花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め81関西鉄道⑪

2020年06月30日 | レモン色の町

大隈重信公ともあろう大物が、なぜに官設鉄道を批判し、一民間の関西鉄道擁護に回ったのか?ここで大隈重信について調べた。(ウィキペディアより)

関西鉄道の風刺画「さあこうやって貝焼くをしてしまって それから又腕比べだ」官鉄が受けの立場か?「貝焼きをして また火の手を上げて来るな よしよし こっちも了見がある」と挑戦に応じています。

佐賀藩の上士の家に生まれた。明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府に抜擢され、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治14年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。(官営鉄道批判は、この頃の発言と思われる)

当時の亀山駅構内「鬼鹿毛」の入れ替えをしているのは「望月」関西鉄道略史より

明治14年の政変とは何だったのでしょうか?再びウィキペディアさんにご登場です。

明治14年に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議員内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上薫が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門門下生を政府から追放した政治事件である。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の明治23年に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。

関西鉄道「雷光」訂正「電光(いなずま)」下総氏がこだわっている間違い箇所です

大正3年には再び内閣総理大臣となり、第1次世界大戦への参戦、対華21か条要求などに関与した。また早稲田大学の創設者であり、初代総長を勤めた。

持論を展開して しばしば政府批判を繰り広げ 対抗する そんな大隈卿の性格が出た 関西鉄道擁護論だったような気がします

 


市井からの眺め80関西鉄道⑩

2020年06月28日 | レモン色の町

明治36年11月20日協定解除になると、関西鉄道は、運賃の低減に積極的に乗り出した。鉄道作業局(官営鉄道)も運賃値下げに応じて名古屋~大阪間の旅客運賃を値下げした。翌37年1月11日関西鉄道がさらに運賃を低減すると、鉄道作業局でもこれに対応して運賃低減を行い、貨物についても誘致に努め、競争は激化の一途をたどった。

そして、関西鉄道では、運賃を低減するばかりでなく乗客にうちわや手拭いを配りついには弁当まで景品につけるという事態を招いた。

名古屋において東京の角力と関西の角力が合同興行を行ない、次の興行地大阪へ行くのに、関西角力は関西鉄道を利用し、関西鉄道では車両の外側にしめかざりなどをして楽隊まで乗せて大阪入りをした。東京の角力は官営鉄道を利用したが、もし関西鉄道に乗ったら東京へ帰るのに官鉄に乗せてくれないと困るという理由からだったという。

常識外れのこの競争に鉄道創業の功労者 大隈重信は非は政府にあるとして政府を攻撃した(こんな時、不利な立場は民営であると思ってた。意外な展開デアリマス)

関西鉄道の広告に、奈良の月ヶ瀬梅林の宣伝があったので調べました。

名勝 月ヶ瀬梅林

 元久二年(1203)に菅原道真を産土神(うぶすなかみ)として真福寺の境内に祭祀し梅樹を植えて神霊を慰めたのが始まりである。江戸時代には、紅染の原料「烏梅」(うばい)が、京の都へととぶように売れたので、村人は梅樹を競って栽植した。

 文政年間斎藤拙堂の「梅渓遊記」で紹介され、頼山陽をして、「非親和州香世界 人生何可説梅花」と嘆賞せしめたように梅花の里と化し、奇岩、怪岩や山嶺重畳として、渓流に迫る絶景となった。以来、数多くの文人墨客の来訪するところとなり、明治に入って益々天下にその名勝を知られるに至った。

 現在新しい月ヶ瀬湖を中心に早春の梅花と共に四季を通じて自然景観は、人々に心の安らぎを与えている。大正11年11月7日名勝に指定された。

                          月ヶ瀬村教育委員

関西鉄道 雷(いかずち)

 

 

 


市井からの眺め79関西鉄道⑨

2020年06月27日 | レモン色の町

官営鉄道と関西鉄道の値引き合戦に加えて、関西鉄道では列車内に音楽隊や行商人が乗り込む事態となっていた。しかし、このような状況では双方の利益にはならないので、関西鉄道側は協定を申し入れ、明治33年9月25日、競争中止のための覚書を交わした。その内容は、名古屋・大阪間の旅客、貨物運賃を同一とし、競争区間もしくは運賃割引の競争が生ずるおそれのある区間は協定の上行うこと。物品贈与その他営業上普通でない方法()で乗客や貨物の勧誘を行わないことなどであった。

