花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

謎の嶋口屋世古道 完結編

2024年07月28日 | レモン色の町

たいじゅさんから 締めくくりにふさわしいコメントを頂戴いたしました

明治43年10月に三重軌道が軌道敷設特許を得た際の初期計画書(命令書、つまり鉄道院の指示による工事方法書)では、「単線軌道の場合に於ては両側人家連担(道路の両側に人家が立ち並んでいる)の場所又は連担すべき場所は国道にでは七間(約12.7m)以上里道では四間(約7.2m)以上」と規定しています。当然、最終的には四日市鉄道との「複線軌道」形状になるので、これはあくまで「初期」の段階の話ですつまり「嶋口屋の世古道」も巻き込む「専用線路」を構築しようとする際には最低で4間以上の軌道用地(幅)が必要だったことが分かります。当時「嶋口屋の世古道」がどの程度の幅だったか不明ですが、現在も残る世古道の幅員であったと考えるのが自然でしょう。であれば、当時の地図情報に書かれた世古道の道幅1670番―2を確保しようと画策した三重軌道側の思惑は十分考えられます。勿論、当時の地権者が三重軌道の一方的な要求に応じられる理由も見当たらず、三重軌道側の世古道を含めた「専用線路」及び諏訪新道への軌道敷設計画が遅かれ早かれ頓挫することは目に見えていた事でもあったでしょう。

青線で引かれた箇所 敷設する場合 里道では四間以上が必要と記されています

そして、あまり話題にも問題にもなっていませんが、三重軌道は用地買収のメドも立っていないのに、この後も諏訪新道への軌道敷設にこだわり続けた(※或いはその変更申請を提出し忘れた)がために、四日市鉄道との「軌道交叉」問題(ダイヤモンドクロッシング)が大正4年後半まで解消しないまま残ってしまい諏訪駅から院線四日市駅までの開通及「四日市合同駅」開業までわずか1キロメートル未満の区間開業に2年以上の期間を要する結果となってしまいます。

大正期の地図では1670番ー2は、今尾商店と鵜野木工所です

この際、三重軌道側の工事遅延を無視して四日市鉄道が専用線路を別途で敷くような計画になっていれば、また違った四日市の未来が出来ていたかもしれません(…勿論、そんな事出来なかったのですが)が、全ては歴史の結果です。

昭和5年では黒喜商店となっています 上部の地図と共に 広告の要素が強い地図です(当店はお金を出さなかったか 弱小商店だったために無視されております ヒガミ)

やっぱり狭い!

この先の世古道の幅は、1600〜2000ミリメートルでございました。熱い真夏のミステリー!

塀の向こうから靴音が聞こえてきます 手前は桑名屋のしろちゃん

わたくしが 幼少の頃から ここ嶋口屋の世古は 多くの人に利用されていました 大正期の頃から 高等女学校や市役所へ通う人々が通ったのです 夕刻 貸本屋で借りてきたマンガを寝転んでみていると 帰路を急ぐ足音と共に北勢堂から音楽が聞こえてきました

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謎の嶋口屋世古道 ②

2024年07月26日 | レモン色の町

嶋口屋角の世古道を 沖の島へ というより諏訪新道へ向かって歩いてみた

現在は、旧東海道を縫うような形で直線に国道1号線が走っている。昭和初期 旧道沿いに諏訪北と南驛があって 嶋口屋世古道は 高等女学校へ通う近道だった。

①当店から嶋口屋世古を東へ 狭い!

②すぐ1号線に出る 狭い!1号線を無視して東へ

③1号線を渡って呉服町へ入る 戦後 諏訪新道と並んで賑わった 現在は道幅が拡幅されているが 大正期は狭かったはずである

④呉服町の突き当り 直角に曲がったところがここ1650番になるのではないか?

⑤左に曲がると諏訪新道へ出る その先 三滝通りを超えて沖の島へ この広い四間道路は明治末期の四大事業で完成した 旧四日市港と諏訪神社を直線で結ぶ道となった

問題の1670番―2は三滝通りあたりか?左下が三重機械の土地 嶋口屋の世古を直線に敷いたその先に1670番―2があった 三重軌道は直線を引いたその先を手に入れたかったのか まるで線路を敷くように

???狭い世古道は 列車の専用道路としか考えられない???そりゃ無理でしょう

 

