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花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

昭和めもりーズ 床屋さんに行くと

2025年06月11日 | レモン色の町

床屋さんに行くと、中学生と覚しき男の子が終わるところだった。主人が愛想よく送り出す。男の子は黙って金を払い、一言も口をきかずに出て行った。“本があって猫がいる”出久根達郎著より

見知らぬ人に話しかけられたら警戒せよ。と教えられて育った世代なのだろう。行きつけの床屋でも気を許さないのである。山歩きを趣味にしている人からも聞いた。山道ですれ違う際、挨拶をするのが山の礼儀というが、こちらが声をかけても無言の者が増えたらしい。その人は、個人商店の衰退と関係がありそうだ、と推測を述べた。話しかけられるのがいやだから、スーパーや自動販売機を利用する。個人商店は閑古鳥である。

私の住む町も次々に、なじみの店が消えていった。威勢の良い売り声が、いつの間にか無くなり、町はなんだか町の様でなくなった。物を売る店はあっても、売り声の響かぬ商いばかりである。客との対話がなくとも、成り立つ商売なのだ。現代人は人との無駄話をいやがるようになった。かくて言葉というものは、ますます貧困になり、減少していくだろう。

※ 映画「トキワ壮の青春」に使われていた曲「胸の振り子」意味不明の歌詞でした

胸の振子(霧島 昇)

胸の振り子/石原裕次郎


昭和めもりーズ これって犯罪かエ?

2025年06月10日 | レモン色の町

戦後、貸本屋の時代から月刊誌の時代になる。月一度の発売日が楽しみだった。少年・少年倶楽部・ぼくら・冒険王・おもしろブック・少年画報・なかよし、それに小学1年生と発売日になると本屋の前には新刊雑誌が山積みされた。私は主に“少年”のファンだったが、付録を見ると他の本もつい欲しくなる。誘惑の気持ちを抑えきれず、おばさんの前であっちの付録を抜いてこっちの本に差し込んだ。本にお金を添えて差し出すと、おばさんはさっさと付録を元へ戻して紙袋に入れた。これって犯罪かエ?

出版界も抜け目がない。団塊の世代に合わせて「ボーイズライフ」という名の、中学生向きの雑誌を発売している(昭和38年~44年)。エッチさには程遠かったが、図解イラストや読み物が多く、チョッピリお兄さんになった気分だった。但し読み物はあまり読まなかった。

昭和38年」「ボーイズライフ」創刊号: まつざきあけみのブログ

漫画雑誌会に革命を起こしたのは、週刊誌「少年サンデー」と「少年マガジン」の発売である(昭和34年)。

少年サンデー創刊号 | 少年サンデー

発売日まで待ち遠しい1か月が1週間に短縮された。雑誌を上から見ると「週刊新潮」などの週刊誌と同じ二つ折りになって現在ほどの厚みがない。毎週の発売に、とてもじゃないけど小遣いがついていけなかった。

もう少し大人になると昭和39年には「平凡パンチ」や「週刊プレーボーイ」の発売となって、お色気度もカッコよさもアップするのであった。

「週刊プレーボーイ」の表紙をご記憶の方も多いでありましょう。なんと!女体で動物を形作っておるのであります。撮影現場は大変だったとお察し申しますが、意外と楽しかったりして・・・。意外と可愛くなかったりして・・・。


昭和めもりーズ おいしくてつよくなる

2025年06月09日 | レモン色の町

我が幼少のころ、10円のおまけつきグリコには、しっかりお世話になった。中身のキャラメルはとにかく魅力はオマケにあった。まず、オマケの箱を確認すると、中身のキャラメルを全部紙から剥いて、8粒程のキャラメルを一気に口へ入れた。

発売当時のグリコ おじさんの顔が怖いといわれた

江崎グリコの創業者である江崎利一は、薬種業の家に生まれた。大正11年に発売された“グリコ”は、利一の長男がチフスに罹り、牡蠣のエキスであるグリコーゲンを与えたところ快方に向かったことによる。当時は“おいしさ”だけでなく“滋養”とか“栄養”がお菓子の世界にも求められていた。

