花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

大正ペスト騒動①

2021年07月31日 | レモン色の町

大正ペスト騒動 椙山 満 四日市市史研究 第5号より 椙山先生は、当時の写真を多く持ってみえたようだ。これは、産婦人科医であったためだろうか。

大正5年10月8日、四日市浜町の東洋紡績の沖仲士(船から港への運搬従事者)の長女(5才)と長男(11才)は、いずれも耳下腺炎で急死した。警察医 鈴木英男が検案の結果、耳下リンパ腺がひどく腫れ高熱であったことと、東洋紡績嘱託医から、同社用務員(50才)も6日発病7日死亡の報告があった。この三つの遺体から疑わしい菌を認め、県防疫員の応援を受けて調査中、同社員(50才)も同様病状で8日発病9日死亡、浜町の人力車夫の次女(6才)も病名不明で急死するなどして大騒ぎとなった。

工場内に設置された四日市市仮設細菌研究所

研究所内風景

市では、東洋紡績敷地内に仮設細菌研究所を設置、調査したところペストと判明したので、同工場を中心に浜町付近を亜鉛版(トタン板)で囲い、区域内の58戸 268人の移動を遮断して消毒を行った。

第6小学校内の臨時健康者隔離所へ食料を運ぶ光景

そして第6尋常小学校を11日より臨時休校とし、健康者の隔離所とした。市内の各小学校も当分の間、休校としている。市民には“ペスト予防の心得”を全戸に配布し、市議会では、防疫のための臨時経費10万円余(一般会計の53%にあたる)を追加補正している。

亜鉛版を使用して町を遮断し除鼠殺蚤消毒法施行中(浜町)

患者はその後も増え続け、10月に38名、11月は15名が発病している。市街地の交通は杜絶し、商店は休業状態が続いた。特に工場周辺の浜町は惨憺たる有様であった。12月になると必死の防疫が効を奏し、月初めに6名の患者が出ただけで、ようやく終息の兆しが見え始め、市民は胸をなでおろした。

上から第6小学校・東洋紡績・掖済会

補記:何故、亜鉛版で囲ったのだろうか?という疑問が残る。農林水産省の食物検疫実施要項によると、食物防疫所の構造が、くん蒸倉庫の場合には輸入植物検疫規程の基準と同等又はそれ以上であり、くん蒸箱の場合には鋼鉄製、ステンレス製、又は厚さ0.27ミリメートル以上の亜鉛引き鉄板を内張りした木製であるか、若しくはそれと同等以上の強度を有するものであり、コンテナーの場合にはリーファーコンテナーであること・・・とあった。亜鉛に防疫効果があるのではなく、ただ単に丈夫なトタン板であれば良かったのかナ?   つづく

補・補記:亜鉛版に抗菌作用があると思い込んだのは“スーパーマン”の観すぎかな?ネズミが通らないようにしたのかな?


掖済会前海水浴場 ②

2021年07月30日 | レモン色の町

昨日は、“男の囲炉裏端の会”に参加させていただいた。と申しましても、参加は男性に限らない。“男の・・・”は省略しては?とも思っておりますが、余計なことです。とまれ、楽しい(自分だけ)時間を頂戴しました。感謝!

ところで出席のKさんから、会場だった納屋プラザ内に貴重な写真があると教えていただきました。

旧四日市港北にあった、掖済会前海水浴場の空撮です。

2021年7月3日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

掖済会が建ち、狭い砂浜がある。椙山先生の説明から、海軍の水上機が曲芸飛行を行っている、その上空の1機から撮られたものだろう。左に造船所、掖済会裏には牧場らしきものが広がっている。これは、高砂町の吉田様から寄贈されたもので、大正13年10月12日撮影とあった。三滝川から流された砂等で、よどみが出来、海水浴場の汚染が進んでいるようだ。

日本海員掖済会は、明治13年 明治新政府の意向により、劣悪だった船員の労働環境と生活習慣の改善のために、船員宿泊所の提供、船舶の斡旋、船員教育、船員遺族への弔意・慰安、そして、船員に対する医療といった、船員に対する福利厚生一切を行う団体として設立された。「掖済」(古文書では「掖濟」)とは、前田 密によって名づけられ「掖(わき)から手を添えて支える」という意味である。戦前は、船員に対する福利厚生全般を包括して行ったが、第二次世界大戦後、職域ごとに国の直轄事業や他の公益法人への事業分割が行われ、船員に関する医療を行う社団法人として再出発することになった。ウィキペディアより

四日市 市史研究 第5号に、掖済会の写真があった。

上と同じ建物のようです

稲場町の海員掖済会寄宿所に設けられた三重県検疫委員派出所とあり、警察官らしき人物が数名前にいて、何やら物々しい風景である。大正5年10月8日、四日市市浜町の東洋紡績の仲仕の子供が耳下腺炎で急死した。大正ペスト騒動の始まりである。


練りの上に乗るのは なぜ稚児なのか?

