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花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

なつかしの小学校時代①

2025年09月03日 | レモン色の町

私が浜田小学校に入学したのは昭和30年だった。まずは、振り出しから回虫のお話である。

年に一度は回虫の検査日があった。昭和時代は、畑の肥料に人糞が使われていたので、お腹に回虫がわいた。そう云えば我が家にも、近在のお百姓さんが定期的に屎尿の汲み取りにきていた。家の中を前後に桶を担いで通るので、得も言われぬ香りがあたりに漂った。桶がいっぱいになると丸めた藁を上に乗せこぼれないように担ぐ。リヤカーに積み自転車で引いて帰っていった。そういえば近年、畑に作ってあった肥溜めを知らない方が多くなった。

検便であるが、その日の朝は大騒ぎだ。学校でもらってきたマッチ箱に朝のウンコを入れなければならない。便所の前に新聞紙を敷き、まずは大便を我慢してオシッコを済ませ、新聞紙上のウンコの一部を割りばしてマッチ箱へ入れる。しみじみと自分のウンコを眺める朝であった。マッチ箱は、ぶら下げて持てるように指先でひもで括る。

登校途中に出会う学童は、みんなマッチ箱をぶら下げていた。回虫の標本を見たのは保健室だったか?

学校で虫下しの“海人草”(かいにんそう)を飲む時間があった。“かんにんそう”と言っていたが、独特の匂いはみんなに嫌われていた。自分はそれほど抵抗がなかったので、ふざけてお替りをしていた記憶がある。残念ながら、便所の形態から回虫が排泄された風景は見た覚えがない。検便で引っかかったのは中学時代であった。

<特別付録>

【昭和25年 - 61年放映】あの頃映画館で観た怪奇・空想・特撮映画の予告編!

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昭和の街を目撃する!⑧

2025年08月24日 | レモン色の町

昭和30年5月 辻写真館の辻俊文さんは、戦後計画された中央道路(70メーター道路)をまたぐ旧東海道から東向き、国鉄四日市駅方向にカメラを構えました。

目前を国道1号線が通ります。国道沿い左にガソリンスタンドの“増田軍太郎商店”が建ち、そこから東へ、商工会議所、税務署、公会堂、そして四日市市役所と並びます。市役所の塔は、空襲を免れたようです。戦後計画された中央道路では、昭和27年3月25日から4月23日まで、“講和記念・農機具博覧会”が開催され、跡地は70メートル道路として整備が進められました。国道東には若い楠の木が並んでいます。

現 在

私が浜田小学校へ通うには、この広い中央道路を横断しなければなりませんでした。冬の鈴鹿おろしが吹く季節は、新しくできた近鉄四日市駅を遠目に、吹き飛ばされそうになりながら横切った記憶があります。

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昭和の街を目撃する!⑦

2025年08月13日 | レモン色の町

二枚の写真がある。ともに昭和32年7月26日に、辻写真館さん前から東方向に向けて撮られた。正面にはパン製造の“精養軒”(以前、大阪から伊藤さんという方がみえて、パン製造機械とともに全国を渡り歩いていたが、過去にお世話になったという“精養軒”さんを再訪されたという事があった)。電柱には旅館“若みどり”の看板(“若みどり”さんは、四日市日活の東にあった貸席だ)。左には“諏訪劇場”が立ちはだかっていて、この周辺は諏訪劇で成り立っていた。左の路地を入ると白揚書房前を通り諏訪駅便所へ出る。右は諏訪劇場前を通過して、中央通りの向こうには農協が望める。左角は“万惣”さん。うどん、カレー、丼物、何でもござれの大衆食堂。二枚の写真を比較して、どちらが先でどちらが後に撮られたのか?などとつまらんことを考えた。

異なる点を挙げると、①夕日がさしている。②万惣さんの配達用自転車の位置が変わっている(学生の兄ちゃんが動かした可能性が高い)。③万惣さんの“すし”の提灯が、風でやや回転している。④学生の数が増えている、減っているのか?友達を待っていて、やってきたのか?話が済んで帰っていったのか?⑤精養軒さんの2階窓でタオルをかぶって仕事をしている人が居るが、何をしているのか?時間帯の関係か?諏訪駅からの路地は、ご婦人が多く通る。

比較すると、風景と人の動きに変化が見える。さて、時間の前後をこの二枚の写真から読み解くことができるのか?

