花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

稲葉翁伝 ⑲ 高砂町

2021年09月27日 | レモン色の町

三右衛門は、明治6年9月20日付で、三重県庁宛“旧桑名城跡廃石払下願”を出している。材木の調達に桑名へ出かけた折、桑名城の荒れ地に残る石垣を見て堤防に利用できればと考えたからであった。

仲間の田中武右衛門が離脱したため、資金の調達は三右衛門一人の肩に重くのしかかっていた。既にこの頃、日当で払う人夫賃は、人足請負の長谷川庄兵衛が店からいくらかもらってきては支払うという状況だった。金融機関のない当時としては、1日も早く埋立地造り、それを利用して資金を作らなければならなかった。三菱汽船に掛け合っても、港が出来たら支店を出して本腰を入れるから待って欲しいとの事だった。三右衛門が金策に焦れば焦るほどデマが乱れ飛んでいった。

左“蓬莱橋”

明けて明治7年元旦、午後になって稲葉家では、県の鳥山権参事ら要人と長谷川庄兵衛ら平素懇意な知人を招待して年酒を出した。献立は、田作り、数の子、牛蒡 蓮根 煮豆、蒲鉾 いり卵、鮒の荒目巻、蛤のお平に酢の物、吸い物に漬物という質素なものだった。

“開栄橋”

夜は、手代や身内に出入りの者加えた二十余人で席を設けている。献立は、田作り数の子などの正月料理の外に、鮒の荒芽巻、鯨肉に蒟蒻、蒸し蛤にボラ、奈良漬という膳であった。席の準備が出来たところで三右衛門は挨拶した。

“開栄橋”を渡ると“稲葉町”。南へ“蓬莱橋”を渡ると“高砂町”

「新年おめでとう。去年はいろいろ骨折りをかけて済まなんだ。今年は波止場工事にかかる。一層苦労を掛けるが四日市の為と思うて頑張ってほしい。そこで、新年の席に町の名前を付けたいと思う。北側の寅高入新田は、ご先祖様のおかげやから“稲葉町”、南側の己高入新田は、横浜の歓楽街高島町と家内の“おたか”の名を記念して“高砂町”、橋の名前に、新浜橋は 橋が港を繁盛させるよう“開栄橋”、掘割に新しく架けた新大橋は繁華街へ行く目出度い橋やから、高砂町の名にふさわしく“蓬莱橋”と付けたい。」

おたかの眼には光るものがあった。この後、南方面に造られた地名に、“尾上町”“末広町”“千歳町”と、高砂町に因んだ名が付けられたことは、先人 三右衛門の遺徳を偲ぶ市民の思いからだったろう。

  郷土秘史 港の出来るまで 稲葉三右衛門築港史より

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 荒神山 吉良仁吉

2021年09月26日 | レモン色の町

第三ラウンドは、荒神山観音寺の争いである。“稲葉三右衛門 築港史 港の出来るまで”に書かれている内容と、高橋 敏著の『清水次郎長』とは微妙に異なる。

桑名の博徒 黒田屋伝蔵の跡を継いだ穴太徳が、神戸の長吉の縄張りであった荒神山観音寺を奪おうとしたと“築港史”にあった。ところが・・・

『清水次郎長』によると、伊勢日永追分の黒田屋勇蔵に絡む騒動でもあり、跡目争いに勝って縄張りを手に入れた子分の穴太(あのう)に対して、三河に追われた神戸長吉が、吉良仁吉、寺津間之介、そして清水次郎長の力を借りて奪い返そうとしたとなっている。一方、穴太徳が平井亀吉、黒駒勝蔵に助力を求めるのは成り行きだった。つまり、清水次郎長と黒駒勝蔵の代理戦争の様相になっていく。

