花の四日市スワマエ商店街

四日市諏訪商店街振興組合専務理事の横道ブログ

良 寛

2024-03-31 | わたくしごと、つまり個人的なこと

『自分は二の次、まず人を思う』掃除をしていたら目につきました。昨年12月中日新聞のコラムです。

財力や権力という俗物的価値だけで 人を勝ち組と負け組に仕分けをしている・・・

 

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玉井兄弟と浜田小学校

2024-03-30 | レモン色の町

浜田小学校のこと 再掲載です

浜田小学校の歴史は古い。江戸期、私塾が統合され、四日市学校から浜田学校が江田町の民家(生川吉郎宅・阿瀬知川北)へ移ったのは明治8年11月のことでした。明治19年の小学校令で“尋常第二小学校”(6年制)となった浜田小学校は、東海道沿いの崇顕寺西側に建てられます。北浜田時代と呼ばれていますが、大正9年の記念撮影です。

旧東海道沿いにあった北浜田時代の校舎写真と略図です。東海道沿い、駐在所の奥、阿瀬知川を背にして造られていました。入口正面に立つ二階建ては、一階職員室と二課がさいほう室と唱歌室になっていました。

今回のYouTubeまち歩きは 本町まちかど博物館へ出かけました。

「四日市で人気の大入道を探る/第1話/大入道ミュージアム」 (youtube.com)

玉井兄弟で思い出した。浜田小学校5年生の春、玉井さんという女の子が転校してきた。美人だった。6人くらいで鵜の森公園で遊んでいた時のことだ。“玉井さんを守ろう!”という遊びの流れで、女の子の社宅へ押しかけることになった。

お母さんがみえて、家の中へ入れていただき、おやつを頂戴した。さて、おなかも落ち着いたことだし何かして遊ぼうということになった。鬼になった子が別室で待機する間に、タンスからあらゆる服を引っ張り出し、椅子に座った一人に何枚も重ねて着せる。完成したらみんなは隣の部屋で息を殺して鬼の登場を待つ。こうして鬼は椅子に座っている子が誰かをあてるのだ。触ってはいけない!がルールだ。

さんざん遊んで、家に帰り、ご飯を食べてお風呂に入ろうとしたとき、身に覚えのないセーターを着ていた。それは、紺色の毛糸のセーターで、いい匂いがした。「明日は返そう」と思いつつ、玉井さんと秘密を共有した気分で匂いを嗅いでいた。

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玉井兄弟の業績

2024-03-29 | レモン色の町

玉井兄弟の業績を多くの人に 3月28日付の中日新聞に掲載されておりました

玉井兄弟が浜田小学校へ飛行機を持ち込んだのは明治の末期。当時はまだ旧東海道沿いに第二尋常小学校(浜田小学校)は建っていました。

明治44年の地図   資料公開の日が待たれます

 

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ドキドキドン一年生

2024-03-27 | わたくしごと、つまり個人的なこと

20数年前になります。娘夫婦の仕事が忙しく、孫を1週間ほど預かることになりました。男坊主です。

4月から小学校に入学する直前で、夜は、おばあちゃんと並んで寝ました。

その時、向こうを向いて、小さな声で、この歌を歌っていた ということです。

ドキドキドン!一年生 (youtube.com)

蚊の鳴くような声で・・・

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おふくさんⅡ後編

2024-03-24 | レモン色の町

当時(明治の末期か?)諏訪神社の裏手は沼地で蝦蟇(がま)や蜥蜴(とかげ)や 時には蛇の住み家であったようです。若者は、そこに夜明けまで入っていたのでした。何が起きたのか訳がわからず、人に話しても「お前は飲みすぎや、お諏訪さんが、バチあてやしたんと違うか?」とか「悪酔いで、夢でも見とったんやろ。」と云いたい放題です。ところが、それを聞いていた車引きの喜八さんが、

「それ、ひょっとして おふくさんと違うかいな。あれならやりそうなことやで」と口をはさみました。

「おふくさん?それ誰やな?」「狸のおふくさんや。」「狸な?・・・そんな阿保な」「化かされたんやぞ、前やん!」

この話は、じきに高(たか)の町々に広がりました。(街道筋の町を“高”、納屋小学校区域を“浜”と呼びました)

善さんは、以来外でお酒を飲むのをぷっつりと止め「あれが狸やったとは、いまだに信じられん」と言い続けたそうです。

狐が人を騙す話は 中国から来たようです。ですが狸の話しは 日本独特なもの。一見気の良さそうな狸が悪さをするとはあまり思えませんが・・・。四日市には、昔、たくさんのタヌキが居た。これはどうやら事実のようです。大入道や岩戸山が出来たのも わかる気がします

 

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おふくさんⅡ

2024-03-24 | レモン色の町

前々回掲載の“おふくさん”。山口守さんが“旧四日市を語る”の第6集に投稿しておみえの、明治期から大正期の頃の口伝話。賑わう四日市宿から一筋路地に入った 比丘尼町の長屋に住む芸者上がりの女房や、伊勢の古市から戻ったという女お咲さんの登場やらで、当時の雰囲気がよく出ています。

今回は、“おふくさん”の前編になります。第5集に掲載のお話で、逆になってしまいました。陳謝!

このお話は 神社裏の庭地が  保公園となって市民に開放される前でしょうか?後でしょうか?明治44年の地図です

私が小学2年生の頃、家は南町にありました。友達と人力帳場の前で年配の車夫さんの話をよく聞きに行ったものでした。

車夫さんが若い頃、夜遊びの帰りに、よく牝狸の“おふくさん”に出会ったそうです。日中は狸ですが、夜になると女の姿になって表通り(東海道)に姿を見せました。深酒をして帰る若者が、北町から四ッ辻(札の辻)へ鼻歌を歌いながら千鳥足であるいていると、そこへ「ついておいで ええとこへつれてってあげる」と“おふくさんが丸髷に振り袖姿で現れます。まさかお狸さんとは知らず、後をついていくと、一軒の銭湯の前に出ました。

「ここは 私の知り合いの お風呂屋さんや 遠慮せんと入っといなはれ。酔いが取れて気持ちよう家へ帰れます。」と優しい声をかけ「ほなら 気ィつけて」と云うなり何処かへ行ってしまいました。

「ここは何処や?」と若者は暖簾をくぐってはいると、客は一人もいない。裸になって湯船につかると 体の芯まで気持ちよく うとうととしてしまいました。若者は あたりが明るくなって目を覚ますと、なんと池のようなところに裸で首まで浸かっていました。やっとのことで這い上がり、ここは何処やろと、あたりを見回すと、お諏訪さんの本殿の裏がみえます。つづく

提供:水谷宜夫さん

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中瀬古の庚申塚

2024-03-22 | レモン色の町

昨年、7月頃 日永のお客様の処へ伺った折に、こんな石塔が立っているのを見かけた。

『庚申塚(こうしんづか)』の後ろが会所のようになっていて、昔は村の人たちが集まり、夜を徹して飲み食いするという事だった。

庚申とは何だろう?昔は、十干(じっかん)=甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・・・と、十二支=子・丑・寅・卯・・・の二つを組み合わせて日時や時刻、方角や順番を決めたりしていた。例えば 甲子(きのえね)・乙丑(きのとうし)・丙寅(ひのえとら)ということだ。庚申信仰は、中国の道教の教えが日本に伝わったもので、57番目に庚申(かのえさる)の組み合わせがようやく来るこの日、つまり60日に1回、夜を寝ずに過ごして健康長寿を願う信仰である。

天白橋南詰を西へ、堤防沿いに下っていくと『奉供養庚申 勢州三重郡日永村 中瀬古講中十二人』と刻まれた塔が立ちその横には灯篭と地蔵堂があった。

現在は続けられている様子はなさそうで、お尋ねしようとしたがお留守だった。夜な夜な 飲み食いしながら 何の話で盛り上がっていたのか?いつ頃まであったのか?次回は是非尋ねてみよう。