謎は謎を呼びます。

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昭和の街を目撃する!⑥

2025年08月12日 | レモン色の町

駅前に、今年の末に円形デッキが完成する。只今愛称募集中!JR四日市駅と近鉄四日市駅が中央通り(70メーター道路)を挟んで対峙する形ができたのは昭和31年9月のことである。以来、北側は発展してきたが、南側は取り残された形だった。この円形デッキが完成することで、駅南の“あすなろう鉄道”や新しく完成した“コンフォートホテル四日市”“四日市三交ビル”へのアクセスが便利となり、同時に中央通り北半分にバスターミナルが出来て駅前の景観は一変する。

近畿日本鉄道四日市駅が中央通り突き当りに完成したのは、昭和31年9月のことである。

雑然とした駅の南側には、昭和32年3月17日号の週刊朝日の空撮によるとバス停が整地されつつあるのが分かる。線路をまたいでふたつ、小さな小屋が見えるのは横断地下道である。

昭和33年7月20日、辻俊文さんは駅の南側にカメラを構えた。コンクリート舗装は未完成だが、三重交通のボンネットバスが次々と乗り入れている。横断地下道をくぐって駅西に出ると四日市競輪の場外券売り場があった。遠景左側には鵜の森神社の木森が見える。

昭和35年になるとバス停留所も現在の形となった。小学校初めての遠足で出かけた松本山が遠くに見える。春の日の一日、一面黄色い菜の花畑を進んだ。

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昭和の街を目撃する!⑤

2025年08月11日 | レモン色の町

昭和16年、旧東海道沿いにあった諏訪駅は、手狭であったため300メートルほど西へ移動し、軽便鉄道の八王子線と湯の山線の始発駅にもなった。昭和20年6月、空襲で諏訪駅は灰燼と化すもいち早く再建され、昭和31年9月の短絡化による廃止までの短い間であったが、現在の1番街の真ん中に存在していた。

雨の諏訪駅である。八王子行きの車両が、始発待ちで待機している。雨に濡れる駅前。その左(南側)にはスワマーケットが建つ。

辻さんは、カメラを東向きに構える。右にスワマーケットのつながりで“マルト物産”乾物屋さん。左に公衆便所、その先を左へ曲がると突き当りが諏訪公園。右の狭い路地を抜けると“諏訪劇場”へ出る。正面の諏訪劇場『目代三平』と弥生館『男ありて』の看板が揚がる暗い路地を入ると、屋根のある狭い通路の両側に店舗が並ぶ。この路地は三泗百貨店前を通って東海道へ出る。

通路の入り口付近を拡大してみた。日よけのかかった“だんごや”さんには“?パン”の看板がかかる。その隣が“サカエヤボタン”さんのはずだが・・奥さんは元気にご商売をしてみえるだろうか?

諏訪駅が健在だった昭和30年の、午後4時前の駅前風景である。

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昭和の街を目撃する!④

2025年08月10日 | レモン色の町

昭和33年2月2日、自宅店舗を出た辻さんはUターンをするように狭い路地を北へ進み、諏訪駅跡地へ出た。そこには広大な空き地が広がっていた。

諏訪駅の駅舎で見えてなかった赤線地帯の港楽園が、粗末な裏側をさらけ出している。昨夜降った雪は解けてあちこちに泥濘をつくっていた。新しくできた近鉄四日市駅を降りた老人が一人、諏訪新道方面へ向かう。遠くには工業高校の生徒が二人、線路跡の空き地へはみ出して歩いてくる。

