花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

想ひでのヒィロゥ漫画 其の1

2022年04月30日 | レモン色の町

昭和32年~35年は、月刊誌にヒーローマンガが次々と現れました。そして、テレビの普及に乗って放映、映画界も黙ってはいません。スケールアップして映画化されました。

月光仮面 作・川内康範 画・桑田次郎

 「少年クラブ」講談社に連載(昭和33年5月~36年10月)

◆TBS系テレビでも放映された(昭和33年2月24日~34年7月5日)放映初めは10分番組だったが、3か月程して30分番組になった。祝井十郎役に大瀬康一、二代目の五郎八に谷寛一が演じている。

(25) 月光仮面 主題歌 - YouTube

赤胴鈴之助  作・画 武内つなよし

 「少年画報」少年画報社(昭和29年8月~35年12月連載)

◆ラジオ東京(TBS系)で、昭和32年1月6日~34年2月14日 月~土曜日まで午後6時5分から20分間放送。さゆり役に吉永小百合、しのぶ役に藤田弓子、ナレーターに山東昭子

◆TBS系テレビ 昭和32年10月2日~34年3月25日 水曜日の午後6時15分から30分間 鈴之助役に尾上緑也、さゆり役に吉永小百合

 (25) 赤胴鈴之助の歌(河野ヨシユキ・宮下匡司) - YouTube

まぼろし探偵 作・画 桑田次郎

 「少年画報」少年画報社(昭和32年3月~36年12月連載)当初のタイトルは「少年探偵王」だった。

◆ラジオ東京(TBS系)で、昭和34年2月16日~35年10月22日、月~土曜日 午後6時5分より20分間放送。

◆TBS系テレビ 昭和34年4月1日~35年3月27日 夜の番組が日曜日の9時より30分間に変わっている。進役に、加藤弘、他に吉永小百合、大平徹などが出演している。吉永小百合ちゃんが可愛い!(ジジイのタワゴト)

(25) 【151】まぼろし探偵の歌(岩瀬 寛&上高田少年合唱団)KARAOKE 唄:青春太郎 - YouTube

少年ジェット 作・画 武内つなよし

 「ぼくら」講談社(昭和34年2月~35年12月連載)

◆フジテレビ 昭和34年3月4日~35年9月28日水曜日の午後7時30分より30分間。「新少年シェーン」となって昭和36年7月2日~37年4月1日の日曜日9時より30分間放映。出演に和泉雅子。挿入歌“ぼくのシェーン”は宮城まり子が歌っている。

歌詞のみ:僕のシェーン 宮城まり子 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索 (utamap.com)

(25) Shonen JET - YouTube


”マンガの原点は貸本だね”その三

2022年04月29日 | レモン色の町

週刊少年サンデー発売(昭和34年)までに、「小学1年生」「ぼくら」「少年画報」「少年」「おもしろブック」等の月刊誌が隆盛を極めた時代がありました。貸本時代、月刊誌の時代、そして週刊雑誌と移っていったのでした。

佐藤まさあき

「貸本マンガの出版社というのは結局、資本の無力さがある。だから大手出版社と一戦も交えず壊滅していった。」東考社社長であり辰巳ヨシヒロさんの兄である桜井昌一氏は語っています。

平田弘史

「少年サンデーとかマガジンが出た頃は、貸本業界は影響を受けていなかった。テレビの影響が一番大きかったと思う。それに、『青少年育成審議会』から悪書追放で叩かれた。教育者がほとんど敵視していましたからね。衛生的にも良くないとか、貸本は市民権を得ていなかった訳です。

白土三平

しかし、不思議なもので、昔、三流といわれたものが今の時代では一流マンガ誌に堂々と入ってくる。それは時代の推移ですね。ただ、今の劇画の隆盛(昭和62年頃)は、貸本マンガを抜かしてはお話にならない。原点というべきでしょう。」

いばら・美喜


“マンガの原点は貸本だね” その二

2022年04月27日 | レモン色の町

昭和31年4月、大阪の日の丸文庫が、短編集『影』を発刊しました。初めはそれほどの売れ行きでもなかったのですが、ハードカバーから、安くあがりスマートさを狙ったA5版の巻カバーに変えると大ヒットしました。

