花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市漫歩マップ⑮民衆駅構想

2021年10月31日 | レモン色の町

商工会議所100年史より“民衆駅構想”

近畿日本鉄道が、短絡化による駅舎建設に取り掛かったのは、昭和30年11月のことでした。この駅舎分離の影響で、国鉄四日市駅と周辺商店街利用者の激減が予測され、これに対抗しうる策として、魅力ある駅舎づくりが必要と考えられ、国鉄側から『民衆駅構想』が提案され、商工会議所も賛同した経過がありました。

国鉄四日市駅移転新築に関する件

(略)さて先般国鉄四日市駅舎の移転新築に関し諮問書及び民衆駅の構想計画を賜りましたので早速商業部会はじめ各部会を開催審議の結果、次の通り結論を得ましたので此段答申致します。

 民衆駅の早期実現が四日市市の発展にとって不可欠なものと思考せられますので、四日市商工会議所はその実現に挙げて全力で協力致します。

 その際当面的な問題としてディーゼルカー等の増配、最終的には国鉄電化予定計画の繰り上げによる関西線及び参宮線の運転回数の増加によって、四日市駅の乗降客の増大を図るよう国鉄当局に要請し、その早期実現を重要条件として民衆駅の建設達成に進みたいところであります。なお、付帯条件として次の条項を要望致します。

1.駅舎の民衆部分の利用については地元商業者を優先的に取り扱うこと

2.国鉄関係の各種事務所等はこの建物内に集約的に収容すること

3.本問題可決の為に市・市議会・商工会議所等を以って 建設促進委員会(仮称)を組織し、相当の緊密な連絡の上実現に努力すること

  昭和31年7月21日(会頭名、市長宛)

しかし、具体的な審議に入ると資金面の問題で断念することになり、国鉄に全権を委ねざるを得なくなった。国鉄四日市駅舎の新築については規模、内容等を国鉄当局にお願いすること 云々・・・

樹林舎刊 四日市の今昔より

昭和31年9月に諏訪駅は廃止され、近鉄四日市駅が完成している。国鉄単独の事業になってしまったのか?昭和35年4月に国鉄四日市駅新駅舎が完成した。三重交通、三岐鉄道バスの切符売り場の他、2階にはレストランも設けられていた。近年、JR(旧国鉄)四日市駅を高架にして街を港までつなぐ計画もあったが、やはりJR側の賛同を得ることが出来ず、頓挫している。

 

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四日市漫歩マップ⑭四日市幼稚園 其の2

2021年10月30日 | レモン色の町

四日市幼稚園の空襲当時の様子が、四日市市史第10号沿革誌より『罹災状況』に掲載されていた。罹災当時、敷地は高等女学校の一角にあった。名簿等の資料は疎開されていて無事であった。が・・・

 昭和20年6月18日午前0時30分頃、第2回警報発令されるや、職員はいずれも自宅を出発し、園舎に駆け付けんとしたるも、敵機の投弾以外に早かりし為、途上にて既に民家の炎上に出会い、猛烈なる火勢の為、園舎に到着したる保母わずかに2名(平尾、山下)にして、壱岐園長まずありて、重要書類等の搬出に保母を指揮せらる折から、無数の焼夷弾は園舎に落下し、たちまち各所に火の手をあげ、遂に危険身に迫りしを以って、まず保母を避難せしめ、なおも園長は防火に奮闘中、猛火は四方より迫り園長と運命を共に遂に殉職せられたり、常宿の女使丁は、ようやく身を以って危急中に非難す。

