花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

豊田信行氏からのコメント

2010年04月28日 | レモン色の町
本町のカイマス氏が当店に訪れ、しきりと騒いでみえた。
なんのこっちゃ!といいかげんにあしらっていたら、どうやら大変なことらしい。4月23日のブログを見ろとさかんにおっしゃる。
それは、市制施行70周年記念誌に掲載された豊田信行氏ご本人さんからのコメントでした。
感激です。ブログのなせるワザです。
ここにご紹介いたします。

本当にびっくりしました (豊田信行)2010-04-27 20:00:23
はじめまして。
私は現在名古屋で切り絵作家として活動をしております、豊田信行と申します。
ときどき、「切り絵 豊田信行」で検索しておりますが、思いがけず今日、約40年前の中学3年生のときに自分が描いた、未来の四日市の絵が貴ブログに紹介されているのを拝見し、思わずびっくりしました。
本当に懐かしい絵に対面し、タイムスリップした気分で、大感激です。
この市制施行70年記念誌は当時自宅にもあったのですが、今はもうありませんので、今回
取り上げていただいたことをとてもうれしく思っています。
幼少の頃から絵を描くことが好きだったので、
今こうして自分の好きな絵の仕事ができるのは、しあわせだと思います。
今は名古屋に移り住んでいますが、生まれと育ちの四日市はとても懐かしいふるさとです。
またときどき貴ブログに訪問させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
ありがとうござうました。

第3回 実行委員会開催

2010年04月27日 | 諏訪商店街振興組合のこと
4月26日午後7時より、12名の委員の方にお集まりいただき、第19回エキサイト四日市・バザール2010の第3回実行委員会が開かれました。
今回は、グリーンモールで開催された「第2回 三重県ご当地グルメ大会」から、四日市とんてき協会の小林慶太郎氏と、「エココーナー」を開いていただいた三重県環境学習情報センターの水谷雅寛氏にも出席いただき、結果報告と今後の活躍等のお話をお聞きしました。
今回は、ご当地グルメ大会のおかげもあり広範囲から集客することが出来ましたが、会場案内の明示が不十分だったようです。中部地区市民センター館長の矢野篤様から、市のホームページや広報よっかいちに会場案内図の掲載をお願いするといいのではといったご指摘をいただきました。ふれあいモールに掲示板を立てることも案として考えられました。
また、当日お客様から“喫煙場所”があってはいいのではといった申し出もあり、子供さん方でにぎわう三滝通りには安全のため是非確保しなければならないのではないかと反省しました。
ますます大きく成長し充実していくエキサイトバザールを快適に楽しんでいただけるイベントに仕上げるため、謙虚に反省して次回の「第20回 エキサイト四日市・バザール2011」につなげたいと考えています。
皆様のご協力ありがとうございました。
また、反省点等お気づきのことがございましたらお知らせください。

昭和40年から見た未来の四日市

2010年04月23日 | レモン色の町
本町のカイマス氏からお借りした。“市制施行70周年記念誌”発行日は昭和42年7月1日となっている。
          
当時中学3年生の豊田信行君の“僕らの描いた未来の四日市”の絵です。
説明に「地下道、普通道路、高速道路、地上鉄道など交通道路はすべて立体交差、高速道路は海上の空港と接続。緑地帯には地下街の排気塔がたっている」とあります。40年ほど前に描かれた絵です。
つづいて当時中学2年生だった、鈴木成子さんの文章“私の夢の手紙”が掲載されています。公害の町四日市の汚名を払拭したい思いが感じられる作文です。
「私は今、市内の中心にある四日市タワーの上にいます。昔に比べ、四日市はずいぶん変わりました。空を見上げると、どこまでも抜けるように青い。昭和40年代には石油コンビナートをはじめとする工場の煙や自動車の排気ガスが空をおおい“公害”として大きな社会問題となっていました。しかし、その後の科学の発展や“大気汚染防止局”の働きで、空気の汚れはまったくなくなりました。
下に目を転ずると、山側には会社、商店街が機能的に建ちならび、その向こうには丘陵地を利用して、緑に囲まれた赤や青の屋根の住宅、白く輝く高層住宅が点在して美しい。その中を大きな道路が交錯し、幾何学模様を描いています。道路もすばらしく発達し、車の事故はほとんどありません。しかし車から自家用機の時代に移って、今は空の交通難が問題となってきました。(中略)
昔、“公害の町”とまで言われた四日市の姿はもうどこにもありません。当時、夢のような話だった“青空の下の工業都市”が現実となったのです。この躍進、変化は驚異のまととして、日本のモデルケースになっています。あなたも機会があれば、ぜひ日本へ、そして四日市へおこしください」
何十年かののち、私はこんな手紙を、外国のペンフレンドに送りたいと夢みています。

