たいじゅさんから 締めくくりにふさわしいコメントを頂戴いたしました
明治43年10月に三重軌道が軌道敷設特許を得た際の初期計画書(命令書、つまり鉄道院の指示による工事方法書)では、「単線軌道の場合に於ては両側人家連担(道路の両側に人家が立ち並んでいる)の場所又は連担すべき場所は国道にでは七間(約12.7m)以上里道では四間(約7.2m)以上」と規定しています。当然、最終的には四日市鉄道との「複線軌道」形状になるので、これはあくまで「初期」の段階の話ですつまり「嶋口屋の世古道」も巻き込む「専用線路」を構築しようとする際には最低で4間以上の軌道用地(幅)が必要だったことが分かります。当時「嶋口屋の世古道」がどの程度の幅だったか不明ですが、現在も残る世古道の幅員であったと考えるのが自然でしょう。であれば、当時の地図情報に書かれた世古道の道幅1670番―2を確保しようと画策した三重軌道側の思惑は十分考えられます。勿論、当時の地権者が三重軌道の一方的な要求に応じられる理由も見当たらず、三重軌道側の世古道を含めた「専用線路」及び諏訪新道への軌道敷設計画が遅かれ早かれ頓挫することは目に見えていた事でもあったでしょう。
青線で引かれた箇所 敷設する場合 里道では四間以上が必要と記されています
そして、あまり話題にも問題にもなっていませんが、三重軌道は用地買収のメドも立っていないのに、この後も諏訪新道への軌道敷設にこだわり続けた(※或いはその変更申請を提出し忘れた)がために、四日市鉄道との「軌道交叉」問題(ダイヤモンドクロッシング)が大正4年後半まで解消しないまま残ってしまい諏訪駅から院線四日市駅までの開通及「四日市合同駅」開業までわずか1キロメートル未満の区間開業に2年以上の期間を要する結果となってしまいます。
大正期の地図では1670番ー2は、今尾商店と鵜野木工所です
この際、三重軌道側の工事遅延を無視して四日市鉄道が専用線路を別途で敷くような計画になっていれば、また違った四日市の未来が出来ていたかもしれません(…勿論、そんな事出来なかったのですが)が、全ては歴史の結果です。
昭和5年では黒喜商店となっています 上部の地図と共に 広告の要素が強い地図です(当店はお金を出さなかったか 弱小商店だったために無視されております ヒガミ)
やっぱり狭い!
この先の世古道の幅は、1600〜2000ミリメートルでございました。熱い真夏のミステリー!
塀の向こうから靴音が聞こえてきます 手前は桑名屋のしろちゃん
わたくしが 幼少の頃から ここ嶋口屋の世古は 多くの人に利用されていました 大正期の頃から 高等女学校や市役所へ通う人々が通ったのです 夕刻 貸本屋で借りてきたマンガを寝転んでみていると 帰路を急ぐ足音と共に北勢堂から音楽が聞こえてきました