花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昭和30年代回顧譚(卵の巻)

2006年04月29日 | レモン色の町
昭和30年頃、10メートルと離れてない商店街の中に魚屋さんがあった。箱とお金を持って朝一番で卵を買いに行く。なぜ魚屋に卵なのかよく分からなかった。木箱の籾殻に埋まった卵が少し顔を出している。おじさんは、箱に少し籾殻を敷いて卵を並べてくれた。
茶碗に卵を割る。醤油をたらしてかき混ぜる。ご飯を目いっぱい入れて、その上からも醤油をかける。卵の香りを楽しみながら、卵の見えるすれすれまでご飯を食べる。そしてもう一度ご飯をその上から入れてかき混ぜる。一個の卵で一膳半ご飯が食べられた。
袋は、店番で忙しかったせいか料理に時間をかけなかった。吸い物を作ってそこに家族の数だけ卵を割り込む。よく煮ると卵は硬くなる。吸い物を半分くらい飲んだ後、中の黄身を溶いて、その汁で白身をいただいた。吸い物が二度楽しめた。
袋は、中学生になると弁当のおかずに苦慮した、と思う。卵焼きとスターエスハムが定番だった。前日の、肉とねぎを炊いたおかずの残りがあると、そこへ卵を割り込み煮る。ご飯に梅干を入れて弁当の出来上がりだった。
楽のお供に、ゆで卵は駅の売店でよく買い求めた。縦に並んだゆで卵の下に、セロハンで包んだ塩が入っている。こぼさないように塩を広げ、コンコンと割った卵につけて食べる。中から顔を出す黄身はお日様のようだった。
舎の親戚の家に遊びに行ったとき、鶏小屋から産みたての卵をとってきた。一個しかない。四人が昼のおかずにするには足りない。そこで「卵焼きの素」を溶いた卵に入れて何倍にも増やした。あまり卵焼きの味はしなかった。
の上と下に、針で小さな穴を開け、啜って飲んだ。旨くはなかったが、なんとなく元気が出てくるような気がした。殻は絵の具で色をつけ、細かく砕いて、厚紙に貼り付けた。夏休みの宿題が苦労の末出来上がると思ったが、完成の記憶はない。多分あまりの面倒さに挫折したと思う。
とバナナは今でこそ安価で買えるが、当時は生活に密着した高級食材でありました。

歌舞伎 勧進帳

2006年04月22日 | レモン色の町
歌舞伎を見る機会が出来た。御園座の陽春大歌舞伎。演目は歌舞伎十八番の「勧進帳」。松本幸四郎と息子の市川染五郎。
四郎(かつての染五郎)は「野バラ咲いて~るう~ やまみちをぉ~」と歌っていた。当時オイラは大きな声で歌っていた。昔々のお話だ。
五郎人気で若い観客が多いと報道されていたが、平日とあって年寄りがほとんどだった。ごひいき筋なのか、着物姿の中年夫人や、ド派手なドレスを着飾ったご婦人が最前列に見受けられた。
席では飲食厳禁。バリバリせんべいでもかじっていようものなら、案内のお姉さんから注意を受ける。食えないとなると余計食欲が湧く。入る前にコンビニでカツサンドとビール。途中抜け出しビールと天ぷらそば。おかげさまで、時々睡眠を頂戴した。御園座は昔、入り口で弁当をもらい休憩時間に席で食べることが出来た。
戸時代の歌舞伎は、庶民にとって最大の楽しみだった。明るいうちの興行だから、夜明けとともに浅草の猿若町に人が集まる。中村座・市村座・森田座を江戸三座と呼ばれ、日千両と呼ばれたほど賑わった。
舞伎小屋の周りには多くの芝居茶屋が建ち並び、茶屋を通して座席を確保してもらう。一日がかりの興行だから、茶屋から茶菓子や幕の内弁当が運ばれ、終わってからも立ち寄って飲食を楽しんだ。帰りは夜中や翌朝帰りになるという、二日がかりの娯楽だった。
場料は、今のお金に換算すると、最高の桟敷席で12万円以上した。安い席でも2万円。これに飲み食いのお金が加算される。庶民は詰め込みの桝席で5~6千円ぐらいだが、一幕だけなら500円くらいで気楽に観られた。
舞伎は当時、ファッションの最先端だった。日常の会話にも歌舞伎のせりふが語られ、町内では素人歌舞伎が演じられるなど、娯楽の少ない江戸時代に、歌舞伎は庶民の生活に溶け込んでいたのだ。
れにしても勧進帳なら大体のストーリはわかるが、歌舞伎は内容が分からない。物語のあらましを熟知した上で観てこそ楽しめるというものだ。

四日市のまつり

2006年04月19日 | おいらの商店街
掃除をしていて、昭和51年9月発行のタウン誌「四日市百選」を見つけた。そこに四日市まつりの特集が掲載されている。戦前の祭りは盛大で、東海三大祭の一つに数えられていた。
練り物(山車)の一覧が出ていた。ほとんどが戦災で消失してしまっているが、再現されている山車もあり、そこから往時をしのぶことも出来る、かな?

