三十日。明日は大晦日。諏訪花園前はお正月用品の買出しの人でいっぱいだ。諏訪劇場側から撮られた写真。この年の九月、伊勢湾台風が襲った。そんないやな思いを払拭するかのように人々は買い物に走る。諏訪花園の南隣が増田屋菓子店、諏訪中央商店街(現在のグリーンモール)寄りに子鳩洋装店、三重興農社、早川荒物店と並ぶ。明日の紅白歌合戦の司会は高橋圭三と中村メイ子。この年は「御存知弁天小僧」を歌った美空ひばりの紅組が勝った。この日、我が家では全員で夜明け前から餅をついた。

昨夜は、四日市市市民文化事業の第1回として“続 男はつらいよ”を上映させていただきました。50名の皆様でにぎわいました。

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第8回 諏訪劇場周辺

2016-09-22 | レモン色の町

高木菓子店を南へ、白揚書房と中川産婦人科の路地を抜けると諏訪劇場があった。あかもんを通ると右角に万惚のカレーライス、ハヤシライス、すしの提灯が下がる。そこから西に行くと辻写真館になる。隣はスワン美容室。現在も営業中だ。店の前に立つ辻さんのお嬢さん。以前、この方の娘さん(お孫さん)からメールをいただいた。“写真の子どもは、私ではなく母です”とのこと。時の流れを感じます。

 

 昭和32年9月27日。辻写真館の前を比丘尼町の大名行列が通る。諏訪劇場の非常口からも人が見ている。辻さん、シャッターを切る。

 

辻写真館とスワン美容室との間に路地があった。路地には稲葉屋旅館や、床屋さんの看板が立つ。抜けると諏訪駅。駅の近くで利用客も多かったのだろう。

 

昭和三十二年七月二十六日、諏訪劇場前の様子だ。今、片岡知恵蔵の大菩薩峠が再映されている。東映スコープ、総天然色。机龍之介が旅の親子を切り殺すところから始まる。暗く重い印象があった。

それとは裏腹に、劇場前は至ってのんびりしている。立ち小便をする子供。現在では考えられない。映画のスチール写真を見ていたりコンクリートの上に座る学生達は、友達との待ち合わせだろうか。前が柵で囲った空き地になっているのは区画整理に入っているためか。

南側に自転車置き場がある。映画の黄金時代。毎週のように足繁く通った。

 

昭和32年4月27日。諏訪劇場では特別興業が行われた。大物の来演だ。

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レモン色のまち 第7回

2016-09-19 | レモン色の町

昨日は、第5回四日市ジャズフェスタ開催。時折雨の降る一日でしたが、商店街の中は音楽一色でにぎわいました。コスモ楽器前では、kotononeさんのフルート演奏があり、秋を呼ぶ音色に多くの方が足を止めて聞き入っていました。

 東向き、この先右にサンシ百貨店

踏み切り跡、南東方向

昭和三十二年二月 寒い日の朝。顔を洗っている親子か?現在のホームラン前から一番街の通りを東向きに撮った写真。昨夜まで降り続いたみぞれ混じりの雨はあがったが、空はまだ重い。

下が東

 この通りを国鉄四日市駅へ伸びる線路が通っていた。手前の石畳は踏み切り跡。三泗百貨店が一掃謝恩セールを行なっている。三泗百貨店は諏訪百貨店のように多くの店の集合体だった。二階には切手売り場やゲームセンターがあった。この後スーパーサンシとなる。左にふくや靴店の看板が見える。路地にはヤマモト・ヤマカワ・サワムラそして多田駄菓子屋があった。

 南向き、この先諏訪劇場

東向き、草野洋服店

昭和三十四年五月二十一日、辻さんと一緒に随分この街を歩かせてもらったけれど、新しい風景を見ることが出来た。右に諏訪駅跡地がある。左角が高木菓子店。今の大阪屋。そして白揚書房。この路地をまっすぐ南へ抜けると諏訪劇場だ。服部紙店、今村洋装店、万惣と並ぶ。まさに路地。毎週土曜日の夜になるとこの路地を通って、父親と映画を見に行ったものだ。昨年の二月、右のマルモ物産の前で店の兄ちゃんと奥さんが立ち話をしていた。当時と比べる駅跡の整地が進んでいる様子だが、マーケットの解体工事には、まだ一年半先の話だ。

 東向き、右に諏訪劇場

昭和三十二年七月二十六日、暑い日の午後、辻写真館から東を見る。グランドホール、万惣と並び正面が精養軒。精養軒の左隣があかもん、田中産婦人科、白揚と狭い道になっていた。そこを出ると左が諏訪駅。この時、諏訪駅は近鉄四日市駅へ移転していた。

右に諏訪劇場があって、人通りは多い。万惣はカレーライスから寿司まで何でもありの食堂だ。映画を見た帰りに、ちょっと食べに寄るには手ごろな店だったのだろう。万惣の子供か、友達と話が弾む。片岡千恵蔵か市川歌右衛門、それとも大川橋蔵の話題だろうか。

暑かった一日、夕立はあがった。

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レモン色のまち 第6回

2016-09-17 | レモン色の町

昭和三十三年七月二十一日。諏訪百貨店より西側を望む。諏訪駅から出た内部・八王子線は、当時この道をゆっくり南へカーブして伸びていた。この道は新しく出来た駅への近道としても利用された。左に解体を待つ諏訪百貨店。正面には早くもひかりや洋装店が大きな店を構えている。一番街の通りが急速に造られていく。

この年の秋、フラフープが大流行する。このアメリカからやって来たおもちゃは爆発的な広がりをみせるが、腸ねん転を起こす子供も出て、冬の到来と共に下火となっていった。

四月三日からNHKで事件記者が始まっていた。テレビが普及し始める。

 

昭和34年9月1日。ひかりやさんの大売り出し。“特選夏のプリント大売り出し”「有難うございました。いよいよ此の日でおしまい。本日6割引き」のポップが下がる。店頭に出された“はぎれ”のワゴンも大好評だ。

 

昭和三十五年十二月二十日、三十二年に諏訪駅が現在の四日市近鉄駅に移って三年、ようやく諏訪駅前にあったスワマーケットが建て替え工事にかかった。新しい四日市の顔となる四日市スワ百貨店がここに誕生する。

解体工事の様子を辻さん側から北東方向に撮った写真。諏訪百貨店が小さな木造建ての集合体であった様子がよく分かる。正面に紳士服のデパート草野洋服店が望める。右に婦人公論の看板のあるのが白揚。白揚の前の通りは狭い路地だったが、この工事を機会に諏訪南大通りへと広げられる。近代的な街並みが作られていく。

◎ 本日まちゼミで、6名の方に集まっていただいた。

  そこで出た不思議?70メーター道路(中央道路)はなぜ出来たのか?

  戦争末期、飛行機の滑走路として計画されたそうです。

    昭和27年には、農業博覧会の会場となっています。

 

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