関西鉄道がこの協定を申し出たのは明治36年3月、大阪天王寺で開催される第5回内国勧業博覧会に、全国から集まる観覧者を競争によって不利益にしたくなかったからであった。この協定は成立して、11月1日より実施された(って、大阪博覧会《3月1日~7月31日》の終了後となっている)。

第5回内国勧業博覧会

さて、内国勧業博覧会とは、明治期に開催された博覧会である。国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的として、第1回;東京(上野公園)<明治10年>・第2回;上野公園寛永寺本坊跡<明治14年>・第3回;上野公園<明治23年>・第4回;京都(琵琶湖北側)<明治28年>・第5回;大阪(天王寺今宮)<明治36年>で計5回を政府主導で開催された。第5回の大阪博覧会は、日本がパリ条約への加盟後で海外からの出品も可能となった。入場者数530万人と過去最大となっており、現在、会場跡地の東側5万坪の土地が天王寺公園となっている。

会場入り口

会場内の様子

あべのハルカスから望む天王寺公園、上部やや左に通天閣が見える。ここも会場だった。

但し、この協定は30日前に通告すれば解約できることとなっていた。競争は一旦おさまったが、関西鉄道側は、10月になると博覧会閉会と経済不振(日露戦争後の戦争不況の影響で第6回の東京会場は中止となる)による収入減を理由に運賃引き下げを申し込んだが、協定を破るものとして官設鉄道に拒絶された。

関西鉄道の広告

10月20日、関西鉄道は協定解除を通告し、同時に社長名をもって解約を公表、ふたたび競争することとなった。

関西鉄道の「鬼鹿毛」

 


市井からの眺め78関西鉄道⑧

2020年06月26日 | レモン色の町

明治31年11月28日、関西鉄道名古屋・網島間の全通は、官設鉄道と名古屋・大阪間で競争をする要素となった。島安次郎が、関西鉄道から鉄道院へ入省する10年ほど前のことである。

 官設鉄道名古屋・大阪間196.3キロメートル、関西鉄道名古屋・片町間172.2キロメートルで24.1キロメートル関西鉄道のほうが短かったが、運賃は同額(3等名古屋~片町・網島)の1円21銭とし、将来競争となる恐れがあるので協定を結んだ。

下総人様よりお借りしました

しかし、官設鉄道は明治32年3月の運賃改訂で同額は困難となったので、4月1日関西鉄道はこの協定を解約した。その後、33年5月31日、関西鉄道は大阪鉄道会社線を譲り受け大阪駅とも連絡し官設鉄道との競争上有利となった。そして、35年8月から名古屋大阪間において旅客・貨物運賃の競争となった。

関西鉄道の「池月1」

「池月1」

官設鉄道が往復割引運賃1等;6円86銭、2等;4円、3等;2円80銭であったが、関西鉄道では名古屋~湊町間往復1等;4円、2等;3円、3等;2円とし大差をつけた。

官設鉄道では対抗上8月6日、1等;5円、2等;3円、3等;1円50銭とし、名古屋・京都間も同額とした。

これに対し関西鉄道では8日、2等;2円50銭、3等;1円50銭とした。

関西鉄道の「望月」

「望月」

この間、関西鉄道では湊町・奈良間に臨時納涼列車を運転して運賃を半減、列車には音楽隊や特価廉売の行商人をのりこませ、奈良公園には納涼場を特設し、飲食店、ビアホール、余興場を設けて乗客を招待し、すばらしい絵入りうちわや記念品を贈るという異例のサービスをした。

そして、9月25日、競争中止の協定を結ぶに至る。

 


