花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

さいごに「男はつらいよ」の素晴らしさ

2012年10月31日 | 諏訪商店街振興組合のこと
政府は30日、2012年度の文化勲章を映画監督の山田洋次(81)、幹細胞生物学の山中伸弥(50)ら6氏に贈ることに決めた。
     
          中日新聞30日付夕刊より
山田監督は、「寅さんがいたら“そんな立派にものをもらっていいのかい”って冷やかすでしょう」といって笑みを浮かべた。
そして、芸術文化への助成が貧弱。何とかしないと若手スタッフが育たず、日本映画界がダメになるでしょうとコメント。監督らしい優しいお言葉でした。
心よりお祝い申し上げます。

ふたたび「男はつらいよ」の素晴らしさ

2012年10月29日 | 諏訪商店街振興組合のこと
Kさんからも感想をいただきました。
     
いつも、この機会でないと観られない作品等を上映していただき、誠に有難う御座います。名作の数々もよいのですが、今回の様な肩のこらない作品もうれしいです。
自分がこの作品に出合ったのは約40年前、東京のはずれの町の3番館で、「男はつらいよ」シリーズの1~3までの3本立て(男はつらいよ・続男はつらいよ・男はつらいよ フーテンの寅)が最初でした。
以来、シリーズを30数作観てまいりました。映画界の水戸黄門的なワンパターン、おいちゃん( 1作~8作 森川信・9作~13作 松村達雄・14作~48作 下條正巳)以外は変わらない寅さんファミリー。わかっていてもついつい笑顔になります。悩みがあっても観終わるとなくなっている作品群です。
只、残念なことに、シリーズ全作品を観ておりませんので、もし企画がゆるせば、1年に3作ぐらい上映していただき、全作品を鑑賞できるようにしていただけないでしょうか?(寿命と企画が続けば?)
又、水谷専務がおっしゃられたテレビドラマ「男はつらいよ」の画像もあれば、上映していただきたいです。
よろしくお願いします。

Kさん、ありがとうございました。
今回の上映は、少し雰囲気の変わった映画でしたので、どれだけ皆さんが観に来ていただけるか不安でしたが、多くの方に支持をいただき感謝しております。
シリーズ全48作すべての上映は難しいと思います。(先日、京都南座で公開されたばかりですが…)著作権の関係で、一挙に上映すると100万円以上かかります。ヒェ~!
次年度の公開がゆるされるのであれば、皆様の希望をお聞きしながら(私的には「寅次郎ハイビスカスの花」あたりか?)是非皆さんと一緒に鑑賞したいと思います。1本でも多く…
さて、次回「羅生門」の宣伝でゴザイマス
     
     
     


そして、フランク・キャプラの素晴らしさ

2012年10月28日 | 諏訪商店街振興組合のこと
山田洋次監督が「寅次郎夕焼け小焼け」を撮った1976年。当時の映画界はテレビ産業に押されて苦しい時代に入っていました。
この時、出演していたのが宇野重吉さんで、山田監督にこう話したそうです。
井上篤夫著“素晴らしき哉、フランク・キャプラ”集英社新書より
昭和16年、昭和不況から戦争に入り日本も暗い時代を迎えていました。いつ徴兵されるかわからない不安を抱え、宇野さんは絶望から自ら命を絶とうと決心しました。
その前に映画の1本でも観ようかと思い立ち、街へ出かけたのです。
そこで観た映画がフランク・キャプラ監督の“スミス都へ行く”でした。
ガラガラの(反米運動の中でアメリカ映画は人気がなかった)客席で見ているうちになんだか体の中に活力が湧いてきて、もうちょっと生きてみようと自殺を止めたそうです。
曰く「山田君、映画は、一人の遠い外国にいる絶望した若者の命を救う力を持っているんだ。映画を作るっていうのはすごい仕事なんだ。君、勇気をもって映画をつづけなさい」

     
     