『影』の後すぐ出た『街』は、関西のさいとうたかおや辰巳ヨシヒロら“劇画工房”の人たちでした。東京のマンガは、子供マンガの伝統を引く上品なマンガでしたが、関西の劇画は勢いがあるが下品でヤケクソでした。

発行部数は、最盛期時の昭和32年頃で『影』は8千部、『街』で6千くらいでしたから、実際、貸本で借りて読んでいるのはその30倍くらいあったと思います。

貸本マンガ家は二百人程いたと思いますが、全員が手塚治虫さんの影響を受けています。手塚さんを別格とすれば、「劇画」という名前を付けた弟の辰巳ヨシヒロでした。「影」や「街」の形を作ったのも弟です。

“劇画工房”の集団が、関西から東京へ出てから、さいとうたかおさんがすべてになったのです。さいとうさんと白土三平さんは教祖みたいなもんですが、白土さんも初期の頃には手塚さんの影響を受けています。

独自なかたちで突出していたのが小島剛夕さん、平田弘史さん、永島新司さんです。小島剛夕(四日市出身)さんは描くのが早かった(人の3倍の速さで描き、仕上がりが崩れない)し、平田弘史さんはストーリーも絵も凝っていました。

貸本業界が下り坂に向かった昭和38年頃、私(桜井昌一)が関係を持っていた17の出版社はほとんどが潰れ、大阪の日の丸文庫1社だけになりました。絵描きさんも20人程しか残らず、みんなやめて悲惨な状態でした。つげ義春さんも、襖か障子張りをしていたようです。資本力の弱い業界でした。

それが数年経って大手からものすごい需要が入ったんです。週刊「少年サンデー」や「少年マガジン」の発刊でした。


未知の諏訪駅西ゾーン 後編

2022年04月25日 | レモン色の町

辻俊文氏が撮った、諏訪駅跡地から西方向の写真。

自転車の学生 昭和32年2月 工業高校の生徒さんでしょうか?

同じあたりから、やや北方向(港楽園方面)昭和32年3月2日とありました。新駅を降りて,諏訪新道方面に向かう人々。

そして、昭和31年9月18日中日新聞社の空撮です。

新駅が出来たのですが、まだ電車の通っている様子が見えません。諏訪駅西側を拡大します。

手前湯の山線に貨物列車が走り、諏訪駅を出た客車がみえます。エッ!衝突しないのでしょうか?進行方向が違うのですね。単線でした

念のため名前を入れました。発見!戦前の川村別邸が、戦後にカトリック教会となり、 昭和31年9月18日には、整地されています。

さて問題のこの写真はどの位置か?

八王子線のホームの屋根がブイ字型です 東からは“のりば”の字が見えますが、上の写真には文字がありません。

此処からの写真と思います。諏訪劇場の建物がすぐ横にあります。諏訪劇場を出た人を含めて大勢の人々が、電車の通過を待って、線路をまたいでいると想像しますが・・・踏切は構内と現・公園通りからの踏切の二カ所だけでした。街中の駅。結構自由に渡っていたようです。

 


未知の諏訪駅西ゾーン 前編

2022年04月24日 | レモン色の町

昨日、娘が“四日市市・三重郡航空写真集”中日新聞社2009年保存版を見つけてきた。そこに新しく出来た近鉄四日市駅(昭和31年9月18日)の空撮が載っていた。「これで諏訪駅西側が分かる!」と喜んだ。

諏訪駅を廃止して現在の近鉄四日市駅をつくる、通称“短絡化”といわれたが、昭和31年9月に行われた。四日市の市街地にとっては大激震で、力のあるお店は諏訪新道から近鉄駅前へドドッと動いた。当時、駅の候補地は、戦後の区画整理で駅と駅を結ぶ70メーター道路が確保され、“講和記念大博覧会”が開催され“子供の国”の会場内であった。西は田圃の中に工業高校が建ち、右手には天理教、左には鵜の森神社があり、正面の松本山を避けるように湯の山線が伸びていた。

昭和29年9月撮影 諏訪駅ホーム西側から湯の山線を望む 本町、水谷氏提供

諏訪駅が廃止される昭和31年以降の写真は、辻俊文氏が詳細に記録されていて変遷の様子が分かる。しかし、諏訪駅の西側がハッキリしなかった。川村鉄工所と田圃だけの未開発地は、辻氏の写真からはただひたすら広い荒野にしか見えなかった。