2021年07月28日 | レモン色の町

コロナ禍の中、秋の四日市祭りを“やる!”“やらない!”で、実行委員会は侃々諤々(かんかんがくがく)でゴザイマス。一方、このところ私、古代史に興味が出て、と言っても名前は難しいし、天皇家はくんずほぐれつですし、挑戦する読書はいつもとん挫状態ですが、関 裕二著の「古代謎解き紀行」を読んで、へーッと思いました。

南納屋の鯨船には“でんこんでーん”といって船首で子供が舞を披露します。今年は子供を乗せるのに「コロナで無理とちゃう?」ということなのですが、なぜ子供なのか?別におっさんでもエエと思いますが、(絵にならんか)。こうありました

この世での奇跡は必ず「境界」「接点」で起きている。だから「聖なる者」は境界に居ると信じられていた。例えば日本の国旗が日章旗で、日の丸が赤く塗られているのは、日中の太陽を描写したものではないからだ。太陽信仰において最も神聖視するのは、明け方の赤々と燃え上る日の出である。

古い神社に行くと必ず鶏が飼われているのは、鶏が日の出とともに鳴くからではない。鶏が鳴いて、太陽を呼び寄せるからである。だから神道の太陽信仰は、日の出を重視していることが分かる。これは、あちらの世界からこちらの世界に太陽が移り変わった瞬間が、最も輝いているからである。

一方人生における最大の奇跡は、生誕と死だ。ふたつの事象も、あちらとこちらの接点、境界で起きている。そうなってくると、境界に近い者ほど神聖な者、という考えが出てくる。事実、筍は土地を破って出てくる時、人智を超えた成長力をみせる。童子もこれと同じで、生と死に誓い童子は「神に近い人間」と考えられたのである。多くの祭りで、小さな子供が「稚児」として重要な役割を今でも演じているのは、これらの発想の名残りなのである。

鯨船

単に子供がかわいいから、という訳でもなさそうです。ちなみに、死に近い老人でもO.Kだそうです。しかし、ジジイが練りの上で怒りたっくていても、絵になりませんわなぁ。


”張込み”シークエンス C59編

2021年07月26日 | レモン色の町

木曽川を渡る電気機関車。早くて車種はよく分からん!

映画”張込み”の冒頭を飾るのは、C59蒸気機関車だ。Web“遠い汽笛” では美しいイラストが楽しめます。

C59形 蒸気機関車 (kitekinet.jp)

外から撮っているので、すべて車番が異なるのは当然ですが、造られた時によって1台1台番号が違うということを知りました。

瀬戸内海をひた走るC59・・・

小郡ではC59187です。

広島はC5933 少し古いのかな?

関門海峡をくぐる列車は、ディーゼルしか撮れなかったのでしょうか?

博多をゆっくりと出発。番号はC59・・・までしかわかりませんでした。

今思えばこんなのが、日本列島を走っていたのですねェ。小さい頃、兄の自転車に乗せてもらい、本町の踏切へ蒸気機関車を見に行った記憶があります。いつの時代でも迫力は満点だったのでしょう。

 


萬葉集とくるべ官衙遺跡

2021年07月25日 | レモン色の町

本日の中日新聞より

前回訪れた時、公園には“万葉植物エリア”の表示がありました。

幕で囲い、天皇を中心に歌が詠まれました。

植物には関係ありませんが、松原町の聖武天皇社境内に建つ萬葉集の歌碑(佐々木信綱 筆)に「妹(いも)に恋い吾(あが)の松原見渡せば潮干の潟(かた)に鶴(たづ)鳴き渡る」(いとしい人に焦がれて自分が逢うことを待っているという名の松原を見渡すと、潮の引いた遠浅の海に鶴が鳴いてずっと飛んでいくことだ)とあります。(四日市市のホームページより)