園長は殉職された。そして、戦後となり

昭和21年3月1日 諏訪公園の西新地 演武場(4室)を借り受け開園、32名の児童で再開された。※ 演武場(武徳殿)は、焼け残ったことになる。

昭和27年10月15日 2階建て保育室(1)と玄関を増築し、保育室が6室となる。

昭和29年3月 児童の急増により、5歳児からの2年保育は廃止される。

昭和30年4月10日 橋北中学校敷地内に分園が出来る(後に橋北幼稚園となり独立)。

昭和37年5月20日 元町へ移転(旧市立産院跡)し、現在に至る。

昭和30年代の四日市幼稚園付近の様子が、名古屋タイムスに掲載されている。

2020年9月6日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

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四日市漫歩マップ⑬四日市空襲

2021年10月29日 | レモン色の町

諏訪公園交流館で読ませていただいた本『四日市にも戦争があった』四日市空襲を語り継ぐ会 刊より、原孝雄さん(被災当時11歳)の手記です。

私たちは毛布をかぶり、体を寄せ合ったまま、もう考える気力さえ失っていた。火を恐れてか、(三滝川)堤防西より走ってきた一頭の馬が、私たちの前で直撃弾を受けて横転する。時々照明弾が頭上に炸裂し、あたりは真昼のように明るくなった。その度に、私たちは反射的に地上にひれ伏し、あたりが暗くなるのを息を凝らして待った。一瞬恐怖感が走る。空を篤く覆っていた煙は、炎を反射して無気味な赤さに染まっていた。やがて強風に交じって雨が降り出したように記憶している。そうした中にも、火は刻々と堤防近くまで迫り、私たちの見ている前で、川辺の家が火を噴きながら崩れていった。私達はひたすら時の早く過ぎるのを祈るしかなかった。

当時 市の収入役で後に市長になった吉田千九郎さんは、復興後のこととして この本で、次のように語っている。

「市役所東のロータリーの平和の女神像は、四日市浜一色出身の清水某氏の作品で、四日市空襲の日の昭和20年6月18日にちなみ、像の丈を6尺1寸8分としてあることを忘れないで欲しい。当時は裸像を立ててと、市民からも反響があった。(注:現在市立博物館前に移転)

昭和15年空襲以前の地図

昭和21年の空撮

また四日市を道路で6等分した(市役所・諏訪・下新町・三滝通り・老松橋・納屋通り)。歩道も夜店を出せるよう幅を他所より広くした。中町の道路の狭いのは、有力地主が反対したからだ。いずれにしろ道路拡張は、地主の反対にあい、四面楚歌であった。道を広げても両側に建つ家は小さいし・・・。公害のことは全く予想できなかった。(1991年のインタビューによります)吉田氏の言葉から察するに 戦後復興整備事業で 中央通りはできたようです。

中央通り JR四日市駅前

また、この本から、空襲当時、旧東海道に架かる三滝橋はコンクリートでできていたことを知った。1号線の拡幅工事が諏訪神社まで完成していたのは昭和21年の空撮からも分かる。そして何よりこの本から、空襲に遭い傷を負い、家も財産も失った人々への差別があったことを知らされた。「あの人 空襲におうたんやな!家をのうして 怪我して ほんで おかしな靴 履いとんのや」と・・・。

エキサイトバザール時の三滝通り

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四日市漫歩マップ⑫四日市幼稚園 其の1

2021年10月27日 | レモン色の町

戦後、諏訪公園の隅に建っていた“四日市幼稚園”。当時としては幼稚園自体が珍しがられた。沿革をたどってみよう。

① 明治28年 不動寺の一部を借りて、四日市町立幼稚園が設立、3歳以上の園児61名で発足。

② 明治30年 市制実施に伴い“市立四日市幼稚園”となり、当時 上新町の市役所西側の四日市裁縫女学校に建物に移転するが、不衛生なため休園。

 明治33年 園舎は、改築されて再開。

③ 明治37年 四日市市役所東側の四日市市立高等女学校の敷地内に新築。

④ 大正6年  園児の増加で、四日市高等女学校の東北隅へ新築移転。

⑤ 大正13年 園児造花の為、中新町の第5小学校敷地の一部に新築移転。

⑥ 昭和21年 空襲で焼失。諏訪公園敷地内に新築。

⑦ 昭和37年 元町の現在の場所に移転新築。岡野繁松先生の地図

戦後“武徳殿”跡地に幼稚園が建つ。

園児の増加で2階建ての保育室と教室が増床される。昭和29年頃、団塊の世代第2弾が入園する。

オラはどーこだ?

