花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市漫歩マップ 番外 本陣の朝

2021年11月30日 | レモン色の町

“東海道五十三次 関 本陣早立”歌川広重画より

 亀山市関町の早朝の様子です、出立前の緊張した雰囲気が漂っています。右手前に立てられているのは“関札”で、前もって到着する“宿割役人”は、藩の家紋を染め抜いた幔幕と提灯を持参しているのでしょうか?この幕は、丸に“田”と“中”を組み合わせた紋になっていますが、実は、広重の実家の紋で、緊張感の中に遊び心を取り入れています。

駕籠の前に立って指図するのは、本陣の主人とみられ、提灯を持って立つ男の硬い表情で何やら指図をしています。手前の3人の奴(やっこ)は、キセルを吹かしたりして出発前の憩いを楽しんでいるようです。やがて準備を整えた一同が陣屋の中からお出ましになるのでしょう。陣屋の主が立つ頭の上に“仙女香”と“美玄香”の白粉と白髪染めの札が下がっています。これは“講中札”にみせかけたコマーシャルです。

中仙道と北國街道の分岐点にあった“追分宿”の脇本陣“油屋”。武家が宿へ入るところです。

吉村 昭氏が“生麦事件”の史実調査の折“大名行列”について書いています。“史実を歩く”吉村昭著 文春新書より

『驚いたのは大名行列の規模が予想以上に大きいものであることだった。加賀百万石と云われた加賀藩の行列は7000名、薩摩藩は3000名だった。

藩の者以外に多くの人足が随行したが、何の為に必要としたのか。大名は、宿場に着くと本陣に泊まるが、そこで出される食事はとらない仕来りがある。その為調理人たちが行列に随行していて、本陣で大名に提供する料理を調理する。彼らが使う鍋、釜、まな板、七輪などの調理用具一式が人足によって運ばれる。漬物桶も重石と共に長持に入れられて運ばれ、道中で入手した瓜、茄子など糠味噌に漬け、新鮮な漬物を供するのである。また、本陣の寝具類も使うことをしないので、布団、枕、蚊帳を運び、浴室に入ることをしないので風呂桶を人足に担がせてゆく。むろん、医師はもとより、馬も連れてゆくので馬医者も随行し、髪結い職人も付き従う。』これではお殿様も、旅を楽しむことは出来なかったようです。

事件現場の生麦村

“生麦事件”とは、文久2年(1868)8月21日、薩摩藩主 島津久光の一行が、江戸を立って生麦村に差し掛かった折り、行列を横切った英国商人を切り殺した事件です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市漫歩マップ 番外 参勤交代

2021年11月29日 | レモン色の町

格式のある本陣は、一般の人を泊めることが出来ず“客引き”も禁止されていることは前回述べました。“本陣”はその名の通り戦陣の本営を意味していて、民家でありながら表門や書院造の上段の間など武家建築が許されていました。

豊橋 二川本陣

しかし、経営は苦しく、大名たちを宴席や料理でもてなしても財政難の大名の中には、宿泊代を値切ったり、踏み倒す者もいました。公家に至っては、宿代として和歌などをしたためた短冊を置いていくだけの者もいました。清水本陣は続けられましたが、別の本陣の代替わりしている事情が分かります。

二川本陣内 上段の間

諸大名の財政難がさらに深刻になった享保年間(1716〜1738)頃になると、幕府は本陣の財政難の事情を知ってか庶民の宿泊を許しています。「今日の宿は、ひとつ豪勢に本陣とするか」なんて・・・。

二川本陣内部

一方、参勤交代は、江戸に妻子を置き、隔年で国許(くにもと)との間を行き来した制度です。大名行列も江戸藩邸の維持費にも莫大な経費がかかりました。御三家である紀州徳川家の場合、天保2年(1831)の参勤交代経費に1万2930両。江戸藩邸の経費に2万1250両で計3万4180両(約34億円)かかっています。国許では年間1万1080両ほどの経費ですので、参勤交代の制度は、約3倍の費用を要していることになります。各宿場や江戸では潤いましたが、大きな負担でした。藩の財政難を鑑み、幕末になると江戸幕府は参勤交代の制度を緩めています。薩摩藩や長州、土佐藩など江戸から遠い外様大名ほど、経費と日数が負担となっていたましたから、倒幕への資金を蓄えることが出来たのでしょう。

豊橋 二川本陣 広重画(かしい餅)の看板がみえます

※二川本陣様 Webサイトより画像を盗ませていただきました 陳謝申し上げます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市漫歩マップ 番外 江戸の値段

2021年11月28日 | レモン色の町

江戸時代後期のお金の価値を、お米で換算してみましょう。

(宝島社新書 カラー版 “江戸の家計簿” 磯田道史 より)

1両は米1石買うことが出来ました。これを基本で考えると1両=1石(150キログラム)です。今の米の価格に換算すると5〜6万円位でしょうか。ところが現在と比べて江戸時代は食糧難の時代でした。お米の価値が高かったわけです。大工さんが1両稼ぐには、20日働く必要がありました。今の大工見習の日当を1万5,000円とすると、15,000円×20日で30万円が1か月の収入ですから、お米1石は5〜6万円どころか30万円の価値がありました。飢えた人の多かった時代、食料は労賃の5倍あった訳です。

換算すると、1石=1両=銀60匁=銭4,000文=63,000円(現在の米の価格から換算)=300,000円(現在の収入から換算)となります。食べ物と収入の換算に差があるので、頭の悪い老人(私)にはピンとこないところがあります。売値63,000円の食べ物を買おうとすると、300,000円(20日間の労働分)持っていかなければ売ってくれなかったという事でしょうか。

で宿泊費ですが、江戸時代の旅籠賃が1人35文ですから、現在の価格で2,600円(馬も同じ)、召使の17文は1,300円程です。あまり安くはない感じがします。ちなみに、うどんとそば1杯16文で約250円、屋台の天婦羅1串63〜95円、握り寿司1貫8文で125円、どじょう汁1椀16文で250円、茶飯1椀50文で790円、田楽1串2文で132円、鰻丼200文で3,150円になります。砂糖が高価だった江戸時代は、1升(1,5キロ)が4,200円もしましたが、桜餅は1個4文(63円)で庶民的な値段でした。

桜餅を下げて隅田川の堤防を歩く女性の姿が描かれた浮世絵があります(“江戸自慢三十六景 歌川広重)。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市漫歩マップ㉘清水本陣その2

2021年11月26日 | レモン色の町

“江戸の間取り”安藤優一郎著 彩図社刊 による品川宿本陣の間取りです。

四日市宿 清水本陣の坪数が248坪で、品川本陣は140坪と比較的狭いのは、都市と田舎の違いからでしょうか。部屋数も少ないようです。清水本陣の駕籠や長持ち(荷物入れ)を置く“荷揚場(にあげば)”は何処にあるのか見てみますと、右下角の処に“入口”があって“間板”と記してありますが、おそらくここへ荷物を置いたのではないでしょうか?その上の台所も広くとってあります。

大名行列の“先乗り”として、まず最低でも2~3日前には宿割役人が到着します。本隊より先に到着して宿泊の準備をするわけです。宿割を行い、各旅籠には宿泊者の名前を書いた“宿札”(彩図社の本では“関札”とあります)を掲げ、宿場が静かで問題は無いか注意します。そして、災害の折の避難経路や間取りを書いてある図面(宿並図)を受け取り、警護の配置や宿割りを行います。準備周到です。文化元年(1804)3月3日、松平土佐守は37名、4月12日、内藤甲斐守は24名、森和泉守は24名が清水本陣に宿泊しています。数名の者が本陣警護にあったったのでしょう。

宿割役人は、分宿者全体の料金の交渉も役目でした。正徳元年(1711)旅籠銭の公定基準が決められていました。1人35文、召使17文、馬35文でした。馬も人並みです。今のお金に換算するとどれくらいだったのでしょうか?  つづく

追記:スワマエ通りに“よっかいち散歩マップ”の掲示が、終わりました。興味のある方はお立ち寄りください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市漫歩マップ㉗清水本陣その1

2021年11月24日 | レモン色の町

千葉県市川歴史博物館の学芸員である池田真由美さんが四日市宿の書き物を分析してみえます。清水本陣を利用する大名は、「先触(さきぶれ)」を出して1年から遅くとも10日前までに予約を取ります。受ける場合は「請け書き」を、断る場合は「断り書き」の返事をします。先約がある場合や、災害や忌中の場合は「断り書き」を出しました。文政2年(1819)6月12日には地震の為、陣屋が大破して宿泊を断っています。また、文久2年(1863)8月11日には、清水家の隠居太兵衛が死去したため石川若狭守の宿泊を、第2本陣や脇本陣へ振り分けています。桑名や石薬師などに振り替えることもあったようです。

清水本陣の図

キャンセルされることもありました。元禄16年(1703)6月14日、内蔵頭清方は、急ぎのため四日市をキャンセルし石薬師で1泊しています。元禄17年(1704)5月2日には、松平左兵衛佐は、病気で桑名に泊まっています。キャンセルの場合、午後2時までに通知があれば、キャンセル待ちの客を清水本陣へ案内することが決められていました。準備時間に余裕があったのでしょう。しかし、4時以降になると宿間で金銭支払いが発生しました。例えば、清水本陣でキャンセルが出ます。そこで第2本陣の客が清水本陣へ移っても良いと希望が出れば、清水本陣は第2本陣へ相応の手当てを支払いました。

宿の差配がうまくいかなかったこともあったようです。この時は“相席”ならぬ“相宿”となります。文化2年(1815)5月4日、京都の宇治茶を運ぶ“茶壷道中”が、相良近江守と“相宿”になっています。茶壷と相宿です。文化2年5月9日には藤堂和泉守と毛利若狭守が同日に泊まっています。格式の高い大名同士で、部屋の取り合いはなかったのでしょうか。結構、相宿はあったようで、土地の違いから交流や情報交換もあったのかな?と思えてしまいますが・・・。  四日市市史研究 第13号“清水本陣とその宿泊者たち”より  つづく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市漫歩マップ㉖札ノ辻

2021年11月23日 | レモン色の町

四日市宿には、本陣が2軒ありました。本陣とは、大名や幕府の役人が泊まるところで、脇本陣はその補充役、本陣で溢れた人や、ワンランク下の者の宿泊所となっていたのです。天保期(1830〜44)頃の四日市宿には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅館が98軒あって、旅館も大22軒、中32軒、小44軒あり旅籠だらけでしたが、勤務中の宿泊です、ドンチャン騒ぎがあったのか、どうだったでしょうか?とにかく、大きな藩の通過時には、四日市宿では賄いきれないほどの人で賑わったと想像されます。定員オーバーになった場合、規模は小さいけれど“加宿”が、日永村・赤堀村・末永村に設置されていました。

本陣2軒の内、札ノ辻の南の本陣は、経営難により何度も経営者が変わっています。享保8年(1723)、続いてきた吉田家は借金が嵩み、親戚筋の太田家が経営にあたります。ところが太田家は本陣の格式がなかったため大名は宿泊しなかったのでしょうか?格をあげるための運動をして、旅籠の合意を得てようやく格上げされます。寛政8年(1796)〜文化11年(1811)資格を得た太田家の本陣が続きます。ところが太田家の経営状態も悪くなり、脇本陣を勤めていた黒田家が格上げされ本陣を営むこととなります。何時の時代も大きな建物の維持管理は大変だったようです。

格式を持った本陣は、店の前で呼び込みをしたりして一般の客を泊めることができませんでした。この対策として、本陣では“定宿大名”の確保に努めています。つまり“お得意さん大名”を沢山つくるわけです。もう1軒、辻の西にあった清水家では、建物の老朽化や地震などの災害修復のため、津の藤堂氏や長州の毛利氏、亀山の石川氏らの大名に、借金や補助金の申し入れをしています。また幕府や領主からの助成金も仰いでいました。

四日市市史研究 第13号 “四日市宿清水本陣とその宿泊者たち 大石 学氏”より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市漫歩マップ㉕諏訪駅と近鉄四日市駅

2021年11月21日 | レモン色の町

現在の中心市街地にとって、諏訪駅の廃止と近鉄四日市駅の完成は、大きな事件でした。辻 俊文さんは、町の変化を克明に記録されました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市漫歩マップ㉔スワ前通り

2021年11月20日 | レモン色の町

親父が健在だった時代だから もう30年も40年も昔のことだ 一人の老人が店を訪れた 昭和天皇御大典(昭和4年)の東海道筋を調べているという事だった 名前を増田武夫氏といい 親父と暫く話をして帰っていった その後 出来た冊子が“東海道往還”だった つづいて“浜往還”に取り掛かられた 一軒一軒足で稼いで作られたマップは 貴重なもので 当時を語るにはギリギリのタイミングだった

昭和35年のスワマエ “四日市市の今昔”樹林舎刊 より

諏訪前のお店の並びは漫歩マップに掲載

諏訪神社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オープンストリートインヨッカイチ

2021年11月19日 | 諏訪商店街振興組合のこと

11月27・28日開催の“オープンストリートインヨッカイチ”のチラシが出来ました。

表参道スワマエの通りに“よっかいち漫歩マップ”の懐かしい写真と地図を展示致します 是非お立ち寄りください

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市漫歩マップ㉓末広橋梁

2021年11月17日 | レモン色の町

お断り・イベント向けポップようですので 再掲載となっています スミマセン

鉄道橋、道路橋等の可動橋は、明治以来80に可動橋が造られてきたといわれているが、現存して稼働しているのはわずか3橋にしか過ぎない。そのうちで最も古いのが四日市港の千歳運河にかかる“末広橋梁(重要文化財指定)”である。

“設計製作昭和6年12月”の銘板を持つ“末広橋梁”は、JR関西本線四日市駅構内の港への引き込み線であり、貨物列車しか通らないため、国鉄の民営化後はJR貨物の管理する処となっている。

かつては、四日市駅から末広町の第1号埋立地の岸壁に設けられた四日市港駅まで開通していた臨港貨物船は、径間54メートル、幅4メートルの末広橋梁を渡り、途中、千歳町地内で工場の引き込み線を張りめぐらしながら、第1埠頭迄延びていた。 北野 保著“よっかいち歴史浪漫紀行”より

イベント掲示のポップです

2021年5月24日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする