私が浜田小学校に入学したのは昭和30年だった。まずは、振り出しから回虫のお話である。
年に一度は回虫の検査日があった。昭和時代は、畑の肥料に人糞が使われていたので、お腹に回虫がわいた。そう云えば我が家にも、近在のお百姓さんが定期的に屎尿の汲み取りにきていた。家の中を前後に桶を担いで通るので、得も言われぬ香りがあたりに漂った。桶がいっぱいになると丸めた藁を上に乗せこぼれないように担ぐ。リヤカーに積み自転車で引いて帰っていった。そういえば近年、畑に作ってあった肥溜めを知らない方が多くなった。
検便であるが、その日の朝は大騒ぎだ。学校でもらってきたマッチ箱に朝のウンコを入れなければならない。便所の前に新聞紙を敷き、まずは大便を我慢してオシッコを済ませ、新聞紙上のウンコの一部を割りばしてマッチ箱へ入れる。しみじみと自分のウンコを眺める朝であった。マッチ箱は、ぶら下げて持てるように指先でひもで括る。
登校途中に出会う学童は、みんなマッチ箱をぶら下げていた。回虫の標本を見たのは保健室だったか?
学校で虫下しの“海人草”(かいにんそう)を飲む時間があった。“かんにんそう”と言っていたが、独特の匂いはみんなに嫌われていた。自分はそれほど抵抗がなかったので、ふざけてお替りをしていた記憶がある。残念ながら、便所の形態から回虫が排泄された風景は見た覚えがない。検便で引っかかったのは中学時代であった。
<特別付録>