古希迎えたた四日市

2010年04月19日 | レモン色の町
          
本町のカイマス氏より、貴重な新聞の切抜きをお借りした。
昭和42年7月28日の中日新聞。“古希を迎えた四日市”とありシリーズ化されている。
「明治大正期には現在の繁華街である諏訪連鎖街はもちろん、七十メートル中央道路、諏訪新道一帯はすべて田んぼの真ん中で子供たちがカエル取りやホタル狩りを楽しんでいた。(中略)
旧新町通り(新町)は大正期に入って急に栄えた。大正二年ここに本格的なカブキ劇場「湊座」が出来たのと四日市鉄道、三重軌道の開通が駅に近いこの地域に客が集まるのは当然だった。
中年の人にとってなつかしいのが湊座の前の通称「湊小路」。
飲み屋、カフェー、遊技場(玉突きなど)などがせまい小路にひしめき、最大の盛り場になっていた。」
ここで“広い?諏訪新道”と題して次の記事がある。現在の諏訪新道通り発祥の歴史だ。
「諏訪新道は明治三十九年に市の四大事業の一つとして建設された道路である。田んぼの真ん中を走る幅二メートルほどの農道を七、二メートルに拡幅して作った新道だが当時としては市内最大の幅員で「広すぎる」と評判が悪かった。
戦後の都市計画でさらに二倍に拡幅されたのが現在の道路。
田の中にできたこの道路が商店街化したのは戦争にはいる少し前のこと。そして現在県下最大の盛り場と呼ばれる「諏訪連鎖街」は戦前まで姿はおろか発展の気配すらなかったのだ。」
諏訪新道通りは明治に出来たのだ。
連鎖街は諏訪神社南側付近。四日市1番街が形成される ずっと以前のお話です。

クレージーの無責任清水港

2010年04月18日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
          
映画「クレージーの無責任清水港」1966年製作をDVDで観て発見しました。
          
調子が良くてハチャメチャな植木等扮する追分の三五郎は、東海道筋の一膳飯屋で無銭飲食をして牢屋に入れられる。
          
ここで、牢名主の森の石松(谷啓)と出会うわけだが、うずたかく詰まれた畳の上で胡坐をかく石松を博打で負かし、三五郎は牢名主となる。
さて、三五郎は、牢屋の衆を前にして一席ぶつのだが、これが植木等らしいセルフとなっている。彼の申し入れで取り入れられたことばではないだろうか。
          
「牢名主だ、いちばん役だと威張っているのが、そもそもおかしな話だ。ひとたび天下の法を犯して、ご牢内の入ったからにゃあ、罪とがの重さ軽さはあっても罪人としての上下はねぇはずだ。だから休む畳も、食う飯も、一切平等でなくちゃならねぇ。これが俺の考えだ」
「偉れぇ!こんな話の分かる牢名主さんは、はじめてだ」
若い頃修行をした東京本郷の真浄寺での教えが、ここで生かされている。
権威や権力に阿(おもね)ることを嫌った植木等らしいセリフとなっておりました。