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謎の嶋口屋世古道

2024年07月24日 | レモン色の町

当店から沖ノ島へ抜ける 通称 嶋口屋世古道。明治44年の地図には

三重軌道予定線から諏訪新道へ伸びるような世古道

赤丸の地点(諏訪新道の何処か?)へ出る。

昭和2年の福田武夫氏の東海道往還にも 沖の島道 として描かれている

たいじゅさん提供

幻となったが 明治42年 三重軌道初期の敷設計画では、四日市鉄道とクロスして諏訪新道から四日市驛へ通す計画があった。(たいじゅさんご指摘)

その申請書には ①阿瀬知川北岸から諏訪新道までを専用線路 ②諏訪新道上を1670-2番まで里道を使用 ③1670-2番から東海道までを線路敷設 となっていて 三重軌道さんは諏訪新道上の1670-2番地にこだわっている。

②の里道使用によると いまだ人家がまばらな四間幅の道路は、電柱を道路外へ立てれば、敷設も可能であるとおっしゃってみえます。但し、世古道は四間もなかったと思われます。そこでたいじゅさんの目を気にしつつ 再び法務局へ出かけた。連日訪れる変な爺さんに、法務局の女性は、複数で対応していただいた。そして1670-2番が何処か分かった!

1670-2番 三重軌道が取得を断念した地点 これによりダイヤモンドクロスは回避され 二社の列車は並行して走ることになった が、なぜこの地点が選ばれたのか?あまりにも世古道を意識していないか?

この地点は何処になるのか?空襲後の世古道をたどってみると

いちょうやさん跡あたりになるのではないかと思われる。

 

 

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軌道用地と鉄道用地 ③

2024年07月22日 | レモン色の町

早速、法務局へ出かけた。たいじゅさんと中村さんに背中を押されて・・・。法務局は民間に委託され以来、対応が良くなった。三重軌道が明治末期に敷設申請をしたとき、室山・八王子から諏訪に至り、そこから神社前を通過して東へ右折、諏訪新道を軌道として国鉄四日市駅まで伸ばす計画があった、と、たいじゅさんに教えてもらった。神社前を伸ばす計画があったか否か?そのあたりを調べるのが今回の資料だった。

左の東海道に橋が架かるカ所が、昭和初期に諏訪駅ができるところ。当店は新田町1489番地だから諏訪神社の敷地内であった。鳥居前から諏訪新道が伸びているのは今も変わらない。白の横線が後に出来る国道1号線である。

一番気になっていたのが、三重軌道が東へ軌道を敷く計画だったルートが、当店から嶋口屋の瀬古を通って沖の島へ抜ける斜めの道かな?と三人(たいじゅさん・中村さん・わたくし)が思ったが、この古地図により、瀬古への三重軌道さんの介入はなかったという結果になった。

補記 :三重軌道さんが、敷設する土地を買いあさっていた明治44年。上記の地図です。よく見ると、既に嶋口屋さんの路地は存在しておりました。解決!

軌道であるから道路の上に線路を敷くことになる。東海道をコッペル社製の機関車が、煙を出して走る風景を、是が非でも見たかったなぁ。

諏訪神社 鳥居南の川のクランクが、宮司さんが描かれた戦前の境内図と一致したので、掲載させていただいた。

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軌道用地と鉄道用地 ②

2024年07月21日 | レモン色の町

いよいよ佳境に入りました 辻さんの写真と巡る昭和30年代の諏訪のまち 第8回は、僕らのテリトリー諏訪神社から諏訪新道へとご案内します。

「写真で見る昔の諏訪神社から諏訪新道/四日市を掘り起こし/第8回」 (youtube.com)

さて、静岡から熊澤一衛氏の偉業を頼りにおみえになった中村様。ここで、四日市鉄道と三重軌道のダイヤモンドクロッシングが見えてまいりました。たいじゅさんの出番でゴザイマス。

上が南になります

左東海道で黄色が三重軌道用地 青が四日市鉄道用地です 中村さんが注目したのは 二社が接する地点 ここで鉄道交差が発生したとおっしゃってみえます たいじゅさん発見のダイヤモンドクロッシングです

「だから何なの?」と云われる方がみえると思われますが、ここが二社にとりましては重要地点となり 後年 始発となる諏訪駅が出来て 四日市の中心市街地が形成される原点となりました。

2023年6月20日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2023年6月23日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2023年6月24日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

暑い季節の 熱いお話でゴザイマス

追記:大正11年8月 二社はそれぞれの諏訪駅を持っていたころの地図です

川筋の青い線が描かれています 微妙です

お話は尽きません この後 昭和初期になって熊澤一衛氏が 諏訪〜四日市間の路線を買い取り 旧東海道沿いに 伊勢線の通過駅となる諏訪駅ができます これにより二社の始発駅は 諏訪駅からとなりました

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軌道用地と鉄道用地

2024年07月19日 | レモン色の町

静岡からわざわざお越しいただいた Nさん 古い図面をお持ちだった

一体全体 どこか分からないし 時代が分からない

番地(1480番地)を読むと 我が家(1489番地)から近いし 当店より南の地域のようだ しかも 近い! ということは 真ん中の広い通りは旧東海道である 小さな橋は阿瀬知川(下)へと繋がっている 何処の橋か? もう1枚のこれより西側(左)の地図を見せていただいた

発見!此処には 鉄道用地 と 軌道用地 と記入した土地が広がる・・・

黄色=三重軌道・青=四日市鉄道

四日市鉄道と三重軌道が 線路を敷くために 土地を確保していく過程がみえてくる

福田武夫氏の東海道往還より 江田(えんだ)

初めの地図の橋にあたる部分は 昭和16年まで東海道沿いにあった諏訪驛の下を横断する川である

明治44年の地図

この小さな川は 神社の鳥居下を通り 東海道沿いの民家の裏を流れ 東海道を横断して 阿瀬知川に合流していた 我が家の店舗と住居の間には川の跡が残っていた 三重軌道が線路の敷設当時 諏訪新道を通る計画があった(たいじゅさん提供)が 三重軌道用地が神社前まで伸びているか?知りたいところでございます 次週にでも 法務局へ出向いてみようかと思っている 

静岡のNさんは 東海の飛将軍と言われた熊澤一衛氏が 静岡でも活躍されているとのこと それがきっかけで四日市までお越しいただいた ということでした。まさしく熊澤氏が結んだご縁でゴザイマス

Nさんありがとうございました。

 

 

 

 

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セピア色の写真

2024年07月17日 | レモン色の町

先日、前田氏に当家の秘蔵?の写真を見ていただいた。兄が獅子舞の口取りをしていた時の1枚で、獅子頭を真ん中に、三男だった兄は中央左に立っている(参考まで:私は四男)。時は昭和25年頃の四日市祭りの日か。新田町 獅子舞の記念写真である。町内の懐かしい顔に交じって私の親父や次男の顔が見える。右端で扇子を上げているのはささや玩具のおじいさん。扇子は黒に日の丸が新田町のこだわりだった。神社前の新田町は、大山山車を持っていて“おひざ元”という誇りがあった。太鼓が乗るリヤカーの車軸は木製で珍しい。

この写真、いったいどこで撮られたのか?前田先生にご指摘をいただくまで気付かなかったが、神社入り口と思い込んでいたが、石段に並ぶところから拝殿前ということだ。成程、正面に本殿がみえる。宮司に聞くとこの本殿、今のより小さいとのこと、昭和20年の空襲で焼失、諏訪へ御神体を受けに行っているから、どこかの社を買い受けて祀られたものだろう。

それにしてもこの仮拝殿、数年の寿命だったと想像する。

自転車にのってー高田渡 (youtube.com)

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東海道五十三次より興津 結末編

2024年07月14日 | ひろ助が巡る花の東海道

NHK出版「東海道五十三次」より(図書館の本です)※ よくよく見ると こりゃ凄い!四日市 三重川のひろ助が表紙右上に登場いたしております すごいわぃ

満五郎の指導は、褒めることで強さを導き出すことだったが、その結果、西ノ湖(にしのうみ)は、相撲の力はついたがうぬぼれの心も付いてしまった。

事件は、その夜の由井宿で起きた。旅籠の二階で食事をしていたその隣の大部屋では、十人近い客が酒を飲んでいた。「相撲取りってえのは、食いたいだけ食ってりゃぁ商売になるんだから、気楽なものよ」と笑い声が聞こえてくる。その声は大きくなり、悪態はエスカレートしていった。

満五郎は、眼に見えていら立つ西ノ海を押さえていたが、ついに抑えきれず膳をひっくり返すと立ち上がって襖を勢いよく飛び込んでいった。大声でわめきながら次々と客を投げ飛ばす。部屋の中は天地がひっくり返ったような状態になった。

「こりゃ派手にやったなぁ」取り調べに来た役人は尋ねた。「おぬしがやったのか?」大男が静かに答える。「はい、私がやりました、膳所藩(ぜぜはん)お抱え力士、光電満五郎でございます」

「で、そちらの男は」「あれは、同じく膳所藩の西ノ海にござりまする。賢い男で、私の乱交を止めてくれました」西ノ海は部屋の隅でそれを黙って聞いていた。「関取の喧嘩は御法度、藩へ報告するが、関取の地位はないものと思え」ひと通りの見分のあと、役人は帰り際こうささやいた。「本当に、これでよいのか」「はい、これで異存はございませぬ」満五郎の脳裏には過去の相撲人生が走馬灯のように駆け巡った。

見分が済んだ翌々日の朝は、吸い込まれそうな青い空が広がっていた。無口な西ノ海に満五郎は付いて進む。やがて興津川が見えてきた。川越しの準備をしていると、目を真っ赤にはらした西ノ海が籠から降りてきてこういった「満五郎殿、京までの道のり、どうか駕籠に乗っていただきたい。これからも土俵に上がることができるのは、満五郎殿のおかげ、恩人を差し置いては、男の名分が立ちませぬ」しばらく興津川を眺めていた満五郎はかみしめるように「かたじけない」と笑顔を向けた。

さして深くもない興津川。しかし光電は初めて四枚肩の籠に乗って川を渡った。

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未来社会は始まっている

2024年07月13日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

友人が携帯を亡くした。どうやら掏(す)られたらしい。

あわてた。家族総出で、えらいことになった。即、携帯の会社に連絡を取り、止めてもらった。

どうやら四日市外にありそうとの返事。返っては来なかったが、一段落して新しい携帯を買い求めた。

「今までのデータはどうなったの?」と聞くと、「大丈夫です、従来通り入れておきました」ということで、不自由なくスムーズに使用できた。

ここで年寄りは疑問に思わなくてはならない。それでは、少し前からやかましく言われてきた『個人情報』とやらは、どうなってるのか?人に聞くと、クラウドとかが雲の上にあって、溜まった個人のデータは雲の上に保存されているということだ。

今や管理社会の真っただ中、くれぐれも悪事を携帯で連絡し合わないように。悪事をたくらむときは、お互いの目をしっかり合わせて、実行してもいいかどうかを確認し合うことでアリマス。

雲の上の神様は、すべてをお見通しなのです。きっと・・・

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広重の東海道五十三次より 興津

2024年07月10日 | ひろ助が巡る花の東海道

我々老人は、みな歌川広重と云わずに安藤広重と申します。な~んでか?

二玄社刊 謎解き浮世絵叢書 東海道五十三次より興津(静岡県静岡市清水区)

由井宿を発って興津宿に入る手前には、興津川が流れています。冬は橋渡しですが通常は徒行(かち)渡しでした。

広重の興津

京都へ巡業に向かう二人の力士が興津川を渡る。膳所藩(ぜぜはん)お抱えの力士、関脇の西ノ湖(にしのうみ)は、四枚肩の籠に乗っており。そのあとに前頭七枚目の光電満五郎(こうでんみつごろう)が荷を負った馬で着く。前方に見える初夏の富士山は、頂にわずかに雪を残し雄大な景観を見せていたが、満五郎の心には届いていなかった。

「この先の故郷である近江場所で、はたして勝ち越すことができるだろうか。」30を超えた満五郎は、馬の背に揺られながら大きなため息をついた。7年遅れて関取りになった西ノ海は、満五郎の指導もよかったのか、とんとん拍子で関脇になっている。

西「このように美しい富士の山が見えるとは、なんとまあ縁起の良いこと。近江でも勝負はもらったも同然よなぁ。のう満五郎」

「まったくでございます」

西「これ、人足衆、もっと富士の山が見えるように、向きを変えんか。気がきかんのう」

満五郎は、もう一つ大きなため息をついた。「西ノ湖には、節度というものを教えておかねばならなかった」幼少のとき両親を亡くした西ノ湖を引き取って育て上げたのは満五郎だった。 そしてこの先、東海道は十七番目の興津宿で、節度をわきまえない西ノ湖は大事件を起こすことになるのです。  つづく

NHK出版 「東海道五十三次」描かれた人々の声を聴く より

アンダーポイントの本美 大さんが描いていただいた「神奈川」が、どうも気に入らないということで、大きく訂正をしていただきました。

修正前

修正後

修正前よりも、宿と海が前面に出ました。宿の裏からは海の景観が望める座敷がありますが、まだまだお客はゼロ!宿のばあさんは客引きに必死です。そこへ たまたま通りかかったひろ助はおばあさんに引っ張られます。「まんだ 泊まるのは 早すぎるってぇ」おばあさんは力づくです。「そういわずに とまってけろ。若けえ子も おるでよ」

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