昭和31年9月

昼間なので港楽園周辺の建物の並びがよくわかる.中日新聞さんの空撮と比較してみる。黄色い四角で囲った家々が一致する。

小学6年生の時、私は同級生の正ちゃんと港楽園跡の道を“ならい屋”へ通った。

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昭和の街を目撃する!③

2025年08月09日 | レモン色の町

昭和32年2月、広がる空き地は、撤去された諏訪駅跡地。辻俊文氏は、キタオカさん前から西北方向にカメラを向けた。寒い朝である。白い息を吐きながら、新しい駅から降りた通勤の人々は、空き地を横断して市役所や銀行のある諏訪新道方面へと向かう。諏訪駅北口を出るとどぶ川を渡り南北に狭い路地が伸びていた。右からうどん、丼物、ぜんざいの“水谷屋”“パーマの堀田”と並び、路地沿いの映画の看板は、駅の撤去とともに向きを南に変わった。

上映作品は何だろう?2月13日堂々の大公開は『炎の氷河』。総天然色の松竹映画。高橋貞三、杉田弘子、朝丘雪路出演だ。

その横には昭和32年1月29日公開の高田浩吉、草笛光子出演『美女蝙蝠』と大木実と高千穂ひずるの『女だけの街』。

中央正面には弥生館の看板で、昭和32年1月29日封切りの東宝作品『極楽島物語』と並ぶが、併映作品が分からない。

弥生館の看板の向こうにネオンサインのアーチがかかる。赤線地帯の“後楽園(訂正:港楽園)”入口か?そこから左へたどると塔のようなものが見える。(追記:遠景の塔は巨大である。天理教の建物の一部か?)自分は小学2年生だったが、当時ネオンきらめく入口を見た記憶がある。赤線地帯である後楽園(訂正:港楽園)は、昭和21年から33年3月31日まで存在していた。

『赤線・青線ってなに?』売春法に沸く昭和30年代の日常まとめ4 - いまトピ

諏訪駅だった当時の喧騒は跡形もない。この日も雨上がりの寒い朝だった。

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昭和の街を目撃する!②

2025年08月08日 | レモン色の町

第1回の写真は、辻俊文さんが昭和34年5月21日に撮影されたものである。それを遡ること2年前の昭和32年2月、数歩右へ寄って1番街通りの中央から東方を撮られた写真がこれだ。

昭和32年

前回掲載の昭和34年

2年間の時間の経過。大きな看板が上がる昭和32年“三泗百貨店”は、1月29日より2月7日まで1割ずつ値引き率を増やしていく閉店売出しを行い、この後、食品専門の“スーパーサンシ”に生まれ変わる。看板はもう1枚、東街道沿いにもこちらに向けて掲げられていて、看板の下を三人の婦人が行き来する。その向こうの1号線には乗用車が走っている。

手前看板の下では、親子が朝の洗顔に余念がない。三泗百貨店の向かいには、線路を背にした小さな店の並びがあって、裏口を出ると線路までの間に狭い生活空間があった。歯磨きをしているのは“ボタンのサカエヤ”の親子か?その隣は東へ“ケーキ日野屋”“ぜんざいのうまいや”“きしめんののんきや”“一茶”“洋食のふじや”と飲食店が並ぶ。

現在

道路の左“ふくや靴店”は1番街へ進出し34年に店はなくなっている。区画整理による撤去が始まっているのか?32年段階では、線路を背に物置小屋のような建物が並んでいるが、なんだろう?俄かに造られたように新しい。その向こうの東海道のアーケードは未完成。遥か向こうには戦災を逃れた市役所の塔が望まれる。

区画整備事業は進み、線路跡は四日市駅前の一等地1番街へと変貌を遂げる。その誕生の瞬間である。

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昭和の街を目撃する!①

2025年08月06日 | レモン色の町

昭和31年9月、諏訪駅が解体され近畿日本鉄道 四日市駅が中央通り正面に完成した。辻俊文氏は写真館を営みつつ、ニコンカメラを携えて昭和30年代の四日市駅前商店街の移り行く様子を記録に残した。辻氏の残された写真から当時を再検証させていただく。