広重東海道五十三次より石薬師 石薬師寺が望める

現在の石薬師寺

三河は寺津の間之介の処に集まった吉良仁吉、大政ら22人は神戸の長吉の助っ人に海路で四日市に着き、石薬師宿に陣取った。

荒神山観音寺

方や勝蔵と亀吉の一党四十人余は庄野宿の穴太徳の陣に駆け付けた。地廻りの役人が調停に乗り出す(福田屋勘之介と梅屋栄蔵は、定五郎橋下で仲裁に入り、荒神山山門下で待機している)が無視、慶応2年(1866)4月6日、参拝客で賑わう荒神山観音寺で壮絶な戦闘となった。荒神山では、次郎長と亀吉、勝蔵は不在で子分同士の斬り合いとなっている。大政が用心棒 角井門之助を倒すが、仁吉は銃弾に倒れ重傷を負う。

大政(左)と銃弾を受けた仁吉

次郎長方、斬死2名、重傷4名、軽傷9人を出して総勢22人中15人が戦闘不能となり、あとは退却しかない。一旦、石薬師の山中に隠れ、夜になって日永追分の善吉の手引きで船を調達、嫌がる船頭をなだめすかして、仁吉の遺体と共に三河の寺津へ戻ることが出来た。次郎長への事の報告は同行した講釈師 清龍と云う男が熱弁を振るって伝えた。

観音寺奥に建つ 仁吉の碑

次郎長は、今回の出入りで伊勢に強固なネットワークがあることを知り、その張本人は、伊勢古市の丹波屋伝兵衛であることを突き止めた。鳥銃40丁、長槍147、糧米90苞を積み四百八十余人を乗せた大軍団は、三河 寺津の湊から伊勢湾を横断して5月21日、宮川を上った上社湾(かみやしろわん)に着岸した。

上社 - 伊勢市/三重県 | Omairi(おまいり)

今に残る 古市の旅館“麻吉”

伊勢古市と「伊勢音頭」 (kabukisk.com)

次郎長は、大政らを派遣して荒神山の一件を糺そうとしたが、伝兵衛はすでに逃亡していた。博徒の出入りというものは、世間体を気にした意地の張り合いであり、斬り合いになると、傷の手当や葬儀代と費用がかさむので、仲裁を入れて手打ちをすることで納める事が最善策であった。

45 丹波屋伝兵衛 (mie.lg.jp)

荒神山が関連する一件を、次郎長対勝蔵というミクロの眼で追ってきたが、日本の歴史というマクロな目で見ると幕末維新の激動は、博徒を巻き込んで同時進行で起こっていたのでございます。 <閑話休題>はいったん終了です

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 荒神山 形原斧八

2021年09月25日 | レモン色の町

天龍川から西へ、数百名の博徒が東海道を走った。その翌年の元治元年、黒駒勝蔵は、次郎長が待ち構えていそうな駿河、遠江は避けて、金城湯池三河に一時の隠家を求めた。三河は、寺津の間之介、吉良の仁吉、形原の斧八の次郎長勢で固められていたが、平井の雲風亀吉(元力士)が勝蔵の兄弟分だったので、ここを拠り所としたのだった。

前芝の燈明台(復元)

その年の6月5日 早朝、勝蔵が亀吉の処に逗留している情報を得た次郎長は、形原の斧八の処へ集合、総勢34人で、戦闘用の二丈(6メートル)の竹を二十余本用意して乗り込む。夜が白々と明ける頃、寝床で朝飯を搔っ込んだ一団は、舟で前芝海岸を目指す。巳の刻(午前11時)着岸、亀吉の屋敷を取り囲んだ。亀吉と勝蔵は二階の障子を明け放し、御油の遊女屋で引き取った若い妾の酌で10人ほどの小宴の途中で、油断があった。

御油の宿(広重 東海道五十三次)

御油 旅人留女|歌川広重|東海道五拾三次|浮世絵のアダチ版画 (adachi-hanga.com)