切手のオマケもあった

そして、森永製菓のミルクキャラメルに対抗するため、キャラメルの形を四角でなくハートに、箱を黄色でなく赤色にしてランナーがゴールする姿を入れた。キャッチコピーは“一粒300メートル”“おいしくてつよくなる”である。箱の横のこの文句を見るたびに「食えば食うほど元気になるんや!」と、虫歯だらけの歯で笑ってオリマシタ。

〇 漫画家のまつざきあけみさんは、昭和時代の漫画本をブログで公開してみえる。中身も掲載されているので当時に思いを馳せることができます。

昭和38年」「ボーイズライフ」創刊号: まつざきあけみのブログ

少年サンデー創刊号 | 少年サンデー

単行本・貸本: (3) まつざきあけみのブログ

 


昭和めもりーズ 映画看板描き

2025年06月08日 | レモン色の町

Webより ジョン・ウェイン

映画が全盛期だった昭和20年代後半から30年代にかけて、四日市のどこかしこに映画館があり、私の住まい周辺でも、東映の諏訪劇場・洋画の三重劇場・東宝の弥生館・大蔵映画のぼたん劇場・四日市日活・四日市松竹(宝塚劇場)・東映二流館の四日市劇場・本町の四日市東宝・洋画二流館のロマン座があった。

三重劇場 蒙古の嵐!

当家の南壁面には映画の看板がずらりと並び、週末の夜には招待券で映画館へ入れた。映画館の正面入り口には大きな手描きの看板が揚げられていた。毎週のように変わる作品に、看板も取り換えられていった。それだけ繁盛していたことになるが、やがて映画の作品名、文字だけの看板になっていく。

弥生館 どぶろくの辰

江戸時代、役者絵が揚げられた芝居小屋は、やがて映画館へと移り、入口上の手描きの絵だけは残されていった。とある看板の絵描きさんを知っていたが、弥生館の看板を描かれておられたと聞いた。

商店街のイベントで映画を上映した記憶がある。『キングコング(1933年)』の看板を入口上に描いた。残念ながら観客は女の子一人だった。後に、『怒りの葡萄』や『七人の侍』などを描いたこともあった。原版にマス目を引き看板のマス目に拡大して描いた。

そういえば、祭りの縁日に香具師が拡大器なるものを売っていた。定規をつなげたようなもので、先に付けられた鉛筆で真ん中のプロマイドをなぞって動かしていくと倍増された絵が描けるというものだった。香具師のバックには何枚かの完成品が掲げられていた。買い求めて持ち帰ったが、うまく描き上げることはできなかった。

※ 面白い三枝さん!

三枝-12-赤トンボ-超おもろい


昭和めもりーズ 正露丸は征露丸

2025年06月07日 | レモン色の町

我々昭和の年代の者であれば“正露丸”を一度は呑んだことがあるだろう。どこの家庭でも、メンソレータムと正露丸は常備薬だった。独特の匂いは忘れがたい。図書館からお借りした“町田忍の昭和遺産100”から。

富士薬品の正露丸

ルーツは明治に遡る。最近は、大幸薬品発売のラッパのマーク“正露丸”で知られている。発売された明治期は“征露丸”と表記され“ロシアを征する”意味合いの名前だった。明治36年 陸軍軍医の戸塚機知(みちとも)と白岩六郎が発明したクレオソート丸が始まりという。戦地ではペストや赤痢が蔓延、殺菌作用の強い胃腸薬が必要とされた。効果は抜群だった。しかし、兵士からは強い臭いに服用を嫌がられた。そこで幹部らは考え、缶の中に「陛下ノゴ希望ニヨリ」の一言を入れたら躊躇なく飲まれたという。