昭和34年、辻氏は、現1番街商店街のキタオカ横から東方向にカメラを構えた。東に延びる砂利道は、諏訪駅から国鉄四日市駅へ向かう線路だ。砂利道が終ったところを左右に横切っているのが旧東海道。その十字路までアーケードが完成していて、向こうに国道1号線が走る。右“ひばりや”“文栄堂”の“コクヨ”の看板が並ぶ。手前右に“三泗百貨店”があるはずだが、この時点では、線路を背にした小さな店の並びが残されたままである。

現在

中央に幼稚園へ通う子供の姿がある。前に下げた竹籠は弁当箱。通勤の大人は傘をさしていないところを見ると雨上がりの朝の風景だ。諏訪公園内にある四日市幼稚園へと向かう。またいでいく側溝は新しく造られたものだろう。この広い空き地は、諏訪駅の資材置き場になっていた。看板が並ぶ。“野村洋服店”“ヤマカワ”“理容シーダー”。東へ抜ける路地は東海道へ出た。両側には小さなバラック建ての店舗がひしめき合い、その1軒に“紳士服のヤマモト”があった。この後、山本氏はバブル崩壊期まで四日市ではトップの紳士服店に成長している。「フランスへ行きたしと思えども、フランスはあまりにも遠し。せめて新しき背広でも着て、気ままな旅にい出てみん」萩原朔太郎のこの詩は、山本七郎氏のお気に入りだった。左に“富士ヨット学生服”の看板が見える。ここには庇があって“草野洋服店”が広い店を構えていた。

昭和34年、雨上がりの5月の朝の風景である。

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正義の時代だ!鉄人28号

2025年07月26日 | レモン色の町

整備途中の中央通りで講和記念大博覧会が開催されたのが昭和27年。その翌年の28年7月のことである。四日市商店連合会は、“七夕まつり”を立ち上げた。牽牛と織姫の人形を乗せた二基の小さな山車を三滝橋で遭遇させる趣向で、橋の上は大勢の人で賑わった。戦後復興による四日市商業界の隆盛に乗っての行事だった。そして、四日市商工会議所の“商品まつり”と“七夕まつり”は合体して“四日市港開港60周年祝賀「港まつり」となって昭和34年8月4~8日に開催される。まず、国鉄四日市駅前に立つ稲葉三右衛門像への献花式に始まり、続いて諏訪神社に商品を奉納する商品祭で「港まつり」は進められた(この行事は現在も続けられている)。

戦後、最も賑わっていたのは諏訪新道とその南の呉服町だった。昭和31年に現在の近畿日本鉄道四日市駅が完成して駅前に1番街商店街が形成されつつあったころ、諏訪新道と近鉄駅の間に位置する旧東海道のスワマエ通りも大勢の通行人でにぎわった。

昭和30年頃のスワマエ通り

昭和31年夏、ご当地商店街も七夕飾りで商店街をにぎやかにしよう!の掛け声で新しく造られたアーケードの下にくす玉を下げることとなった。

各戸にちり紙と細い針金が配られる。ちり紙は6~7枚を細く折りたたんで真ん中を針金で縛る。二つに折って花のように広げて大きな竹かごに括り付け、スプレーで色付けして完成である。くす玉づくりは家族総出で晩御飯の後、風呂へ行くまでの間に行われた。単純作業なのでみんなが寄り合って、世間話をしながらの仕事である。商店街が良くまとまっていた。

はじめは球体のくす玉も、翌年には雀の形になり、その次にはディズニーのキャラを模した。それなりに、進化していたのである。

神戸 長田町の鉄人28号モニュメント

昭和31年7月、雑誌“少年”に、横山光輝 作・画 で「鉄人28号」が始まった。はじめは少年探偵もののつもりが、人気が出てきた巨大ロボットものに代わっていったそうだ。なかなか鉄人が現れなかった記憶がある。28号は正義の味方とはいいがたい。リモコンが正太郎から悪人の手に渡ると28号は敵に回ってしまう。その後の「鉄人28号」の影響は大きく、「マジンガーゼット」や「機動戦士ガンダム」へとロボットものは波及進化を続けた。

鉄人28号の歌 デュークエイセス 朝日ソノラマ版

(52) 鉄人28号 Tetsujin 28-go x T28 Opening 【MAD】 - YouTube

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