花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

カンバック!昭和商店街26<連鎖街>

2019年01月30日 | レモン色の町

我が家の裏手(西方面)一帯は連鎖街と呼ばれていた。飲み屋通りである。戦後、神社が兵舎を買い受け境内に移築したのが始まりである。同じ四日市幼稚園の子が2階に住んでいて遊びに出かける。少し目の吊り上がった美少女であった。階下は小さな飲食店の並びで、お母さんはそこでスナックを経営していた。中央に木造の広い階段がある。ゴトゴト上がると、東側に小部屋が並ぶ。その一室が彼女の家だった。絵本でも見せてもらったような気がする。この地域はしばしば火災を起こした。漏電火災が多く、一旦燃えると瞬く間に火は広がった。現在、すべて新しく建て替わっているが、通りの広さや飲食店の並びは昔のままの雰囲気である。

 煙波というお店の看板が見える

南隣の香蘭では子守をしている

マップの右中央に渡辺菓子店がある。正ちゃんとよくここへ寄った。カバヤやグリコのおまけが欲しくて、中身のキャラメルを一気に口へ放り込みオマケを楽しんだ。点数をためて送ると景品が届いた。ジェムストーンなどたいしたものはなかった。

ナショナルの看板から浅野デンキがあった

連鎖街を含めて、諏訪神社や諏訪公園等、『まちっこ』にはあらゆるところが遊び場であった。

 


高校生議会開催される

2019年01月29日 | おいらの商店街

本日の中日新聞より。1月26日、北勢地方から呼びかけに応じた高校生26人による「高校生議会」が開催され貴重な意見が掲載されていた。

 

「これからの公共交通を考える委員会」「帰ってきたい、ずっと住みたいまちづくり委員会」「どうなっているんだ?図書館委員会」の委員会に分かれて活発な討議がなされたとあった。特に図書館に関してはまさに的を得ていると言える。


カンバック!昭和商店街25<諏訪駅を通って>

2019年01月28日 | レモン色の町

これも本町の水谷さんからお預かりした。昭和29年9月、諏訪駅ホームの端から西方向を撮った写真。右へゆっくりカーブして名古屋へ向かう。まっすぐ伸びているのが湯の山線。右遠くに見えるのは天理教だろう。

 

昭和32年、諏訪駅が取り壊された荒涼とした跡地。前の写真より東へバックしている。のどかな風景が壊されたような気になる。

 

昭和31年、諏訪駅を出た名古屋行き特急を見送る三人。北へカーブして三滝川を渡る。

 樹林社刊 四日市の昭和より 門脇篤氏撮影

もう1枚、水谷さんからの写真。四日市駅西側踏切、諏訪駅方向を向いて撮るとある。善光寺カーブで、曲がった列車は、西方向へ真直ぐ諏訪駅へと向かった。

 

列車を走らせるための送電線の碍子?は、線路の南側を連なっていた。


カンバック!昭和商店街24<諏訪駅前>

2019年01月26日 | レモン色の町

辻さんの諏訪駅前を撮った写真。正面看板にある大映映画、菅原健司の「東京暴力団」と左の弥生館の志村喬主演の「男ありて」。これらから時は、昭和30年6月となる。15時過ぎか?梅雨の晴れ間の午後、帰路へ向かう女学生と、友達と遊びに出かける子供たちがすれ違う。朝の雨で地面は濡れている。

 

ちょうど映画の看板下から逆に駅方向に撮られた写真を、本町の水谷さんから預かった。29年9月とある。辻さんの写真から10か月前である。場所の確認は、遠くに諏訪駅の屋根が望め、その手前角に木組み看板の骨組みが見える。これからベニヤさんの看板が取り付けられることとなる。一番手前の建物が何なのか?乱雑に立て看板が立ち、出入り口は二か所。公衆便所の可能性が高い。

 

左が諏訪マーケットのマルモ物産。甘酒の素の看板が掲げてある。それにしても大勢の人が諏訪駅前を歩いている。学生や子供が混じる所から月初めの日曜日か?諏訪の町へ買い物に出てきた人々だろう。少しお洒落をしている。中央の二人のご婦人は、財布右手に買い物袋からなにか取り出して相談中である。

 

昭和39年(29年の間違いデシタ)。邦画では「ゴジラ」「二十四の瞳」「七人の侍」、洋画ではヒッチコックの「裏窓」やフェデリコ・フェリーニの「道」が封切られている。


カンバック!昭和商店街23<のんきやさん>

2019年01月25日 | レモン色の町

本町のまちかど博物館(水谷さん)から写真が届いた。いつも気にかけていただいている。ありがたいことだ。感謝の念に堪えない。さて、この写真はいったいどこか?日時は記されていない。いったい何時ごろか?