○西町 神輿の行列・道楽・舞楽の人形・四神の鉾 (西町には神様のお旅所がある)
○比丘尼町 大名行列(今でも健在)
○久六町 大名行列
○北町 紅葉狩り
○南町 浦島太郎・三番叟
○新田町 天岩戸・神楽(諏訪神社の地元、表参道スワマエだ。最初に神社へ練りこんだ)
○竪町 唐子遊び(活動人形)
○西中町 司馬温公の甕破り(商店連合会が復活させている)
○東中町 謡曲人形
○北條町 魚盡し(復興が検討されている)
○浜町 かさぼこ(時代人形)
○上新町 上代人形
○中新町 湯場神事(活動人形)
○四ッ谷町 髪洗い(活動人形)
○下新町 弁慶に牛若丸(活動人形)
○菅公謫居の状(活動人形)(現在も活躍中)
○江田 大黒天袋破り(活動人形)
○南浜田 富士の物狩(富士の牧狩りではなかろうか?数年前復活した)
○北浜田 和歌の三神(釣物)
○蔵町 宇受買命 狸の鼓(活動人形)(ほんまち商店街が復活させた)
○中納屋町 唐子遊び(活動人形)
○北納屋町 鯨つき
○樋之町 大入道魔性(活動人形)(疎開させて焼失は免れた)
○南納屋町 鯨つき(鯨つきとは鯨舟のこと。健在だ)
○西袋町 倭姫命 田鶴愛撫の状(活動人形)
○東袋町 鯨つき

さぞかし9月27日の祭りはにぎやかだったことだろう。訳の分からんものもある。お年寄りに聞いてみたい。

諏訪神社のいわれ

2006年04月16日 | おいらの商店街
ご当地四日市の諏訪神社は、建仁2年(1202)7月27日、加藤判官景廉が、信州諏訪神社より勧請したものといわれています。ご神体は「八重事代主命(やえことしろのみこと)」と「建御名方命(たてみなかたのみこと)」でございます。何故にお二人なのか?そのあたりを調べてみました。
て、昔々「古事記」の世界にさかのぼります。天照大神は葦原中国(あしはらのなかつくに=出雲地方)を息子にプレゼントしたいと考え、家来である天鳥船神と建御雷之男を略奪の使者として出雲に向かわせます。略奪とは言葉が悪いですが、結局、奪い取ったことになります。
時、出雲の国は大国主命(おおくにぬしのみこと)が支配しておりました。大国主命には二人の息子が居て、これが八重事代主命と建御名方命なのです。葦原中国をよこせという要求に大国主命は「息子たちに聞いてくれ」と答えます。
の八重事代主命は「持ってけ泥棒」といって雲隠れします。弟の建御名方命は激しく抵抗し、使者の建御雷之男と力比べをしますが負けてしまいます。多分、戦があったのでしょう。
御名方命は、追われて信州の地へ逃れます。大国主命は、天照大神に葦原中国を明け渡し、出雲大社のご神体となることを条件に服従を誓います。日本を統一する過程が垣間見えるようです。
州には先住民族、守屋族がいて、諏訪湖の竜神を信仰しておりました。こうして進攻してきた諏訪氏一族と守屋族の信仰は合体され、後に建御名方命は、諏訪神社の御祭神となるわけであります。
訪神社の御分霊、四日市諏訪神社では、建御名方命をご神体とすると共に、兄である八重事代主命が恵比須神、商売の神様であったことから、このお二人をお祭りすることになったわけであります。

