花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昭和の消えた仕事図鑑 ①

2022年02月28日 | レモン色の町

図書館で借りた本より

昭和の仕事は、マニュアルにとらわれた無機質な人と人との関係ではなく、仕事を通してぬくもりや感情を交換する関係をベースに成り立っていた。それは仕事にかかわる人もお客も孤独ではなかったことを意味する。今より不便で、効率は悪かったが、そこには人がいた。人を介して仕事が成立していた。だから人を大事にした。人を大事にする精神は、同じようにモノも大事にした。昭和を生きた人達はおしなべて「勿体ない」という言葉を使った。品物を大事に使い、故障すれば修理して使い、簡単に新しいものと替えることをしなった。そこに昭和を支える精神があったといえるだろう。 原書房刊“昭和の消えた仕事図鑑”澤宮 優=文 イラスト=平野恵理子より

氷売り・・・リヤカーで暑さを避けるため、麻布のようなものをかけて配達され、荒い目ののこぎりで、シャッ シャッと気持ちよく氷を切っていた。冷蔵庫の上の段に氷を入れ、下に冷やすものを入れた。冷蔵庫に頭を突っ込んで、カンナのような丸い容器で氷をかく。麦茶に砂糖を溶かしたものをかけて食べた。

イラスト:平野理恵子さん

富山の薬売り・・・家庭用常備薬の入った箱を各家庭に置いていき、定期的に訪問して支払いと補充を行った。商品は、半魂胆、実母散、救命丸、解熱丸、熊肝円(ゆうたんえん)等。紙風船や巻き鳥(吹き戻し)の玩具を貰えるのが楽しみだった。今でも健在。

イラスト:平野理恵子さん

ロバのパン・・・ロバや馬に荷車を引かせて、パンを売りに来た。テーマ曲は今でも思い出す。買い求めたことはないが、米粉で作ったパンのようだった。その後、ロバのぐわいが悪くなったのか、自転車で引いていた。

イラスト:平野理恵子さん

鍛冶屋・・・親戚の家の前に鍛冶屋があって、いつまでも飽きずに眺めていた。ふいごで空気を送り、真っ赤になった鉄を、火花を散らしてたたいていた。農機具の修理だったようだ。

文選工・・・印刷屋さんでは、インクだらけの手で、棚から鉛の活字を拾っていた。自慢げにカチャカチャっと箱に並べて、大きな輪転機にかける。今では見られなくなった。

イラスト:平野理恵子さん

ポン菓子屋・・・今でもイベント時にみられる。圧力釜に米を入れて熱し、バルブをハンマーでたたいて一気に減圧させると、爆発音とともにふっくらしたコメが噴き出す。1斗缶に水あめを入れてかき混ぜると出来上がり。出来たてが菓子屋で売っているのよりおいしかった。お米を持っていくと分けてもらえた。パッカンとよんだ。

後半につづく

<付録>風に吹かれて♪  

風に吹かれて/ 歌詞 - YouTube

<もひとつ 付録> アリスの“遠く出来て気を聞きながら”  機関車の走る画像がクリアで素晴らしいです。

遠くで汽笛を聞きながら アリス - YouTube

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堀木町を歩く

2022年02月27日 | レモン色の町

先日のお休みに、運動を兼ねて堀木町を歩いた。

西町の地蔵さんがスタート。

① 西へ進むと上り坂になっていて、右の橋が明治橋。金津さんがリヤカーに乗せられ渡った橋。真っ直ぐ西町駅のあったガードをくぐると堀木町方面へ行く。

②ガードの手前から左へ折れると、中部中学校正門前のガードにあたる。当時はもっとお粗末だった。電車が通るとき“肝試し”と称してガード下に立つことが流行ったが、飛沫(?)がかかるので ヤメタ。電車に設備がなくて垂れ流しだったのか?

③ 昭和30年代に近代的鉄筋コンクリート3階建て(水洗トイレ付)の校舎が建ったが、今は新・新校舎なっている。当時、水洗トイレは珍しく、よく詰まるので、余計なものは流さないようにと先生は口を酸っぱくして言っていた。ナニヲナガスネン?と、分からなかった。

④ 西町からまっすぐ西へ進むと堀木町。右に中部電力の塔が立つ。このあたりに伊藤醤油があった。正面に堤防にのぼる坂道があって、そこが決壊カ所になる・・・と思う。

⑤ 中部電力の屋上には、巨大中継アンテナがそびえ立っている。根本はどんな大きなボルトで止めてあるのだろうか?堀木町、 当時は田圃の中の集落だったが、その形跡はない。同級生のM君の農家はもう1本西側だった。

⑥ 堤防に上がって西を見る。当時決壊した場所がこの辺りになる。

⑦ 堤防から降りて東方向を寫す。ようやく車だけが通れる坂だ。車が来ないか?恐る恐る撮った。

⑧ 堤防から降りる坂は西側にもある。此処も、やっと車が通れるほどである。2階建てのこじんまりしたマンション(アパート?)が目立つ。

<付録>反戦の願いを込めて

Joan Baez - Where Have All The Flowers Gone - YouTube

 

 

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堀木町で三滝川決壊

2022年02月26日 | レモン色の町

昭和13年8月1日の午後から2日午前にかけて、集中豪雨が四日市を襲った。三滝・海蔵両河川は氾濫し、2日午前9時半頃、ついに堀木町北方の三滝川堤防約100メートルが決壊した。

決壊現場

水勢は決壊口を広げ、奔流は鵜の森公園一帯に押し寄せ、新田、江田、諏訪、北浜田、沖ノ島、新町、南納屋へと浸水区域は拡大し、市中心部は大半が浸水、市街地は水の中に孤立した。市民は2階や屋根裏へ避難し、市の救助班による炊き出しなどで、堤防が復旧するまでの数日間を過ごした。

昭和53年の地図をベースにしました三滝川と海蔵川を繋ぐ堀は、その後、対策用に造られました。

四日市警察署管内被害調査(3日午前9時現在)によると、死者2人、行方不明者2人、負傷者20人、流失家屋7戸、倒壊家屋4戸、床上浸水家屋2539戸、床下浸水1803戸、決壊カ所72カ所など戦前では最大規模のものであった。“目で見る郷土史 四日市のあゆみ”より

伊藤醤油

当時、江田町にお住まいだった原さんは“旧四日市を語る”に、三滝川決壊の様子を書いてみえます。

和13年8月2日、前日から降り続いた激しい雨は濁流となって勢いを増し、遂にこの日三滝川の堤防は堀木で決壊した。午前11時頃、濁流は堤防に近い伊藤製油部の工場を直撃し、大小さまざまな樽は押し流され、我が家にも次々と流れ着いた。そのいくつかは塀にぶつかり、表の木戸を倒し、玄関に通じる飛び石を経て、塀と家のわずか2メートル足らずの空き地に流れ込んだ。翌日、母は家の周りに浮かぶ樽を集め、引き取りに来るのを待っていた

電柱に伊藤醤油のヤマコの広告が見える

この日、決壊の危険があるというので、姉は女学校から早く帰宅した。それを聞いて母は、すぐに姉と二人で家財道具を2階へ運びあげる作業にかかった。やがて土間に水が入ってきた。水は刻々と高さを増し、床下から床上へと生き物のように這い上がってきた。それは無気味なものであった。畳をあげた床板が浮かびだし、時に足を踏み外しながらも、少しでも高いところに上げるのに懸命であった。夕方、兄はたらいに乗せられて帰宅、父は夜遅くなって船で帰り、塀を足場に二階の窓から入った。暗い2階の部屋で道具に囲まれて一息入れたのは何時頃だったのか記憶に定かではない。ただ、かき餅を焼いて食べたのが印象に残っている。水はすぐにひかなかった。母と姉の泥水との戦いは、この日から長く続くことになった。

翌、昭和14年には“ノモンハン事件”が起きており、昭和16年には太平洋戦争へ突入していきます。大きな災害は、公にすることがはばかられるような、そんな時代でした。

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水野さんの堀木町 ②

2022年02月23日 | レモン色の町

堀木町のM君は同級生だった。中部中学校から西方向、田圃の向こうに集落が見えて、M君の家はその中にあった。秋の日の午後、学校が終わって遊びに出かけると家族総出で稲の脱穀をしていた。父親は亡くなっており、二人の兄さんとの作業だった。急ぐ秋の日に、藁くずが光りながら舞っていた。M君も若い頃に亡くなっていて、同窓会には一度も姿をみせなかった。

昭和13年8月

堀木町の水野さんも、“旧四日市を語る会 第二集”に農業風景のことを書かれている。

農家は二毛作で、春になると菜の花が赤堀方面まで一面に咲き乱れ、黄色の絨毯が敷き詰められた。その中を歩くと、衣服が花粉で黄色く色づく程だった。唱歌“おぼろ月夜”が思い出される。

朧月夜(日本の童謡) - YouTube

夏になると、菜種は収穫され、夕方、種殻を燃やす煙が煙幕を張ったように広がった。やがて田の畔を蛍が飛び交うようになると、蛍狩りが行われる。

螢(♬ホタルの宿は川端柳~) byひまわり🌻歌詞付き|唱歌|HOTARU|Firefly - YouTube

こうして、田植えの季節を迎える。その準備として、用水路の土砂さらえが全員で行われ、正午の法螺貝を合図に一斉に田植えが始められた。菅笠や編み笠にたすき姿の早乙女や農業関係者総出で、ひと株ひと株手で植えられたものである。田植えが終わった水田からは蛙の合唱が聞こえ、のどかな田園風景が戻っていた。

参考画像です

稲が実り始める頃になると、イナゴが踏むほど居たものであるが、戦後は農薬の使用で見られなくなった。秋になり黄金色に稲が実ると一株ごとに鎌で刈り取り、束にして足踏み式脱穀機でモミにした。脱穀機の横で手伝う子供の姿がよく見かけられたものである。モミは庭先に広げられたむしろに天日乾燥されて、藁の俵に詰められた。刈り入れ後の田には“スズミ”と呼ばれる藁束が山の形に積み上げられていて、冬の藁作業用に準備されていた。冬の間、この“スズミ”に野ネズミが住み着き、捕まえたネズミを駐在所へ売りに行ったものである。(大正5年のペスト騒動以来、ネズミの買い取り制度は残されていたのか?)

冬の間に菜種の苗が植えられ、春には青菜が顔を出して、菜の花の春を迎えるのである。

昭和13年8月1日、三滝川が堀木町北方の堤防で約100メートルにわたり決壊した。

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諏訪駅の?何処だ!⑦

2022年02月22日 | レモン色の町

前回の諏訪駅は?で、たいじゅさんからコメントが届きました。改めて掲載いたします。

『四日市市史』内では『諏訪駅にサービス嬢登場』という見出しで伊勢新聞の記事を紹介しており、諏訪駅での女性改札係の初見(業務開始)は昭和13年11月10日からとなっているようですね(まずは案内係1人、改札係2人を配置したようです)。杉田様の記憶もほぼ正確であります。

四日市の100年より

杉田様の描かれた旧諏訪駅、北側の踏切が後の新・諏訪駅の(写真に写っていた)駅構内連絡通路に、左端の上(西方角)に延びる川村鉄工所横の通路が後の八王子線を渡る踏切へと形を変えるのかな、と思われます。想像が膨らみますね、たまりません!
あと推測ですが、旧諏訪駅の八王子線の軌道南末端(分駅駅舎そば)には転車台施設(及び給水タンク等も?)があったと思われます、絵には描かれてませんが。鉄道施設の詳細までは描かれてないのが少し残念でありました。   

数年前に、聞き書きで昭和32年頃の店舗の並びをマップにしたことがありました。

当時は、三泗百貨店前の細い路地には小さな店が線路を背にしてひしめいていました。此処が以前の八王子と四日市線のホームがあり引き込み線があったところです。給水タンクもあったのかもしれません。やがて立ち退き(戦後のどさくさに立てた、不法建築だったのでしょうか?)ここから出て、大きくなった店舗もありました。        

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水野さんの堀木町

2022年02月21日 | レモン色の町

水野さんが“旧四日市を語る”に、斎場があった堀木町のことを書いてみえた。

昭和13年の四日市地図

昭和初期の堀木町は、四日市の西端で三滝川の南側に位置し、戸数わずか十数戸の田園の中のちいさなまちであった。地籍は浜田1番地からあり、浜田地区農業用水の三滝川取り入れ口の井堰がある重要なまちであった。

市内から通ずる道は三本あり、中部電力四日市変電所から西町へ通じる道、現堀木公園北側を通る道、現水道局前から弥生館前を通る道であった。どれも4乃至6メートルの狭いもので、特に現水道局前の道は、通称“サンマイ道路”と呼ばれる主要な道路で自動車の避難場が所々に設けられていた。道路の脇には農業用水路がありきれいな水が流れていた。ここでは洗い物などの生活用水にも利用され、鮒、もろこ、ナマズ等川魚もたくさん捕れて、子供らの魚取りも盛んにおこなわれた。町内には農地の他に、河川敷と用水の取り入れ口の南東と斎場の東側に三戸の養豚場があり、田圃の中には養鶏場が二戸あって餌の時には一斉に鳴く声が聞こえてきたものである。

昭和43年のゼンリン地図より堀木町

堀木町の中心に集会所があり、ここには祭礼用の大太鼓や山の神の神殿、幟や法螺貝が保管されていた。横に立つ火の見やぐらには半鐘が吊るされていた。集会所の北50メートルほどの処に山の神跡の松林があり、幟用の支柱が保管されていた。現在、祭神は諏訪神社の山津見神社に合祀され、四日市祭りの際には高張提灯を献灯している。宮さんの前には斉木家の竹藪があり、椋の大木がそびえていて遠くからの目標でもあったが空襲で焼失した。

三滝川の堤防の南側には、伊藤醤油(山小)の大きな工場と倉庫、事務所があり倉庫は昼でも薄暗く“ロク”と呼ばれる六石入りの木樽が並んでいた。周辺には松林があり、狸が住んでいるといわれていたが、昭和13年8月の三滝川の決壊により松林は工場と共に姿を消してしまった。

東側には“中部電力変電所”が建ち、町で唯一の鉄筋コンクリート建てで、変圧器のブーンという音が聞こえて、鉄塔の灯は不夜城のようであった。

昭和43年 真ん中を柳通り(湯の山街道)が横断する堀木町南の斎場付近(現 図書館)

<追伸>水野さんへお電話したのですが、不使用でした。

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諏訪駅の?何処だ!⑥

2022年02月20日 | レモン色の町

平成5年に発行の“旧 四日市を語る会 第4集”に、杉田さんが投稿しておみえで、東海道沿いにあった旧諏訪駅の様子が書かれています。杉田さんの住まいは、駅舎前のすぐ東で、隣の“青木”宅には、私の小学校時代の同級生が住んでおりました。

私の家は諏訪駅のすぐ前でした。昭和4年に新築開業した伊勢電鉄の諏訪駅はとてもモダンな駅舎でした。待合室には売店があり、金城軒の“なが餅”やタバコ、菓子(キャラメル)、オモチャ等、子供向けの品や土産物が並べてありました。お祭り時には、紙製の大入道が藁の棒に刺して売られていました。また、駅のホームには青帽が二人いて「ベントー ベント」に発声のように「ながもちー ながもち キャラメルにお菓子」といって電車の窓からお客に売っておりました。

踏切の南側にも“分駅”(少し小さかった)があって、主に、湯の山線や八王子線のお客を扱っていました。しかし、浜田方面のお客は踏切を渡らなくて済んだので、伊勢電鉄の乗車客も分駅を利用していました。分駅の待合室の前は厚い板張りになっていて、その下を川が流れていました。諏訪神社から東海道沿いに来て、ホームを横断、分駅の下から阿瀬知川へと合流していました。現在の用水路のような役目だったと思います。

当時の諏訪駅には、駅長と助役各1人、切符切りと改札係、出札係、小荷物係と、十二・三人の駅員さんであったと思います。入社したては“駅夫”といって雑役係で、下積みの後出世していきました。大したものです。

やがて戦争が激しくなってきた昭和15年頃、初めて女性の駅手さんが三人来たことも、記憶に残っております。

岡野繁松先生は、昭和17年7月 女の出札係勤務始まる 諏訪駅で・・と「旧四日市を語る」で記録してみえます。そして、西の新諏訪駅移転は、昭和17年12月29日に行われたとありました。

私の店の真ん中を、諏訪神社からの川が通っていて、30年代は板で蓋がしてありましたが、建て替えが進む中で埋められていきました。西新地から流れて来た川は、神社の中を通り、東海道沿いを阿瀬知川に流れ出ていました。

青木君宅は、倉庫のような建物で、板張りの床の隅に畳が敷いてあり、そこが生活の場だったようです。戦後のバラック建ての家屋が当時は多く見られました。

東海道筋にあった諏訪駅 2020年8月26日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

樹林舎刊“四日市の今昔”より

昭和30年頃の諏訪公園 戦後、進駐軍が広めた社交ダンスは、瞬く間に若者の間で広がり、諏訪公園でも多くの市民が楽しんだ。右 背景に熊澤図書館が見える

 

コメント (7)
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諏訪駅の?何処だ!⑤

2022年02月19日 | レモン色の町

諏訪駅東の様子は以前から聞き書きしていたのですが、川村鉄工の建つ西側は分からないことが多いデス。ただ、諏訪駅が撤去された跡地が「随分広いなぁ」と思ったくらいでした。(当時少女だった方にお聞きすると、駅から西は風紀が悪い(赤線地帯の港楽園があった)から行かないように言われていたそうです)

再び、たいじゅ様からコメントをいただきました。

諏訪駅の図も含め分かりやすいご説明有難う御座います。3枚目掲載の写真

は諏訪駅南側周辺の建造物の位置関係を照合するのに絶好の写真ですね。
自転車置場にある赤丸内、歩いている上下黒服男性のすぐ左側に八王子線5番乗り場(南側)、男性の右側奥に八王子線4番乗り場の北端が写っています。その奥には1枚目の写真左端の「スワ」看板の後ろに建つ建物(南改札口か?)が写り込んでいます。これらの状況から、撮影者は近鉄線とほぼ並行する方角を向いて撮影しており、近鉄線は写っていない事が推測されます(多分、男性右側を歩く二人の学生?頭上に並ぶ数本の柱が近鉄線プラットホーム上の屋根柱)。
さらに諏訪駅建物と八王子線5番乗り場プラットホームとの間にはそこそこの広さの通路(道路?)があるように見受けられます。おそらく、1枚目写真の群衆

は八王子線線路を横断する人と諏訪駅建物と八王子線5番乗り場間の通路を通って行こうとする人とで混雑しているのではないかと予想できます。

水野さんは“旧四日市を語る”に、昭和17年(移転後)から20年(空襲時)までの諏訪駅前の様子を描かれていました。(水野氏は、四日市に在住ではなさそう)これをみると、駅舎は空襲で焼けた様子です。


諏訪駅のブログは今まで数多く記載してきました。

“昭和17年の諏訪駅”

2022年2月9日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

“四日市漫歩マップ”

2021年11月21日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

新 諏訪駅物語⑩ 諏訪駅界隈

2020年9月9日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

新 諏訪駅物語⑦ 諏訪駅界隈

2020年9月4日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

新 諏訪駅物語② 合同駅

2020年8月25日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

カンバック!昭和商店街 諏訪駅周辺

2019年2月19日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

カンバック!昭和商店街 のんきやさん

2019年1月25日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

カンバック!昭和商店街 スワマーケット

2018年12月16日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

間違っている個所もありますので、ご承知おきください。

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諏訪駅の?何処だ!④

2022年02月18日 | レモン色の町

ここは、諏訪駅構内のどこか?

<想像譚>日曜日、諏訪劇場で“東映まんが祭り”の第1回上映が終わった。劇場からあふれ出た人々の一部は辻写真館の瀬古を通り、諏訪駅南側へ出る。八王子線の通過を待って線路を渡り、川村鉄工所の横から 近鉄線のホームをまたいで、左右を見ながら線路を横断した。渡ったところは、カトリック教会。そのまま進むと諏訪公園西側に通じる。

ということで たいじゅ様からコメントをいただきました。

2枚目に掲載の諏訪駅構内の写真、

画面中央に学生らしき人が渡っている手前の通路も含め合計3本の連絡通路?らしきものが写っています。現代の常識で考えると、これらの通路はそれぞれの乗り場に行き来するための駅内連絡通路だと考えますが、別アングルからの他の諏訪駅写真と照合するとどうも乗客の駅内連絡通路のみでなく一般市民が線路を横断するための「踏切」的要素もあったように見受けられる(つまり誰でも駅ホーム内に進入する事が出来る)のですが、当時を知るタケオ様に実際のところはどうだったのかご意見をお伺いしたくコメントさせて頂きました。・・・もし本当にこれだけフリーに駅内に入れるのであれば改札はほぼ無意味ですね(笑)大らかな時代だからこそ、ということなのでしょうか。   たいじゅ