 

多くの看板が目に付く。北岡時計店の看板から北岡さんの近所?中央の看板からパチンコ屋さんの角のようである。右を見ると電球の並んだアーチ形の街路灯。ここは、諏訪南大通り(現 公園通り)である。パチンコ屋は2軒あった、甲子園とラッキー。角に建つのは甲子園の方だ。真ん中に置いてあるごみ箱に『のんきや』の文字が。のんきやは辻さんの写真から昭和33年には既に建っていた。道を隔てた東側である。

 左に建つのがのんきや

開店当時ののんきや

諏訪劇場の映画の看板「花の白虎隊」とあり、黒川弥太郎の顔が描いてある。調べると主演は市川雷蔵となっているが、黒川弥太郎も脇役で出ている。昭和29年8月25日封切り。当時市川雷蔵は無名の新人で、看板描きは、描き慣れて絵になる黒川の顔を描いたのだろう。

  看板描きは左ポスターの黒川の顔を見ながら描いた

従って、ここは甲子園の角、昭和29年8月末ということになります。私が諏訪公園内にあった四日市幼稚園の園児の頃でした。この年、大協石油の原油タンクが爆発します。

特別付録 本日の甲子園跡 三重の食材とお酒で うましくに さんが営業中です


スワマエオールド 4増田武夫氏の功績

2019年01月15日 | レモン色の町

ここに「旧四日市市内 東海道往来」増田武夫著という本がある。昭和54年発刊とあるから、30年以上前のことだ。うっすら記憶にあるのは、当時おやじを訪ねてきた人がいて(それが増田さんだった)、御大典(昭和4年)当時の商店の並びを話し合っていた。ひとりの人の、地道な苦労が実ったのがこの本で、昭和天皇即位の頃の東海道が再現されていた。増田さんはその後、浜往還の町並みの本も出された。ここに尊敬の念を込めて深く感謝申し上げます。

ということで、昭和4年の新田町の街の並びを掲載させていただく。

真ん中を通っているのが旧東海道。右に東西に走る(伊勢電鉄)のが現在の1番街通り。ここに諏訪驛があった。

中央に水谷仏具店がある。鉄次郎はお祖父さんの名前で、桑名からここへ来たのは明治の中頃だった。新参者である。

諏訪神社から北へ、米角屋さんがあってその隣に巴軒というカフェがあった。そして西新地へ向かう。

 


スワマエオールド3 戦前のスワマエ

2019年01月08日 | レモン色の町

岡野先生が「旧四日市を語る」に書いた、戦前のスワマヱ通りである。1番街の通りに諏訪驛があって、内部・八王子線の発着場でもあった。

東海道の南の外れに位置したスワマエには、魚屋、薬屋、表具屋、小料理屋、仏壇屋、八百屋、染物屋、お茶屋、郵便局、洋品店、自転車屋、米屋、時計屋、うどんや、毛糸屋、化粧品屋等あらゆる商店が揃っていた事が分かる。むしろ飲食店は少なく、諏訪神社の前に巴軒という名のカフェが見当たるが、どんな店だったの気になるところだ。

比較的まじめな通りだったことが推測される。


スワマエオールド2 古地図より

2019年01月05日 | レモン色の町

 四日市宿の地図がある。1枚は寛文年間(1661年)。宿場を中心に町屋が道沿いに並んでいる。東海道沿いに諏訪神社あたりまで連なっているが、家屋の裏は田圃で新田町という名は見当たらない。

 

 これは享保年間(1716年)の四日市宿。比較すると道が入り組んできていて、町の成長が分かる。四日市宿は、東海道と浜往還の辻を中心に発展してきた。港はとても大切な要素だった。地図の上の方を見ると、後に出来る柵のところが濱田地と宿場の境界になっている。新田町、江田町は浜田地から分かれてできたようだ。

 

 漠然と思っていた。新田町は四日市宿の中だったと・・・。宿場外れであることを知ったのは、岡野繁松氏に東海道分間延絵図を見せていただいた時だった。20年以上前のことだ。しかし、決して宿場外の田舎ではなく、にぎわいは新田町、江田町、浜田村へと続いていた。辻を中心に陣屋、旅籠、料理屋、待合など宿場的雰囲気が強かったのに対して、新田町は、桶屋、櫛屋、仏壇屋など物を作りながら営む店舗が軒を並べていた。東海道解説にこのように書いてある。

四日市宿で最も旅籠の密集していたという南町を経て浜田村に入る。南町と浜田村の境界のあたりに、絵図では街道の東西両側から門柵のようなものが街道の中央方向に描かれている。これは四日市宿の南端、南の出入り口を示す門であろう。村とはいえ、絵図にある通り新田町、江田町などの町場が長く街道沿いに発達し、四日市宿同様の景観をみせる村であった。ちなみに、現在の諏訪神社あたりが、絵図の浜田村新田町に当たる。


スワマエ オールド 1

2019年01月03日 | レモン色の町

東海道を江戸の日本橋から数えて43番目の四日市宿。夜明け前に立った旅人は、追分で京都と伊勢への道に分かれます。方や鈴鹿峠越えの難所、方や伊勢神宮へあと少しと・・・。

これは江戸に描かれた、東海道分間延絵図 四日市宿の絵です。

三滝川を渡るとすぐ四日市宿に入ります。ゆっくり坂を下るとそこは札ノ辻。四日市港へつながる浜往還と東海道の交差点でした。

お正月ですので少し急ぎますが、四日市宿で一泊した旅人は伊勢へ、京都へと向かいます。冷気が包みますが、朝の空気が気持ちの良い朝です。宿場を出るとすぐ左に諏訪神社があり。ここで旅の安全と感謝を祈願して追分の分岐点へと向かうのです。

 

右にあるのが札ノ辻、中央に諏訪神社があり、浜田村、新田町と四日市宿の境界が見られます。通称黒門と言われていたそうで、宿場の境界を示す垣が立てられていました。

つまり、新田町(表参道スワマヱ)は、四日市宿の南の外れでした。