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おふくさん

2024-03-20 | レモン色の町

“旧四日市を語る”第6集に掲載されていた。山口守さんが子供の頃、とあるお年寄りから聞いた話、とあった。『おふくさん』。

 比丘尼町あたりになるか?南町は江戸時代に宿場で賑わっていたところで 旅籠や料亭が軒を連ねていた。

南町の往還から一筋西へ入ったところに三軒長屋がありました。

その真ん中の家に、泣き虫「秀坊」と呼ばれる五つ位の子が居りました。とくに夜になると、よく癇をたてて泣きわめきました。おそらく母親に駄々をこねてのこと、また、この母親が芸者上がりの気の強い女、ちょっとしたことでも、竹ぼうきで子供のお尻をたたくという有様。そういう時、秀坊はきまって隣近所に聞こえるように、わざわざ戸口に立って、右に左に泣き叫ぶのでした。母親も負けてはいません。何と玄関戸を占めて、つっかい棒をしてしまうのでした。

 その晩も怒鳴りながら「秀、ええかげんにせんか。お前みたいな子は、うちの子と違う。何処へでも行ってしまえ。アホ、ドアホ」

これまた、隣近所に聞こえるように叫ぶのでした。それがなんと夜も十時を廻った頃。

もの陰から、一人の女の人が、じっとその有様を見ていました。『おふくさん』でした。秀坊が泣くのをやめて、しゃくりあげだした頃、おふくさんはそばに寄ってきました。

「坊、なに悪さしたんや?」もう夜も遅いし、おかあさんに 御免してもらおな。」

「かあちゃん なかなか ごめんしてくれやへんのや おばちゃん」

「うちに 任しときな」

そう云いながら おふくさんは、ゆっくり戸口に近づいていきました。勿論、秀坊は、この女の人が『おふくさん』であるとは思っていません。不安そうにこの様子を窺っておりました。

「もうし、お勝ねえさん!もうし」

二三度 戸を叩くと「誰や?今頃、何の用事?」三寸ほど戸が開きました。

「ご無沙汰 花月のお咲ですのや。」

「お咲ちゃん 古市から帰って来たの?」

吉田初三郎の鳥観図より伊勢 右上に古市の文字がみえる 旅館や遊郭が並んでいた

「へえ、お母さんが具合が悪いというので、急いで戻ってきましたんや。この子、おもてで寝ていました。布団に寝さしてやって。風邪ひくとあきませんに。」

見るとなんと、秀坊は、すやすや寝ておりました。お勝はきまり悪そうに、

「もう、ほんまに、しょうもない秀坊。」と云いながら、おふくから秀坊を、もらいうけると、「おおきに おおきに」と、一旦、中に入ると、しばらくして外に出てきました。

そこには、お咲さんに化けた、おふくさんの姿はありませんでした。お勝と呼ばれた、その母親は、小首を傾けて、きょろきょろ辺りを見回しておりました。

おふくさんは、木陰からそっと様子を見つめ、さっと暗闇に姿を消しました。

その時はすでに、お狸さんの姿に戻っておったということでした。

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山の神は子供のまつり?

2024-03-18 | レモン色の町

各町に祀られていた“山の神”が諏訪神社の山津見神社へ合祀されたことを、YouTubeで前田憲司さんから聞いた。

「タケちゃんと前田先生の四日市諏訪神社探訪/第2話」 (youtube.com)

岡野繁松先生の“旧四日市を語る 第六集”で伊藤禮太郎さんが「山の神」の思い出 として書いてみえたので紹介する。

桜 観音堂の山の神

 「山の神」とは、毎年6月30日の夜行われる、日永の大宮神社の夏越しの大祓いの時に行われた子供の祭りのことです。戦後も神社の境内でささやかに行われておりますが、戦前はそれは楽しいお祭りでした。

「山の神」は何処にでもよくある神様ですが、辞書によると「民間信仰では、秋の収穫後は近くの山に居り、春になると下って田の神になる」とあります。

「山の神」の祠(ほこら)は、普段 大宮神社に預けてありますが、6月30日には町角にお出ましになります。祭りの当日が来るまでの準備が、また楽しいものでした。1か月前から祭壇に飾る掛け行燈に絵を描きます。子供たちは、1軒の家に集まって絵具で武者絵や漫画、兵隊さんの絵を描きました。出来上がった絵は、保存されます。いよいよ祭りの日が近づきますと大宮神社に保管されていた掛け行燈を出してきて、古い絵をはがし川で洗います。こうして 新しい絵が張られた掛け行燈が準備されるのです。

乾谷の山の神

 当日になると子供たちは近所から縁台をかき集めてきて、路地一杯に積み上げて山の神様の祠を造ります。まわりに幕を張り行燈を飾って、その中で子供たちはお茶やお菓子を食べながらおしゃべりをして楽しみます。入口に賽銭箱を置いておくと、近所の大人がお金を入れていくので、それでまたお菓子を買いに走りました。鉦や太鼓を借りてきて、へたくそなお囃子もしました。夜になると本番です。行燈には火がともされて夜遅くまでにぎわいました。

 このお祭りは現在(平成7年)も続いていますが、戦前、東海道沿いの家々には「つくりもの」という展示があって、様々な日用品や農作業の道具などで、大蛇やガマなどのいろいろな動物がつくられ、家の前を通る人々の目を楽しませたものでした。

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踏切番は何処へ行く?

2024-03-16 | レモン色の町

いよいよ諏訪神社にございます政成稲荷の神域に潜入いたします。初公開!ご覧ください!

「タケちゃんと前田先生の四日市諏訪神社探訪/第3話/政成稲荷に潜入」 (youtube.com)

たいじゅさんからお借りした議事録をご披露させていただきます。昭和2年に“踏切番を置いてほしい”と、三重鉄道?が市議会に申し出たものと思われる書類がありました。ところで、これは何処の踏切でございましょう

『鉄道線路踏切番設置の義につき建議』昭和2年

近時、本市南方発展に伴い阿瀬知川堤に沿いたる4間道路(8,2メートル幅)は人馬の交通頻繁を来しつつあるも同線路中に省線鉄道(後の国鉄)の踏切ありて、従来通行上危険を感ずること屡々(しばしば)なり。現に最近において第二尋常高等小学校(現 浜田小学校)小学生の負傷を見たるあり。その踏切は四日市駅を隔たるわずか数間の個所にして通行の方向によりては汽車の進行を予知する能わざる地点につき、これが危険防止のための踏切番を設置せられんことをその筋へ請願せんとするにあり。請願書類の作成については議長において便宜をはかってほしい。    右建議候也

さて?この踏切の場所は何処だろうか?昭和2年の地図で探してみる。

昭和2年

阿瀬知川沿いの4間道路で省線と交差するところ。4間道路は、浜田小学校の通学路。ここで事故が発生?

大正11年

大正11年の地図を見ると、三重鉄道と四日市鉄道は、合同駅から直角にカーブして阿瀬知川まで伸びている。ここで船に移し替えられた。伊勢電鉄は、大正8年に高田本山まで伸ばしていて、翌昭和3年に諏訪駅から桑名まで延長する。

大正期の広告地図 ここには阿瀬知川までの引き込み線が描かれていない 描かれていないだけのようです

四日市鉄道は大正5年に開通記念列車を阿瀬知川橋梁に停めている。

下記のマップは大正5年3月。戦前までは、東海道筋に浜田小学校があった。鵜の森神社からまっすぐに伸びる通学路。これがどうやら4間道路らしい。まっすぐ東へ進むと阿瀬知川と合流する。この地点に踏切番の必要性を申請しているようだ。

① 四日市鉄道の諏訪驛 ②三重鉄道の諏訪驛 ③合同驛 阿瀬知川へ引き込み線が伸びる 南絵と伸びる2本の線路は 伊勢線と省線 東へは湊へつながる

間違っていたら オセーテ

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