ユメは
いつかかなえられる
そのみちが
遠ければ
遠いほど
「しかし きみはえらい!
とうとうそのくろうとも おわかれだね
ユメがかなうのさ
あの山からね 一年に一度 月に向かって バスが出るんだ
おわり
ユメは
いつかかなえられる
そのみちが
遠ければ
遠いほど
「しかし きみはえらい!
とうとうそのくろうとも おわかれだね
ユメがかなうのさ
あの山からね 一年に一度 月に向かって バスが出るんだ
おわり
“かかしがきいたかえるのはなし”は、永島慎二さんが昭和42年“ガロ”に掲載された漫画です。わが青春に一番大きな影響をもたらした漫画・・・と思い込んでいます。さすがに初出の“ガロ”はありませんでしたので、ネットで“ふゅーじょんぷろだくと版”を買い求めて楽しませていただいております。
永島慎二さんは“あとがき”に、こう記してみえます。
お金をかせぐために、描かれるまんががある。いっぽうで、その作者が自分のために、それを描かねば生きれなかった、といふ作品もあるのです。
「かかしがきいたかえるのはなし」を、いつ頃描いたのか?作者の記憶はさだかでないが、手塚先生の虫ぷろだくしょんに通い、アニメ「ジャングル大帝」の演出をしながら、その昼夜に、自分が生きるために描いた作品なのです。それが青林堂の社長、長井勝一氏の目に止まり“ガロ”を通して世に出た仕事であった訳なのです。注文がなければ描けない漫画家と、注文なしでも、自分の仕事をしようとする漫画家のちがいがそこにはっきりと在るのです。
茶色い風が
雑木林を泣かせて
どっどどどど
と ふきすぎた日の
ことだ!
そのかえるは
その風にさからう
ようにー
あっちからやって
来たのさ
「あーーー はらが へった」
わたしは カラスの友達にたのんで・・・食べるものを 持ってきてもらいました
「ありがとう おかげで助かりました さきをいそぎますので・・・じゃ これで」
「ヨッコイショ!ぼくが・・・生まれたのはね ここからずうっと遠い 古い井戸の中です 兄弟も友達もたくさんいたので けっこう楽しくやっていたんだけど・・・」
ぼくは月をみて とても美しいと思った
そのうちぼくは月がほしいと思うようになった
かえるになった僕は兄弟や友達に笑われながら
何十回何百回と失敗しながらも
とうとう 井戸の上に出ることができた
それからなんだ・・・僕の旅がはじまったのは」
後編につづく
石ノ森章太郎氏の作品に“佐武と市捕物控”があります。その二
漫画家でありエッセイストの杉浦日向子さんがコメントを書いてみえました。
「佐武やんと市やんの物語の中には、無数の“俗物”が登場します。それらのあまりに唐突で意味のない死に忿懣やる方ない いらだちを感じるのは、そこに“仙人”には成り得なかった自分自身を見いだすからでしょう。無意味な死体に向かって佐武やんが、市やんが、顔を歪めて叫びます。「ば、馬鹿野郎!」
平成8年 市川隼監督が“トキワ荘の青春”と題して映画を作りました。
みぎ、石森章太郎役のさとうこうじと、赤塚不二夫の大森嘉之
石ノ森章太郎氏の作品に“佐武と市捕物控”があります。
漫画家でありエッセイストの杉浦日向子さんがコメントを書いてみえました。
「今、私たちの立つアスファルトの下に、あたかも江戸の残骸が横たわっているような気がするかもしれません。こんなことを言うと、うっとうしい梅雨の頃、市やんの長屋の隣の部屋に住んでいた、大道芸人の侍のセリフが聞こえてきそうです。「おれの殺した女の死体が床下でくさっているんだ!」
江戸の鳥観図 良く描けています
江戸の暑い夏
隅田川の花火大会です
正一様から、“昭和東海道 五十三次”と題して、池田遙邨氏が四日市宿を描いてみえたというコメントを頂戴しました。(倉敷美術館蔵)
旅好きで、画家であった池田氏が東海道を歩き、四日市で描いた次の絵を参考に、五十三次を描かれたという事です。題して“開栄橋”昭和6年
出口對石市(訂正:出口對石氏)が“泗水十二景”と題して、昭和初期に“運河の細雨”を描いてみえます。
似ていますよね。つぎが、現在の写真です
開栄橋は左にあります(写真には写っていませんが・・・)。画面右が相生橋で、左に蓬莱橋が望めます。
池田遙邨氏の“開栄橋”に戻りますが、開栄橋の下から相生橋が描かれていますね。東海道五十三次は、時を江戸時代に戻し、開栄橋の手摺りと蓬莱橋を削除してあります。雰囲気を出すためとはいえ、雪の日に、手摺りのない橋を渡るのは、命がけです。
広重の描いた風景は、何処だったのでしょうか?
伊坂城址の発掘調査報告書が、平成15年(第1次・第二次)と平成24年(第3次)に出されている。
第1・2次調査報告書より
平成15年3月 三重県埋蔵文化センター 所長 吉永 康夫
日本人は歴史好きな民族といわれます。その中でも人気の高い時代が、戦国時代で、私たちが住む東海地方は、信長・秀吉・家康という“英雄”を生んだ土地でもあります。しかし一方で“英雄”たちに敗れ、あるいは服従していった人々に対して、私たちはどれほどの知識を持ち、どのようなまなざしをもって接することができているでしょうか。中世という時代を通じて各地に生まれてきた様々な集団が、統一の障害となるもので“英雄”たちと比較して、未熟で弱小という考え方のみでは、歴史の一面しかとらえていないといえましょう。
第二名神高速道路の建設に伴って行われた伊坂城跡の発掘調査では、戦国時代を通じて営まれた城跡を形成する多くの屋敷地の(を)確認することができました。これらの屋敷地は、戦乱や社会の変動に際して侍や百姓たちが、それを安全に築いたものであると考えられます。
伊坂城跡発掘調査報告 - 全国遺跡報告総覧 (nabunken.go.jp)
場所が分かりにくいので 下の図で確認ください
第3次調査報告書より
平成24年3月 三重県埋蔵文化センター 所長 河北 秀美
四日市市域を含む北勢地域の戦国時代は、伊勢長島(現桑名市)の願証寺を本拠とした一向一揆のは(ほ)か、“国人層”と呼ばれる戦国大名までは成長していない地域の有力者層が複数盤踞し、互いに牽制しあったり、時には連合しながら、当地を治めていました。16世紀後半、尾張から興った織田信長は、天下統一を目指す過程で隣国の伊勢支配も目論み、永禄10年(1567年)に美濃を攻略した後、北勢地域へも攻略を開始しました。
伊坂城跡も、こうした国人城主によって築かれたとみられる戦国時代の城跡で、過去の調査で城の土塁の外側には多くの屋敷地があることが分かっています。浄化(城下)への集住化は信長・秀吉期を経て江戸時代に完成する都市形態ですが、第3次調査の地区も、こうした城外に並ぶ屋敷地群の一角にあり数多くの戦国時代の生活に関わる遺構・遺物が確認されています。
上の図の赤い矢印からの空撮
伊坂城は15世紀後半から16世紀前半の戦乱の社会情勢により、城主らが本村から分離して人工的に造ったものである可能性が高いと思われています。今後、本丸跡の調査に移るそうで、伊坂ダムから容易に入れる城跡の整備が進めば、より市民に関心がもたれる城址となるでしょう。
門に使われていた六つの礎石が伊坂ダムの公園内に移設されていることを聞きました
“古屋敷”の地名が残り 屋敷群のあったことをうかがわせます
城郭址の表示には 城主 春日部太郎左衛門 1573年滅亡 とあった
城郭一帯は太い孟宗竹に埋め尽くされている。
南側の入口に 高い土塁がある四角い平地である 周りは深い堀に囲まれていた。
さて、これからもと来た道を戻るには大変なことだと思いきや、同行のKさんが、北側に続く道を見つけた。
藪を出ると新名神と並行して下り階段があった。そこから高速を横断する橋を目指してまた上る。
橋へ行くまでに左へ 車が通るれるような広い道を鶯の声を聴きながら歩くと 伊坂ダムの駐車場へ出た
伊坂ダムは サイクリングやジョギングを楽しむ人々で賑わっていた
空井戸のことだろうか?
ここから西へ入ると城跡へつながるとあるが、入り口が分からない
空井戸らしき施設の下に 青色の杭があるのを見つけた ほとんど白くなっている
強引に藪へ踏み込むと 赤い杭が二本あるのを見つけた この間を北西へ進むとあった
数年の間に竹が生い茂っていて 道にというには程遠い 方角だけが頼りだ
崖に沿って上ると 第二名神(新名神)の上に出た 遠く北東に伊坂台が望める
再び藪へ入って坂を上ると 伊坂城址の立て札があった 可愛らしい表札と評判である つづく
伊坂城址に行ってみた。
伊坂城は伊坂ダムの北側(正しくは北西方向)に隣接する。萱生城(暁高校の建つ山)の分家で、春日部太郎左衛門尉がここに居住。永禄11年(1968 訂正;1568年 デゴザイマシタ えらい違いでゴザイマス)、織田信長の軍勢に滅ぼされる。伊坂町の集落の北西にあり、標高98mから50mの北勢に高く、南東に低い細長い丘陵につくられている。今回出かけた本丸は60×50mの広さで土塁に囲まれ、南東部の低いところの各所には階段状にせまい平地がつくられ、複雑な地形を利用したものである。遺構も完全に残っている。(仲見◇三重大学歴史研究会)三重の中世城館より
伊坂ダムへの坂を上り切ったところにある、横一列に並ぶ駐車場に車を停めた。右側に浄水場の建物が建つ。左をみると戻る形で下へ降りていく細い道があった。
急な坂を下る。コンクリ―トが流してあるので、笹の葉で滑りそうだ。下り切ったところが広い空堀になっていて、田圃が広がっていた。田植えの準備がしてあるのか?道の反対側は荒れ地になっていた
ここから坂を登る。板が横並びに敷いてあるので登りやすい。
登りきったところに水道の施設のようなものがあった。藪に残る施設は、貞子の井戸を彷彿とさせる。
今回歩いたコース
つづく デス