     “有りがたうさん”より
12月21日“昭和キネマの集い”で上映予定の“有りがたうさん”清水宏監督(昭和11年作品)を観た後、ロードムービーという共通点をもつキャプラ監督の“或る夜の出来事”(昭和9年公開)をDVDで観る機会ができました。ここで発見!どうやら清水監督はこの映画の影響を受けているらしいのです。
山田洋次→男はつらいよ→宇野重吉→フランク・キャプラ→或る夜の出来事→有りがたうさん といった繋がりができました。
“或る夜の出来事”は軽妙でテンポよくハッピーエンドの素晴らしい作品でした。当時、悪役専門のクラーク・ゲーブルがはみ出し記者を演じ、お嬢さん役のクローデット・コルベールとニューヨークへ向かうバスの旅で知り合います。
旅の途中さまざまなトラブルに出合い、二人は恋に落ちるというストーリーですが、大恐慌という暗い世相とは裏腹に人生に希望が湧いてくるような作品でした。
     “素晴らしき哉人生”より
この二作品を比べると、日本映画界の遅れがよくわかります。サイレントからトーキーに移ったばかりの映画界。“有りがたうさん”のセリフはぎこちないものでした。当時の映画を比較できた人は、アメリカにはかなわないと予想できたのではないかと想像されます。
それからというもの、すっかりキャプラ監督にハマっています。“素晴らしき哉人生!”“一日だけの淑女”“群衆”など、人との繋がりのありがたさ、人生の素晴らしさ、生きる望みを与えてくれる素晴らしい映画ばかりです。
年末にふさわしい作品“素晴らしき哉人生!”を是非皆さんと共に鑑賞したいものです。

「男はつらいよ」の素晴らしさ

2012年10月27日 | 諏訪商店街振興組合のこと
御前様の娘(光本幸子)と1日を過ごした寅次郎は、幸せいっぱいで夜の柴又を帰路につきます。後に訪れる悲劇を想像することもなく・・・
     
「こぉーろぉしィ~、
たいほぉどぉー
惚れてはいたがァ・・・・とくりゃあ!
ゆゥびィもォ~触れずにィー
・・・わかあれたぜぇ~
浪花節だと 笑っておくれ、
野暮な情けに生きるより
俺は仁義に
生きてーゆーくー。」

男はつらいよ全作品覚書ノート より
     
“男はつらいよ”第1作。10月26日に上映させていただきました。
笑って泣かせる、テンポの良いパワフルな素晴らしい映画でした。
第5回 文化の駅サテライトステーション事業に、今回も大勢の方にお越しいただき感謝の一言です。ありがとうございました。
Sさんからは、その場で感想をいただきました。
この「男はつらいよ」シリーズは、何回も観ているのですが、今回は第1作であることで、前回(おとうと)の上映時から楽しみにしていました。
いつも思うのですが、この“昭和キネマの集い”は、結構年配者が多いですね。
昔、映画に夢中になった方が、また、映画の持つ魅力の世界に戻ってきたのですね。
映画ファンとしては、うれしいです。また、このような機会を設けていただき、感謝します。

いつも感想を寄せていただくTさんからです。
これまでに寅さんシリーズの数作品は観ていますが、第1回(昭和44年8月公開)は見逃していたので、今回の上映はとても嬉しかったです。
当時は私も20歳の娘盛り?で、現在とは違ってとても細身でした。ミニのタイトスカート・タートルネックの袖無しセーター・ポニーテールの髪型等、ファッションスタイルだけは“さくら”さんそっくりでした。
出演者の皆さんも若いこと若いこと、もう45年も経ったのですね。
一方、ロケ地として紹介されていた、奈良東大寺の二月堂や浮見堂、奈良ホテル等、今も変わらぬ姿です。
寅さんの“立て板に水”の名口上をたっぷり聞かせて貰えて幸せでした。
それにしても、渥美清さんは歌も大変上手く、言葉を大事に、丁寧に、正確に発する人で、アナウンサーとしても立派に仕事のできる人だったのでは?と思いました。
「男はつらいよ」。下町のほのぼのした人情劇に、泣いたり、笑ったり、存分に楽しませていただき、ありがとうございました。

このところ、多くの皆さんと一つのスクリーンで鑑賞する喜びと幸せをかみしめております。
うれしい限りです。ありがとうございます。
追記
10月28日 ボンちゃんから連絡がはいる。東宝弥生会館(1F シネマパーキング・2f 弥生館・スカラ座・弥生館2)が閉館したのは平成8年3月のことだったそうです。ありがとうございました。

四日市シネマとグランド

2012年10月24日 | レモン色の町
昭和32年9月23日、駅前に洋画専門の「四日市シネマ」と主に大映上映の「四日市グランド」がオープンした。近鉄興業が建てて、客席共に700席の大劇場。設備は県下一だった。
諏訪駅が近鉄四日市駅に移ったのが昭和31年9月だったから、建設計画はほとんど同時だったのだろう
     
