花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

新 諏訪駅物語⑤戦後の諏訪駅

2020年08月31日 | レモン色の町

下の三つの図は それぞれ 大正6年・昭和6年・昭和35年の諏訪駅移動図である。三重鉄道が四日市鉄道を吸収して 三重交通が引き継いでいる。そして近畿日本鉄道は、昭和31年9月の短絡化で塩浜から現在の近鉄四日市駅へ斜め直線に通るようになった。新正町の1号線高架をまたぐと「そろそろ四日市だ」という思いになる。

真ん中の図、大正6年の「すわ」は 東海道沿いの駅である。戦後の諏訪駅はわずか10年ほどの命だった。この駅は昭和何年に出来たのだろうか?諏訪駅看板の庇の下に切符売り場があり、右へ 改札口を抜けて庇の下を通り(写真右へ)ホームへ出た。

戦後の諏訪駅 古い機材で建てたのか 新しさはなかった 

諏訪駅構内

写真右から(少し隠れているが)近鉄名古屋線の上りと下り・湯の山線・内部線・八王子線と並ぶ。

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新 諏訪駅物語④移動する諏訪駅

2020年08月30日 | レモン色の町

昭和5年の地図。諏訪驛は東海道沿いにある。

以前、諏訪驛の構内図を描いたことがあった。東海道を挟んで北驛と南驛があった。

戦前の諏訪駅の航空写真。昭和18年か19年に撮影されたと想像できるが、空襲以前にはすでに諏訪駅は北岡さん横に移動されていたようだ。諏訪公園南側には、駅のホームらしきものが出来ている。

空襲後、昭和21年か22年頃だろうか?すでに諏訪駅がある。キタオカさん南の諏訪駅は 空襲後に出来たのか?いつだろうか?

昭和31年頃。諏訪駅は廃止されて新しく短絡化でできた近鉄四日市駅が姿を現し始めた。国鉄四日市駅と諏訪駅を結ぶ線路はまだ敷かれたままだ。

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新 諏訪駅物語③戦前の諏訪駅

2020年08月26日 | レモン色の町

戦後の諏訪駅は1番街のキタオカとパチンコホームランの間にあったが、戦前は東海道沿いにあった。旧四日市を語るにこの記事が掲載されていたので紹介する。(手抜きにつき再掲載でございます)

新田町の南端の東海道筋に線路を挟んで昭和4年に建てられたと言われている南と北の駅があった。線路は東海道と直角に通り、両駅舎とも東海道筋の西側で人通りが多かったので如何にも遠慮して建っているように感じた。

南驛

現サンシ前から北東を望む ホームの西端が見える

駅の構内を汚れの少ない用水路が流れていた記憶がある。(用水路は、諏訪神社から東海道に沿って西側を流れ、あせち川へ合流していた)名古屋からの電車は西町驛(三滝川南堤で今の踏切の南にあった)から下り、両側が田圃の間をずっと南下し天理教の教会(場所は現在と変わっていない)のあたりから急カーブで東へ曲がって諏訪釋に入った。諏訪驛からは南側に田圃が見え線路脇には小川の流れている所を殆ど真直ぐに東へ、そして、善光寺の前を過ぎた所から直角にカーブをとって南に曲がり、四日市驛の電車のホームへ入った。四日市驛からは鉄道と並行して走り、阿瀬知川から分かれ鹿化川の手前で交差して、そのまま南下し、海山道驛へ向かって走っていた。

駅から北へ 東海道〜諏訪神社間の様子

 三重鉄道の八王子線は、旧式のボンネットバスのタイヤが鉄輪になっている車両で線路を走っていた。皆はこれをガソリンカーと呼んでいたが、本当の名前は軌道自動車であった。

 湯の山線の電車は車両幅が狭く、長さも短く、窓はガラス戸とよろい戸があってともに上下して開閉した。両線とも線路は狭軌で小型の車両だったので、軽便と言っていた。

 

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新 諏訪駅物語②合同駅

2020年08月25日 | レモン色の町

明治から大正にかけての 諏訪駅を中心とした路線図を描いてみました。

はじめは三重鉄道と四日市鉄道が並行して 関西鉄道の四日市驛へと延びていて 始発駅となっていました。写真は大正5年3月の合同駅の様子です。『北勢軽便王国物語』より

椙山先生が 駅の図面を描かれました。終点?始発?にターンテーブルがあって 車両はUターンしておりました。

こうして 蒸気汽車は回転してそれぞれ 湯の山へ 八王子へ 内部へとのびていました。

下を見ると 四日市鉄道も三重軌道の路線に入って 共同線となり 阿瀬知川駅に伸びていました。阿瀬知川には現在位でも材木店があります。ここから船積みがされていたのでしょう。

 

 

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商店街ドミノ情報②

2020年08月19日 | 四日市商店連合会です

日本テレビのTさんに お尋ねしました

ご返事は 23日(日)午前1時から3時までの間のどこかで 商店街ドミノを放送予定です

放映時間ですが 生放送なので 未定である ということ

個人の顔は消すように努力しますが 不行き届きの場合は申し訳ありません

ユーチューブにアップは禁止 DVDでお渡しすることもできないということでした

少しでも長い放送時間を期待して待つしかなさそうです

四日市31万人市民が「楽しみにしています!」とだけは伝えておきました

結果報告 冒頭の人間ドミノと 故 元 井上市長が出たシーンのみでした 失望感 超絶大!

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緊急連絡!商店街ドミノ

2020年08月18日 | 四日市商店連合会です

只今、四日市商店連合会の事務局から連絡が入りました。

日本テレビ放送の24時間テレビで、8月23日(日)の午前1時から3時までのどこかで20年前に行われた“四日市商店街ドミノ”が再放送されるようです。

こうご期待! 申し訳ありません コピーと貼り付けでお願いします

https://blog.goo.ne.jp/hotokeya/e/1fef889746da597d5b4e41a2ea282a17

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新 諏訪駅物語① 駅は動く!

2020年08月16日 | レモン色の町

おなじみの写真です。空襲後 急遽建てられた諏訪駅はいわゆるバラック建てでした。昭和21年頃から昭和31年9月までの10年間、諏訪駅は今の1番街の真ん中にありました。『諏訪、行こ!』。買い物に、遊びに、多くの人々がこの駅を利用しました。

明治44年の地図です。内部八王子線も湯の山線も、この頃はまだありませんでした。

大正11年の地図です。当時、三重軌道の諏訪駅と、四日市鉄道の諏訪駅は別々の場所でした。四日市駅を出発した各列車は、それとなく競い合うように諏訪駅へと入りました。市役所は高等女学校(現・中央小学校)の西にありましたが、昭和には、現在の場所に移されます。

昭和13年、諏訪駅は東海道沿いに建てられます。この時は、内部・八王子線と湯の山線の合同駅となりました。

人家のひしめく東海道沿いに、諏訪驛は線路を挟んで北驛と南驛がありました。

さて?昭和13年には、諏訪駅が、三重軌道と四日市鉄道の始発駅となっていたはず・・・。

 

 

 

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市井からの眺め109海軍道路⑪

2020年08月15日 | レモン色の町

鵜の森公園の一角に建てられた“四日市空襲殉難碑”。碑の裏面にはこう刻まれている。

「昭和16年12月8日に勃発した太平洋戦争は、ポツダム宣言受諾によって、昭和20年8月15日遂にわが国の敗戦に終わった。この間、アメリカ空軍爆撃機B29による日本本土への空襲は日増しに激化し、戦禍はとどまるところを知らなかった。海軍燃料廠をはじめ多くの工場群を擁した四日市市は、前後6回にわたる苛烈な爆撃により壊滅的被害を受けた。わけても、最初の爆撃を受けた6月18日の災禍は凄惨の一語に尽きる」

例年行われる6月18日の四日市空襲犠牲者慰霊献花式は、新型コロナ禍のため中止となっていました。

<四日市空襲について>市のサイトより

昭和20年6月18日、本市は大規模な空襲に見舞われました。太平洋戦争の長期化と深刻な戦況が続く中で、昭和19年にサイパン島やグアム島が陥落すると、米軍による日本本土への本格的な空襲が始まりました。最初は東京や大阪、名古屋などの主要都市が攻撃されました。

昭和20年6月、米軍の新作戦によって、空襲の攻撃目標が中小都市に拡大されました。18日未明、本市は、浜松市や大牟田市、鹿児島市とともに中小都市空襲の第1回目の攻撃目標とされ、運命の日を迎えました。グアム島の近くのテニアン島北飛行場を発進した攻撃機は、硫黄島の上空から伊良湖岬を経て、伊勢湾に到着。本市を攻撃した後、熊野灘に去っていきました。米軍の中小都市空襲『作戦任務報告書』によると、このときの攻撃機の総数は89機、18日の午前1時28分から3時5分までの間に、高度2,100メートルの上空から、6~100ポンドの焼夷弾を約3万個、合計567.3トンを投下。全市の35パーセントに当たる約3.18平方キロメートルの市街地が焼失しました。

当時の四日市警察署『沿革誌』によると、この空襲で罹災者47,153人、死者736人、行方不明者63人、負傷者1,500人。住家の全焼11,140戸、半焼250戸、非住家の全焼1,252戸、半焼165戸と、一夜にして市街地は焦土と化し、多くの市民の尊い生命と貴重な財産が奪われました。

 

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市井からの眺め108海軍道路⑩

2020年08月14日 | レモン色の町

以前“男の囲炉裏端の会”にて、北野 保氏から「四日市に原子爆弾が落とされていたかも?」というショッキングなお話を聞いた。「よっかいち歴史浪漫紀行」北野 保著 四日市商工会議所刊より

左 北野保氏(男の囲炉裏端の会にて)

『米軍資料 原爆投下報告書』東方出版によると、パンプキン爆弾と呼ばれた模擬原爆は、昭和20年7月20日・24日・26日・29日・8月8日、そして終戦前日の14日にかけて、北は福島市から南は長崎市までの18都道府県の29市町に、原爆投下部隊「509混成軍団」が特別作戦として合計49発を投下している。(ちなみに原子爆弾は、広島へ8月6日午前8時15分。長崎に8月9日午前11時2分に落とされた)

このうち四日市には、長崎原爆投下前日の8月8日に千歳町の千歳橋付近と塩浜町の第二海軍燃料廠付近に投下され、死者2人・重傷12人・軽傷44人・住宅140戸全半壊などの被害があったという。

アメリカ軍は、7月24日にも本市の港湾地帯を目標に模擬原爆を投下したともいわれているが、この時は目標が変更されたという説もあり、定かでない。

これは、模擬爆弾投下の実態を明らかにした「春日井の戦争を明らかにする会」によって突き止められた。

また、『亜細亜文化研究所研究年報 日本に投下された49個の模擬原爆』菊池良輝 著によると 計画では重要な工業地として、

7月24日 千歳町・第二海軍燃料廠住宅 1個

8月8日  千歳町:千歳橋付近 1個

8月8日  塩浜町:内部精油所 1個 となっていて実施には変更があったようだ。

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渡満の果てに

2020年08月13日 | レモン色の町

昨日(8月12日)の中日新聞掲載のあったロジドリ裏面に“渡満の果てに 三重の満蒙開拓団”の特集があった。昭和7年以降、三重県からも3千〜4千人の家族が満州へ渡り半数以上が帰国できなかったという。弾丸列車が華々しく走る陰で、悲惨な現実があったことを忘れてはならない。

川野さんは、コレラ、発疹チフス、はしかや肺炎が蔓延する中、空腹に耐えながら遺体の埋葬に携わった。そして40日後、ようやく綏化(すいか)から新京への列車に乗ることができる。

ところが途中厄介なことが相次いだ。「数日間の道中、列車はしばしば停止しました。無蓋車に便所はありませんから、泊まるたびにみんな降りて用を足すんです。夜になると『ギャーッ』という悲鳴が物陰の方からときどき聞こえてきました。それでも、助けに行くことはできません。真っ暗ですし、下手したらこっちが殺されます。

列車が止まったのにはわけがあります。というのも、ソ連兵が列車を停めて、私たち避難民にゆすりたかりをするわけです。『女をだせ』とか『時計出せ』、『銭出せ』とか。女を出さないでいると、車内は緊迫した異様な雰囲気になるんですよ。女たちがお互い不信のかたまりとなってしまうんです。それで、向こうが要求する人数を出すと、やっと鉄橋を通してくれました。列車が動くということは結局は誰かが犠牲になったということ。水商売業者とか淫売の前歴がある人とかが、身代わりになったんです。日本帝国裏面史“実験国家満州帝国のすべて”より

 

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