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花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

新駅誕生はもうすぐ!

2025年05月12日 | レモン色の町

昭和31年9月の近畿日本鉄道四日市新駅完成に向けて、工事は追い込みとなっていた。

在りし日の、諏訪駅中央ホーム先端から西方向に撮られた写真。まっすぐ伸びているのは湯の山線である。湯の山温泉口の広告塔が立つ。『ここから西へ向かうと、あの有名な湯の山温泉です』湯の山温泉は関西方面でも名前が売れていた。右へカーブしている線路は名古屋へと向かっている。右端には天理教が建つ。やがてここは廃線となります。(水谷宜夫氏 提供)

左の点線が新しく敷かれる線路。諏訪駅は、八王子線と湯の山線の始発駅だった。

ご紹介するのは、丸の個所で撮られた写真。湯の山線と近鉄線には新しい線路が敷かれつつあり、まさに交換の瞬間を待つ工事の様子でアリマス。

新しい近鉄線と交差して進む湯の山線。(文化の諏訪駅 提供)

諏訪駅を出た名古屋行特急はカーブに差し掛かり、新しい線路と交差して進む。「間もなくここを走る電車もなくなる」そう思うと感無量である。(樹林舎刊 四日市の昭和より)

諏訪駅を出た名古屋行特急が、新線路をまたいで天理教前を通過する。南方向に新駅のホームが見える。(文化の諏訪駅 提供)


新駅前を通過の現あすなろう鉄道

2025年05月10日 | レモン色の町

近鉄線の短絡化により、昭和31年9月に諏訪駅は取り壊され、中央通りの正面に新しい近畿日本鉄道四日市駅が出来た。

文化の諏訪駅階段壁面に八王子線(現:あすなろう鉄道)が工事中の新駅前を通過する写真があった。

昭和27年 中央通り予定地を会場として講和記念農機具博覧会が開催された。この写真は、諏訪駅を出た八王子線が南にカーブ、川村鉄工所東を通過するところだ。線路西側に写真屋さんがフィルムを販売している。現在の近鉄百貨店前あたりになる。

工事中の新駅前を通過。昭和31年9月撮影 これは!電気機関車みたいなんが 牽引しとる!

ここを通過出来なくなるのも時間の問題だ。昭和31年9月撮影 駅は構内に組み込まれることとなる。東から、近鉄線大阪行き・名古屋行き・湯の山線・内部八王子線の順で並んでいた。


昭和初期の諏訪驛路線図

2025年05月07日 | レモン色の町

驛舎は北向きにあった

昭和3年には四日市驛西口前広場が整備された。驛舎を入り、陸橋を東へ渡ると関西本線ホームと東口に出た。

旧四日市を語る会 より

昭和5年の善光寺カーブ

昭和5年の市街地地図。善光寺カーブを曲がると東海道沿いの諏訪驛へ達する。

四日市驛西口の図 下が北

大樹さんに送っていただいた、伊勢電気鉄道史より。椙山満先生のお話を聞きながら作られたメモで、四日市驛西口から歩廊をかぎ型に進み、線路を渡ると伊勢電のホームへ出た。

下が北

東海道沿いにあった諏訪驛。始発である四日市鉄道と三重軌道の線路の様子が分かる。最初は利用に便利な東海道沿いに造られたが、手狭となったので200mほど西へ移動した。そこは、貨物ホームや四日市鉄道の引き込み線などがあったところで、広い敷地が確保できた。

 

 


東海道諏訪驛の写真を見つけた!

2025年05月05日 | レモン色の町

昭和4年のことです。東海の飛将軍といわれた四日市の実業家 熊澤一衛氏は、三重軌道と四日市鉄道が並行して走っていた四日市~諏訪間を買収。伊勢電を桑名まで通すことで旧東海道沿いに諏訪駅つくり、三重軌道と四日市鉄道の始発駅としました。文化の諏訪駅にあった東海道沿いの写真です。諏訪駅はここに 昭和4年から昭和17年までありました。

昭和6年撮影の南駅 湯の山行のホームが覗く

諏訪駅の南駅

昭和5年撮影の北駅

北駅の写真は初めてみました。桑名行きの車両が到着したばかり(間違い!桑名からの下り列車)。四日市駅から来た下り(訂正:上り)の車両の人が諏訪神社方面に向かう。ホームの坂を下りて北駅舎を通って東海道を北へと進みます。志ぐれ蛤の看板が目につきます。町の中にあった四日市駅は手狭となり、昭和17年に西へ移築することとなりました。

追記:写真を見ると、上り下りの両車輛が停車しています。複線化されるのは昭和13年ですから、昭和5年当時はまだ単線のはずです。つまり諏訪駅でやり過ごしていたということでしょうか? それと、終点となっていた三重・四日市の両鉄道は、既に電化されていれば、転車台が必要なかったのではないでしょうか?たいじゅさん?