前に述べたが、当住居横には市内映画館の看板がズラリと並んでいた(東宝劇場以外)。シネマ・グランドがオープンして、看板が向かいの塀に立てられた。
お袋の「そのうちこちら側に立つ」の予言通り間もなく当店横に移された。固まって並んでいたほうが良いと判断したのだろう。
「四日市シネマ」で思い出にあるのは、日米合作のB級ホラー映画“双頭の殺人鬼”だ。なんと、近所にあった“おもちゃのささや”さんが、劇場を1日借り切ってお客さんを無料招待した映画・・だったと思う。
主人公が肩に注射される。やがてそこから目玉が現れ、ムクムクと怪人の頭が出てくる。最後は体が真っ二つに分かれ、別れたゴリラの怪人は火山の中に落とされるというストーリーだった。(新東宝の中村哲が注射をした博士役だった)
大映映画の大作“釈迦”なんてのもあった。昭和30年代は映画全盛のころ。巨額を投じた作品ができた。
学校から授業の一環で映画鑑賞の時間があった。チャールトン・ヘストンの“ベンハー”を四日市シネマで観た。
人間の条件
“007シリーズ”や“座頭市シリーズ”それから“人間の条件”の6部作一挙上映もあった。小学校時代から青春時代まで共に過ごした感がある。
高校で中間テストが終了すると、学生は解放感から映画館へと殺到した。“輪舞”という洋画。セックス相手が交互に代わっていくという上品なポルノ映画だった。(出演 ジェーン・ホンダ アンナ・カリーナ)
観客がほとんど高校生だったので、大人の客が「おいおい、こんな映画観せても ええんかょ」と大きな声で話していた。
シネマから路地を東に入ったところに“かど源”があった。かつおだしの湯気がいつも通路に噴出していた。
昭和59年8月1日、近鉄興業は駅の北側に「ベガ」「スピカ」「リゲル」のシネコン方式の三映画館を開館。その1週間前まで(7月25日)「四日市シネマ」と「四日市グランド」は営業を続けた。
「ベガ」(客席300)では東映系で薬師丸ひろ子の“メイン・テーマ”。「スピカ」(客席160)では松竹系の“男はつらいよ・夜霧にむせぶ寅次郎”。「リゲル」(客席250)はジャッキー・チェンの“五福星”でオープンを飾った。
三館は平成16年頃まで続いたが、その後、一時中映が引き継ぎ「四日市シネマズ109」の開館とともにその姿を消した。

ここに弥生館があった

2012年10月22日 | レモン色の町
大正10年、南町に実演の「弥生座」が開館。空襲では全焼したが昭和20年「弥生館」として再建。昭和31年3月には、新東宝上映の小劇場「ぼたん劇場」が併設された。
東宝映画・新東宝映画の封切館として、自分にとってもなじみが深い。
「弥生館」では“世界大戦争”“地球防衛軍”“ゴジラ”“ラドン”“モスラ”など一連の円谷英二監督による特撮物は子供から大人まで人気があった。
     宇宙人東京に現る
“用心棒”などの黒沢明監督作品も上映された。観終わった帰り道、無口な親父と「面白かったなぁ」と話しながら帰ったものだ。
鑑賞に出かけるのは、ほとんどが土曜日の夜。寒い夜などは。灰が入っている金属製の箱に炭をおこして入れ、その箱に足を乗せて暖をとりながら観た。
幼児は無料だったが、小学生ともなるとビラ下券1枚が要る。お袋に負ぶされ、ねんねこ袢纏で包んで入口を通過したり、背を低くして突破を試みていたが、最後には「小学生はお金が要りますょ」と注意されるにいたった。
新東宝は、嵐勘十郎の“鞍馬天狗”や、宇津井健の“スーパージャイアンツ”が懐かしい。やがて大蔵映画となり、怪談物やいかがわしい二流映画を上映するようになった。中川信夫監督による“地獄”を姉と観に行ったときは、その恐ろしさに震え上がった。
そういえば、中学のころ、同級生のFくんが親父のコートと帽子をかぶって成人向映画を観たと自慢していたのを記憶している。
成人向映画が三重県で発令されたのは昭和38年のこと。映画“日本残酷物語”は児童の健全育成に問題があるという見地から指定、県内の興業組合に連絡された。その中に「サリドマイド禍の部分はカットすること」の一文が入っていたことは興味深い。
「弥生館」は建物の改築を迫られ昭和51年8月21日、1カ所の映写室から三館のスクリーンに映写する県下初の集中映写方式を取り入れた。シネコンの先駆けである。
「弥生館」では山口百恵の“風立ちぬ”「四日市スカラ座」では三船敏郎の“ミッドウェイ”「ぼたん劇場」では特選各社映画を上映した。その後「ぼたん劇場」は「弥生館・2」と名を変える。
     