植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」

2010年04月17日 | おいらの商店街
文庫本で出た 植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」戸井十月著 読んだことがあると思いつつ最後まで見ましたが、2008年7月6日のブログに書いておりました。やっぱり図書館で借りておりました。
植木等の人柄で、後輩を見る目に、こんなことが書いてありました。
植木等は、自分の息子よりも若い映画監督、石井聰互の「逆噴射家族」に出演する。あらゆる娯楽メディアを席捲し、1世も2世も風靡した大スターでありながら、植木には驕りも慢心もなかった。
「現場で監督とカメラマンが話し合っているわけ。監督が“植木さんが、ここからここまでこう動くから、それを、ここからこう撮って欲しい”てなことを言うと、カメラマンが、“どうしてそういう撮り方をするの?”と訊き返した。すると石井監督が、“そう撮ったらどういう画になるか、観てみたいんだよ”って答えたの。理由の説明になっていない。要するに、自分がその画を見たいんだというわけ。そういうやり取りを聞いててね、“あ、若くて素直でいいな”って思ったの。“この人たちは、今、こうやって、試行錯誤を繰り返しながら成長していくんだな”って思うわけ。だって、僕だってそうやって何とかやってきたわけでしょ。最初なんてひどいもん。それを、何とかやってきた。失敗したり恥かいたりしてね。だから、そういう気持ちを忘れたくないし、威張ったりもしたくないの」
商店街の若手は、どんどん育てていかなければならない。
植木さんに教えられた次第で、ございます。

「葬式は 要らない」

2010年04月13日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
4月に入って二つの葬儀に参列した。
ひとつは松ちゃん。本人の遺言で家族葬にされた。松ちゃんの人柄に多くの知り合いが集まり、故人を偲んで涙で送る会となった。
送ることばが述べられ、一人ひとりが祭壇に花を添えた。白木の位牌には“松山 茂之霊”と書かれていた。
もうひとつは、ごく普通の葬儀。友人のお父さんが高齢で亡くなられ、僧侶の読経と焼香で送られた。
          
今、ベストセラーになっている一冊の本がある。
幻冬舎刊「葬式は 要らない」島田裕巳著。
世界でも類を見ないほど高額な葬儀が、日本では慣例となっている。法名も、少し上のランクを望めば、数十万と言うお金がかかる。僧侶への御礼を含むと二百数十万円というお金が必要となる。島田氏は、現在の葬儀に疑問を投げかけている。
家族間の関係が薄れ、個人主義がすすむ現代は、不況が追い討ちをかけて、高額な葬儀の出費は不要なのだと島田氏は語る。
これは、日本の宗教界関係者にとっては脅威だ。故人に対して敬虔な心を忘れることは、気持ちが廃り他人を大切にすることがなくなって、犯罪にまで至る危惧を感じる。素直に頭を下げることを教える宗教は絶対必要だと説く、ということになるだろう。
形式ばかりを説き葬儀のみに奔走する僧侶では、これからの時代ますます見放されることになるのか。
ここにもう一冊の本がある。「植木等伝 わかっちゃいるけどやめられない」戸井十月著 小学館文庫。
植木等は、寺の家に生まれ育った。小さい頃から、特高に検挙され収監された父親に代わり、檀家回りをして僧侶を務める。
そんな彼は、一時、東京本郷の真浄寺という由緒ある寺に預けられる。
こんな文章があった。
真浄寺11代目の住職“福寿”は、福沢諭吉が支持する朝鮮「独立党」の金玉均をかくまったり、14代目住職の“慧眼”もまた、昭和11年の二・二六事件の際には総理大臣の岡田啓介をかくまったりしている。秘書官が「殺されるかもしれませんよ」と言うと「殺されてもかまわぬ」と答えたと言うからなかなかの豪傑坊主だったのだろう。
福寿は徹底した平等思想の持ち主で「世の中にはいろいろな川がある。しかし、海に流れ入ってしまえば、一味平等な海水である」と説いて、権力者と庶民、富者と貧者を一切分け隔てしなかったらしい。
慧眼もまた同じ思想を受け継ぎ、権力者だからといって法事の順番を優先させることもしなかった。それどころか貧しい家の葬式には、香典として葬式費用を置いて帰ったというのだから本物のヒューマニストだったのだろう。
とあった。
宗教に生きる僧侶たるもの、何らかのかたちで尊敬に値する人であることが必要なのか。
願わくば、松ちゃんへの思いが年回に変わる形で営まれ、長い年月にわたって思い起こされることを望む次第です。