写真は、幕府の御典医であり明治期は政治家だった松本良順

戦後、このことを聞いたマッカーサーは、国民がいかに天皇を大切に思っているかを知り、昭和天皇と並んでいる写真を公表することで、統治をスムーズに進めたという。

戦後“征露丸”は“正露丸”と改名されたが、多くの製薬会社から発売されていたため商標権をめぐって裁判が起こされた。結果“正露丸”は普通名称となった。


昭和めもりーズ 三岐鉄道 富田駅 

2025年06月03日 | レモン色の町

昭和という時代が、遠のいていく。昭和をテーマに、思いつくまま書いてみたいとエラソウニ思った。が、早速鉄道の壁にあたった。鉄道は生き物。過去の産物であっても動き続けておりました。

三岐鉄道

さて、“年表 四日市のあゆみ”を覗いていたら、「昭和3年9月 三岐鉄道(株)が、高砂町に設立」とあった。昭和天皇御大典の昭和3年。四日市市―関ヶ原町間の鉄道敷設免許状が認可され、三岐鉄道を設立。社長は伊藤伝七、取締役には、浅野セメント、小野田セメントの専務が名を連ねた(両社とも現在の太平洋セメントの前身)。昭和6年には、富田―西藤原間が開業したものの、昭和6年に関ヶ原へ敷設の免許が失効したためセメント工場のある藤原までにとどまった。三岐鉄道の名前のいわれである。初代社長が伊藤伝七氏であったため、設立は四日市だったが、おおきな目的の一つがセメントの原料石灰岩の輸送だったので(訂正:すみません セメント輸送でした)富田に本社を移した。

グーグルマップより

上の地図を見ていただきたい。明治末期、関西鉄道が富田を通っていて(上から下に斜めに伸びる線路)国有化されていた。国鉄関西線は、東洋紡績の工場内にも敷設されて(右下に東洋紡績があった 現在のイオンモール四日市北)富田駅を通して各地につながっていた。三岐鉄道は、それと並行して富田をスタートし、蒔田あたりで国鉄と高架クロスして三岐線は西藤原へと国鉄は名古屋へ分かれていく。両線とも同じ1067ミリの狭軌だった。

この頃(昭和3年)、伊勢電鉄(後の近鉄)は、富田を通過して桑名まで運行されていた。富田が始発となった三岐鉄道三岐線は、旅客列車も国鉄富田駅発着であったが、近鉄富田駅まで歩いて移動する乗客が多かった。近鉄連絡線建設には富田駅前の商店街が反対したが、完成後も国鉄富田駅への旅客列車を運行することで妥協した。しかし、近鉄富田駅利用客の多さは歴然で、昭和60年に三岐鉄道 三岐線の旅客列車は近鉄富田駅発着に統一された。こうして現在の近鉄富田駅と国鉄富田駅が約300メートルの距離を置いて存在している。昭和40年代、近鉄富田駅を降りた乗客が、国鉄富田駅にあった三岐鉄道への乗り換えに足を急がせていた風景を思い出す。

  • 間違いがあればご教授ください。

昭和30年代の諏訪界隈 その2

2025年06月01日 | レモン色の町

昭和34年12月、建築中の店が伊勢湾台風に遭ったが、Mさんは諏訪公園西に新店舗を開くことができた。その頃には近鉄百貨店が完成していて、翌年の昭和35年はコンビナートも次々と操業を始め、商店街は一気に活気あるまちと化していった。女性の顔を抽象化した壁面の「クイーン」は四日市初の本格的キャバレーだった。キャバレー内は広くて、暗いホールの正面には大きな舞台があり数名の楽団員が演奏をしていた。ボックスに座ると3~4人の女性が客を囲み、ボーイを呼ぶために肌もあらわな胸元のくぼみからマッチを取り出し、擦る。闇の中の光に吸い寄せられるように、音もなくボーイが駆けつける。ステージでは演奏から唄やストリップショーなども繰り広げられて、四日市の夜は更けていった。

昭和43年マップ 丸印にストリップが来ていた

諏訪公園の西に「トルコ風呂」が開店した。銭湯しか知らない私は、水着姿の女性が蒸し風呂からマッサージのサービスがあると聞いて驚いた。輸入モノだと人々に珍しがられた。