ビヨンド・ザ・シー

2006年04月14日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
久々に乗り乗りの映画をDVDで見つけた。ケヴィン・スペイシーの「ビヨンド・ザ・シー」
昭和30年代にはやったポップス、ボビー・ダーリンの「マックザナイフ」という曲を聞いたことがあるだろうか?懐かしいの一言。
冒頭、単調なベースギターで始まる。ホテルの廊下から厨房を通ってステージに向かうケヴィン・スペイシー。そして舞台へ。「マックザナイフ」の曲が始まる。
彼のボビー・ダーリンへの入れ込み方はすごい。唯、少し年を取りすぎているため、若くして逝ったボビー役には多少無理を感じる。
しかし、よく踊る。あんなに体が動くとは思わなかった。歌も自分で歌っている。「LAコンフィデンシャル」や「交渉人」などでオイラの好きな男優だ。
頭の毛が薄いので、鬘をつけていたが晩年にははずした。ボビーダーリンも鬘だったのか?サンドラ・ディーと結婚しているが7年ほどで分かれた。しかし映画ではそんな場面はなかった。かなりの脚色があるのか。
しかし、結構楽しめる映画でありました。マックザナイフを知っている方は、是非ご覧あれ。

政成稲荷大祭

2006年04月10日 | おいらの商店街

エキサイトバザール2006が終わった。初日の朝、ひと降りあったが、その後、春らしい陽気になり桜も最高の見ごろで大勢の来街者で賑わった。今年初めて「よさこいソーラン踊り」に参加してもらったが、イベントの盛り上がりに大きな成果が出たと思う。
て、9日午後7時より地元諏訪神社の政成稲荷で大祭があった。池の水面に映る拝殿は厳かそのもので、参拝者の拍手が境内に響く。鳥居をくぐり入り口で手を清める。Iさんは口をすすいで池に吐いていた。
刻どおりに儀式が始まる。神主が祝詞をあげた後、参拝者がお払いを受ける。振られた榊がちょうちんにあたる音がした。見上げると大きなちょうちんはびりびりに破れている。ああ、こうして破れていくのかとへんなことを考えてしまった。
ーっと言う声と共に、お稲荷さんの戸が音を立てて開けられる。拝殿の方から時折風が吹き込む。神さんの動く気配が感じられるようだ。お酒やお饅頭、果物などのお供えを神官の方が手渡しでお供えし、祝詞をあげた後、参拝者が順に本殿の前へ進みおまいりする。それが済むと、供物は下げられて、戸は閉じられた。
スム会長に、儀式の様子を撮ったらどうかと膝をつつかれたが、この厳かな雰囲気でははばかれるので断った。お狐さんでも写っていたらどうしよう。
時間弱で大祭は終了した。お饅頭とお札をいただき帰った。今年、参拝した氏子さんは3名。商店街から9名の参加だったので、「商店街の参加で結構盛り上がったネ」とススム会長に話したら「去年も同じこといったネ」と言われた。
ンちゃんは直前の参加だったので「お供えものがしてないがええんか?」と気にしていたので「2~30万あげればええんやないの」と答えておいた。返事はなかった。
この稲荷さんは、伏見稲荷大社の分社で、京都の伏見稲荷の創祀は和銅4年(711)。もともとは古代豪族の秦氏が信仰していた氏神と伝えられている。ご神体はウカノミタマと呼ばれて農耕の神様だ。後に稲の生育が商業に結び付けられ、商売繁盛の神様として民間に広く信仰されるようになった。
荷神の使いであるキツネは、農耕の始まる春先になると人里によく現れたので、お稲荷さんと結び付けられた。奈良時代に移り、修験者や陰陽師によって神聖な動物とみなされ、呪術などの駆使霊(くしれい)として珍重されるようになる。
売繁盛・家内安全・芸能上達の神様である。

エキサイトバザール開催

2006年04月08日 | 諏訪商店街振興組合のこと

本日と明日。諏訪新道と三滝通りを中心に、第15回エキサイト四日市バザール2006が開かれた。
9時。スワマエのカラオケ発表会の準備した後、会場へ出かける。出店ブースの準備は順調に進んでいる様子だ。三滝通りの桜もちょうど見ごろで、ちらほらと花びらがまい散る程度だ。最高の気候となった。
ったん店に戻り開店の準備をして、10時。再び本部席へ。とたんに空の様子がおかしくなってきた。春の嵐で、横殴りの雨と風が吹き荒れる。どうなることやらと思っていたが、11時頃、天気は回復して日が射し始めた。三滝ステージでは演技が始まる。暖かさに誘われ人も出始めた。
食ブースの出店が、今年は少ないので心配されていたが、大勢の人で賑わっている。たこ焼き・ラーメン・うどんと楽しそうな店が並んだ。見て歩くだけでも楽しい。
部席では、会場で販売のお酒が振舞われる。多少のアルコールはお祭りだから許されるか。一昨年は、お酒が過ぎてバイトの女性から顰蹙(ひんしゅく)をかった。戸羽理事は、ステージで演技が終わるたびに表彰状の授与行なう役だ。酒気にもめげず、難しい表彰状を読み上げる大役を無事に務めている。
後1時。人の出は1万8000人となった。違法駐車と落し物ぐらいで、たいした事故もなく順調に進んでいる。新聞記者の方が本部席に来た。何を聞かれてもオイラはさっぱり答えられない。幸いアビヨンの堀木さんが居たので、取材に答えてもらう。
の商工課の方や商連の服部会長が本部席を訪れた。年寄りが集まると例外なく病気談義に花が咲く。Tさんは、今だからこそ言えるが、4~5年前、骨の癌が三箇所見つかった。ところが1年後に完治したということだ。これは信仰のおかげだといってはばからない。ホンマカ?と疑いたくなるが、直ったことに違いない。そこで、お祝いのお酒を少々。そこから声が大きくなり、下ネタの話に移る。再びお祝いのお酒を少々。お通夜か?これは?
後3時過ぎスワマエに戻る。特設舞台ではカラオケ発表会が終わり、MACKのアコースティックライブが始まった。
日も天気はよさそうだ。明日はお酒を飲まんゾと固く誓う。

江戸のまかない 春編

2006年04月04日 | レモン色の町
昨日のつづきです。お菜の番付表から。すっかり春らしくなった来ましたから、江戸人は春になると、どんなものをおかずにしていたのでしょうか?
ず、「けんちん」とは、油でいためた豆腐と笹がきごぼうに麻の実が入ったすまし汁のこと。麻の実とはうまいものか?オイラは食したことがない。大根や人参、芋や蒟蒻も入れたりする。
参の白あえ」にんじんに豆腐をすりつぶしたもので和える。「わかめのぬた」貝のぬたはよくたべたが、わかめでは、べちゃべちゃにならないだろうか。ぬたの語源は、酢味噌であえると「沼田」のようにみえるからだそうだ。食欲がなくなりそう。
っぺい」は、油揚げ、大根、椎茸を葛でとろみをつけた汁物。
の木の実あえ」蓮とはレンコンのこと。山椒の若芽を入れ酢味噌であえたもの。「海苔にうど吸い物」「木の芽田楽」「叩きごぼう」ゴボウを軽く叩き、酢水でさらして煮たもの。
らびがんもどき」「生海苔の三杯酢」「よめ菜のひたしもの」「たんぽぽ味噌和え」タンポポは食ったことがない。石川氏はサラダにしてもおいしいといっている。
くたちひたし」とは何ぞや?くくたちとは茎立ちのことで、かぶらの薹(とう)を折り取っておひたしにしたもの。「田芹(たぜり)ごまあえ」芹の目をごまで合えたもの。春の香りがしてきそうだ。
は魚類だ。「まぐろきじ焼き」しょうが汁を入れた醤油で鮪を焼く。「ひじきむきみ」貝のむきみとひじきを煮たもの。合うのだろうか?「いわしのぬた」酢にした鰯に、きゅうりやわけぎを入れ酢味噌で和える。「いわしつみいれ」鰯にしょうが汁、味噌小麦粉を混ぜ、すり鉢ですって団子にした汁もの。
ば味噌漬け」さばの味噌煮はオイラの大好物だ。「タニシいりつけ」タニシの味噌煮はよく食った。少し泥臭くコリコリとしていた。今ではタニシも懐かしい味となった。「数の子」これは正月料理だ。旧暦でいくと正月は春になる。
鰺(こあじ)に三つ葉」鯵と三つ葉を煮たのか?「するめつけ焼き」今は、スルメも焼きあがったものが細かく裂かれて袋に入っている。昔は、正月には火鉢を囲み、巻き込んで焼きあがったものをアッチアッチといいながら裂いて食べたものだ。これはオカズだから、生のイカじゃあなかろうか?
きなます」は酢牡蠣のこと。「いいだこつく芋」つくね芋とタコの煮付け。「ちりめんじゃこ」は、酢醤油をかけて食べる。
かがでしょう。健康食品のオンパレードと感じませんか。昭和30年からこちら、日本人の食生活はすっかり西洋化してしまいました。

江戸のまかない 石川英輔

2006年04月03日 | レモン色の町
江戸後期の庶民は、一体どんなものを食べていたのだろうか。石川英輔著「江戸のまかない」より
ぷらや鮨の屋台や、蕎麦や鰻の店が繁盛していたことは聞いているが、平生は家でどんなものを食べていたのか?普段の生活記録があまり残ってないので難しいとあった。なるほど、花見遊山に出かけた時などの、非日常のことは記録に残すが、普段のことはあまり触れないのは当たり前で、おもしろくもなんともないからだ。
菜(おさい)番付表というのが出されていた。オサイとはおかずのことだ。相撲の番付表に見立てて、右、精進方。左、魚類方ということで、それぞれ大関、関脇、小結と並んでいる。人気のおかずはなんだったのだろう。これがなんと、昭和30年代頃の食卓とあまり変わらないのだ。
、精進方には植物食品が並ぶ。大関は「八はいとうふ」。酒と醤油で煮立てたところへ豆腐を入れ、茹で上がったところへ大根おろしをいれる。安くて酒の肴にもってこいだ。オイラの家では、これに貝と春菊を入れる。
脇は、「こぶあふらげ」。昆布と油揚げを煮たもの。変な取り合わせだ。
結は「きんぴらごぼう」。前頭以下は「焼き豆腐吸いしたじ」。これは焼き豆腐の入ったすまし汁。出汁が効いてないとうまくもなんともないだろう。
じきの白あえ」ひじきに豆腐をすりつぶしてあえたもの。白黒の妙。「切り干し煮付け」切り干し大根を醤油で煮たもの。これは良くいただく。「芋がらあぶらげ」芋がらと油揚げの煮付け。芋がらってなんじゃろ?
ぶらげつけ焼き」油揚げに醤油をつけて炙る。オイラは焼いた油揚げに醤油をつけて食べた。多分、おかぁんが、おかずを作るのが面倒だったからだろう。「小松菜のおひたし」と並ぶ。
、魚類方の大関は、「めざしいわし」だ。庶民の勝利!関脇は「むきみ切りぼし」貝のむきみと切りぼし大根を煮たもの。小結は「芝えびからいり」さっと炒めて塩をかけて食べる。これもおつまみに良い。オイラは川えびの揚げたのに塩をかけたものを居酒屋で食ったことがある。
頭以下は、「まぐろからじる」鮪だけ入った味噌汁。鮪の乾物だったのか。「たたみいわし」「いわししおやき」「しほかつを」これは鰹の塩漬け。「にしんしほびき」は塩漬けの鰊。
うみると干物や塩漬けにしたものが多い。刺身は高級品だったのだろう。初鰹は、江戸っ子にとって憧れのご馳走で、かなり無理をして食べたのは有名な話だ。
が減ってきたのでこの辺でやめる。

本日 朔日恵比須

2006年04月01日 | おいらの商店街
本日、朔日恵比須の日。当表参道スワマエで餅つきが復活した。2年ぶりか?
9時。のぼりを立てる。9時30分。諏訪神社に参拝。9名が参加。いつになく多い。「今日は多いなあ」というと、コスモちゃんが居て「今日は私目が出席してるから」とのたまう。
拝の後、生川宮司さんから政成稲荷の説明があった。4月8日の夜は、お稲荷さんの拝殿でお祭りが執り行われる。昨年も参加したが、ようやく夜がぬるむ頃、暗闇の中で行なわれるおまいりはなかなか風情があった。様々なお供え物で飾り、祝詞をあげる儀式だった。是非今年も覗いてみたい。ススム会長が政成稲荷ののぼりを手配してくれたので、境内と商店街を飾ることになる。
社から戻って早速餅つきの準備。久しぶりの餅つきだったので、準備が心配だったが、商店街から大勢参加してくれたので順調に進んだ。売れ行きも好調で完売状態だった。運動会みたいなBGMを流して、スピーカーで道行く人に呼びかける。
んこと黄な粉とおろし餅、2個100円。はじめの人だけ値段が高いと文句を言われたが、そのお方は黄な粉の量が少ないとおっしゃる。多分そういう性格なのか。ほとんどの方が珍しいといって喜んでくれた。土曜日でお天気だったせいか子供連れも多かった。
のところ、マンネリで何をしているのか分からない朔日恵比須だったが、久々にやや活気付いた感があった。各店で1割引の商品券を出すようお願いしてあったが、券の出と反響はどうだったのだろうか。しばらく続けなければ反応は少ないだろう。5時になったのでのぼりをしまう。
共同で何か作業をすることは、結束のためにも大切なことだ。