幕末から明治期になると国際交流も進み、新しい文化と共に伝染病も持ち込まれるようになりました。コレラ・天然痘・麻疹(はしか)・流行性感冒などの流行です。医学も漢方から西洋医学を取り入れ、明治期の公衆衛生は主に法定伝染病の予防でしたが、一般には種痘の接種とトラホームの検診と治療が主におこなわれました。
近代医学の確立が不十分であった当時、三重県では、明治10年から28年にかけて5度のコレラ禍に見舞われています。明治12年のコレラ禍の時は、特に朝明と三重郡に発症が多く、下水設備がなかった当時、排泄物の処理や洗濯による河川水汚染の禁止が県から発令されました。また、四日市港からの出航時には感染予防の為10日間の待機期間を設けています。この年の7月から3か月間の朝明郡・三重郡での感染者数は総数138人(内男77人・女子61人)その中での死亡者が107人。なんと、死亡率77%、当時の人には恐怖だったでしょう。
明治初期の四日市には小さな個人病院のみで、伝染病に対応していませんでした。そこで明治12年、浜一色に四日市伝染病院が建てられたのです。その後、建物の老朽化と大正5年のペスト流行で建て替えが迫られ大正11年に新しい病院が竣工しました。後の四日市市立四日市病院です(三滝川の右側中央に市立病院が確認される)。
大正11年
さて、ペストですが、大正5年10月、東洋紡績に勤務する沖仲士(海運労働者)の子供(尋常小学校6年生)が患者第1号でした。当時、小学5年生だった三栗谷さんは当時を思い出して『旧四日市を語る』に投稿してみえます。
原因は、インド綿に付着していたペスト菌。患者は日ごとに増える一方で、感染すると数時間の寿命とのうわさが流れ、住民は恐怖のどん底でした。日が経つにつれ街は火が消えたも同然で、すべての機能がストップしたかと思われる状態が続いたのです。
亜鉛版で囲い消毒され衣類が焼かれた
第6小学校(納屋小学校 訂正:第6小学校は 北条町の三滝川沿いにあった学校)は、周囲をトタン板で囲われ臨時隔離所となったため一時休校となり、全校児童は分散されて他校へ通うようになりました。しかし、行く先の学校では「ペスト学校、ペスト学校」と敬遠され八分にされた悲しい思い出があるそうです。防疫班は患者発生家屋の消毒や関係地域に殺鼠剤を散布するなどで大わらわでした。
隔離所の様子
一方、内務省では事の重大さを考慮して伝染病の権威である北里柴三郎博士を首班とする医師団を派遣しました。ペスト菌媒介の元凶が鼠ということで捕獲を奨励、1匹2銭の報奨金が25銭に跳ね上がったのです。これを悪用し市外や県外から持ち込んで金儲けをした不届き者も出る始末で悪用する人はいつの時代もいるものです。こうして、防疫班の必死の活動が効を奏し、発症者63名のうち53名の死者を出した悲惨なペスト禍も翌年の大正6年には下火となり、4月には終息宣言が出されました。
当時、ペスト最盛期の四日市市街は、ゴーストタウンそのものだったそうです。