今に残る御油宿の風情

修羅場となったその場は子分の大岩に任せ、屋外に逃げた二人は農作業の農民の中に紛れ込んだ。闘った大岩らは膾(なます)状態に切り刻まれ、次郎長の手で晒首(さらしくび)にされた。この光景を遠目で見ていた亀吉と勝蔵は、復讐に向かって怨念を燃えたぎらせていく。

大岩らの墓が 形原(訂正:平井)共同墓地に残る。晒首の数と合う

無縁法界の墓・豊川市-東三河を歩こう (net-plaza.org)

<後日譚> 大正2年、亀吉の弟である常吉が新聞記者に語った資料がある。それによると、6月6日、次郎長は形原に止まり、大政が陣頭指揮にあたっていたという。総勢43人、晒首にされたのは5人という事だった。

年末になって、復讐の期を窺がう平井亀吉の処に情報が入る。師走を迎え形原に戻った斧八は、防備が手薄という。

12月27日、世間体を気にして亀吉を残した末弟の善六は、総勢二十余名で前芝から舟に乗り、昼頃 形原の磯に着く。

現在の形原漁港

敢えて船の纜(ともづな)を切って船を流し、まさに背水の陣で臨んだ。その日は雪で一面真っ白。雪を蹴立てて斧八宅に突進する。突然 仕込まれていた張筒(仕掛け花火のようなものか?)が轟音とともに爆発、斧八は、善六一味がひるんだ隙に寺津の間之助宅を目指して逃げ出した。結末は、斧八の子分7,8名が惨殺されて終わったとある。

『東海道遊侠伝』によると、慶応2年12月5日、討ち入ったのは「黒駒の徒十余人」で、次郎長の子分 豚松と鳥羽熊が防戦したとあった。豚松の奮戦はすさまじく、斬られた断腎(腸?)を拾って自分で修復するやら眼球は飛び出すやら、あまりの形相に治療した医者を驚かせたという。

次郎長、勝蔵の決戦は荒神山へと続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 荒神山 黒駒勝蔵

2021年09月24日 | レモン色の町

安政3年(1856)、黒駒勝蔵は、甲州は竹井村の中村家(兄 甚兵衛・弟 安五郎)の子分となっている。この時すでに、安五郎は島抜けしていた。島抜けは捕えられ獄門である、幕府は絶対に見逃すわけにはいかなかった。

文久元年(1861)、関東取締出役 道案内 国分三蔵は勝蔵の子分を捕え、これ見よがしに殺害した。今度は勝蔵が殺した三蔵の子分を惨殺させて復讐する。再度三蔵が勝蔵の子分を殺害させるという血なまぐさい殺し合いが繰り返された。見かねた博徒 信州岡田村 滝蔵は、中泉代官に訴え出た。中泉は十手を預かる大和田友蔵に捕獲を命じる。友蔵は次郎長の朋友である。これで、次郎長は勝蔵を倒す“大義名分”を手に入れることが出来た。

清水次郎長

次郎長と勝蔵の闘いは各地の博徒を巻き込んで、遠州(天龍川)、三州(三河)、勢州(伊勢=荒神山)で盛大に行われた。

広重 東海道五十三次 藤枝宿より

文久3年(1863)4月、黒駒勝蔵は、藤枝宿で大和田友蔵の子分を拉致して友蔵に宣戦布告をした。5月10日、続いて子分7人と共に友蔵宅に夜襲をかけ、天龍川西岸の子安の森に黒駒党80人で陣を敷いた。対する友蔵は東岸に100人の陣を敷く。お互いが鉄砲を放ってけん制し、時の声をあるだけの膠着状態が続いた。友蔵から助けの書状を受け取った清水の次郎長は、その日の内に大政小政ら主力の24人を率いて、駆け付けた兄弟分 伊豆天城下 狩野の石屋重蔵の一団と共に翌午前1時頃に友蔵の陣に着いた。