市井からの眺め77関西鉄道⑦

2020年06月24日 | レモン色の町

維新後30年、日本人にとってまだまだカタカナにはなじみがなかった。ナスミス・ウイルソン社製といわれても、むつかしいものだと思っていたに違いない。そこで日本名を付ける。関西鉄道にはなかなか趣味人が多い。「池月」「雷」「駒月」「小鷹」「友鶴」「隼(はやぶさ)」「鵯(ひよどり)」「千早」「春日」「三笠」「飛龍」「鬼鹿毛(おにかげ)」「雷光」「早風」「追風」。

磨墨

島汽車課長は、四日市工場で1台の機関車を徹底的に分解し研究した。動輪の大きさを少しでも大きくすれば速度を上げることができる。『早風』の動輪は5フィート(1524ミリ)だったが、わずかに2インチ(1575ミリに)あげた。わずか51ミリ大きくしただけで、換算しても3.2キロ速度が上がるだけだ。但し、この差は長距離になると大きかった。『早風』の動輪を日本一にする。一介の若き技術者にとって、社会を動かす大きな要素の一つを握りしめたという感慨を持つことに通じるといって過言ではなかった。『早風』の容姿は野性的な強さと、スマートさが合成された機能美にあふれていた。

早風

※ 下総人さんからメールをいただいた。

湊町駅の構内図で、掘割と貨物ホームの間にスロープ状の石組と思われるスペースが見られますね。荷物の積み替えはどのようにして行ったのでしょうね。

四日市驛でもスロープのあった記憶があります。昨年5月、四日市のタイムスリップツアーで旧関西堀のあたりも散策しました。堀は埋め立てられており、操作場の線路が延長されていました。嘗ての貨物ホームの対岸にあたるカーブした道路はかろうじて面影をとどめており、堀に沿って設けられていた、低いコンクリートの安全塀がそのまま残っていました。

この辺ですかね?斜めのホームは。

 

 


市井からの眺め76関西鉄道⑥

2020年06月22日 | レモン色の町

父喜兵衛が、安次郎を前に座らせ「東京大学医学部へすすめ」といった。しかし、安次郎は機械工学の道へ進んだ。この変化を物語る材料は何一つ残されていない。多感な頃、人は思わぬきっかけで進路を変える。おそらく、父の意向に反したことを、故郷和歌山の空を思うたびに、かすかな痛みを感じていたのではないだろうか。

こうして島は大学院時代、現場研修のため京都へ出張を命じられたり、新橋の鉄道工場を視察したりするうち、研修先である四日市の関西鉄道でそのまま請われて就職したらしい。明治27年のことである。

さて、名古屋を出た列車は、四日市を過ぎ、伊勢平野を高速で走る。明治31年、日本の鉄道がようやく速度を上げようとし始めた時代だった。やがて官営鉄道が難所として避けた鈴鹿山脈に差し掛かかる。ここで機関車は、歩くほうが早いと思われるほどに速度が落ちる。そして、頂上の加太トンネルに入ると「空気の欠乏と通風力の不足で火室の火は赤黒くなって十分燃えないから蒸気も騰(あ)がらない。石油ランプが空気不足となって消えてしまってキャブ内が真暗となる。熱いのと息苦しいのとで生きた心地もなかったが、気力の続く限り頑張っておった」今村一郎著『機関車と共に』

暗闇の中、機関手はトンネルの壁に手を伸ばして「前へ進んでいるからもうすぐ出られる」と励ます地獄なのだった。名古屋と湊町間で5時間を1分切って走るダイヤを作り出さなければ官営鉄道に勝てない。その為には、名古屋と亀山間で速度を上げる必要があった。

ここで島安次郎は、ピッツバーグ社製二Bテンダー機関車を導入、これに改良を加え“早風”と名付けた。

『早風』

 

 


市井からの眺め75関西鉄道⑤

2020年06月21日 | レモン色の町

翌朝、島課長は、雷おこしを土産に買って列車に乗り込む。

機関車“磨墨(するすみ)”の振動音が気になっていたので一両目の貨物車の菰被り(こもかぶり)の荷物の上に腰を下ろした。貨物車内は彼一人しかいない。緩急車には制動要員が乗務して、停車の時はギリギリとハンドルを巻き上げる仕事につくのだが、関西鉄道では明治31年に最新の真空制動装置が装備されていて、機関士だけの集中制御が可能になった。これは関西鉄道が誇る最先端技術であり、他のどの鉄道にも導入されてなかった。

大正13年の湊町駅周辺図 中央上部が駅舎

掘割のあるのがよくわかる

「こっちや こっちや」子供の声にふとホームを見る「ほら、これが二等車、帯が青やろ」小学生が母親に言っていた「ほな、一等車は?」「次の白い箱やで。お母はん」親子連れはホームを急ぎ、後ろの車両に乗り込んだようである。島安次郎はかすかにうなずいた。一等車は白、二等車は青、三等車は赤と客車の窓の下を三色に塗り分けたのは島安次郎の考案である。当時の客車は車両間の移動が出来なかったため、乗降客が混乱しないように車両を色別にしたのだ。この等級ごとの色分けは、現代のグリーン車の名付けに受け継がれている。

※ 明治32年7月 四日市工場で製造された客車。一等車16人・三等車39人の定員となっている。勿論、真空制動機付き。客車間の移動はできない。

さて、これよりひと月ほど前のことである。関西鉄道は社告で官営東海道線に果たし状を突き付けていた。

関西鉄道 大阪名古屋間近道

〇明治33年9月1日全線時刻変更と同時に湊町名古屋間を本線とし、日々双方より5回宛の直行列車を発し、列車付き「ボーイ」及び「行商人(弁当、寿司、和洋酒類、煙草、菓子等を鬻ぐ(ひさぐ)」を乗り込ましむ。

〇当社線大坂名古屋間双方よりの賃金は、片道及び往復とも官線に比して余程低廉なり。往復は切手通用10日間にて平常三割引。

しかし、島汽車課長は、値引き競争にはあまり賛成できなかった。

 


市井からの眺め74関西鉄道④

2020年06月20日 | レモン色の町

「電灯取り付けにはまだ時間がかかる」。駅もホームも、機関車の前方も暗い石油ランプで照らされていた。明治末まで石油ランプの時代は続いていた。すでに東海道線、山陽線、東北線は夜行長距離列車が運行されており、暗さは、スリ、かっぱらいの怖さも抱いていた。そろそろ乗客は列車の暗さに、耐えがたい苦痛さえ感じているはずだった。目にも鮮やかな明るい光の帯となって走る夜汽車。「客車を明るくしたいのなら、全力で電化に取り組まなければならない。それにはまだしばらく時間がかかる。電気を待つべきなのだが」しかし、島安次郎は待てなかった。

磨墨

機関車「磨墨」は闇に包まれつつある湊町構内へと入った。低い大きな瓦屋根が操車場の横に並んでいる。明治29年に大阪鉄道から買収した真新しい工場である。島が常勤しているのは機関車の保守整備を主な業務とする四日市工場であるが、ピンチ式瓦斯灯は湊町駅構内の工場で取り付けられる。

当時の湊町駅

やがて大きくブレーキシューの音を立てて列車は停車した。ホームにはわずかにランプがともされ、その暗がりへ島汽車課長は降りた。工場主任が迎えに来ていて一礼した。

暗い工場内は作業が終わっていて、照らされたカンテラの中を進むと、列車の天井を模した板の下に、西洋の燭台のようなピンチ式瓦斯灯が浮かんだ。

工場主任が台座を操作しマッチを近づけるとパッと白い炎が輝き、シェードを閉じると輝きを増してゆらめきを止めた。「うん、いいね」島汽車課長はつぶやいた。ピンチ式瓦斯灯を全車両に灯して走り去る関西鉄道の夜汽車は、一条の雷光のように村人たちを驚かせるに違いない。

明治43年の湊町駅 明治39年に国営となっているので 関西鉄道時代から見ると大きくなっているのかな?と思われます。右下Aが駅本社屋です。明治43年1月現在の「管内各停車場平面図」より(下総様よりお借りしました)

 


