花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

広重の四日市を推理する 前半

2024年09月29日 | レモン色の町

広重の描いた三重川の図は?いったいぜんたい 何処だろう?

広重四日市の三重川

「四日市市史」の“ふるさと点描”に岡野繁松氏が「広重の描く四日市を歩く」と題して安藤広重の三重川が何処の風景なのかを推理している。

どうして広重は、四日市宿の宿場の様子を選ばずに、野分吹く葦の茂る場所を題材にしたのだろうか?ここで岡野氏は四カ所を提案して推理してみえる。

三瀧橋説:文化三年(1806)に描かれた“東海道分間延絵図”によると三重川は 川幅52間あり両側は洪水対策用の土手が築いてあった。となり広重の絵に描かれた小さな板橋ではない。

開栄橋 下が 新栄橋

開栄橋説:稚拙ブログで推理してきた(但し 開栄橋北の新栄橋としました)ように構図的には広重の絵と重なってくる。このページでは開栄橋は湊橋、新橋、新栄橋と称していたこともある、となっている。

右に流れるのが 鹿化川

・長田(町田)橋説:昭和11年の伊勢新聞に、市内の考証家 福山順一氏が、古書(安政2年の針山図案)から長田橋付近であると発表している。

「天保3年(1832)夏8月、幕府の「御馬献上」に随行して東海道を上ってきた広重は、四日市宿に絵の題材を見出すことができず、日永村までやって来た。ここは伊勢参宮道との分岐点にあたり、茶店(まんじゅう屋)も出て賑わいがあった。

追分の饅頭屋

この日永村の入り口に長田川(ちょうだがわ)が流れていた。この小さな川は源平時代に尾張山田から遁れてきた長田(ちょうだ)一族が移り住んだ長田屋敷に源を発する小川である。そこに架かる小さな橋が長田橋だった。広重はこの川の堤に腰を据えて“あの絵”を描いた」とあった。

しかし、尾張猿投(さなぐ)神社所蔵の文献では“長田川が稲穂の間を流れている”とのくだりがあり、広重の絵からはどう見ても葦の茂る浜の景である。

歌川貞広の三重川

  • 長田橋説は続く。「後年、弟子の歌川芳重が師匠の旅の跡をたどったときに、この橋の印象を残している。「四日市浜田を、日永に出る境に、今もある、ささやかな流れ、その小川に架かった、土橋に付けられた名が長田橋、ここは風の強いところで、橋端には、画の中に見える柳が、明治の頃まであったと、老人は話してくれた。ここならば少し離れて海も見え、船の帆柱も眺めることができる。一行(御馬献上)が休憩の時間にひとり離れて、この長田橋を写生したものであろう」 後半に つづく

第二の四日市湊は?

2024年09月28日 | レモン色の町

やっとかめ!でございます タケちゃんの街巡り 今回は 諏訪のまちあちこちに散在しておりました喫茶店を列挙させていただきました。是非クリックしてご覧ください

「昭和30年代の諏訪の町の喫茶店/四日市を掘り起こし/第11回」 (youtube.com)

前々回 この図が何処か?の宿題を頂戴しましたので・・・

江戸初期、阿瀬知川の流れは浜田村から東へ下り、北へ曲がって不動寺前の丸池新田のところに港がありました。港は入り江になっていることが条件で、港に入ってくる船は土橋(思案橋)をくぐって入港していました。ここが第一の四日市湊になります。不動寺には大きな龍灯松があって、この明かりを頼りに多くの船が帰路に着いたのです。

江戸時代初期 不動寺前が湊になっていて 思案橋をくぐったところで 三滝川と合流していた

時代と共に、不動寺前の川幅は狭くなり港は川下に移ります。第二の湊がどこかというと、現在の開栄橋の西詰のところになります。

江戸時代中期 思案橋から海へ出ますが 三滝川とは河口が分かれていきます

元禄時代になると札ノ辻から港へ向かう“浜往還”が整備され、埋め立てが進んだ納屋町の先に埠頭ができます。そこには浜往還一本松と灯台がありました。

江戸時代末期 左下の橋が 後の開栄橋 この場所が第二の四日市湊でした

この松も、地震や高潮の為、安政4年に枯死するに至りました。代わりとして新しい松が植えられましたが、開栄橋架設の際に取り除かれたという記録があります。

昭和9年 第二の四日市湊があった開栄橋北詰め 納屋運河の様子 正面 郵便局の建つところに松の木と燈台があった

阿瀬知川の川下に四日市湊は造られたのです。川下は次々に埋立てられ、新田が開発され、納屋町などの町ができました。しかし、阿瀬知川から運ばれてくる土砂で港は浅瀬となり、浚渫工事が必要とされてきました。この工事に挑戦したのが稲葉三右衛門翁でした。

昭和62年の納屋運河の風景


新栄橋は何処にある 完結編

2024年09月23日 | レモン色の町

ご存じ!安藤広重の東海道五十三次 三重川の図 右の板橋が 旧東海道に架かる三滝橋にしては小さすぎると話題になった。もっと浜の方ではないか?と・・・

水谷百碩氏の描かれた「四日市浜の景」松林に隠れているが十里の渡しの建物が見える。となると右に架かる橋は 後に稲葉三右衛門さんが名付ける「開栄橋」になりますか?