掛川宿 遠州凧

対岸の布陣を見た勝蔵は、勝ち目はないといったん退く。東へ移動する勝蔵を追って次郎長の一団170人は、掛川まで来たところで掛川の警吏役人に出くわす。この時、次郎長は役人に向かい豪語した。『幕府の末世にあたり、賊を拿(だ)し盗を捕る。却って(かえって)その力を借りる』毒を以て毒を制すという事だろうか?次郎長・友蔵軍と勝蔵軍を合わせれば4,500名にもなろうかという博徒の数は、もはや幕府や藩の力では鎮圧できる域を超えており、危険水域に達したことを示していた。

兵藤恵昭氏は、ブログで勝蔵についてこう書いている。

黒駒勝蔵は、講談や芝居で、次郎長の悪者敵役のイメージが強く、勤皇博徒の名は知られていない。しかし、勝蔵は根からの勤皇主義者でもなく、反幕府思想の持ち主でもない。権力に対しての反逆に共鳴する侠客ではなかったか?

悪者にされた勤皇博徒・黒駒勝蔵 - 兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義 (goo.ne.jp)

兵藤恵昭さんのブログは、『アウトロー近世遊侠列伝』高橋 修著 敬文社 による記載事項であると“カエルの置物”さんから コメントでご指摘をいただきました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 荒神山 代理戦争

2021年09月21日 | レモン色の町

穴太徳(あのうとく)が、加勢を頼んだ者の中に“武井のドモ安、玉手箱の長次等 黒駒勝蔵の身内で、総勢430人と云われたが・・・”とあった。穴太側に黒駒党が付くという。黒駒党ってどういう集団か?ムム・・・荒神山の決戦には背景があるのでは?と、読んだ本がこれであります。(名前の羅列でムツカシイ!)

富士川舟運を使って、甲州の米を江戸へ運ぶ、反対に塩荷を駿州から甲州へ運ぶ、この莫大な利益を生む流通路をめぐって、駿州と甲州の商人、なかには博徒まで入り込んでの紛争が絶えなかった。

甲州竹井村の中村家は郡中取締役を拝命している名家であり博徒でもあった。中村兄弟の弟 安五郎は罪を犯して流罪となったが、ペリー艦隊が浦賀に来航した混乱に乗じて島抜けし、黒駒勝蔵と硬い契りを交わした(というより、勝蔵が中村一家に弟子入りしている)。島抜けは大罪である。幕府の関東取締役出役 道案内国分三蔵は、安五郎を騙して捕らえた。安五郎は翌年牢死している。この恨みを引き継いだ黒駒勝蔵は、幕府に反発している。一方、幕府は一貫して勝蔵をマークしていて、清水次郎長らを使っての捕獲を企んでいた。これで、追手の清水次郎長とお尋ね者 黒駒勝蔵(黒駒党)の図式が出来た。荒神山の決戦も、この関係の代理戦争と云われる。江戸から明治へ、幕府側の次郎長に対して官軍派(討幕派が適切か?)の勝蔵という背景もあったのでございます。     つづく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲葉翁伝⑱ 友の離脱!

2021年09月20日 | レモン色の町

工事に取り掛かるや、準備万端で始まった長谷川正兵衛の仕事は早かった。数人の人夫を乗せた数艘の浚渫船で底の土砂を搔きあげては積み上げていく。そこでは根固めの杭打ち作業が行われている。三本の丸太で組まれた櫓(やぐら)に綱を通し、三カ所から引っ張ってはドスンとおとす。“ヨイトヨヤマカ、ヨイトマカセ”と、のどかな杭打ち唄があちこちから聞こえていた。

写真集四日市の100年より(明治7年頃)

他人の成功を妬むのは人の常、まして営業上の利害得失が絡んでいればなおさらである。驚異的な港頭工事の進行を見て妨害しようとする動きが出るのも当然であった。どんなデマが飛んだのか・・・

「許可の指令もないのに、県庁を踏みつけてあんな横着な工事をやっている稲葉(三右衛門)も田中(武右衛門)も長谷川(正兵衛)も、今に数珠繋ぎになって監獄へ打ち込まれ、臭い飯を喰わねばなるまい。」