昭和32年2月22日現・ふれあいモール付近 辻 俊文氏撮影

昭和30年頃のマップ

新日本拝見 週刊朝日 昭和32年3月17日 前田憲司氏提供

駅前開発が進む空撮。しかし、この写真からは 左側の諏訪駅西側が写されていませんでした。


“マンガの原点は貸本だね”その一

2022年04月23日 | レモン色の町

昭和62年発刊の“幻の貸本マンガ大全集”文芸春秋編より、巻末に対談集が載っておりました。一人は長井勝一氏。大正10年生まれで青林堂を起こし、昭和30年に『ガロ』を創刊させた人です。もう一方は、昭和8年生まれの漫画家、櫻井昌一氏で辰巳ヨシヒロさんの兄です。

貸本屋という商売は戦前からあったが、昭和27年頃から関西方面から急速に伸び始めたと、前回紹介した「ネオ方式」に触れている。昔は古本を仕入れて貸し出していたが、昭和29年から30年頃、仕入れた新刊で貸し出しを始めたので、急速に伸びた。戦後20年代は『赤本』といわれた60円〜70円くらいの絵本とかぬり絵が主だったが、貸本が2~30円で出だすと『赤本』は淘汰されていった。

昭和28年ごろから貸本マンガ専門の出版社は増えはじめ、昭和31~2年頃には、全国で貸本屋が3万軒あるといわれた最盛期を迎える。ところが35年頃からもう衰退がはじまるのです。

貸本マンガというと『影』とか『街』といった短編集ですが、当時は売れっ子作家が少なかった。売れる作家が一人一本描いていたのでは、冊数を多く作れない。そこで売れっ子作家には数ページ無理を言い、後は他の作家の作品を集める、こうして短編集の貸本マンガが出来たわけです。

ちょうどその頃、推理小説ブームがありました。


昭和30年代の貸本屋の世界

2022年04月22日 | レモン色の町

出久根達郎氏のエッセイには楽しませていただいている。“つげ義春コレクション”ちくま文庫の解説にも投稿してみえた。

昭和34年の3月に茨木県から集団就職で東京に出た出久根氏は、15歳で中央区月島の古書店に就職した。

当時のほとんどの古本屋は貸本屋を兼業していた。当時は貸本屋の全盛時代。都内には400軒ほどの古本屋があったが、貸本屋はその4倍の数だった。「ネオ方式」という新しい商法が発明されて、客の支持を得たのである(本が高価だった江戸時代から、貸し本業は盛んだった)。

それまでの本屋は、貸し出すとき本の代金分を預かり、戻された時にそこから読み賃を引いて返していた。裕福な者でなければ利用出来なかった。ところが神戸の花森松三郎氏は、保証金システムをやめ、身分証明書や米穀通帳の提示で信用貸しする方法を考案した。この「ネオ方式」は、たちまち全国に広がった。新刊が10円、15円で読めたのである。月刊誌であれば10日間ほどが勝負で、そのあとは古書として店頭で売った。この売り分がもうけである。

当時劇画と呼ばれていた「街」「影」「Ⅹ」「鍵」などといった漫画が流行して、大抵がソフトカバーの糊付け製本だったから、短期間でバラバラになった。新刊が入荷するとドリルで穴をあけタコ糸で綴り直し、ビニールをかける。今でも図書館の本はビニールがかかっている。

辰巳ヨシヒロは怪奇漫画の様相でした

貸本屋は四日市にもあって、場所は小学校の近くだった。中部西は、学校の東南の路地。浜田小学校では、北東の角にあった。裏表紙に小さい袋があってカードが入っている。おばさんがカードに貸し出しのメモをしていた。

学校から帰ると、座敷でゴロゴロしながら漫画を見る。末っ子だったから、姉や兄に云いつけられ、読み終わった本の交換にやらされた。

「隣室の男」復刻版で持っています こどものころ見たので懐かしいデス

白土三平の「忍者武芸帖」は引っ張り凧だった。東京の月島は若い工員が多く、まず彼らが熱狂した。学生は最初、内容が残酷すぎると鼻であしらっていた感があった。自分も初めて見た時、斬られた手が飛んだりした残酷なシーンがあって、大人の漫画だなぁと感じた。そして白土三平は、昭和40年代になると、大作「カムイ伝」を発表する。

貸本屋もやがて廃っていく運命にあった。昭和30年代の中ごろまでだったのでございましょうか。


懐かしのサザエさんキーワード辞典⑤トースター

2022年04月20日 | レモン色の町

昭和30年 マスオさんたちは、トースターのことを“パン焼き器”と呼んでいます。昭和30年代にはティーバックの紅茶が出始め、コップ等の洋食器も普及していき、朝食でパンを食べる人たちが増えていきました。ちゃぶ台からテーブル&イスへと変化していったのもこの頃です。ポップアップ式トースターは2枚のパンの両面を焼くことができ、焼きあがるとパンが跳ね上がる仕掛けでした。

もうひとつ前の横に開くトースター

当家も朝はパン食でした。パンを1斤単位で買い求め(6枚切り)、マーガリンを塗って食べました。粉末が缶に入ったミルクだった記憶があります。

昭和32年、星崎電機さんがジュースの噴水が見える自動販売機を開発、10円噴水ジュースとして話題になりました。そして、昭和37年にはジュースのコップ販売式自動販売機が登場、コカ・コーラ専用自動販売機も登場しました。瓶192㏄で35円。

見かけなくなりました 衛生面でよくなかったそうです


懐かしのサザエさんキーワード辞典④ アメリア・ブルマー

2022年04月19日 | レモン色の町

運動会でおなじみだったブルマーの原型は、アメリカの女性解放運動家エリザベス・スミス・ミラーさんが考案(1800年代)、同じ女性解放運動家であるアメリア・ジェンクス・ブルマーさんにより世界へと広まりました。最初はひざ下までのズボンとショートドレスの組み合わせでしたが、運動着として改良されて、女性が運動をする際に下半身に着用する衣服として普及しました。

提灯ブルマーの生地は黒の綿製やナイロン入りのもので伸縮性がありませんでした。ウエストと裾口にゴムが入っており、それ以外はギャザーやブリーフがついていて提灯のように膨らんでいてゆとりがあった。(説明がくどいようですが、想像できますよね)また、この時代、小学校の運動会では、子供たちは白い足袋を履いていました。(今日は、何を言いたいのでせうか???)


懐かしのサザエさんキーワード辞典③

2022年04月18日 | レモン色の町

昭和43年

 「愛のスカイライン」(日産)

 「お正月をうつそ!」(フジカラー/富士フィルム) ※お正月前になると盛んに放映していました。樹木希林なんかも出演、お正月気分が盛り上がったコマーシャルでした。

昭和44年

 「オー、モーレツ」(丸善石油(現・コスモ石油/丸善ガソリン100ダッシュ)※小川ローザさんの短いスカートが吹き飛ばされる。忘れ難いコマーシャルでした。

 「はっぱふみふみ」(パイロット/万年筆)※大橋巨泉さんの18金ペンでしたね。

 「ハヤシもあるでよ」(オリエンタル/スナックカレー)

昭和45年

 「男は黙ってサッポロビール」(サッポロビール)※三船敏郎さん

 「ウーン、マンダム」(マンダム)※チャールズ・ブロンソンでしたっけ。

 「振り向かないで~の人」(ライオン/エメロンクリームリンス)※“泣いているのか 笑っているのか 後ろ姿が・・・”クリームリンスの宣伝だったのですね。

昭和46年

 「死んでもらいます」(アサヒビール)※高倉健さんですか?

昭和47年

 「ゴホン!といえば龍角散」(龍角散)※学校へ持って行って、口から噴き出していました。薬と思ってなかったんですね。

 昭和48年

 「三分間待つのだぞ」(大塚化学/ボンカレー)※ラーメンでもカレーでもなんでも3分間待ちました。ところが、生めんになったら5分でした。

 「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」(交通安全運動の標語/高知県の警察官が製作)※列島改造論が一段落した頃ですね。

昭和49年

 「英語でやってごらんよ あんた外人だろ?」(松下電器 現・パナソニック/クイントリックス)

 「ちかれたびー」(中外製薬/新グロモント)

 

40年代に比べて、昭和30年代は、キャッチコピーにも元気がありましたねぇ~

(5) CMベスト10 昭和40年代 〜テレビ探偵団 - YouTube