現在のサンシ前から諏訪驛ホームの西端を見る

幻の諏訪驛 - 花の四日市スワマエ商店街

諏訪駅の?何処だ!⑥ - 花の四日市スワマエ商店街

<付録> 大正10年 コッペル社製汽車が西日野を走ります。


諏訪駅構内へ消えるひとびと

2025年05月04日 | レモン色の町

諏訪駅へ入ると左側に、八王子・内部方面への始発ホームがあった。

文化の諏訪駅に掲示されていた昭和28年の写真。地方鉄道の雰囲気が良く出ている1枚。ホームには大勢の昇降客の姿が見える。工業高校だろうか?学生の姿が目に付く。

現在のあすなろう鉄道と同じで、到着の列車に並んで始発列車が出発を待つ。昭和25年撮影。

ここで再び気になるのは、この写真、子供たちを含む大勢の人々が八王子線ホームの南側の踏切を渡る写真である。スワ劇場の看板とホームの屋根から位置が推定できた。どうやらホームに列車の姿は見えない。よく見ると大人の方が多そうで、線路の向こうからは老婆もやってくる。一般の道路と変わりないようだ。諏訪駅構内乱入の様相である。

こどもの姿と人の多さから、スワ劇場の上映が終わった後かな?と思った。映画館を出た人々は、白揚書房前の狭い路地を通らずに、劇場北側の通りから八王子行ホームの南に出て諏訪駅へ入ろうとしている。この人々は、何処からきて何処へ向かうのか?

諏訪駅構内写真から、この人々がどういった道を辿るのか推定してみた。一つは、内部・八王子方面への列車に乗る。これは列車が到着もしていないのに、これだけの人々が行き交うのだろうか?もう一つは、諏訪駅構内を突き抜けてそれぞれ南口と北口の改札口へ出るというルートである。しかし、線路をまたぐ危険行為が、見逃されていたのか?みなさんは、どのように思われますか?諏訪駅の謎は深まります。


懐かしの諏訪駅構内全景

2025年05月03日 | レモン色の町

諏訪駅構内の全景写真が『文化の諏訪駅』に掲示してあった。今まで見たことがなかった北側、近鉄線下りホームが写っている。昭和25年撮影。発見でアリマス。

左改札を入ると左に八王子線(現:あすなろ鉄道)のホームがあり、湯の山線の線路をまたいで中央のホームに上がると左側に湯の山線、右側に名古屋行のホームになる。

もう一つ近鉄線の線路を渡ると、北側が大阪方面下り線になる。

これは昭和30年廃線直前の写真であるが、ちょうど中川行の急行が停まったところである。

諏訪駅の北側にも改札口があって、どぶ川が流れ付近には水谷食堂や本屋が並んでいたようだ。

北側改札口は、赤線地帯である港楽園に直結していた。女高生には駅北口から西へ行ってはならん!とのお達しがあったようだ。これは当時の航空写真でアリマス。


在りし日の善光寺カーブ

2025年04月30日 | レモン色の町

嘗て、文化の諏訪駅が1番街にあった。二階会議室へ上がる階段の壁面に昔日の写真が飾ってあった。ここにお借りすることができたので掲載する。

昭和30年、諏訪駅を出た近鉄特急が四日市駅に差し掛かる。善光寺カーブである。

水谷宜夫さんの写真

昭和27年、下り急行の車内窓から逆方向、四日市駅ホームに向かって撮られた写真。電車の音が聞こえてきそうだ。

ここの踏切は自転車のおばさんが待っていた踏切と一致する。

昭和31年9月、もう少し四日市駅へ進めた光景。西駅の改札口から通路を通り、ホームへ上がる坂が見える。人の気配が途絶えた感がある。諏訪駅へ伸びる線路は既に廃止されているのか?

昭和31年8月、廃止直前の四日市駅。上り急行 名古屋行からホームへ降りる人々。ホームには“ひかりや”さんの看板が挙がる。

<追記> 昨年の5月4日、ブログで月岡夢路さんの「白夜の妖女」を紹介させていただいた。その一部がユーチューブに掲載されていたのでご紹介する。

月丘夢路 『白夜の妖女』(1957):原作:泉鏡花『高野聖』ダイジェスト


夜の伽に娘を差し出す村

2025年04月29日 | レモン色の町

YouTubeの動画を三本ご紹介します。

その1.獅子文六原作の「てんやわんや」。山中の村に訪れた旅人の接待に、その家の娘を夜の伽に差し出すというお話。接待をする美しい娘に桂木洋子。黛敏郎の奥さんになる方だそうです。全体はユーモラスに描かれているが、とんでもないお話であります。戦後すぐの作品ですが、現在だったら上品なポルノ作品に仕上がりそう。やや不自然ですが、モノクロ作品を きれいなカラーに仕上げていただきました。

てんやわんや / Tenya wanya (1950) [カラー化 映画 フル / Colorized, Full Movie]

その2.森一生監督の「決闘鍵屋の辻」。荒木又右エ門のかたき討ちのお話ですが、脚本が若き日の黒澤明。こんな時代に、リアルな切り合い作品があったとは驚きです。

荒木又右衛門 (あらきまたえもん) 決闘鍵屋の辻   森一生監督     三船敏郎 片山明彦 小川虎之助 加東大介 高堂国典 志村喬 千秋実 浜田百合子 左卜全 1952年製作

その3.AI.で江戸の世界が動き出します。感動ものです!

【感動】150年前の日本が動き出す!AIで見る幕末・明治の風景

文字をクリックしていただきますようお願い申し上げます。


善光寺カーブと幻の合同駅

2025年04月28日 | レモン色の町

お話は明治38年の日露戦争時代に戻ります。勝利を収めた日本は、国内産業活性化の為に鉄道網の敷設が不可欠となり、明治43年に“軽便鉄道法(けいべんてつどうほう)”を布告します。この法により小さな車両を道路上(軌道)に走らせることが可能となりました。

大樹さんより 青の四日市鉄道と黄色の三重軌道は 現在の1番街付近に鉄道敷地の確保を進めてきました 明治40年頃

早速、名乗り上げたのが、四日市鉄道と三重軌道でした。四日市鉄道は湯の山温泉から四日市、三重軌道は室山や西日野方面から四日市への敷設を計画、申請しました。二つの鉄道にはそれぞれの思惑があり、浜田までは順調に敷設を進めてきましたが、そこから関西線四日市駅へのルートで問題が発生しました。両線路が交差するダイヤモンドクロッシングです。四日市鉄道は、湯の山、菰野、桜、小生(こも)を経てまっすぐに四日市駅西側に到達、三重軌道は、浜田から北へ東海道沿いを進み諏訪神社前で東に曲がり、諏訪新道を軌道として東進、関西線踏切の手前で南へ折れて四日市駅へ入るというものでした。これだと両鉄道の陸橋による交差状況が出来ます。これを避けるための検討が進められ、両社は四日市鉄道が申請した浜田から並列して四日市駅方向に伸ばす案に落ち着きます。(大樹さん ご指導ありがとうございました)

水谷宜夫さん提供 大正時代の両駅舎

申請時には、道路上も走らせる計画だった三重軌道は、四日市鉄道と並んで走ることとなったので、名称も三重鉄道と変更します。こうして、二つの鉄道がそれぞれ“すは”と“すはまへ”から大正5年四日市駅西側に出来た“合同駅”へと到達するに至りました。

両線路は並んで合同駅へ

〔第1話〕まぼろしの軽便ターミナル

一方、伊勢鉄道は、鉄道の空白地帯を埋めるべく大正13年には、高田本山の一身田から津、白子を経て四日市へと路線を伸ばしてきます(大正11年に伊勢鉄道乗り入れの四日市西駅が完成)。

右に善光寺を見て突き当りが合同駅 水谷宜夫さん提供

四日市市河原田地区に生まれた実業家 熊澤一衛氏は、大正14年伊勢電気鉄道社長に就任、全線電化を実現するとともに、四日市から名古屋への路線伸長を目論みます。

合同駅 この場所に善光寺カーブができる

四日市市内通過にあたり合同駅から諏訪駅間を買収、旧東海道沿いに諏訪駅を造って三重・四日市鉄道の始発とします。これにより合同駅は無くなり、四日市西駅の西側には、善光寺カーブが出現することになるのです。

昭和5年 合同駅舎は無くなり 西駅が建つ


善光寺カーブの誕生

2025年04月27日 | レモン色の町

明治40年頃のことである。日本全国の輸送網に鉄道が一躍脚光を集めた。当時三重県にあった鉄道は、関西鉄道(大阪 湊町〜亀山~津~名古屋)と参宮線(多気〜伊勢~鳥羽)のみであった(明治44年に両線とも 国有化されている)が、津~名古屋間の伊勢湾沿いは鉄道空白地帯だった。(参宮線はその名の通りお伊勢参りで収益が見込めたが、伊勢湾沿いを走らせても赤字に決まっとる!ということだったそうです)

現在の参宮線

そこで、明治43年公布の軽便鉄道法に申し出た伊勢新聞社長の松本恒之助は“伊勢鉄道”を立ち上げる(明治44年)。苦心の末、大正4年 一身田町〜白子、大正13年に 津〜四日市間を開設する。

熊澤一衛氏

大正14年 東海の飛将軍と呼ばれた熊澤一衛氏が伊勢鉄道社長に就任。全面電化を進めるとともに昭和5年には、桑名と伊勢神宮までの延長を遂げた。

近畿日本鉄道

この時、全線複線化による電化を目指していたが、買収難航が予想される諏訪駅を通る四日市市街地は、三重軌道と四日市鉄道が並行して走る旧路線を利用、この為 急カーブである善光寺カーブが生まれた。

昭和5年