花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

ぶらり四日市 その四十二 三和商店街

2023年05月31日 | レモン色の町

戦後の昭和22年 西駅前にマーケットが出来ました 三和商店街です 昭和53年の住宅地図を見ますと バーや飲み屋さんが路地の両脇にずらっと並んでいます

昭和30年代の三和商店街

 昭和26年3月にマーケットで火災が起きたという記録があります この時 四日市では初めての災害救助法が発動されました 

三和商店街も老朽化が進み危険であるということで ようやくその三分の二程が取り壊されて駐車場になっています

十年ほど前に訪れた三和商店街

 しかし ノスタルジーを掻き立てるような 不思議な魅力の商店街でした

同じ位置から 現在です


中入道のリニューアル

2023年05月29日 | おいらの商店街

スワ栄とグリーンモール商店街の角に立つ“中入道”。まちづくり協議会が中心となって衣装のリニューアルが行われた。

中入道も きれいなべべになって うれしそう 

この“中入道”さん、約半世紀前に諏訪新道の“いちょうやさん”が造られたもの。その後、博物館の倉庫入りをしていたが、進君が商店街へ引っ張り出してきた。20年ほど前のことである。スワマエ商店街から1番街へ居場所を転々とした後、この場所に落ち着いた。すぐ前に店舗を構える貝増の服部氏のお世話のおかげである。

苦労して作っていただいたご美女の面々にまちづくり協議会から感謝状が ありがとうございました

 この中入道さん、当時は商店街でも厄介者扱いだった記憶がある。2007年8月のブログを繰ってみると、3年前にやってきたとある。やれ子供が怖がるの、やれ火をつけられるのと、いろいろあったらしい。当時、青森へ視察に出かけていて、加藤という方からこんな話を聞いている。

 何事もことを成すにあたっては、2・6・2の法則がある。2は賛成の人、6は無関心派、残りの2は反対する人だという。なるほど妙に納得できる。何か提案しても反応はない。むしろ反対の声が聞こえてくる。そんなものだと思って、賛成の人だけで前へ進むべきなのでしょう。あきらめてしまわずに!


ぶらり四日市 その四十一 本町を歩いた

2023年05月28日 | レモン色の町

本町を歩いてみました

昭和11年頃 旧四日市を語る会 制作をイラストレーターに起こしました

湊小路の入り口 みだやさん前から湊座の方に向かって・・・

 ① 戦後の区画整理で 道幅も広くなっています

② この場所に湊座があって その後四日市東宝劇場となりました 現在は歯医者さんの立派なビルが建つ

この写真を見て驚きました 東から差し込んだ光が 劇場の上から注がれているようです 一筋の光明が あたっています

③ 1本東の路地ですが 往年の雰囲気が残ります

④ 空き地が目立っています

⑤ 踏切方向に撮る

⑥ 本町プラザが見えますね 車の往来は多いです 小さいころ この踏切まで汽車を見に来ました 目の前を通過するSLはものすごい迫力でした

遠くに見える熊澤ビルは 現在と位置が変わっていないとすると 通り北側の並びがセットバックされて 両側に歩道が出来たようです ということは 湊小路は 今想像するよりずっと短かったようです

JR四日市駅東に 大学キャンパス設置事業が策定されています 数年後には 再びこの街に 若者たちの賑わいが出てくるでしょう 必ず!

 

 


ぶらり四日市 その三十九 湊小路③復刻

2023年05月27日 | レモン色の町

暇に任せていじくっておりましたら 三十九が消えてしまいました 復刻版です

本町の意水谷さんのカラー刷り絵葉書 ちょうど矢印あたりから西に見た写真でした すずらん灯が並び 湊小路入り口の喧騒が伝わってきます

赤丸のカフェブルドックさんの広告

勢州毎日新聞さんの広告です 不動産屋さんもしていたのでしょうか?

そして たいじゅさんのおばあさんがお住まいだった付近の地図 昭和43年の住宅地図です


ぶらり四日市 その四十 四日市西駅

2023年05月27日 | レモン色の町

あすなろう鉄道編が アップされました GGシニアさんでご覧ください

(129) 「日本で4路線しかないナローゲージ/あすなろう鉄道に乗ってみた」 - YouTube

昭和11年 本町の踏切から西方向に撮られました(四日市の100年より)

西駅前から北方向 左に物産館が建ちます

昭和11年 バスが停まっています 西駅舎入り口の右に売店 左に電話ボックスでしょうか?