市井からの眺め73関西鉄道③

2020年06月19日 | レモン色の町

話は江戸末期にさかのぼる。嘉永7年1月、2度目のペリー浦賀へ来日の際には機関車の長さ2メーター42センチという大きな模型を持って来た。これを横浜応接所の裏庭に円形のレールを施設して走らせた。「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く」幕府役人たちは蒸気機関車にはよほど驚いたらしく、汽車を見るために皆さまざまな理由を設けては、裏庭に集まったという。

ペリーが持ち込んだ模型機関車

それを走らせるの図

大隈重信

しかし、政治の場面では、西洋技術文明と、文明から生みだされた帝国主義を恐れていたが、技術そのものに対しては食いつくほどの好奇心を発揮していた。すぐさま蒸気機関車の模型を作ろうとし、佐賀藩をはじめ、薩摩藩、加賀藩、福岡藩が悉く完成させてしまっている。

※ペリー来航の前年に訪れたプチャーチンも模型機関車を持ってきていた。驚くことに 佐賀藩では文献をもとに模型を作った。「佐賀藩精煉方絵図」より

ただ、日本人は幕府二百数十年の間に、西洋では産業革命が起き、蒸気機関車が発明され、産業社会の総合力として鉄道が出現し、経済原則によって運営されていること、競争と独占とのあざとい歴史が鉄道の上を覆っていることの、理解が及ぶものではなかった。やがて世界の情勢を知るに至り大隈重信は帝国鉄道協会の席でこう述べている。「全国の人心を統一するには、運輸交通の不便を打砕くことが必要であるから、鉄道を起こすことが一番良いということを企てましたのでございます」。かくして、統一国家を目指す政府にとって、帝国大学工科大学を卒業した島安次郎のような人材は引く手あまたであったに違いない。

明治34年の湊町

 

「それにしても、車内が暗い」湊町が近づくにつれ、列車内はランプ灯の明かりだけで暗闇に包まれていく。「関西鉄道が明るい車内にすれば、官営鉄道に勝つことができる」島安次郎は、日本で初のピンチ式瓦斯灯導入を決めていた。

 


市井からの眺め72関西鉄道②

2020年06月17日 | レモン色の町

島安次郎は明治3年、和歌山県の薬師問屋に生まれた。四人兄弟の次男である。店は、商業地であるお城の北、鷺森別院前の通りにあった。屋号を「島喜」といい和歌山県薬業誌には、父喜兵衛について短い記述がある。「島喜兵衛、安政年間の開業。世事に通じ、よく業界に尽くした人」。温厚な人格者だった。

店は間口が三間あまり、入って右手が奥に通じる一間の細長い土間、左手は畳が敷かれた八畳ほどもある店座敷。店の奥の板の間では、使用人たちが薬研を使ってしきりに薬種をきざんでいた。その奥には黒焦げのサルの頭がガラス瓶に入っており、黒焦げの虎の頭も大切に仕舞ってあった。

イメージです

少年期の安次郎は、わりあい科学に近い薬種業の家に育ったことが大きな影響を及ぼしている。炭化物、黒焦げの物には、健医剤としての効きめや、収歛剤(しゅうかんざい)としての効き目があることを知る。ここで思考をめぐらす頭脳は次のような推理を浮かべたかもしれない。薬効の本質は炭化物で、サルであろうが虎であろうが本質は変わりがない。この考えが少年期に育まれていれば、もはや科学だった。薬種をさまざまに処方することの不思議に子供のころから接していた安次郎は、この時代には貴重な科学的精神の発生の秘密をうかがうことができる。

安次郎が十五才のとき、父喜兵衛は座敷に座らせて言った「兄は店を継ぐ、お前は独逸(ドイツ)学協会学校へやろうと思う。そして、東京大学医学部へ進め」性格は物静かで温厚だが、小さいころから物の尋ねぶりに無駄がなかった。「はい、そうしたいと存じます」こうして安次郎は東京へ出ることになる。

 

明治33年秋、四日市発13時50分 加茂着16時4分 16時7分湊町行きに乗り換える 安次郎を乗せた「磨墨(するすみ)」は、暮れかかる大和路を湊町(現 難波)に向かって強い振動音とともに驀進していた。湊町着17時45分(明治37年3月の時刻表参考)