花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

『電光石火の男』の謎

2018年04月30日 | レモン色の町

4月13日にいただいた下総人さんのコメント。

あせち川水門近くでのロケ (伊勢生まれの下総人)2018-04-13 さんのコメントより

昭和34年9月、港中学の2学期が始まったばかりの頃、あせち川の水門南側にあった医薬品卸のスズケン四日市出張所(元阿部材木店の事務所)で「電光石火の男」のロケが行われた。この事務所の建物をヤクザのアジトに見立てての撮影。
 噂を聞いて、昼休みに皆でゾロゾロと見物に行った。入口に大津組の看板、そしてブロック塀が立てられている。いつの間にか昼休みが終わっても誰も学校へ戻らない。(笑) 業を煮やした先生がきつい顔つきで迎えに来たことを覚えている。
何十年と経ってからテレビで見た映画ではこのシーンは出て来なかった。相生橋の船溜まりの風景だけが記憶に残っている。あの恐ろしい伊勢湾台風が襲ってきたのはこのロケの3週間余り後のことである。

冒頭、刑務所から四日市へ帰ってきた赤木圭一郎は、大津組の事務所へ案内される。旧四日市港から高砂町を通り、相生橋を渡って北へ向かう。

が、事務所の向こうを電車が走る。相生橋付近を電車は走っているはずがないと思っていたら、下総人さんのコメントで謎が解けた。大津組のシーンは阿瀬知川河口で行われたのだ。向こうを走るのは関西線。右へ進めばすぐ国鉄四日市駅だ。

現在の阿瀬知川ポンプ場付近。

現在での位置は、西末広町と昌栄町の文字の間くらいのところになります。

 

 

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ひがみ七訓

2018年04月29日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

毎度、フェイスブックでお教えをいただいているS大先生。先日の大いなる御教訓は‟ひがみ七訓”でございました。「なるほど!」と思える人は、現在好調な方ではないかナ?

ひがみ七訓

一、辛い事が多いのは、感謝を知らないから

一、苦しい事が多いのは、自分に甘えがあるから

一、悲しい事が多いのは、自分の事しか考えないから

一、怒る事が多いのは、我がままだから

一、心配する事が多いのは、今を懸命に生きてないから

一、行き詰まりが多いのは、自分が裸になれないから

一、あせる事が多いのは、行動目的がないから

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衝撃の北勢軽便王国物語 その2

2018年04月27日 | レモン色の町

昨日は、休みだったので映画『電光石火の男』の資料を探しに図書館へ出かけた。図書館の係りの方の対応は大変親切だ。気持ちよくコピーをお願いできた。ふと見ると、鍵の付いた引き出しがある。開けてみると明治44年の四日市市街地図があった。おなじみである。これもコピーを頼もうと取り出すと、その下に大正11年8月の地図があった。大発見の気分だ!

 

そこには、三重軌道と四日市鉄道の二本が、国鉄四日市から西に延びていた。大正11年、伊勢線(のちの近鉄名古屋線)は海山道~四日市間が開通したばかりで、未だ諏訪駅を通っていなかったのか?(4月22日のブログ。Tさんからのコメントに、伊勢鉄道の経過が記きされていました。このあたり、込み入っています。熊沢氏の私鉄疑獄の内容は知りたいところです)

 

線路に沿って東へ自転車で走ってみた。三滝通りを超えたあたりからゆっくり線路道は南へカーブしている。塚本医院前。戦後、ここに踏切があり、線路の南の小屋に踏切番のおじさん‟ふみきりさん“が居たという。小便はとにかく大便なんかはどうしていたのか?臭い謎が深まる。

 

東へと走る。2002年刊行の『四日市今昔写真帖』に載っている昭和初期の絵。右に建つのが立派な山門の善光寺である。その正面に三重軌道と四日市鉄道の合同駅が望める。

まさしく此処の位置からの風景だ。右端に善光寺の本堂が見える。

 

前へ進むと前回掲載のここに至る。合同駅。

 

ハローワークが正面に建ち、このすぐ裏を列車が通る。右に曲がるとJR四日市駅はすぐそばにある。昔の四日市駅は、今より南にあったのだ。

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衝撃の北勢軽便王国物語!

2018年04月24日 | レモン色の町

映画観賞会が終わり片付け入っていた時、Tさんから書類の束を頂戴した。昨日このぺーパーを見て驚いた。おそらくCTYさんが‟あすなろ鉄道”存続の時に特集で放送されたものか?Tさんありがとうございました。

この写真は大正11年ころの関西鉄道東口の賑わい。港側の当時の正面玄関口。さて西側はどうなっているのだろうか?

これが西側の様子。ホームページ「北勢軽便王国物語」で見ることができる。椙山先生らが当時の様子を語り合っている。この写真は大正5年3月とある。なんと四日市駅に三重軌道(内部・八王子線)と四日市鉄道(湯の山線)が集結しているのだ。室山の三重紡績でつくられた製品は直接四日市駅(現・JR四日市驛)へ運ばれていたのだ。一気に疑問が氷解した。Tさん、ありがとうございました。

そしてもう一つ、次回は『電光石火の男』の謎に迫ります。

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諏訪駅の謎が解けた

2018年04月22日 | レモン色の町

映画上映会の後、Tさんから回答をいただきました。片付けで慌ただしかった為、大変失礼をしてしまいました。帰ってからブログを見ましたら、Tさんのコメントが入っておりました。コメントから取り出してここに掲載させていただきます。ありがとうございました

結論から言いますと、近鉄と三重軌道の軌規格が同一になったことは無く、直接レールで繋がったこともありません。
※狭軌規格の寸法は何種類もあります。しかしながら、三重軌道が諏訪駅から国鉄四日市駅西まで運行していた歴史はあります。
《三重軌道》
開業時762mm(開業時から変更無し)
《四日市鉄道》
開業時762mm→1435mm(S39)
※S39年湯の山温-名古屋直通開始
《伊勢鉄道》
開業時1067mm→1435mm(S34頃)
時期としては大正5年から諏訪-四日市間を、三重軌道と四日鉄道が各々の路線で並行して運行してましたが、昭和3年頃に廃線になっています。
《諏訪駅-四日市駅間路線延長》
四日市鉄道:1916年(大正5年)3月5日~三重軌道:1916年8月28日~
《諏訪駅-四日市駅間路線の廃止》
1927年(昭和2年)11月10日申請、12月23日認可
廃線の理由ですが...
1.三重、四日市を数年後に合併する計画があった。
2.両社の社長は伊勢鉄道社長熊沢氏が兼任しており、経営体こそ別組織であるものの実質伊勢鉄道配下だった。
3.伊勢鉄道の四日市-桑名間延長において、新路線は四日市駅-諏訪駅間を通過する計画となっていた。そのため両社は当区間の路線を廃止し、跡地を伊勢鉄道が使用することとした。...などが主な理由です。
尚、この計画において四日市鉄道は軌間を1067mmに変更し、伊勢鉄道へ直通する計画がありました。しかしながら、熊沢氏が1927年(昭和2年)の私鉄疑獄事件に連座し失脚したことから、三重軌道、四日市鉄道の2線は他地区への発展をみぬまま、その地に留まりました。
※三重県における戦時交通統制と地域交通体系の再編成(三木理史氏)参考
四日市駅まで路線が通じていた当時は、駅西側に三重と四日市の合同貨物ターミナルがあったそうです。四日市市在住の軽便鉄道愛好家の方が関連写真をネットにアップされております。写真を拝見しますと、諏訪駅-四日市駅間の路線の様子が想像できる気がします。「北勢軽便王国物語」で検索されれば、見つけられると思います。

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諏訪駅の謎

2018年04月15日 | レモン色の町

月8日のエキサイト四日市・バザール本部席でのこと。K氏曰く西日野で積み込まれた荷物は諏訪駅を経由して国鉄四日市の東口から港へ出されたと。諏訪駅で内部八王子線と近鉄線が合流していたとは初耳だった。ほんとか?

明治初年、四郷村の第5世伊藤小左衛門は、家業の味噌・醤油づくりに努力する一方、輸出産業の花形である製糸業にも着目しました。そして、官営富岡製糸工場とかかわりが深い伊藤製糸部が室山に造られたのが明治4年のこと。こうして室山・西日野で製造された製品は海外へ輸出されました。

さて、日野八王子線は三重軌道で狭軌(線路の幅が1,067ミリ)一方、名古屋線は広軌(1,435ミリ)と走る列車が異なるので諏訪駅で積み直しが必要と思っていました。

しかし、四日市商工会議所発行の‟四日市もっと知りたい検定 公式テキスト“を読むとこうあります。

近鉄は昭和復興期の昭和22年から「名阪特急」運転を開始しましたが、大阪線の広軌と名古屋線の狭軌という、軌間幅の違いから途中の分岐点である伊勢中川駅での乗り換えが必要であり、1日も早い直通運転とスピードアップの実現が悲願となっていました。そのためには、急カーブで迂回する市街地付近の短絡化と広軌化・複線化が必要で、近鉄では昭和20年後半から本格的な改良工事に乗り出しました。

現在の近鉄四日市駅が完成し諏訪駅が廃止されたのは昭和31年9月のことです。

そして、名古屋線の広軌化は、昭和33年から準備が進められましたが、昭和34年9月に東海地方を襲った‟伊勢湾台風“による復旧工事で一気に広軌化が進められました。

とすると諏訪駅時代の近鉄線は、日野・八王子線と同じ狭軌であった、つまり日野~諏訪駅~国鉄四日市駅までは直通で繋がっていたという事になります。

左、室山・八王子線と、中央の湯の山線は合流している。が、右に隠れる名古屋線は・・・

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すわまえ食堂 その2

2018年04月09日 | おいらの商店街

昨日は、エキサイト四日市・バザール スタッフ向けに提供された‟肉うどん”を食べることができた。‟麺は五島うどんではないのか?”といったご意見も聞かれたそうですが、500円ではとても作れないとのこと。バット、美味しかったデス。

 

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エキサイト四日市・バザール2018開催

2018年04月08日 | 諏訪商店街振興組合のこと

桜は終了していましたが、大勢のご来場とお天気で、まずは一安心。ありがとうございました。

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5月の朔日恵比寿

2018年04月04日 | おいらの商店街

スワマエの有力店舗2店が閉店したため、抽選券の出が3割減った。今が辛抱時か!おまけに野菜の販売ができなくなった。他をあたってみることとした。

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四日市鉄道の歴史

2018年04月03日 | レモン色の町

四日市は、東海道(四日市宿)から港(稲葉三右衛門の四日市旧港)、そして鉄道と発展してきた。鉄道は難しい。徐々に延長し、会社が合併しながら現在に至っている。線路の狭軌と広軌という幅の違いから伊勢中川で一旦乗り換えがあったりした。名古屋郷土出版社発行の写真集‟四日市の100年“に年譜が掲載されていたので、鉄道部分を紹介する。

明治16年 稲葉三右衛門ら関ヶ原~四日市間に鉄道施設を請願(稲葉翁は、港ばかりでなく鐡道敷設にも夢を持っていた)

明治21年 四日市西末広町に関西(かんせい)鉄道会社設立(現在の住友電装あたりに整備工場があった)

明治22年 関西鉄道 四日市駅完成(現在のJR四日市駅)

明治32年 関西鉄道 名古屋~湊町(大阪難波)間全通

明治40年 関西鉄道 国有化

明治43年 三重軌道創立

明治44年 四日市鉄道㈱浜田に創立(湯の山線)・伊勢鉄道㈱設立

大正 4年 三重軌道 四日市~八王子駅間開通

大正 8年 伊勢鉄道 四日市~高田本山間開通

大正11年 伊勢鉄道 四日市~海山道間開通・四日市西駅開設(東海道沿いにあった諏訪驛のことか?)←ではなくて国鉄四日市駅の西口が完成したということでした。

      三重鉄道 日永~内部間開通

昭和 3年 三岐鉄道 高砂町に創立

      伊勢電鉄 桑名~四日市間開通

昭和 6年 三岐鉄道 富田~東藤原間開通

昭和27年 三岐鉄道 四日市駅乗り入れ開始

昭和31年 近鉄新路線・近鉄四日市駅完成

※  関西鉄道が国有化されて関西線になり、四日市鉄道が湯の山線、三重軌道があすなろ鉄道、伊勢電鉄が近鉄伊勢線になっていったのだろうか?鉄道の敷設は、トンネル(加太トンネル)や橋梁(木曽・長良・揖斐川)などの困難を乗り越えて少しずつ進められた様子がうかがえる。(訂正箇所があればご指摘ください)

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