広場一面に水が撒かれます 駅前はバスとタクシー乗り場になっていました 菰野自動車や三重自動車のボンネットバスが並びます 遠くに見えるのは善光寺山門?

向かいには四日市自動車があります 左の広告塔には 国産振興博覧会 の文字が 昭和11年 開催中です

 


ぶらり四日市その三十八 湊小路②

2023年05月24日 | レモン色の町

たいじゅ様からコメントをいただき 湊座東 線路を背に川村座があったことが 大正期の地図からわかります。湊座に比べて可愛らしい小屋だったようです。

本町の水谷宜夫様からお借りした地図でゴザイマス

たいじゅ様のコメントです

母方の祖母がまだ健在で働いていた頃、祖母の住まい(借家だったと思う)がまさにこの新町内にあり小さい頃よく遊びに訪れました。地図で言うと線路沿い「川村座」北の三叉路の北西側の一角(東側)だったと思います。記憶の中にわずかに残る程度ですが、旅籠?遊郭?を思わせる不思議な家屋の作りだったことを思い出します。湊座が空襲で焼失したならば至近だった祖母の住まいだった場所も焼失したでしょう(祖母は戦後移り住んでいる)。とすれば、子供心に古く感じたあの家ですらまだ新しい昭和20年後築ということか・・・

戦争直後の空撮 

赤丸のあたりだと思いますが すっかり焼けているようです

“旧四日市を語る”第17集で 岡野先生のグループが 昭和11年を中心に店舗の並びの街路図を書いてみえます。もう少し見やすく出来ないか?とイラストレータに落とし込んでみました。

鈴木旅館の右(東あたりに“中垣内?)のあたりでしょうか? 赤く書いた 左が湊座です 上を通っているのが浜往還になるんですねぇ 作りながら気付きました


ぶらり四日市 その三十七 湊小路

2023年05月21日 | レモン色の町

四日市駅(現在のJR四日市駅)の北西部にあたるところに、“新丁”がある。新丁は江戸期から続く古い町で、昭和37年の戦後復興土地区画事業時に“新町”と改名された。

大正期の四日市駅付近

新丁といえば、湊座を正面に見て南に延びる“湊小路”を忘れてはならないと、岡野繁松先生が“旧四日市を語る 第17集”で書いてみえる。現在の本町通商店街北側の“みだや金物店”を北へ入ると“セントラル歯科クリニック”が建つ。このあたりに“湊座”(大正3年4月落慶)があり、そこへ行くまでの短い距離が市内一番の繁華街、湊小路であった。

湊小路 昭和3年

本町から北へ入ると右にカフェがあり、ウェイトレスというか女給というか、妙齢の女子が割烹前掛けをして立っていた。隣は写真屋、遊技場(コリントゲーム)、向かい側には散髪屋、バー、そしてバーと続き、飲み屋、飲み屋と並んでところ狭しとひしめき合っていた。二階は通しで広い食堂があった。

日が暮れると、すずらん灯の淡い光と、飲み屋から漏れる裸電球が小路を照らしていて、狭いながらも歓楽街の雰囲気を醸し出していた。

昭和25年 東宝劇場

芝居小屋の“湊座”の前には、何々の丞とか何々の助等の招き看板がかかり幟が並んでいた。入口で木戸札を買い、高い台の受付で渡して中へ入る。受付の人は“イラッシャィ”と云って、“ガシャッ”と大きな音でその木戸札を揃えて、20枚ほどになると入口へ戻していた。中へ入ると下足番が履物と下足板を変えてくれる。下足板には“いの七番”とか書いてあった。段を上って客席に入る。そこまでには階段があって二階へも行けるようになっていた。客席は畳敷きの四角い桝席になっていて、分厚い板で仕切られており、人はその上を通行した。休憩時になると売り子が煎餅・落花生・キャラメル等を売りまわり、湊座本館の左に建つお茶屋から茶子がお茶や煙草盆を早足で運んでいた。拍子木の合図で芝居が始まった。

湊座は両側に花道を持つ本格的な芝居小屋だと聞いていた。回り舞台になっていて、上映中でも次の準備が、金槌の音をさせて舞台の後ろで続けられていた。大正3年4月9日落慶の折には、関西歌舞伎一座が記念上演し、5月には川上定奴一座が公演している。時代は移り映画の普及と共に昭和17年“四日市東宝劇場”と改名されるが昭和20年空襲で焼失する。

昭和37年 四日市東宝劇場

しかし、翌昭和21年3月に再開、焼け跡の町の真ん中で実演や東宝映画を上映して、娯楽の少ない戦後の町に寄与していた。昭和38年10月、映画の衰退と共に長い歴史に幕を閉じた。


市街地への大学誘致構想スタート

2023年05月20日 | おいらの商店街

JR駅前に?と噂になっておりました 大学誘致の件が ようやく策定事業に進みます。もともと四日市大学は 郊外にあり 今後の人口減少に伴って生徒数も減り 利便性の良い市街地への移転が話題になっておりましたが、これで 昭和31年以来地盤沈下が進んできた諏訪、本町・沖ノ島町に 一筋の光明が見えてまいりました。

昭和31年頃の航空写真 大学キャンパスは 赤丸のあたりか?

 

 


ぶらり四日市 その三十六 あすなろう鉄道④

2023年05月19日 | レモン色の町

「軽便鉄道そのものも、昭和40年代にはほとんど姿を消し、その役目をひっそりと終えた。そして平成の現在、リニアモーターカーが時速581キロメートルの世界記録を達成しても、軽便鉄道の残党はまだ生き残っていた。近鉄内部・八王子線、三岐鉄道北勢線である。」“ニッポン鉄道遺産を旅する”交通新聞社刊(平成17年11月発行)より

四日市市史 椙山満著より 下総人様からのご指摘 これぞ軌道自動車!

また、平成元年11月発行の 記念すべき“旧四日市を語る 第1号”に、岡野繁松先生が、三重鉄道について一言 書いてみえます。

「三重鐡道の八王子線は、旧式のバス(ボンネットが前に出ている)のタイヤが鉄道になっている車で線路の上を走っていた。皆はこれをガソリンカーと呼んでいたが、本当の名前は軌道自動車であった。湯の山線の電車は車両の幅が狭く、長さも短く、窓はガラス戸とよろい戸があって共に上下して開閉した。両線とも線路は狭軌で小型の車両だったので、軽便といっていた。八王子線は鵜の森前から川村鉄工所の間を通って、きっついカーブをえがいて駅に入った。この川村鉄工所跡がジャスコであるので、A館とB館の間を走っていたことになる。(平成元年当時)」

下総人様からのご指摘でアリマス これが第1号小型蒸気機関車

「軽便鉄道の開業から97年(平成23年現在)。“49災害”によって八王子~日野間は廃線となり、八王子から水沢までの延長計画は幻に終わり、小さな電車は西日野で折り返し運転されている。」北野 保著“よっかいち歴史浪漫紀行”より

大正期に四日市鉄道を走っていた蒸気機関車

八王子から水沢まで西へ伸ばそうという計画があったのでしょうか?わたしは、内部と八王子間を回遊するように繋げる計画があったと聞いたことがあります。内部の城館跡の北西は、すぐに笹川団地が迫っていて、その北側には日野・八王子を控えております。日永駅を分岐に八王子~内部間が回遊できるのも又、楽しい構想でゴザイマス。


ぶらり四日市 その三十五 あすなろう鉄道③

2023年05月16日 | レモン色の町

このあたり 田植えが済んでいます

ここは小古曽駅 住宅地の間に建つ 可愛らしいプラットホームです

内部の山中胃腸科病院がみえてきました もうすぐ終点です

内部駅構内へ

終点です 折り返し四日市行を待つ子供さん のどかな風景です

内部は 内部川が流れており 沿線地図を良く見ると 押し車に砂利を乗せて運ぶ人の姿が描かれています ここには現在でも砂利砕石場があります。また、大正当時は 環境が良かったのか 鮎が取れたり 蛍の名所でもありました 

内部川沿い北側に“後藤采女正城跡”とあります 織田信長の天下統一までは ここに“采女城館”がありました

采女城館跡

昭和18年 内部線は電化されるとともに 昭和23年には 八王子までの電化も進み、その間の昭和19年には三重交通に併合されます 昭和31年近畿日本鉄道の短絡工事で 近鉄駅構内のホームに同居の形となった三重交通 湯の山、内部八王子線は昭和39年になると三重交通から独立して“三重電気鉄道”となり 湯の山線(旧四日市鉄道)は広軌となります

中央に内部川が流れる

時代は移ります 昭和40年 湯の山線は近畿日本鉄道に合併されることになり 平成24年3月27日 三重電気鉄道の内部八王子線は“四日市あすなろう鉄道株式会社”として出発しました。