喫茶店「オスカー」を1階に開き、駐車場経営に乗り出した経営者 玉置さんの努力が偲ばれます。
1号線沿いにそびえる建物は、その後ゲーム喫茶となった。閉館の時がいつなのか記憶にない。

“砂の器”と橋下市長

2012年10月19日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
1974年、松本清張原作 野村芳太郎監督で制作された“砂の器”は大ヒットした。
映画の終盤、「運命」(スミマセーン 宿命 の間違いでした)の曲とともにクライマックスが始まる。指揮を執る和賀英良。そして観客の中には、彼の逮捕に踏み切る刑事の姿が。
四季の移ろいのなか放浪の旅を続ける親子。ハンセン氏病を患う父は行く先々で追い払われる。父親にすがりつく子供。
それは、和賀英良が自分の名誉を守り、過去を隠すため犯した犯罪だった。
多くの人が涙したのは、殺人を犯した彼は悪い、悪いけれどもその動機は彼の責任ではないという同情と共感の涙ではなかったか。
出生の責任は本人にはない。まして親や先祖の責任を負う必要はない。
今回の橋下市長を突いた週刊朝日の問題は、橋下氏個人が作り出したものではない。週刊朝日のやり方は汚かった。
翌日の街頭インタビューでも同じ意見が多く、朝日は謝罪文を出した。
普段、橋下氏はややキケンで、朝日は好意的と感じていたが、今回ばかりは逆転した。
ト オモイマス!!!

大滝秀治さんの名セリフ!

2012年10月16日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
荷物の包みから、10月7日付の産経新聞に大滝秀治さんのことが載っていた。
     
     
大滝さんが最後に読んだ赤塚不二夫のエッセイは以前にも書いた。
そういえば、忘れられないセリフ「煩悩だよ、煩悩…」の台詞が思い起こされる。
早速、検索したところ、ブログ“映画 シナリオ研究 第11回 若者たち 6 ”にあった。

学生活動家の委員長 隆(江守徹)が部費を私的に流用していた。
回収のため三郎(山本圭)は町工場を営む隆の家を訪れる。
隆の父親役が大滝秀治だった。三郎に向かって言うセリフが・・・(シナリオ原文より)
「税務署もお巡りも怖くはねえけどよ、俺は
昔は葛飾の争議で旗振り回したことだってあるんだし
この工場だって腕っこ一本で作ってきたんだから、ほんと。
煩悩だよ、学生さん、煩悩・・・俺が昔通り、着たっきりの労働者でよ、
あれ(隆)が一生ボロ着て暮らすより仕様がねえ境涯なら、
それ何でもやれって俺ァ云うけどョ、俺ァ今は経営者であれは学生だ、
あんたとおんなじによ、いくらだって先がある訳だ、これから。
だからアナやボル(大正時代の無政府主義者の呼称)の真似はして貰いたくねえしさ、ちっちぇ工場でも、此処守って。
そりゃあんた方から見りゃ、こんな工場は葉屑同然だろうけどさ、
でも俺ァ毎朝新聞見ると、キョッと胸が痛くなるんだ、ほんとに。
倒産なんたって皆新聞ズレしてやがるから、今時一人も驚きもしねえけどサ、俺ァ、
ああまた誰かがどっかで泣き見てやがるんだなあと思うと・・・
ほんと、仕事なんてものは、やってきた当人しきゃ判りゃしねえよ。
良い親じゃねえんだ、俺ぁ。頭じゃ野郎の云う理屈だって判ってるのによ、
・・・ともかく暴れねえで、無事安穏に大学出てくれって・・・。
そんなもんだぜ学生さん。ヤワな人間の一生なんてものはョ。
俺ァいいと思ってんだ、それで・・・嫌われたって、軽蔑されたって、
ともかく野郎が安穏に生きてくれりゃ…それでいいと思ってんだ。」

親心。大滝さんのこの言葉が、胸にしみます。

“寅次郎はつらいよ”

2012年10月14日 | 諏訪商店街振興組合のこと
「男はつらいよ」の“つらい”とは、いったい何がつらいのだろうか?
     