「三右衛門や武右衛門は波戸場を煮汁にして、浜洲の埋め立てだけをやり一儲けする考えだから、波止場も燈明台も良くなる気遣いはない。初めからやる気もないのに、御上を騙しているのだ。」

「県庁では開墾地を取り上げてしまう方針のようだから、せっかく埋め立てた土地も官に没収されて、入費損の元の木阿弥になるのが落ちだろう。こんな落とし穴に巻き添えを喰わされた武右衛門が気の毒だ。今に三右衛門も武右衛門も庄兵衛も屋根にぺンペン草を生やすだろう。」

明治末期の四日市湊

そして、回漕汽船側は、稲葉と田中を切り離す策に出た。

「のう稲葉さん、家内のおひさ(回漕会社側に同調する、田中武兵衛の娘)が度々本家に呼ばれて、今日限り手を引け。今後一切、波止場工事には関係するな。」と云われておりますんじゃ。「埋め立てをして橋を二つ架ける(蓬莱橋と相生橋?)。それ迄は費用が出せても、お金のかかるのはそれからじゃ。」

開栄橋西詰より 正面に蓬莱橋、右に末広橋が見える。(明治末期?)

2021年4月14日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

「先日も会所(戸長)の用で県庁へ行ったら、『これから波止場と燈明台の工事に掛かるが、今後 莫大な資金が必要となる。竜巻などの災害に負うたらえらいことじゃ。そんな危ない橋を渡らんでも、徳田屋は回漕会社の荷を扱うだけでやっていける。持ち船の少ない三菱に味方して回漕会社を敵に回すのは損じゃ。』とこう云われました・・・。」両人の間には沈黙が続いた。

出来たばかりの四日市湊

2021年4月21日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

後日、三右衛門はこう語っている。

「徳田屋さんから話を聞いた時は本当に吃驚した。が、暫く気を静めて話を聞いていると、怒りも恨みも忘れ去って、こんな正直な仲間を引っ張り込んだばかりに、苦労を掛けたり心配させたりして誠に済まないという自責の念で胸が一杯になりました。」 郷土秘話 港の出来るまで 稲葉三右衛門築港史 より

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲葉翁伝⑰ 対立!

2021年09月19日 | レモン色の町

旧暦の明治6年3月12日、麗かに晴れ渡った彌生日和であった。朝10時から、今の、相生橋東詰めの浜洲で、質素ながらも厳粛な地鎮祭が執行された。祭主は、稲葉三右衛門と田中武右衛門、式は諏訪神社の宮司が行った。来賓には大井水哉、山中香斉、村田政延、田中武右兵衛、森寺源助ら稲葉田中両家に出入りするもので、工事は請負師の長谷川庄兵衛であった。県庁から岩村参事と鳥山権参事の出席がなかったのは正式許可が出ていなかったからと思われるが、港を生命とする回漕汽船側からは、黒川氏をはじめ誰一人の参加もなかった。

工事現場に建つ三右衛門と思われる

これは、三菱汽船と回漕汽船との間の意見の隔たりが原因であった。三菱汽船は、新しい港を、当時の開栄橋から東の新開地に港を造り、北(稲場町)を海運業者の根拠地とし、南(高砂町)に繁華街を持ってきたいと思っていたが、回漕汽船側は、現状維持のまま、蔵町筋から納屋河岸一帯を海運業者の本拠地にという意見だった。まさに革新と保守、積極と消極、進取と堅実との対立だった。

顔の様子が今一つはっきりしないが、この頃はひげがない

そして、両派対立の構図は、ますます混迷を深めていった。明治8年 三菱汽船は四日市代理店を支店に昇格、北納屋から新開地の稲場町へ移した。そして、回漕汽船と激烈な競争を演じた挙句、回漕汽船を解散へと追い込んでいる。この対立が露骨化して行くにつれ、三右衛門の事業進行に大きな障害となり、必要以上に三右衛門を苦しめたのだった。ー郷土秘話 港の出来るまで よりー

<追記> 三重県のWebページを見ると、三右衛門翁の事業は、途中で頓挫していてその後、県が事業を引き継いで完成したと出ていた。あまり良く書かれていない印象である。岩村参事の亡霊か?真実は如何に!