この時聖武天皇は、妻とおばさんの三人で静々と行幸されていますが、歌に詠まれている“妹(いも)”は、すぐ横に居る奥さんのこととは思えません。気の多い天皇でした。


壬申の乱とくるべ遺跡 ②

2021年07月24日 | レモン色の町

2021年6月27日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) の続編でゴザイマス。

先日、ようやく久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)へ出かけた。

くるべ官衙遺跡

壬申の乱の足跡と、後年、その跡をたどった聖武天皇行幸路が、1枚のパネルに表してある図を撮る為だった。黒が挙兵した大海人皇子の行軍図。オレンジが足跡をたどった聖武天皇の行幸図である。

出家して吉野にこもった大海人皇子は、天智天皇の逝去を知ると挙兵。6月24日に伊勢の国へと向かいます。翌25日の夜には、豪雨の中ずぶ濡れになって三重の郡家(ぐうけ)に到着し、役所の建物の1棟を焼いて暖を取ります。翌26日の朝、朝明郡の迹太川(とおがわ)のほとりで伊勢神宮に向かって戦勝祈念、そこへ近江から来た大津皇子が合流します。

  • 迹太川(とおがわ)古くは朝明川や十四川・米洗川(よないがわ)の説がありましたが、現在では、海蔵川や三滝川とする説が有力です。

また、朝明の郡家(ぐうけ)に入る手前で、不破道の封鎖に成功した連絡を受け、ただちに高市皇子(たけちのみこ)を不破に遣わします。この不破郡関ケ原あたりと鈴鹿の関の要衝をいち早く抑えることで東国の軍を止めたのです。

             取材:くるべ古代歴史館

遥拝の碑が建つ垂坂山。山頂からは伊勢平野が一望に見渡せ、不穏な行軍があれば即発見!

下の図は(「地図で読む日本の歴史」歴史ミステリー倶楽部 より)その後の戦の図です。素早く東に回る大海人皇子は、不破の関から幾手かに分かれ、囲い込むようにして朝廷軍(大友皇子)を慌てさせている様子がわかります。

再掲載デス

今に残る“日本書紀”は、勝ち組(天武天皇)が、書かせたもの。書記官も悪いようには作れなかったと思われます。多くの説が出される中、古代ロマンの真実は藪の中でゴザイマス。ところで“萬葉集”が面白い!くるべ官衙遺跡、是非、訪れてみてください。


”張込み”シークエンス 最終回

2021年07月23日 | レモン色の町

小郡駅で、山口に向かう他の刑事たちと分かれるカットは、佐賀ロケ(本編)が終了して、役者以外のロケ隊一行が大船撮影所へ帰る際、途中下車して撮影されたものである。

関門海峡をくぐる列車

博多駅のシーンは別撮りである。刑事役の大木と宮口は、このシーンを撮るため、わざわざ博多駅まで出向いている。

この博多駅は、現在の博多駅から500メートル北にあった旧博多駅で、撮影から6年後の昭和38年に改築された。今となっては、『張込み』は旧博多駅が映像で拝める貴重な資料となった。

写真でたどる博多駅の歴史 より

博多に到着する列車 C59の文字が?下総人様、被写体 列車が混在の可能性があります。DVDを楽しみに観なおします。

この博多駅シーンは、原作者の松本清張氏もお気に入りで、「あの『博多夜船』が鳴っている感じは、小説では書けないね」と褒めていたという。

シナリオでは、ホームの拡声器から、レコードで博多夜船が流れている。その強い感傷のメロディが、若い男(大木)の頬に胸もうずくような旅愁の想念を掻き立てる。いや、老年(宮口)の男の表情にもそれがある。そして、博多駅も、博多夜船も遠ざかる。

二人はその夜、駅前の商人宿で泊まったのち、翌朝、佐賀警察署へ出向く。逃亡中の犯人が、恋人に会いに来ることを見込んで、二人の刑事は向かいの宿から張込みを開始する。ここでようやく『張込み』の字幕が出る。物語の始まりである。