寅次郎がつらいよ、と嘆いたのは、自分が女性との恋愛を成就できない、自分が人間として一人前になれない、自分がカタギの生活を続けることができない、という非成就感、非達成感に由来すると考えることができる。
では「寅次郎はつらいよ」とせずに「男はつらいよ」としたのはなぜか?
それが時代の不特定多数の男性の共有する“つらさ”だったからではないか。
高度成長期にあって、平和で階級制度もなく「自分のやりたい夢に向かって突き進んでもいいよ」と言われているにもかかわらず、実際には世間の常識に縛られて、分相応なところで我慢して会社や家庭のために尽くしていく、そんな男たちに重なる部分があると捉えられたのではないだろうか。

     
観ていて気分爽快になるヒーローものの作品の多くは、正義のために火の中水の中へ飛び込んで成功する、しかし、人々は、物事がそんなにうまくいくとは思ってないし、その前に、寅次郎と同じように、踏み切れない、踏み出せないことのほうが実際には多い。その甘さを寅次郎の人間味に感じるのだろう。
第1作が始まったころ、金の卵と言われて上京してきた多くの就労者たちも、同様に焦っていた。失望感を抱いている人も多かったのではないだろうか。
だから時代のアウトローではなく、帰る場所、故郷がある現代劇でなければならなかったのだろう。

 
(濱口惠俊・金児暁嗣著 智泉書院 寅さんと日本人より)
男はつらいんだよ。正しいと思ってやったことが、自分の至らなさでかえって周りの人とギクシャクしたりもするけれど、自分なりに懸命に生きているんだよ。そんな真摯な生きざまに、観客は笑い、涙するのだろう。
嘗て、若き武田鉄矢に山田洋次監督が叱ったエピソードがあります。
「人を笑わそうと演技をすれば、それは作り物となる。人は作中の人物が一生懸命になっているのを見て笑うのだ」と・・・
     
10月26日金曜日、午後6時30分上映の記念的第1作「男はつらいよ」
お楽しみください。

ジャスコが四日市東映を買収!

2012年10月12日 | レモン色の町
江田町の諏訪駅から路地を南に入ったところに「近畿館」ができたのが終戦後間もない昭和21年のこと。
当初、実演興業だったのが、その年の8月29日「キャピタル劇場」と改名して洋画専門館となった。(こけら落としにアメリカ映画「呪いの家」を上映)
その後23年秋に大改造をして「諏訪劇場」となりテレビ時代以前の娯楽の殿堂として県下でも1,2位を争う興行収入を上げていた。(もう1館は津の曙座)
「諏訪劇場」は昭和37年に「四日市東映」となり、昭和43年2月にジャスコに売却するまで続いた。(ジャスコB館となり、現在はマンションが建つ)
      辻俊文さんの写真
終戦直後から昭和33年頃にかけ地方の劇場では、歌謡曲や軽演劇が上映された。大都市の劇場が焼失したため多くの芸能人が地方巡業に回ったためだ。これが大ヒットした。
なんと辻さんの写真に美空ひばりが来ていた写真があった。
      カメラを構える辻さんをにらむお兄さん方
この年、美空ひばりは塩酸をかけられるという事件に遭遇していた。劇場入り口の物々しい雰囲気から緊張感が伝わる。よくぞ撮れたものだ。
小生が幼少のころ、親父とともに「月光仮面」を観に出かけたが、併映の1本が終わると変なおばさんが出てきて歌謡曲を歌いだした。確かに美空ひばりではなかった。
早くおしまいになって「月光仮面」が始まらないかと期待していたが、ついに終焉の9時30分となった。
“スカ”をつかまされた気分だったが、歌の途中で月光仮面の寸劇があり「まあ、許すか」という思いで帰った記憶がある。
美空ひばりと云えば、弁天小僧に扮したひばりがもろ肌脱いで「知らざぁ 云って 聞かせぁしょう」と啖呵を切るシーンを見たときには、妙に興奮した。
昭和30年代は東映時代劇の全盛期で、市川歌右衛門と片岡千恵像が同じ映画に出るのはお正月映画のときだった。
毎週上映が変わっていたから、大変な量産だったのだろう。
     
多少の当たり外れがあっても、劇場には多くの人が押し掛けた。
多くの人が、正義の味方が悪人を懲らしめるという世界に、酔いしれていた。