花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

善光寺仁王門前の急カーブ

2023年10月29日 | レモン色の町

文化展望四日市第4号 椙山 満氏著 四日市の今昔④より

津新地-四日市間を走る伊勢電鉄が昭和4年1月桑名へ延長する際、四ツ谷町 善光寺門前にこしらえた半径100メートルの名物急カーブ。今、五両連結の下り急行電車が仁王門の前を右に傾き、車輪を軋ませながらゆっくりと四日市駅(国鉄)へ入ってゆく、昭和31年9月15日の風景。

この年の9月23日には、短絡工事のため廃線となる。小さいころ親戚が朝日町にあったのでよく遊びに行ったし、この踏切も渡ったはずであるが記憶にない。廃線後の線路道を気分よく歩いた記憶はある。有名な善光寺カーブである。

写真は、昭和5年の善光寺カーブ。完成したばかりの白亜の四日市南駅(伊勢電鉄)から発車した桑名行が通過中。よく見ると単線のようだ(チャウか?)。買収以前ここにあった合同駅は四日市鉄道と三重鉄道の2線入っていたが、線路幅が狭軌だったので諏訪駅までは取り外された。

追記:昭和13年に伊勢電鉄は複線化されたとあった

もう1枚の写真 これは本町まちかど博物館の水谷宜夫氏よりお借りしたもの

左善光寺 カーブする近鉄線 遠くに踏切を渡り終えた学生さんらしき姿 この踏切は 冒頭掲載の自転車で待つ御夫人の居た踏切になる 四日市駅から諏訪駅方向に撮られた写真です 昭和31年頃か?


時代を反映した大博覧会!

2023年10月27日 | レモン色の町

博覧会のポスター 外人ショゥにいかに力を入れていたかが分かります

会場内の図 スケールの大きさが分かります

生鯨館は 残念ながら死んだ鯨しか展示できませんでした 上部中央に 救護所(後に市民病院となり、その後板ガラスの病院に)と商工会議所・公会堂が並びます

左に野外演芸場・子供の国・外国余興館と並びます

満州館 建物の大きさが伺い知れます

海航館と朝鮮館

台湾館 時代を反映しています


外人ショゥは大人気!

2023年10月24日 | レモン色の町

国産振興四日市博覧会で特に人気があったのは、外国人による余興場で繰り広げられる様々な奇術、怪演、百尺の梯子から燃えるタンクに飛び降りる米人ビー・カイル嬢の大冒険、それにエキゾチックな歌や踊りであった。また四日市や県下各地の芸妓の舞踊や郷土芸能も観客の目を楽しませてくれた。

当日のチラシ

その他、太鼓腹のエジプト人 ハジ・アリーは、生きた金魚やナッツを飲み込んだり出したりしたのち、1ガロンの水と5合の石油を飲み、目標物めがけて炎を吹き出し、続いて大噴水を吐き出して消火した。

火噴き男のハジ・アリー 1ガロンの石油を飲んでから5合の水を呑んだら どうなっていたのかなぁ?

刀剣のみのインディアン・バーンは、長刀を吞んだままとんぼ返りをした。(目で見る 四日市の100年 椙山満編集より)

鋼鉄の胃袋 インディアン・バーン 彼らは何処に宿泊したのか?ビー・カイル嬢を含めて・・・

話題に必ず出てくる 仏教館 ちょっと情けないお顔でゴザイマス

四日市館とその内部 菊人形展みたい

 


四日市で空前絶後!

2023年10月22日 | レモン色の町

国産振興四日市大博覧会は、昭和11年3月25日から5月13日までの50日刊にわたり開催され、入場者数が124万人あったという(当時の市の人口6万人)。今なら660万人の来場者で埋まることになる!これは空前絶後であります。この博覧会は時の市長である吉田勝太郎が強力に推し進め、予算は市の一般会計に匹敵する70萬円を計上、空前の大博覧会となった。

駅前に建てられた歓迎門

会場では、「四日市小唄」「桜音頭」「躍進四日市」などの歌謡曲が一日中が流され、夕刻になると市内の諏訪公園では広報隊による宣伝のための踊りが披露されたという。

会場西の航空写真 昭和初期(舘様蔵)博覧会会場は下の部分になる

国産振興の名の通り、国内からは14万点の工芸品や農林水産品が出品され、輸出奨励品として審査された。また、具体的成果として、万古焼の陶土が朝鮮にあることが分かり、交易のきっかけとなっている。そして後日、市内の企業や出展者、旅館組合などから四日市市へ多数の感謝の言葉が届けられている。

会場空撮 写された四日市より

この博覧会の趣旨について吉田市長は、四日市港の国内外への宣伝と、新しく出来た港湾への工場誘致が大きな目的であって、巨額を投じて港整備に関わった国と県への感謝を述べている。

左に千歳橋と会場入り口 仏教館が望める

立憲民政党系であった吉田勝太郎市長は、この博覧会における不正会計の疑いから不信任を出されていたが、博覧会の大成功と後日の産業振興に功績があったとして、任期満了にあたっては再任が全員一位で採択され、昭和34年には名誉市長に推薦された。ウィキペディアを参考にさせていただきました。陳謝!


ビーカイル嬢夢の跡

2023年10月21日 | レモン色の町

博覧会会場

昭和11年3月から5月まで四日市千歳町で開かれた“国産振興大博覧会”中 最大の呼び物は、何と言っても百フィート(約30メートル)の高塔から燃える水タンクの中めがけての米国人ビーカイル嬢の“大空からの飛び込み”という空前のショウであった。これが行われた国際演芸場は、千歳橋から南へ千歳運河のカーブが直線に戻ったあたりで、現在松島石炭(松島寅吉商店)の敷地内、写真の小型トラックの居るあたりに飛び込み用タンクがあった。椙山 満(文化展望四日市 第3号より)

国際演芸場

昭和11年、起工以来27年ぶりに四日市築港工事が竣工し、近代産業の発展著しい四日市は、ここに更なる発展をとげた。折から欧米文明機械の輸入依存時代は終わりを告げ、国産品が認められ始めた時代だったので、それらがさらに海外に進出していくことに、人々の大きな期待と関心が集まっていた。

この時、国内の優良国産品を四日市に集め、内外に我が国産業の躍進ぶりを宣伝しようとする企画が起こり、それが国産振興四日市大博覧会となって実現したのである。

会場は、築港工事が完成したばかりの千歳町埋め立て地に5万坪の規模で建設され、昭和11年3月25日から5月13日に至る50日刊を会期としてスタートした。目で見る四日市の100年より(椙山満監修)


昭和20年頃の幸橋

2023年10月18日 | レモン色の町

文化展望四日市 第3号 昭和60年12月10日発行より椙山先生の投稿

芝田のあたりから浜田を流れて昌栄町で海に出る阿瀬知川。これは幸町の南方で、その阿瀬知川に架かる幸橋の昭和20年代のある朝の風景。草が生い繁る川岸の堤の上をすれ違っていく人。静かにゆっくり流れる川面には朝もやが立ち込めている。

広重の三重川を思い出した。橋の位置が逆ですが、一方は強風と片方は静寂とこれも逆になっている、とは考えすぎでしょうか。けれど、どちらも他人同士のすれ違い?写真を撮られた鈴木嘉一郎さんは、そこまで意識されていたのかな?

昭和60年の幸橋

昭和53年のマップから その場所が分かった 失敗!幸橋はもう一本右(東)の橋でした。ちょうど「阿瀬知川」の「瀬」の字にあたるところでゴザイマス 失敗!失敗!

昔、職人さんに聞いた話ですが、中町から濱田小学校に通うのに、橋を渡らずに川をまたいで通ったと聞きました。良い遊び場だったんでしょう。大きな流れの三瀧川に対して、阿瀬知川は生活に密着していたんですね。濵田の田んぼに水を配り、町中に入ると汚水を集め流れ、諏訪神社の鳥居の下を潜って、東海道と並行に我が家を横断し、浜田の東禅寺裏の流れと合流。昌栄橋を通って伊勢湾へ出て行ったのです。

昭和13年の地図

※昌栄橋北詰めに立てられた稲葉翁の像。昭和初期だったと思います。供出で撤去され戦後中央通りに再建されました。当時は湊の先端でゴザイマシタ。

注:合成

稲葉翁の像が立っていた昌栄橋の北詰めから南を望む(現在・ホントは数か月前)


大正12年の尾上町

2023年10月16日 | レモン色の町

(1) 「えっ!!そんなの知らなかった諏訪のまち/四日市の町歩き」 - YouTube

GGシニアさんがまたまたアップしていただきました。今回は、私の知る限りの赤線地帯のお話・・・ですが、なーんか訳ワカラン動画になりました。ご容赦ください。

さて、四日市四大事業で完成したばかりの広い道路。尾上町から南へと伸びております。

昭和60年12月発行の“文化展望 四日市”から、

諏訪新道が四日市驛前からさらに広がり、12間道路と呼ばれ相生橋まで来ると、橋の東側は四日市港に近い高砂町や尾上町。橋の東詰めに建っているのは洋館建ての風呂屋さん。風車で水をくみ上げる米国式の水タンクが人目を引いている。ここから南が尾上町。左側に小菅邸の森がみえる。行く手の昌栄橋まで納屋運河に沿って進む。

四大事業は、尾上町を埋め立てて広い道路をつくることと、四日市驛を通り諏訪神社まで伸びる諏訪新道をつくることも計画に入っていました。

大正11年8月の地図です、右が北になります。

文化展望四日市が発行された、昭和60年の尾上町。椙山満先生の投稿です。この時はまだ右角にお風呂屋さんがありました。

GGシニアさんが、町中のお風呂屋さんを調べて欲しいと言ってみえました。おもしろそうです 乞うご期待!


大正11年の竪町

2023年10月15日 | レモン色の町

戦前の四日市の中心は東海道の札ノ辻であった。ここから東が竪町通りで、続く中町通りと共にかつては四日市銀座とも呼ばれた繁華街であった。沿道には東洋バザーや勧工場(かんこうば)マーケットなど賑やかな商店が並び、鈴蘭燈がともり、銀座通りと呼ばれてからは四日市最初のネオンサインも輝き、夜も人通りが絶えなかった。写真は大正11年文化展覧会開催中の夏の竪町通り。

大正11年8月、沖ノ島通りで“文化展覧会”記念として、紅白のポールで飾られていたが、竪町でも祝賀ムードいっぱいである。

2023年10月7日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

大正11年8月の四日市地図。黄色の横線が東海道、縦線の右が浜往還(青の丸が竪町)、左が四日市驛(赤丸)がある新道通りになる。

再び 増田武夫氏の描かれた、御大典当時(昭和2年)の浜往還、竪町の地図を見てみる。左(西)に札ノ辻があり、西へ進むと竪町(立町)となる。勧工場(マーケット)、東洋バザーと並び賑わいが伝わってくる。この先の西中町にも大正バザーがあった。四日市驛が出来て、街の中心は新道通りへと移りつつあったが、まだまだ浜往還は銀座通りだった。

昭和60年の竪町(現:中部)

今回の写真も“文化展望四日市 第3号 昭和60年刊”椙山満先生の投稿である。


笠置シズ子の買い物ブギ!

2023年10月14日 | レモン色の町

昭和25年、服部良一の、上方落語「ないもん買い」からヒントを得て作られた“買い物ブギー”は、笠置シズ子で大ヒットした。戦後の商店街の賑わいが伝わってきます。

今日は朝から私のお家は てんやわんやのおおさわぎ

盆と正月一緒に来たよな てんてこ舞いの忙しさ

何が何だかさっぱりわからず 

どれがどれやらさっぱりわからず

何もきっかずにとんでは来たけど 何を買うやら何処で買うやら

それがゴッチャになりまして

わてほんまによう言わんわ わてほんまによう言わんわ

(中略)

何はともあれ買物はじめに 魚屋さんへととびこんだ

鯛に平目にかつおにまぐろにブリにサバ

魚は取立とび切り上等買いなはれ

オッサン買うのと違います

刺身にしたらおいしかろうと思うだけ

わてほんまによう言わんわ わてほんまによう言わんわ

とり回 赤貝 たこにいか 海老に穴子にキスにシャコ

ワサビをきかせてお寿司にしたなら

なんぼかおいしかろ なんぼかおいしかろ

お客さんあんたは一体何買いまんねん

そうそうわたしの買物は

魚は魚でもオッサン鮭(さば)の缶詰おまへんか

わてほんまによう言わんわ アホカイナ

丁度隣は八百屋さん

人参 大根にごぼうに蓮根 ポパイのお好きなほうれん草

トマトにキャベツに白菜に 

胡瓜にしろうりぼけなすかぼちゃに

東京ネギネギ ブギウギ

ボタンとリボンとポンカンと

マッチにサイダーにタバコに仁丹

ヤヤコシ ヤヤコシ ヤヤコシ ヤヤコシ

アアヤヤコシ(後略)


師走の東中町

2023年10月11日 | レモン色の町

師走の東中町 四日市文化展望2号より 昭和59年11月刊 椙山満 著

昭和2年(昭和天皇御大典当時)の東中町。師走のあわただしい風景。年末大売り出しののぼりの向かい側では、福引の景品引換所で寒そうに人々が身をかがめている。軒先には昨晩の雪が残り、雪解けの道を自転車の人が足元を見つめる。京屋モスリン店の垂れ幕の向こうの道端では、しめ縄や松飾りを買う人だかりがみえる。軒先に「グースネック(あひるのくび)」という洋風ランプがともり、かなたにはスズラン磴と商業会議所(商工会議所のこと)もみえ、ここが四日市の本通りであった賑やかさが伺われる。(写真:みゆきケ丘 安藤愛郎氏のご厚意による)

増田武夫氏が、一軒づつ調べて完成した『昭和2年御大典当時の浜往還』。中央南側(下の並び)に「京屋モスリン」の店がある。その左(西側)には、大福餅・栄昌堂・大正バザーと並ぶ。写真では、京屋さんの向かいが抽選場になっているから、村田さんのお宅に設けられたのか?当時の賑わいが偲ばれます。

ひとつ昔の大正期の広告地図 大正バザーとはずいぶんハイカラな店舗のようだ スーパーマーケットの先駆けか?左、信光寺さんの東の道が拡幅されて三滝通りとなった。戦後のことであります。

昭和43年の住宅地図から

昭和59年の中町通り 手前右が 栄昌堂さん