十里の渡し場の風景である 着岸に必要な燈台が立つ 

※ 申し訳ありません!この絵は十里の渡しではないと思います 調べて追記いたします

これは 江戸末期に描かれた「東海道分権延絵図」渡し場と後の開栄橋の図 その下に架かる小さな橋が広重の橋ではないか?と想像する

江戸後期の耕地図 これで水谷百碩氏の浜の景と分権延絵図から 広重の描いた橋が 後の新栄橋にあたると思われます

この橋こそが 広重の描いた三重川であると 今更思うのですが 皆様のご意見を伺います

現在です

追記:分権延絵図では道を右に曲がると板橋になっているが 江戸末期の耕地図を見ると 道の先真っすぐの処にに橋が架かっている

おそらく耕地図の方が正しいのではないだろうか 大阪の浮世絵師 歌川貞広も広重と同じ風景を描いているが まっすぐのように見える 広重が構図上曲がっているように描いたのだろうか?

やはり 強い浜風に笠を飛ばしているが 広重に比べると随分華やかでございます


新栄橋は何処にある ④ 掖済会

2024年09月17日 | レモン色の町

大正11年 丸印が新栄橋で右下に掖済会の文字が 後ろの白い部分が牧場になるのか?

新栄橋の先には掖済会があった 唯一の通行路かと思っていたが ああ勘違い!掖済会は明治41年3月『日本海員掖済会三重支部四日市海員寄宿所』として稲場町に造られたものであり 新栄橋は江戸末期から出来ていた しかし 掖済会やその裏手にあった牧場へ行く道として新栄橋は利用されたはずである。

掖済会

腋(わき)から手を添えるという意味で、明治13年 前島密(ひそか)が、船員の医療や宿泊施設として立ち上げたのが掖済会である。明治期までは海水浴というレジャーはなく、海水に浸かる行為は医療用とされていた。四日市では、三滝川口の南岸から旧四日市港の防波堤にかけての砂浜が海水浴場としては最初に開かれた場所で、明治41年この浜に海員掖済会の建物が出来たことから、市民は掖済会前の海水浴場と呼んで親しんだ。

大正13年10月12日  角の石灰工場の影響ばかりではないと思うが ヘドロが河口に流れ出している様子が分かる 黒く見えるところが牧場か?

大正6年5月、米国の飛行家アートスミスが、旧港とこの海岸を中心に曲芸飛行があり、のちに海軍の水上機が離水着水を演技したのもこの海水浴場の砂浜であった。海員掖済会の洋風建物の隣には、船大工の造船所、その南側には牧場の草原があって沢山の牛が放牧されていた。なやプラザで見せていただいた航空写真では、二枚羽の飛行機が浜辺に着水しており、多くの人が集まって来ている。

大正期の絵はがきより 三滝川北には午起の松林が望める

大正期大正後期になるとここは旧港の防波堤で潮流が澱むためか、ヘドロが多くなって海水浴に適さなくなった。


新栄橋は何処にある ③

2024年09月16日 | レモン色の町

新栄橋の現在の様子を今少し

新栄橋跡から東向きに

右(南)駐車場の向こうが公園になっている

北側 運河は埋められ公園となっている

新栄橋の歴史は古い 江戸末期の地図を見ると 札ノ辻から浜往還を東へ 浜町から蔵町を通って開栄橋(橋の命名は 明治期になって稲葉翁による)に至るが その北隣に橋がある これはのちの新栄橋になる

明治初期の稲葉翁による湊造成の図(上が東になる)にも新栄橋にあたる橋が存在している 当時の橋は何と呼ばれていたのだろうか?