     つづく

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四日市漫歩マップ⑩諏訪神社 其の1

2021年10月25日 | レモン色の町

諏訪神社と諏訪公園は、オラが幼少時の遊び場であった。幼稚園が公園内にあったことも大きな要因である。帰宅すると神社へ走る。必ず友達がいた。おっちゃくい松永兄弟は、神社拝殿の屋根へ登った。ついでに正ちゃんのシャツの中に幼虫を放り込んだ。お腹に入った幼虫は白い汁を出して潰れた。

四日市の産土神である諏訪神社は、鎌倉時代の創建と伝えられています。空襲で焼失する前の境内が描かれています。鳥居の向こうの堀は泗水八景の一つ「御手洗(みたらし)の満水」と呼ばれた場所です。水谷百碩 四日市十二景より 昔は川になっていて、当家の真ん中を通り阿瀬知川へと流れていました。

諏訪神社の境内社 山津見神社に向かう石橋を描いています。緑が生い茂り、無数の鳥居が建ち並ぶ光景は、今も見ることができます。人影のない境内と杉の木陰、鏡のような水面が、昼下がりの静かな雰囲気を描き出しています。出口百碩 泗水十二景より

本日の 雨の石橋 この池は水の流れはなく 底は泥で底なし沼状態である。池の亀をつかみ出して、石でつぶす輩がいた。

大正期の絵はがき。右に茶店のようなものが見える。手前に立つ“県社 諏訪神社”の碑はずいぶん立派そうだが、前に居るのは子供である。この碑は 現在に至っても存在するのだろうか? 拝殿は空襲時どうなってたのだろうか? つづく

岡野繁松先生が描いた、戦前の諏訪神社と諏訪公園 鳥居前はずいぶん広々していた。

 

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四日市漫歩マップ⑪諏訪神社 其の2(訂正しました)

2021年10月25日 | レモン色の町

空襲後、昭和21年の空撮。諏訪公園(白く写っている部分)ははっきりわかるが、諏訪神社は集中攻撃を受けたような瓦礫の山だ。

昭和31年頃。神社、公園とも 整地が進められている。1号線の拡幅工事が、神社前だけ遅れている様子だ。戦後復興の都市計画で、神社前から南への1号線と近鉄駅前の中央通り整備されつつある。

吉田紙店の諏訪神社前を撮った年賀状。大正期の神社前で、鳥居前は今と比べると広々している。

現在。鳥居前にあった“県社 諏訪神社”の碑が、今はどうなっているのか写真を撮りに出かけた。

鳥居の左、道沿いに移転しているが、当時と比べると字体が違っている(社の文字)。碑の裏を見ると“大正6年9月25日建”とあるから 下の大正期とある写真は、大正1年〜6年の間に写されたということなる。

大正期

 

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四日市漫歩マップ⑨札ノ辻

2021年10月24日 | レモン色の町

東海道45番目の宿場町“四日市”。四日市は市場町として栄えてきたが、良港にも恵まれていた。東海道と港を結ぶ浜往還が出来て、四日市宿は“札ノ辻”である十字路を中心として栄えてきたのだ。

明治44年の地図。赤い部分が辻になる。右側の小学校の建つ部分が陣屋跡。江戸の頃は、旅籠、馬立て場、脇本陣、料理屋と賑やかだったと想像される。

大正11年8月の辻の様子。東南角に建つ店に向かって撮られている。文化展覧会を祝う装飾が街を一段と賑やかにしており、手前に立つ夏用制服姿の巡査もどことなくにこやかに見える。(椙山満編集『四日市の100年』より)

同方向で現在を寫す

舗装工事中の札の辻(昭和13年)当時はコンクリートミキサー車で道路を舗装していた。上の写真とは逆方向になるのか?左に岡田屋呉服店の看板が見える。後の“イオン“である。