1番かな?昭和33年7月24日(辻さんの写真)

当店北隣に狭い空き地があって、年に二回、旅回りのストリップショーがやってきた。テント掛けの小屋が建ち、莚(むしろ)一枚下がった入り口に1本の赤い幟(のぼり)が立つ。拡声器の声で「ご当所、初のお目見え!」と夜遅くまでラテン音楽がにぎやかだった。「ポップサリー来る!」の幟を覚えている。

2番 若紀久前 昭和33年7月24日(辻さん撮影)

何処からやって来るのか、家内稼業だった。呼び込みから入場券の“もぎり”、BGMから照明まですべてがおやじの役目であり、五色のライトを浴びて登場するストリップガールは、その人の女房だった。四人の女が入れ替わり踊っていたが、よく見ると女房殿の一人四役で、衣装だけが変わっていたのだった。ある日の午後、この女房が小さい女の子の手を引いて西新地の銭湯へ行く後姿を見た。この母親がライトを浴びているその間、この子はどこで何をしていたのだろうか。

3番 昭和32年5月神戸屋角(辻さん撮影)

旧四日市を語る 第十集より


昭和30年代の諏訪界隈

2025年05月30日 | レモン色の町

戦争が終わった。Mさんは湯の山温泉を起点に板前の修業を積み、自分の店を持ちたいと願っていた。旧四日市を語る”第10集より

月に一度の散髪に湯の山から四日市の街へ出てきたMさんは、洋画が好きで西新地の三重劇場へ寄るのが楽しみだった。帰りにはスワマエの嶋口屋にうどんを食べに立ち寄った。嶋口屋は田舎風の店でお酒を頼むと二合徳利が出た。Mさんは「なぜか私はこの店が好きだった」と書いている。

らく天さん

四日市へ出て来ては店の土地を探しに歩き回った。繁華なのは諏訪で「のんきや」とか「うまいや」などの有名な店が並び「びっくりぜんざい」が目を引いた。諏訪駅北口を出て真っすぐ北に進むと、カトリック教会の広い敷地に出会う。

らく天さんの位置

昭和31年当時はすでに整地されていて、ここに12坪の土地が売りだされていた。北隣は「コンパ」というバーで、南隣は焼き肉屋だった。私がここに店を構えようと決めたのは、店の並びに「らく天」という天ぷらとお好み焼きの店があり繁盛していると聞いたことと、前に広がる諏訪公園が店の庭のようだと感じたことからだった。「らく天」の路地を西に入ったところに空き地があった。後年そこには「たい家」という料亭ができた。

昭和33年の諏訪公園西

当時は地道で、車が通ると砂ぼこりが舞い上がり、まばらな店舗の並びに場末を感じさせた。諏訪公園には禽舎(きんしゃ)があり、アヒル、孔雀、小鳥が雑居していた。南には猿の檻があって、夜ともなれば、酔客におびえて甲高い鳴き声を上げていた。 つづく

昭和32年頃の諏訪公園南


映画 Tokyo Joe のロケがおかしい?

2025年05月25日 | レモン色の町

今日もとんでもなく暇だったので、ハンフリーボガードの「Tokyo Joe」

やっちまったぜ 主演ハンフリー・ボガートがまさかの映画〖東京ジョー〗

と、この背景を使って合成したという 1940年代のカラー化された映像が・・・

カラーで見る日本の1940年代 [60fps, Remastered] w/added sound

何処で使われたかどうかを比べてみました。

ここの真ん中にハンフリーボガードさんが入るのですが

如何ですか?

ここで大発見!背景画像が逆になっていませんか? 

だからどうということもありません もうちょっと 他にやることがあるでしょうがネェ

<追記> なぜ背景が逆転していたのか?その謎が解けた。

当時、昭和20年頃の合成画像は、今にように緑のバックで撮り、そこへ背景画像を写し込むような技術はなかった。スクリーンに後ろから投影して、その前で人物が演技をする。当然背景は逆になる・・・如何でしょうか? 私の迷推理は・・・