稲葉三右衛門の「夢」未完?-直後に県が築港事業構想 (mie.lg.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲葉翁伝⑯ 岩崎彌太郎に会う

2021年09月17日 | レモン色の町

明治6年正月、三右衛門は実兄である川原町の山中伝四郎宅へ、年頭の挨拶に出かけた。

「おお、九十郎か、丁度良い処だった。今お前の宅へ使いをやろうと思っていたところだ」

「何か、急用でもできましたか。」

「急用も急用、大至急の用事が出来た。マアこの手紙を読んでくれ。」

伝四郎から、三菱汽船会社 横浜支店の後藤伊兵衛宛に、港改築の件で連絡してあった、その返事が来たのだ。社長 岩崎彌太郎は、年が明ければお話を聞きたいとのことだった。1月5日の夕刻、四日市港を去る貫効丸の甲板上に立つ両人の顔には、鈴鹿連峰に燃ゆる真っ赤な希望の光が写っていた。

岩崎彌太郎

安芸市 : 三菱創業者『岩崎彌太郎』 (city.aki.kochi.jp)

二人が岩崎邸を訪問したのは8日の朝だった。三右衛門は図面を広げ、この3年間の経過を手短に説明した。

「会社(三菱汽船)の代理店主なら身内も同様じゃ。私も四日市には早うから目を付けておるんじゃ。万事はこの岩崎が飲み込みました。井上と大隈に会って談判しましょう。三菱では、すでに四日市に支店を置いて、東京名古屋大阪間の中継港にする計画をしておりますのじゃ。シッカリやって下さい。」

大蔵省

2:官庁街となった大手町 ~ 丸の内・大手町 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産 (smtrc.jp)

井上は時の大蔵大輔 井上 馨、大隈は云うまでもなく後の大蔵卿、当時大蔵省事務総裁を勤めていた参議 大隈重信、長州の井上と佐賀の大隈、土佐の岩崎はかつて同志の仲、その交情は今も昔も変わりはない。

長州ファイブの井上馨と・・・

歴代総理の胆力「大隈重信」(4)無類の恐妻家で外に女なし | アサ芸プラス (asagei.com)

彌太郎は翌9日、馬車で大蔵省に出かけている。

「港は国の宝じゃ、その港湾を個人が自費でやろうというのに、地方の小役人が私情に走って、妨害するとはけしからん。」と怒鳴り込んだ。

驚いたのは井上大隈の二人、さっそく係官を四日市に出張させることとなった。

時の人(明治2年)▷伊藤博文・大隈重信・井上馨 | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives (jaa2100.org)

こうして、稲葉三右衛門と田中武右衛門の“四日市波止場建築事業”はようやく着工となった。

 

<カオさんへ> 昭和43年の頃の新味覚周辺図を掲載します のれん街の中にありました

この後、左上のフタバリハツさんのあたりにも店舗が出来たと記憶しています。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲葉翁伝⑮ 山中家での話合

2021年09月15日 | レモン色の町

県庁での返事は、波止場修復には戸長の承認がいるという事だった。明治5年の管制の改革で従来の庄屋、名主を廃し、各地域に戸長、副戸長が置かれた。この年の4月、戸長はじめ副戸長が山中邸に集まった。当主 山中伝四郎は三右衛門の実兄にあたり、先代 三右衛門の世話で、川原町の山中家に養子として来ていた。山中家は、尼子十勇士の筆頭、山中鹿之助の血を受けた名門である。