増田武夫さんは、一軒一軒訪ねて「東海道往来」と「浜往還」の本を記して家の並びをマップにされた。昭和天皇の御大典当時、昭和初期の札の辻の様子であります。

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四日市漫歩マップ⑧三和商店街

2021年10月23日 | レモン色の町

昭和30年代

三和商店街は戦後 本町の一角に出来た。国鉄四日市駅のすぐ北側にあった。(四日市の今昔 樹林舎刊)

三和商店街と描かれた下には元気屋、右隣りには丸武家具店が入っている。看板の奥にアーケード付きの商店街が並び、居酒屋やバーが建ち並んで賑わっていたが、やがて繁華街の中心は近鉄四日市駅周辺へと移っていった。

10年ほど前の三和商店街 建て直しの課題が出ていた

昭和43年の地図

現在、7割ほどの取り壊しが進んで駐車場になっている。問題になっていた頃、近鉄不動産の土地が三和商店街の一角にあることを聞いた。下は大正15年のマップ。たしかに”四日市鉄道会社”の建物があったようだ。

商工会議所刊の本から、面白い記事を見つけた。そうだったのかと 思わせる・・・

昭和30年11月、近鉄は海山道、四日市(国鉄)、諏訪駅と市街地を縦断紆曲していた路線を、直線的に短絡化する工事を開始した。

従前の路線は、旧伊勢電気鉄道の路線をそのまま使用していた為、スピード化のほか都市計画上、交通円滑化の上で様々な障害となっていたが、短絡化に伴って国鉄と近鉄との駅舎分離による連絡不便と、国鉄駅周辺の商店街対策などもあって、四日市商工会議所では、国鉄四日市駅の民衆駅構想など、その対応策を関係当局に要望した。しかし、地元商業者優先の立場で構想された民衆駅構想は実現困難となり昭和35年4月、現在の駅舎が完成した。近鉄の路線短絡化と新四日市駅舎は31年9月に完成している。  四日市商工会議所刊“目で見る四日市の100年”より

民衆駅構想が進められて その一部でも実現していたら 現在の本町商店街はどんなだっただろうと想像する。

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四日市漫歩マップ⑦四日市市役所

2021年10月22日 | レモン色の町

明治21年に四日市25か町 戸長役場を上神町に新築(後の四日市町役場)している。市政施行の準備に入った。

明治44年のマップを見ると、高等女学校と第五小学校(現在の中部東小学校後 中央小学校)に西側に建てられている。

明治30年8月1日 全国で45番目に四日市市政施行

大正11年の地図。市役所の位置は変わらない。

昭和13年のマップからは、市役所が現在の位置に移転新築されているのが分かる。

昭和6年 企業、篤志家及び市民の寄付金で、新市役所は竣工した。この時はまだ中央通りはなかった。

昭和21年、空襲後の空撮を見ても市役所は残っている。爆撃は逃れたが、修理程度で済んだのか?下の東西に走る道路が、中央通りの南側になる。

会議場

市長室

 

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四日市漫歩マップ⑥補足

2021年10月20日 | レモン色の町

四日市商業会議所は、明治26年5月に設立され、明治38年8月に浜町に事務所を新築した。

写真には“四日市実業会館”とある。その建物の写真。

追記:商工会議所の水谷さんのお話によると、商工会議所は昭和21年再開されて、従来のまま千歳町で運営されていました。ただ空襲による被害が大きく、修理の必要と地理的に不便だったため、昭和25年に現在の場所に新築されたという事でした。戦争の被害に遭っていたようです。

下の写真 毎日新聞社刊の“三重の昭和史”より 

『四日市港湾を眺望。昭和11年3月待望の新港が27年ぶりに完成 これを記念し3月25日より50日間 四日市港頭で華々しく大博覧会が開催された。』遥か向こうに博覧会会場が望める。そこだけが、光り輝いているようだ。赤線の道路は、現在の中央通りの南側にあたる道と思われる。

注意:上が西

下は昭和21年5月、空襲後の空撮 赤線を引いた道だから、ほぼ中央通りの道に間違いない。

 

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