四日市は、明治30年8月市制実施をした。そして、稲葉三右衛門翁の遺志を引き継ぎ、明治39年に市は港の四大事業を樹立 明治40年に取り掛かった。(椙山 満著“四日市市史より)

その四大事業とは、

1.阿瀬知川の開さく(川口の築港化で、のちに阿瀬知川河口にあたる末広川と呼ばれる運河になる)

2.入江の浚渫(港―蓬莱橋―開栄橋―新栄橋―潮呼橋―思案橋に至る運河の浚渫のことで、のちに浜町運河と呼ばれるもの)

3.海面の浚渫埋立(高砂町から南方の海浜を埋め立て、南納屋町との間に納屋運河を造成し、阿瀬知川と結ぶ。のちに尾上町となる。

4.諏訪新道の近代化(諏訪神社-沖ノ島―四日市駅(国鉄)間道路の近代化と、更に高砂町まで延長して新しい港新道をつくる。

この事業は 大正期になってようやく完成する。

本町まちかど博物館の水谷宣夫氏にお借りした明治40年5月発行の“四日市志” その巻末の四日市の地図にも新栄橋らしき橋が載っている

大正11年の地図では 四大事業は終了していて(明治43年竣工) 千歳地区の埋め立ても終わっている

新栄橋は 江戸末期からの存在が確認できた 名前は稲葉翁によって開栄橋となったのちに新栄橋の命名がされたと思うが ずいぶん古くからあった橋である 開栄橋と距離は離れてないのに 必要とされていた なぜか? その先を見ると 掖済会へと伸びていた  つづく


新栄橋は何処にある ②

2024年09月15日 | レモン色の町

昭和32年

新栄橋の場所が分かった ということで確認に出かけてみた

現在

現在 運河は埋立てられて公園や駐車場になっていた 正面の大協石油へと続く

昭和21年 潮呼橋を潮来橋と間違えております 訂正が面倒なので お詫びに代えさせていただきます

昭和21年の空襲後の写真では 新栄橋はかすかに残っていた 潮来橋(訂正:潮呼橋)は空襲で焼け落ちている 間に架かる専売局の営業所と倉庫の間に渡してあった橋は残った 橋の名前は分からない

昭和10年

遠くに午起海岸 左には国鉄のレールが北へと伸びる 中央が東洋紡績四日市工場 その右隅に何とか潮来橋(訂正:潮呼橋)が覗いている その橋の先は三滝川へ流れ出ず 直角に曲がっていた 直角に曲がり Uターンして旧四日市港へと伸びていた

昭和30年

昭和30年の潮来橋(訂正:潮呼橋)からの眺めとあった 濁り切った水たまり状態 運河の角に見えるところから 潮来橋(訂正:潮呼橋)の東詰めから北西方向に撮ったものか? えーっと 画面の左に橋があったんじゃなかろうか?

下は 明治28年の鳥観図 橋の位置が良く分かる

明治28年

昭和9年の納屋運河 右に開栄橋 正面に郵便局(逓信省)の建物が見える 橋西詰の通りをまたいで北隣は四日市倉庫だ

昭和9年

現在の開栄橋西詰から東方向(稲葉町)を撮る

現在

郵便局跡の前から開栄橋を撮る

明治36年

明治期の開栄橋の賑わい 橋の東詰めから西方向に撮られた 左郵便局 遠くに西洋風の四日市銀行が建つ 橋から銀行の間には蔵が並んでいた。蔵町だ

あ、今思った 読み方は 開栄橋(かいえいばし)から しんえいばし と読んでよさそうデス 

※ 訂正:たいじゅさんからご指摘をいただきました 潮呼橋を潮来橋と間違えておりました そういえば 潮来橋(いたこばし)やったと 言い触らしていた時期を思い出します

 

 

 

 


新栄橋は何処にある?

2024年09月14日 | レモン色の町

まず 辻俊文さんの残して行かれた1枚の写真からご覧いただく 辻さんは子供を撮るのが好きで 多くの写真を残して行かれた これもその1枚

小学6年生か?雨の中 辻さんに笑顔を向けて橋を渡ろうとしている 橋には“新栄橋”と描かれている。

では、新栄橋とは何処だったのか?写真から見ると それほど大きな川でもなさそう 辻さんの説明では 昭和32年相生橋付近とあった 橋の向こうにはアパートらしきものと 正面に煙突が見える

岡野繁松先生が 出された「旧四日市を語る」第1週に戦前のマップを出されている そこに「新栄橋」の文字を見つけた

下が北

開栄橋があった頃 その北に存在した小さな橋(開栄橋は現在もあるが 橋の役目ははたしていない) 

これは昭和13年のマップ ここにも新栄橋の名前が見える この時代には 潮呼橋から大きく曲がって新栄橋から開栄橋に至っている

昭和53年になると 運河は埋立てられ 開栄橋のところまででストップしている

新栄橋は 納屋公園の端に あった

 


