大正ペスト騒動 椙山 満 四日市市史研究 第5号より 椙山先生は、当時の写真を多く持ってみえたようだ。これは、産婦人科医であったためだろうか。
大正5年10月8日、四日市浜町の東洋紡績の沖仲士(船から港への運搬従事者)の長女(5才)と長男(11才)は、いずれも耳下腺炎で急死した。警察医 鈴木英男が検案の結果、耳下リンパ腺がひどく腫れ高熱であったことと、東洋紡績嘱託医から、同社用務員(50才)も6日発病7日死亡の報告があった。この三つの遺体から疑わしい菌を認め、県防疫員の応援を受けて調査中、同社員(50才)も同様病状で8日発病9日死亡、浜町の人力車夫の次女(6才)も病名不明で急死するなどして大騒ぎとなった。
工場内に設置された四日市市仮設細菌研究所
研究所内風景
市では、東洋紡績敷地内に仮設細菌研究所を設置、調査したところペストと判明したので、同工場を中心に浜町付近を亜鉛版(トタン板)で囲い、区域内の58戸 268人の移動を遮断して消毒を行った。
第6小学校内の臨時健康者隔離所へ食料を運ぶ光景
そして第6尋常小学校を11日より臨時休校とし、健康者の隔離所とした。市内の各小学校も当分の間、休校としている。市民には“ペスト予防の心得”を全戸に配布し、市議会では、防疫のための臨時経費10万円余(一般会計の53%にあたる)を追加補正している。
亜鉛版を使用して町を遮断し除鼠殺蚤消毒法施行中(浜町)
患者はその後も増え続け、10月に38名、11月は15名が発病している。市街地の交通は杜絶し、商店は休業状態が続いた。特に工場周辺の浜町は惨憺たる有様であった。12月になると必死の防疫が効を奏し、月初めに6名の患者が出ただけで、ようやく終息の兆しが見え始め、市民は胸をなでおろした。
上から第6小学校・東洋紡績・掖済会
補記:何故、亜鉛版で囲ったのだろうか?という疑問が残る。農林水産省の食物検疫実施要項によると、食物防疫所の構造が、くん蒸倉庫の場合には輸入植物検疫規程の基準と同等又はそれ以上であり、くん蒸箱の場合には鋼鉄製、ステンレス製、又は厚さ0.27ミリメートル以上の亜鉛引き鉄板を内張りした木製であるか、若しくはそれと同等以上の強度を有するものであり、コンテナーの場合にはリーファーコンテナーであること・・・とあった。亜鉛に防疫効果があるのではなく、ただ単に丈夫なトタン板であれば良かったのかナ? つづく
補・補記:亜鉛版に抗菌作用があると思い込んだのは“スーパーマン”の観すぎかな?ネズミが通らないようにしたのかな?