映画の終盤、高峰秀子の乗った列車をタクシーで追う大木。ここにもSLを登場させている。


”張込み”シークエンス ③

2021年07月21日 | レモン色の町

 C59187は、瀬戸内沿いに走る。一昔前には、こんなものが全国を走り回っていたと思うと、感無量である。

朕が 学生時代を終えて、上松へSLをカメラに収めようと出かけたことがある。早朝、トンネル出口に向かってカメラを構えていると、なんと出てきたのはディーゼル機関車。思わず 機関手と目が合う。体裁が悪いのでせっせとカメラのシャッターをきった。

小郡で東京から乗り込んだ組と分かれる。張り込む場所が違うためだ。

映画「張込み」の主人公 大木 実は、白井佳夫と私(西村雄一郎)との対談を「松本清張研究」で書いている。

白井「特に清張さんが褒めていたのは、三等車に若い刑事とベテラン刑事が二人載っていく冒頭の部分。

大木「列車が動いているのに、横浜駅で飛び乗るんですよ。あれはぶっつけ本番。NGが出たら次の大船で下車してまた明日・・・どうやらOK。この撮影ぶりには当時の国鉄もさぞびっくりしたでしょうね。その列車に乗って、佐賀に着くまでは全部本物の列車の中での撮影ですよ。

白井「そうすると、全部貸切りだったのですか?

大木「貸切りです

西村「他の人たちはエキストラですか?

大木「ええ

西村「途中の駅で降りるところなどはどうされたのですか。

大木「降りて、またパッと乗るんですよ。当時は停車時間が長く、三分とか五分とか停まっているでしょう。打ち合わせをちゃんとしておいて、カメラを持ってパーッと走っていってね。その日の夜、関門海峡をくぐる。  最終回へ つづく


“張込み”シークエンス ②

2021年07月20日 | レモン色の町

木曽川を渡る電気機関車

東京―神戸間は、撮影の前年(昭和31年)に電化されたばかりだった。だから東海道線はディーゼル(上総人様のご指摘によると、この時すでに電化されており、パンタグラフを上げて走る列車はEF58型電気機関車と推定される)

だが、山陽本線はまだ蒸気機関車が走っていた。電気機関車からSL・C59187型に乗り継ぎ(牽引車が変わった?)、二人の刑事が九州へ下る旅の描写が快調に続く。

神戸を過ぎて車内の混雑は一段落した。柚木刑事は、東京から乗った刑事二人と会う。「そう、そりゃ大変だったねぇ」

ひろしまぁ ひろしまぁ」

広島では弁当と、酒を求める。「おーい、酒だぁ」柚木刑事は停車時間の間に、駅弁を買い求めに走った。

瀬戸内海を通過し、関門海峡を渡り、夜、ようやく博多駅に到着する。 つづく

 

 


“張込み”シークエンス ①

2021年07月19日 | レモン色の町

暑い夏が来た。夏といえば、松竹作品、松本清張原作、野村芳太郎監督、脚本 橋本忍、助監督に山田洋次が起用された『張込み』だ。何度観たかもしれない。幾度このブログに書いたかもしれない。西村雄一郎氏が“清張映画にかけた男たち”で紹介している。

松竹のマークが終わると、そこは横浜駅だ。

プラットホームに止まった列車の壁面に掲げられた行先の表示板には「鹿児島行」と書かれている。

そこに場内アナウンサが流れる。「横浜、横浜、横浜でございます。六番線に到着の列車は、二三時六分発、鹿児島行き、急行列車『さつま号』でございます」

大きく写される二三時六分を示す時計。そこに、柚木刑事(大木実)と下岡刑事(宮口清二)の二人が、脱兎のごとく階段を駆け下り、発車する列車にすんでの所で乗り込む。

嘗ては、本当に列車は混んでいた。特に一番安い、庶民の三等車。二人の刑事は席がないので、通路にすわる。昭和三〇年代は、彼らのように、列車の廊下に新聞紙を敷いて座ったものである。

木曽川を渡るあたりから空は明るくなる。「降りますか?」「次の京都で降ります」「下岡さん、ここが空くそうです」「そうか・・・そりゃ有難いな」下岡刑事が席に座ろうとする時、片手に持っていた週刊誌がチラリと写る。昭和三一年創刊の「週刊新潮」なのだ。

東京~神戸間は、撮影の前年に電化されたばかりだった。だから東海道線はディーゼル機関車だが、山陽本線にはまだ蒸気機関車が走っていた。   つづく