自分も不思議に思っておりました。諏訪駅の入り口がスコスコなのです。自転車置き場の横から自由に出入りできるみたいです。諏訪劇場から辻写真館さんの瀬古を通って、湯の山線の踏切を横断。川村鉄工所の東側を抜け、近鉄線のホームを越えて、近鉄線を横断して諏訪公園西に向かったのか?街の真ん中に 俄に出来た駅だけに、行き来は 案外 自由だったのかも知れませんねぇ

水野先生が、旧四日市を語るに投稿、戦前の諏訪駅を図にしてみえました。東海道沿いの旧駅と、昭和17年に出来た新諏訪駅の位置が描いてあります。八王子線の引き込み線が、東海道迄延びたまま残っています。

戦後になると この引き込み線の跡には 近鉄線を背に(三泗百貨店の向かいに)小さな店舗が並びました。水野さんも引っ越され、その跡にキタオカさんの店舗が出来ました。

<追記>当店で まちゼミをします。ぜひぜひお越しください。

思い出話に花を咲かせましょう!

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幻の西町駅 ③

2022年02月16日 | レモン色の町

昭和43年の御旅所付近

伊藤さんが“西町地蔵堂”の記事として“旧四日市を語る”に書いてみえる。

毎年7月24日には“地蔵盆”として、賑やかにお祭りが行われたとある。(私が母親に連れられ出かけたのも、この地蔵盆の日だったのだろう)夜になるとお堂の西側で丸太を組んだ急造り舞台で裸電球を煌々と点けて、漫才や俄芝居が上演され、参詣者を楽しませた。

9月の四日市祭りになると、諏訪神社にある神輿が、24日の夜、地蔵堂の東にある建屋に移され、篝火をたき徹夜でお守りされた。25日は四日市市内にある全部の練りがここへ繰り込み、それを見ようと近郷近在からどっと人が押し寄せ大混雑をした。(地蔵堂東側に保存されている小さな神輿は外に台座を作り飾ってあった)ここは所謂 御旅所・・・神輿が本宮から渡ってきて、暫く留まるところであった。(当時は神社の神輿で移動した!?)

地蔵堂西の三滝川に架かる明治橋を渡った末永には“三重の郡役所”もあったので、ここは四日市の出入り口であり、良い休憩所として利用されたようで、堂の入り口にあった青龍の口から流れ出る水を飲んで一服している車馬や荷車の人たちをよく見かけた。

現在の御旅所

(注)二基の神輿があった?昭和43年の新聞記事より(新聞社不詳)

 30年ぶりに神輿 市内を渡御 25日から始まる諏訪神社の秋の大祭に西町から神輿が出て伝統の祭りに花を添える。同神社の神輿は二つあって、一つは神社に、もう一つは西町に保管され、渡御は祭りの中心行事として市民に親しまれてきた。ところが、支那事変が起こった昭和12年以後は神輿の渡御が取りやめになり、その後、神社は戦災で焼失、西町は伊勢湾台風で壊れてしまった。昨年(昭和42年)諏訪大祭協賛会が組織され、再び祭りを盛り上げようと、西町では基金を募って修理、このほど修理ができた(弘化年間に造られた神輿)。25日には西町から諏訪神社へ、26日には諏訪神社から西町へ神輿が渡御する。(初日に諏訪神社へお迎えに行き、翌日神社へ送り届ける・・・ということではないでしょうか?)“四日市祭”より

「四日市市の祭りを知ろう」講座記録誌

西町の御旅所のことは平成21年発刊の記念誌“四日市祭”(前田憲司 執筆)にも記されている。

西町の大山 大山は 大きすぎて電線が邪魔になり 神社前で組み立てられた

四日市祭の奉納行事で中心的な神事は、神輿の渡御と巨大な山車である四輛の大山(おおやま)の曳航だった(西町は西の入り口・北町は町の中心・浜田は昔、四日市と浜田から成っていた・新田町は諏訪神社のおひざ元)。

幕末〜明治期にかけての版画(椙山満蔵)

神輿の渡御は西町が担当し、祭りの初日にご神体を神輿に乗せ、猿田彦を先頭に楽人が雅楽を演奏し、水干姿の仕丁に担がれ、西町の御旅所まで静かに行列が進み、翌日に諏訪神社へ還御、弘化年間(1884〜46)に製作された神輿が戦災を免れ、今も西町に保管されている。

平成14年の渡御

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