午起海岸の事

2024年09月13日 | レモン色の町

午起海水浴場へはバスで出かけた。

昭和13年の地図でゴザイマス 話が飛んで申し訳ありません

浦賀ドックの起工式(昭和18年)が午起海岸で行われた時の写真。

この階段の向こう側(東側)が海岸で、堤防には松林が続いていた。白砂で遠浅で中州ができたので相当遠くまで行けた。簾掛けの茶店や休憩所が多く出て賑やかであった。カンカン帽、麦わら帽子、こうもり傘、ステテコ、浴衣、海水着(水着とは言わなかった)など、当時の風俗が良く分かる写真だ。

昭和6年

遥か沖合を外国船が通っているのが見える。午起の南、三滝川河口からつながる松林には、保養所が開設された場所で、三滝川河口の南側には掖済会があった。

昭和11年の保養所

浚渫工事の様子 昭和30年代かな?左に三滝川 中央に保養所がありましたかな?松林に囲まれています

 


昭和21年の空撮

2024年09月10日 | レモン色の町

昭和21年 空襲から約1年後の 三滝川と海蔵川の間の地域の空撮が手に入った おそらく米軍によるものだろう

上が海蔵川で下が三滝川 左に上下に走る線は1号線(訂正:東海道)である

上の写真の東にあたる 三滝川の上は午起海岸 四分割にして地名を入れてみた(昭和13年の地図参考)

上に海藏川 左の上下の線は1号線である 右上の県立四日市商業高校は 現 橋北中学校 工場と間違えられたのか消失している 四日市病院が新浜町にあった(右下) 八幡神社の位置はそのままだ

その下(南)の写真になる 中央に三滝川が流れる 三滝川を境に焼失状況が大きく異なる 第6小学校・第7小学校と建てられ こどもの多さが伺える 久六町や十建町と昔の町名が目につく

4枚に仕切った右上にあたる写真 午起海岸が広がる 三滝川北の東洋紡績四日市工場は三滝公園となっている

上の写真の南側 東洋紡績は三滝川を挟んで二カ所に工場があり国鉄線の東(訂正:西側)は社宅になっていた 現在の北条野球場 下は大協石油 

復興のスピードは かなり早いと思われます 地上では 必死に作業が行われていたのでしょう 希望の未来が見えていたのかもしれません

 

 


映画の世界と映画館 ②

2024年09月09日 | レモン色の町

映画産業の戦後復興は早かった。青山誠 著“浪花千恵子”より

なんと、終戦から2週間が過ぎた8月末頃には新作映画が封切りされ、戦災を生き残った映画館には客が殺到していたという。

四日市も昭和18年から20年にかけて米軍のB29による空襲を受け、中町の“世界館(閉館)”、南町の“弥生館”、幸町の“四日市劇場”、新町の“四日市東宝劇場”は消失している。終戦に伴い国家機関は映画関係者と再開に向けての協議を行っている。

昭和29年封切り、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」を上映中の三重劇場

暗い場所と映写機さえあれば、どこでも映画は興行できる。焼け跡には粗末なバラックの映画館があちこちに建てられるようになり、夜には広場などを利用して上映会が開かれたりしていた。こうして昭和21年にはトップを切って“三重劇場”と“諏訪劇場(後の四日市東映)”、そして新町の“四日市東宝劇場”が、22年に“ラジオ劇場(昭和31年に日活劇場)”、“四日市劇場”が焼け跡の中から次々と再建された。

新町の四日市東宝劇場(旧 湊座)

昭和26年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、GHQによる検閲も廃止され、かたき討ちがメインだった時代劇に許可が出た。それまで、ちょんまげ姿が演じられない片岡千恵蔵は、大映で新劇の“多羅尾坂内”を撮っている。「私は、好きで演じていた訳ではなかった」と述懐している。

四日市日活は、昭和32年封切りの 月岡夢路主演「白夜の妖女」を公開中

昭和27年には、全国で278本の映画が製作されたが、4年後の昭和31年には500本を突破している。映画館の数もまた急増していた。焼け残った映画館は全国でわずか35軒だったのが昭和30年には5184軒になっている。すべての産業が壊滅した昭和20年代の日本で、映画は数少ない成長作業だった。毎週、2本立てや3本立てで新作が公開され、新作を待ちわびる人々は映画館へと押し寄せた。当然、映画業界の現場はオーバーワークを強いられる。深夜になってもスタジオの照明が落とされることはなく、スタッフは覚せい剤の“ヒロポン”を注射してでも頑張った(ヒロポンは昭和20年頃まで合法されていた)、ってこれちょっとまずいんでないの?