2015年11月17日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

「お忙しいところをご苦労様です。実は前々から話のありました波止場修築の件について、是非皆さんにご相談願いたいと存じまして。」

明治36年の開栄橋 橋を渡った先 左に回船問屋 稲葉三右衛門宅があったはずであります

戸長 関井文之進がおもむろに口を開いた。集まった面々は、中町の荷主 村田七衛門、川原町の山中伝四郎、中納屋の稲葉三右衛門、田中武兵衛、荷主の森寺源之助ら副戸長の5人である。

「・・・ご承知のように、稲葉三右衛門、田中武右衛門のお二人から、波止場修築願書に戸長の諒解が要るという事でお集まりいただいたのですが、県庁の岩村参事は反対、鳥山副参事は賛成という意見の違いが出ております。」

参事 岩村定高の背後には船会社の黒川彦右衛門らがいる。彼らは、三右衛門が波止場を築いて埠頭を独占し、港を私物扱いにされては困ると考えていた。

それなら、と田中武兵衛は「船会社の人たちも仲間に入って、波止場の修築に一肌脱いでもらえば結構だし、場合によってはあの人たちにやって貰っても、別に依存はない訳ですが。」

三右衛門も「船主の人たちは、ご維新後の今日でも、昔のお伝馬気分が抜けず、公儀御用の名の下で駅伝事務を取り扱ってきたように、今でも御上の力を頼りにしています。」

3:日本初の鉄道の開通 ~ 芝(田町) | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産 (smtrc.jp)   より

伝四郎が云う「政府は海上の外に、陸上にも汽車を走らせる計画で、すでに東京横浜間には今年の秋までに鉄道が開通するし、又通信の方は、全国に郵便制度を布いて西洋と同じく政府の力で、手紙や小包の配達をやるそうですが・・・」

そのためには港の改築は必要であったが、最後に井関は「どうです稲葉さん、ひとつあんたの力で、農民、漁民、和船組、洋船組へ説得していただきませんか?」という事で、晩餐の席となった。※ 話し合いは 今も昔も 変わらない・・・と思います

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲葉翁伝⑭ 県参事 岩村定高

2021年09月14日 | レモン色の町

稲葉三右衛門は、何人とも手をつけることのなかった難工事を、個人で設計から見積り、湊を生業としている人々への説得等を行い、明治4年1月13日、田中武右衛門と共に県庁を訪れた。

博物館明治村 三重県庁舎 : レトロな建物を訪ねて (exblog.jp)

実は、明治4年の廃藩置県施行後は官庁の移動が多く、頼りの浦田長民はもう四日市にはいなかった。四日市は、明治2年8月 渡会県の管轄に、明治4年11月安濃津県に、その後、安濃津県は明治5年3月に三重県と改称された。この時着任した丹羽賢参事は、県庁を一時四日市へ移している。しかし、後任の岩村定高参事は翌6年8月に再び津へ戻した。

岩村定高参事に面会を求めたが多忙であったため、権参事 鳥山重信に会見している。

「イヤ、その話なら前任者から聞いております、いろいろご苦労ですナ。して、その書類はお持ちになりましたか?」

「ハイ、これが願書の案文、目論見書と見取り図です。お目通しいただきご指導を賜りたいと存じます。」

「・・・これはなかなかよく出来ていますね。しかし、今すぐ返事も出来ません。御趣旨を詳細拝見しました上、上司 岩村定高にも申し上げたいと思いますので、この趣意書をしばらくお預けください。県庁といたしましても出来ることは致しましょう。」

その後、県庁からは何の返事もなかった。実は、参事 岩村定高は、嘗て明治大帝の行存所となった黒川方に止宿していて、彦衛門から事の次第は聞いていたのだった。3月10日になってようやく岩村参事から出頭の要請が来た。

岩村定高 - Wikipedia

「いや、これはなかなかの大事業ですぞ。個人が自費でやるのは無理じゃないかね。」素人がやる事業ではないと、冷たい返事が返ってきた。

追記:岩村定高は、明治9年 松坂に端を発した伊勢農民暴動を鎮圧していた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする