花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昭和38年のトイレットペーパーの話し

2024年02月27日 | レモン色の町

『昭和こども新聞』日本文芸社  昭和36年版より

トイレットペーパーなるものを知っているだろうか?日本語に訳せば「便所用紙」である。といってもトイレットペーパーは「ちり紙」でも「京花紙(おとし紙)」でも「尻拭き用に切断した新聞紙」でもない。

柔らかい紙が円柱型(ロール状で約60m)になっている西洋の尻拭き専用紙である。凧糸を伸ばすように使う分だけを引き、手で千切って尻に当てる。ちり紙ようにゴワゴワしていない。新聞紙のように尻に印刷文字が残ることもない。日本では1924年(大正13年)から生産されているが、まだまだ一般家庭への浸透度は低く、普及率から推算すると、各家庭においてロール型のトイレットペーパーがちり紙にとって代わるようになるには1970年代であろうと予測される。

「化粧紙のような、家の宝箱に1枚だけ持っているティッシュペーパーのような、優しい肌触りに思わず頬擦りをして、少しだけポケットに入れて持って帰っちゃいました」

江見由紀子さん(9歳)は、友達の家で見たトイレットペーパーに感激したという。

そう、トイレットペーパーは、あの高価なティッシュペーパーに酷似しているのだ。ティッシュペーパーは1953年から出回っているが、これもまた普及率は高くない、どちらも日本人の生活感には合わないもののように思え、1970年代になっても各家庭に浸透しているとはとても思えないのだが・・・。

TOTOがウオシュレットを販売はじめたのは昭和39年(1964年)12月でありました。


諏訪神社探訪 ②

2024年02月25日 | レモン色の町
諏訪神社入り口の鳥居は、銅板で囲われているにせよ変わっていない。鳥居の右側に注目してほしい。
大正時代 山本正次氏蔵
軒に“水”の文字がみえる、縁台のようなものが出ているから やっぱり茶店だろう。現在と比べるとかなり軒が低いように見えるが、すこし下げられて建っているようだ。
この絵はがきでは、灯篭の右端に茶店の暖簾のようなものが突き出ている。前の写真と比較すると後退している。そして当時の灯篭の台は格段に高い。それにしても 奥に建つ 倉庫のようなものが気になる。
現在 
灯篭の台を比べると30センチ近くは土盛りの為、上がっている。空襲後かなりの土が入れられたようだ。
前田憲司さんが拝殿に進む
戦争の為 金属類は供出となったが 供出されなかったものがある とおっしゃる
それは 天水鉢 だった。明治24年9月 の文字を発見。
左の天水鉢には、四日市茶問屋 とあり名前が連なる。四日市のお茶組合による寄付だろう。
こちらには 三井物産はじめ横浜茶問屋寄付とあった。四日市港から出される四日市のお茶は、全国でも名前が通っていたようです。
以前、雨の拝殿でお祓いをいただいていた時、天水鉢に落ちる雨音が、小学校の雨の校舎と重なって聞こえました。なつかしい!
 

諏訪神社探訪 ①

2024年02月24日 | レモン色の町

22日は、郷土史家の前田憲司さんに無理を言って 境内を案内してもらった。この記録はGGシニアさんに後日YouTubeでアップしていただけるが、私が幼少のころから親しんできた諏訪神社のことを 何も知らず、発見満載で楽しかった。さて、ここで問題 次の2点の写真は どちらが古いでしょうか?

どちらも絵はがきからの写真だ。上は大正期とあった。右手前に茶店?にしては低すぎる。下の写真は、石橋の向こうに背の高い建物が・・・。ひょっとすると 新田町の大山の藏か?

下の写真には、池の手前に柵がある?こちらが昭和初期?

石橋の欄干のギボシ

諏訪栄町 関屋糸店 昭和38年寄贈とあった。太平洋戦争の供出で金属類はお国のために提出した。戦後になって関屋さんが寄付したということである。そういえばわたくしのご幼少の頃はなかったと思う。

この神馬も平成になって有志により取り付けられた。

初めは 昭和10年に神前町(新田町)の吉田治三郎氏の寄進によるとあった。初代神馬は10年と立っていなかったことになる。吉田さんは さぞ無念だったでしょう。

吉田治三郎さんは、神社前で紙角屋で紙や砂糖を販売していた。忘れられないのは、戦前の神社祭礼の写真で、練り入りする時間待ちの大入道を見上げるように撮られた写真だった。紙角屋さんの二階からはたくさんの人が大入道を眺めていた。今も昔も大入道は人気だった。

 

 


三重軌道の敷設は何処か?

