花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め88関西鉄道⑱

2020年07月11日 | レモン色の町

東京~京都間の幹線鉄道は、明治4年頃までは東海道経由の路線として考えられていたようである。老川慶喜著“日本鉄道史”中公新書より

東海道線であれば、なぜ四日市を通り鈴鹿峠を越え、土山へと東海道筋を通さなかったのか。近江商人や伊勢商人をバックに伊勢の人々は、意地になり民間で関西鉄道を起こした。明治21年のこと、本社は四日市である。これにさかのぼる明治4年、政府は真剣に中山道経由の東京~大阪間路線を考えていた。品川〜横浜間を1号機関車が走る1年ほど前のことである。

工部省の土木員 佐藤与之助と小野友五郎は、東海道筋の路線調査を行い、「東海道筋鉄道巡覧書」を提出した。それによると、トンネル採掘を避け、山を迂回するため、東京から熱田までは東海道を行き、熱田からは美濃路の西方を進んで、中山道につないで京都に達し、京都からは淀川右岸を通るという309キロにも及ぶ経路をたどるのが良策とあった。

海沿いの東海道は、アメリカの蒸気船をはじめ数社の海外海運会社が、蒸気船による航路を開設していて、わざに多額の費用を費やして東海道筋に鉄道を施設しても、それほどの利用は高まらないという判断があった。それより、中山道を通したほうが「産物輸送、山国開化ノ一端」になるのではないかということだった。おそらく外国の海運会社が良い顔をしなかったのではなかったか(邪推)。

リチャード・ウイカルス・ボイル

そこで建築師長のボイルが、中三道筋(訂正:中山道筋)の調査・測量を試みた。結論は、

「東海道ハ 全国最良ノ地ニシテ 海浜ニ接シ水運ノ便アリ。之ニ反シ 中山道ハ道路険悪ニシテ運輸不便ナルヲ以テ 之ニ鉄道ヲ施設スルハ 広大ナル荒地ヲ開拓シ 且ツ両京及ビ南北両海ノ交通ヲ容易ナラシムヘシ」

工部省の佐藤と小野、更に建築師長のボイルの調査によっても、東西両京間鉄道は東海道経由ではなく中山道経由であるという説が優位となった。 <つづく>

大坂朝日新聞 明治31年11月18日付関西鉄道広告 (値引きするわ 手荷物無料配達があるわ 車内に行商人が売り込みに来るわ えらいことです)

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