お天気と桜に恵まれた開催2日目

2010年04月05日 | 諏訪商店街振興組合のこと
           会場を通過したシティマラソン
           三滝通りの賑わい
まず、感謝。お天気に感謝。桜に感謝です。
そして、取り組み当初から「みんなでエコ」を開催テーマにあげたことで、三重県環境学習センターの水谷さんと四日市環境学習センターの山本さんには、大変ご協力をいただきました。感謝です。
           昭和レトロコーナー
昭和レトロの小林さん、京都百万遍手づくり市の臼井さんにもご足労をおかけしました。感謝。
           四日市とんてき協会のみなさん
           グリーンモールの賑わい
それから、四日市とんてき協会の西村さんと、四日市大学の小林先生には、
三重のご当地グルメ大会を、グリーンモール商店街で開催していただきました。予想通り大変なお客様でにぎわいました。相乗効果が出て商店街も賑わいました。ありがとうございました。
今回のイベントにご協力いただいたスタッフの皆様、多くの団体・企業・学校の皆様にも、心よりご協力のお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
そして何より、アビオンの堀木さんなくしては、エキサイトバザールのイベントは成しえませんでした。感謝です。
おかげさまで、第19回エキサイト四日市・バザール2010は大成功に終えることが出来ました。
           ソーラーカーに乗る石川先生のお子さん
最後に、遠方よりお子様連れでお越しいただいた、石川明湖先生、中央会の東海様、充分なお構いも出来ませんでした。ありがとうございました。
今回の成功に驕ることなく、謙虚に反省すべきところは反省して、次回に望みたいと・・・思っております。
           フラダンスもたくさん出演していただきました
           マックとちかこさんの熱演
           優勝の四日市とんてき協会
           まんまる座の皆さん
           モリゾーとこにゅうどう君
           四日市市長の訪問

第19回エキサイト四日市・バザール2010開催

2010年04月03日 | 諏訪商店街振興組合のこと
お天気と桜に恵まれた4月3日、エキサイト四日市・バザール2010が開催されました。
           京都百万遍手づくり市
           エココーナー
           三滝通りさくらまつり
           飲食ゾーン
           三滝ステージ
           三滝ステージ
           ソーラーカー
           本部席
           ゴミゼロレンジャーショー
明日もお天気はよさそうです 皆さん是非おそろいで お出かけください

松山茂くん 逝く

2010年04月02日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
いよいよ本番を明日に控えて、桜もお天気もまずまずです。
今日は、午前中にモリゾーとキッコロをお迎えに出かけ、15時からスタッフの皆さんと交通規制を敷きました。
実は、3月31日午後5時、商店連合会の友が亡くなり、今日の13時に送る会が営まれました。松ちゃんとは、2008年1月28日のブログで大河内伝次郎譚を交わしました。
私事で申し訳ありませんが、松ちゃんへの送ることばを掲載させていただきます。
          
          
昨夜から降り出した雨が上がりました。まるで、こらえ切れない松ちゃんの涙のような夜の雨でした。
貴方の家族葬という思惑とは裏腹に、大勢の方が集まっていただきましたよ。貴方の優しい人柄が偲ばれます。
優しい人でした それでいて友情に一線を引く人でした
松ちゃん、つらかったでしょう、寂しかったでしょう、不安な夜を送りましたよね。
貴方に電話をしても「タケオさん もう少し 体に力がつくまで 待ってください」というばかりでした・・迷惑をかけたくないとの思いだったからでしょう。
思い出されます日永カヨーの子供服売り場“もず”に出かけたら、貴方はレジの横で居眠りをしていました。優しい貴方の性格は、商売人に向きませんでした。
倒産した友達の保証人になって困っていた顔も思い出します。ひろっさんからお金を借りて返済にまわしましたね。ひろっさんには、利息まで払ったそうです。
甕破り山車の手伝いに遅れて出かけると、あなたは作業を続けながら笑顔で迎えてくれました。
落語が好きで 桂枝雀のおいかけをして名古屋や亀山まで出かけましたね。
音楽や、時代小説や、映画が好きだった松ちゃん、私たちは明日からまた生きていきます。貴方のことは心の片隅に押し込まれてしまうでしょう。
けれど このさくらの咲く季節が来るたびに、あなたのことを思い出します。
お疲れ様でした。次の人生が始まるまで、どうかゆっくりと休んでください。
松ちゃん、ありがとう。本当にありがとう。ありがとうございました。