2024年02月23日 | レモン色の町

うえの様から、明治44年の記事を送っていただいた。

明治44年4月8日付 伊勢新聞より

  • 四日市の新道開設  三重県軌道工事関係 

 四日市市にては去る4日 市会に引き続き議員協議会を開き 室山に通じる三重軌道株式会社の線路に関係ある新道 及びこれを幹線とする数條の支道を開設するにつき 里道開設委員として家田、毛利、久志本、山中、熊澤、大平、稲葉の七氏を挙げ 6日午後1時より同委員会を開き参事会員列席の上 協議し道路敷地を踏査したるが 右は東海道 江田 橋北(はしきた)を起点とし 諏訪前通(すわぜんつう)と並行して善光寺脇を過ぎ停車場前に達する8間巾(14.4m)424間(763m)及び阿瀬知川境に達する7間巾(12.6m)312間(561.6m)にして 両線いずれも中央2間巾の軌道を敷設せしむべく 軌道の左右は各地主より無代上地し 線路敷地は三重軌道株式会社にて買収起工するはずなり 此の他 東海道筋阿瀬知川橋より約75間(135m)南方より人造肥料会社脇に通ずる5間巾(9m)469間(軌道なし)(844m)を設け (四日市鉄道か?)この新道3條を幹線として数條の支線を通じる予定にて 敷地は前記の如く全部地主より上地せしめ工費1万8千7百6十余円(架橋費を含む)は3分の2を大字浜田より支出し 3分の1を市より補助する計画にて構梁費及び家屋の移転料5千6百3十余円は肥料会社の共有地3反2分を売却して充当するの見込みなりという。

明治43年発令の「軽便鉄道法」に申請して、三重軌道株式会社が江田(えんだ)町から善光寺を通過して阿瀬知川(本社前)に達する線路と、もう1本、四日市鉄道かと思われるが東海道筋阿瀬知川橋より135メートル南から844m東へとある。

明治44年の地図には、鵜の森神社からまっすぐ東へ、計画が出来ているが、この線(阿瀬知川橋より南方75間?)も予定線だったのか?後日記入:鵜の森神社から東へ伸びているのは、道路計画の線です。

昨日、図書で「読みたくなる地図 西日本編」海青社 を借りてきた。明治22年5万分の1の地図が掲載されていた。

これが明治22年か?と疑ってしまう。軽便鉄道法が敷かれたのは明治43年。

明治22年か?点線は予定線 水色は阿瀬知川

「みなみはまだ」と「ほりのき」の駅があるから、地図作成時期には「すわ」までの両線路は敷かれていた。「すわ」から「よっかいち」までのルートと、阿瀬知川(水色の線)河口までのルートが迷走しているようだ。内部まちかど博物館に伺うとその謎が解ける。行きましょう!行きましょう!

 

 


紡績工場での仕事

2024年02月21日 | レモン色の町

紡績工場から仏壇の引き取りを頼まれた。20年以上前の話しです。仏壇の幅は90cm以上あるということで、3人がトラックに乗り出かけた。工場はすでに操業は終えていて、建物は順次取り壊されていた。守衛さんも居らず、事務所に声をかけると、講堂に仏壇はあるということで、教えられた通り草の生い茂る空地を進んだ。

参考写真です

講堂は、木造体育館のようで、正面にステージがある。その真横に仏壇が据えられていた。ステージに向かって椅子が並ぶ。300席はあったか?舞台中央でお話や余興が繰り広げられたことと想像するが、すぐ横に仏壇があったとは?教育の一環だったと思われるが、親に対する恩か?工場で亡くなった女工さんを祀っていたのか?目線が集まるすぐ横にお仏壇が据えられていた。

講堂の両脇は一間半ほどの廊下になっていて、ボックス型の公衆電話が六カ所ほど配置されていた。ここから、この場所から、女工さんは故郷へ電話をしていたのだろう。硬貨をせっせと入れながら・・・。

かび臭く朽ちた講堂の中を見渡して、たくさんの女工さんが集まる風景を想像した。今考えると、写真を撮っておけばよかったと思うが、それは不謹慎か?


依佐美送信所と海藏受信所 ②

2024年02月19日 | レモン色の町

依佐美送信所(よさみそうしんじょ)記念館に 四日市の海藏受信所が掲載されておりました。

「前畑がんばれ!」どころか 刈谷では「ニイタカヤマノボレ」を長波で送信していたとは 歴史の重みを感じます

依佐美送信所とペアの四日市受信所 (katch.ne.jp)

さて四日市受信所が何処か?すでに探しておられたようですが、勝手にググってみました。

① が受信所の位置

現在は、山手中学校北西の松ヶ丘団地の中になっているとあります まったくの住宅地です

2.の鉄塔は 三ツ谷町の海蔵川沿いにあったとなっています 四日市から1号線を進み 海蔵川の橋を渡って右へ折れて万古焼工場と住宅地に中にあったそうです 1号線すぐ西側に NTT西日本三ツ谷ビルがあるのですが そこでは無さそうでした

垂坂山の鉄塔は 東芝(メモリ✖)だった現在のキオクシア工場群の中だったようです。いずれ現地へ走ろうかと思っておりますが よく知っているところで 現場を見ても普通の景色で 何も残ってなさそうです

 

 


依佐美送信所と海蔵受信所

2024年02月18日 | レモン色の町

Kさんの記録から、千種城跡から稲葉町までの道のりをGGシニアさんにアップしていただきました。拙い説明ですが ご覧いただけば幸いです

「前畑がんばれ!実況放送と四日市の関わり/昭和9年菰野から四日市へ」 (youtube.com)

さて、先日仕事仲間と話しておりました。歩く会で知多の方へ出向いた折、刈谷の依佐美送信所記念館に立ち寄って、四日市の受信所の文字を発見したそうです。

依佐美送信所 - Wikipedia

依佐美送信所とペアの四日市受信所 (katch.ne.jp)

ここに海藏受信所の位置が掲載されておりました 時間がないのでまた次回!スンマセン!

追記 先ほど あすなろ鉄道に魅入って運転手になった 内部まちかど博物館の副会長 上野さんが寄られました。凄い気さくな方で スターが来たみたいに大騒ぎでゴザイマシタ。お聞きしたいことが探し出せないまま 帰られました!運転のお時間が来ていたようです 行ってらっしゃい!お気をつけて


掖済会横の石灰工場 掖済会へ

2024年02月13日 | レモン色の町

こうして坂部の大きな坂を一気に下り、下りたところにある江田神社で一服しています。川幅が広くなった海藏川に沿って、あひるを眺めたりしてすすみます。東坂部の製糸工場横を通っていくと北の方の丘に無線局の鉄塔がみえました。海藏受信所です。

2024年2月5日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

そこから 道が少し南へ曲がり 海藏川ともお別れして高い煙突の立つゴミ焼き場(末永のごみ焼却場)の南へ出ました ここからは三滝川沿いになります

掖済会前の海水浴場 大正期

ゴミ焼き場と堤の間には灰が山になっていて 焼けた缶が混じっていました 三滝川の南側には大きな変電所(堀木町)があり 千種から出た送電線やあちこちから電気が送られてきているようでした。

近鉄の踏切を渡ると少し坂になり 三滝川の橋を渡って西町へ着きました ここからは町中を通らず 堤防道を東へ進んだ記憶です 確か国鉄のガードをくぐった記憶がありますから・・・三滝川沿いにまっすぐに 工場の煉瓦塀に沿って行くと稲場町に着きました ここに着くまで1時間くらいだったようです 同行したA君の親戚は砂利運搬業をしていました 確か氷水をいただいてひと息ついたと記憶しています お昼まで時間があったので 軍艦を見に行こうということになり 狭い道を後ろからついていきました どこを通ったのか記憶にありません。

大正期の海水浴場

 


掖済会横の石灰工場 足洗池

2024年02月12日 | レモン色の町

さて、リヤカーの旅は続きます。Kさんの記録には『あがたの小学校までは北野に人家があるのみで、一面の水田である。小学校の南の道に入った。この道は人家に沿うて建ち並び狭い通りであった』とあります。現在のあがた小学校は、敷地も広く鉄筋建ての立派な校舎ですが、昭和9年当時は、木造で運動場も狭かったと書かれていました。

人家の並ぶ狭い道を進み、松林を通って送電線の下をくぐります。『少し行くと頭上を高圧電線が北から南へ横切り 道の南の松林の中であがたの変電所から出た送電線がその下を潜り抜けていた。』Kさんは、揺れるリヤカーの中から頭上の風景を楽しんでいます。こうして左手に天理教を通過します、この時Kさんは、教会の庭がきれいに手入れがしてあったことを述べています。

『走っていくと、左に“パラダイス果樹園”という梨畑があり、少し人家があった。また少し行くと 坂なり途中北側に“足洗池”という小公園があり、坂部の小坂と教えてもらった。』

足洗池 日本武尊の伝承にまつわる史跡は、北勢地方に多く点在するが、ここ「足洗池」もその伝承地の一つである。地元の言い伝えでは『日本武尊は東征の帰路、大和を目指したが、途中弟 五十功彦命(いごとひこのみこと)の江田神社の祭り神のもとを訪ねようと、当地に至った。伊吹山の神の祟りにより重病にかかっていた尊は、この地の清水で足を洗い小康(しょうこう)を得た。』と伝えられている。

わが国最古の歴史書『古事記』に「わが足三重のごとく曲がりてはなはだ疲れり」といわれる「三重」の地は他所とする説もある。しかし、地元の国学者舘通因(たちつういん)翁は、この足洗池の伝承などから、当地区こそ その三重の地であり、三重郡の中心であるとして、明治22年市町村制施行の折、この地区を三重村と名付けた。